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楽興の都

 N響の世界楽旅の計画が公表されたのは、一九六〇年の正月頃のことで、半年後の六月に渡欧という、ずいぶん急な話だった。
 ウィーンに留学中のN響指揮研究員、外山雄三には楽団からの知らせはなく、彼は日本から送られた新聞で、はじめてそれを知った。
 だから、まさか自分もその一員に加えられるとは夢にも思わず、みんなが来たら自分が名所を案内してやろう、などと思っていたという。

 日本から遠く離れて、彼は〈楽興の日々〉を送っていた。
 ウィーンは当時すでに、刺激的な創造の都とはいいがたく、ニョーヨークやパリ、あるいはベルリンのような、尖鋭的な芸術活動の中心地から外れていたが、クレンペラーが「街路の石畳にまで、偉大な音楽がしみこんでいる」とたたえた、豊かな音楽の気配は変わることなく、この街を包んでいた。
 前章に紹介した、ウィーン・フィル定期でのクナッパーツブッシュの演奏(ボスコフスキーに代って、ひさびさにバリリがコンマスの席にいたという)などは、まさにその具現化のようなものであったにちがいない。

 その外山が、N響からの至急の帰国命令でウィーンを去ることになったのは、季節が夏に変わろうとするころだった。
 五月の末、シーズンを華やかにしめくくる、ウィーン芸術週間が開幕したばかりである。
 当初の発表では、N響もこの芸術週間に出演することになっていたが、準備の都合か、その演奏旅行は秋に延期されていた。
 帰国の日を目前に控えながら、外山は貪欲に芸術週間の演奏会を聴きに行っている。
 五月二九日、開幕のブルーノ・ワルター指揮のウィーン・フィル演奏会(もちろん、この物語の最初の方で取り上げた、いわゆるウィーン告別演奏会)では、演奏前に指揮台に立ったワルターを、聴衆が全員立ち上がっての喝采で出迎えた光景に、感銘を受けたという。
 また、クレンペラー指揮のフィルハーモニア管弦楽団のベートーヴェンの力強い演奏にも、圧倒された。一方、同じ楽団がジュリーニのもとで演奏すると、無国籍なツヤのない弦の響きに変わってしまうことに驚き、あらためて指揮者の影響力というものを痛感している。
 これらの音楽を頭につめこんで、彼が一年半ぶりに東京に帰ってきたのは、六月の三日か四日のことだった。

 ところがそのとき、日本ではまさに、六〇年安保闘争が大きなうねりとなって、国全体を揺るがそうとしていたのだ。
 六月四日は、総評などの安保反対のゼネストが、戦後最大の規模で決行された日であり、また国会や首相官邸には連日、十万人規模のデモがつめかけていた。
 日比谷公会堂へ演奏会を聴きに行く人のなかにも、その前に北側の日比谷公園から出発するデモに参加してくる者がいたり、また井口基成や有馬大五郎などの音楽人たちも、デモ隊を組んで行進したりしていた。
 こんな状況の只中に、まったく情報の隔絶された場所から帰ってきた外山は、まさに浦島太郎同然、これは本当に革命が起きるのか、と思ったという。
 ワルターやクレンペラーが音楽を響かす国から、いきなり十万人が「アンポ・ハンタイ、キシヲ・タオセ」と叫ぶ国へ。
 やっぱり地球は大きい、いまさらながらに外山は、そう実感したのではないか。

 革命は結局、起こらなかった。
 六月二十日午前零時、日米安全保障条約は国会で自然承認され、反対運動も事実上の終わりを告げることになった。
 闘争を通じての犠牲者は一名、六月十五日の全学連国会突入の際に亡くなった、東大生の樺美智子である。奇しくも、前年ご成婚の皇太子妃と同じ名前を持つ彼女の死は、大いなる悲劇としてシンボライズされていく。
 だが見方を変えれば、学生と警官あわせて数万人が激しく衝突して、数百人の負傷者を出しながら、死者が一人ですんだのは、むしろ奇跡的なこととも思える。
 現にわずか二カ月前の四月、韓国のソウルで学生が行った李承晩大統領反対のデモでは、警官と軍が発砲して七十人以上が死ぬ惨事になった。事態はこれで鎮静するどころか、逆に一般民衆の怒りが爆発、一週間後の抗議デモは五十万人にふくれあがって軍を圧倒、李承晩政権崩壊のきっかけとなったばかりなのだ。
 日本ではしかし、国会へ突入していく全学連の学生たちと、周囲を行進するだけの圧倒的多数の労働者たちとの、体温の差がちぢまることはなかった。数十万人がひとつの奔流となるような事態は、ついに起こらずにすんだ。

 それから十日ばかり、一種の脱力感と、さめやらぬ興奮とが交錯していただろう六月末、外山はN響から依頼された、世界楽旅のためのアンコール・ピースの作曲にとりかかった。
 二カ月前、楽団渡欧の下準備にウィーンに来た有馬大五郎(当時はN響副理事長)から、外山は一冊の日本民謡集を渡されていた。それを用いて、「外国人に判りやすい」曲を作れ、というものだった。
 そこで彼が一週間で書き上げたのが、《ラプソディー》である。

 拍子木の連打で始まるこの曲は、《手毬唄》《ソーラン節》《炭坑節》《串本節》、フルート独奏の《信濃追分》をへて、熱狂的な《八木節》で終わる。完成後の手直しとカットを重ねて、ようやくこの現在の形に仕上がった。
 そして旅行出発のひと月前、七月下旬に千駄ケ谷の東京体育館で行われた〈N響サマーコンサート〉で、岩城宏之指揮で初演された。
 外国人に聴かせる前に、まず同胞に御披露目をしたわけだが、聴衆の反応は良くなかったという。初演に立ちあったNHKの細野達也は、次のように回想している。

  拍手は盛大だったが、戸惑いが感じられ、ちょっと儀礼的なところがあった。やっぱり日本の聴衆が、「N響」に求めているものとはズレがあったのである。
 (細野達也/昭和なかばのN響/『フィルハーモニー』一九九四年四月号)

チョイと出ました三角野郎

 日本の聴衆が、「N響」に求めるものとは、〈泰西名曲〉の立派な演奏だったのだろうか。「チョイと出ました三角野郎がぁ」と盛大にやられても、どう反応していいのかわからない、というところだったのだろうか。

  ところが、同じその曲がひとたび国外に持ち出されてみると、これは大変。まさかあれほど熱狂的な反応を呼び起こそうとは、とても想像できなかったのである。(同前)  

 前章でも触れたように、日本での反応とは正反対に、この曲は海外で、いちばん受けた曲になってしまったのだ。
 どこの聴衆も大喜び、ナポリではあまりの喝采に、最後の《八木節》の部分がもう一度繰り返され、終演後に楽屋口にきた聴衆は口々に、「自分たちのナポリ民謡に似ている。あの曲のディスクはないのか」と訊いてきたという。
 新聞評でも、ロンドンが「絵葉書みたいだ」とか、「旋律の一つが、ディーリアスの猿真似だ」――《信濃追分》のことらしいのだが、さすがお国自慢のイギリス人、トンチンカンもいいところだった――などと文句をつけた以外はおおむね好評で、ミュンヘンでは「最も興味をひく作品、アジアのバルトーク」と特筆され、ワシントンでは「トヤマは東洋のモートン・グールドになれる」などと評価された。
 さらに、ミラノで聴いたチェリビダッケがN響の演奏を絶賛したのも、ほかならぬこの曲についてだった。
 その拍子木や鐘の演奏を聴いて、「世界一級の打楽器だ」といい、さらにフルートの吉田雅夫に向かって、「君のフルートはフランスでもドイツの亜流でもない。まさに日本のフルートだ」と褒めたという。
 とにかく、めったやたらに受けまくったのである。細野はこれだけ海外で受けた秘訣を、以下のように述べている。

  きわめて明快、単純・素朴、もちろん作曲職人としての細工は流々というところは当然あるわけだが、日本民謡「むき出し」に近いオーケストレーション。恐らく外山雄三が長く日本にいて、この種の曲を依頼されたら、とても照れくさくてこれだけ素直には書けなかったのではないか。まさにヨーロッパぼけの真最中であったればこそと、時折り作曲者にこの時の話をするが、彼も否定はしない。
 (同前)

 照れくさいまでにむき出しな民謡のパワー。たしかにそれこそが、この曲の本質なのだ。
 この海外公演でのライヴ録音は、残念なことに聴いたことがない。しかし翌一九六一年の正月、文京公会堂で岩城宏之とN響がスタジオ録音したものが、キングでCD化されている。
 これは《現代日本の音楽》と題するLPからCD化されたもので、N響が放送録音の転用ではなしに、純粋にレコード化の目的で録音するのは、このときが初めてだったという。
 ジャケットにはスカラ座かどこかでの演奏写真を使い、海外を意識して英文解説をつけたりしているあたり、まさに前年の世界楽旅の成功の副産物といえる。
 それだけに、当然のごとく《ラプソディー》が一曲目を誇らしげに飾っている。
 そして演奏も、素晴らしい。《信濃追分》の吉田のフルートの絶妙の静けさに続く、《八木節》を頂点に、力強く躍動感に充ちている。
 というより、聴いているこちらが気恥ずかしくなるくらい、全力で弾きまくっているのだ。
 外山が自らN響を指揮した一九八二年のライヴも含め、この曲には何枚かCDがあるが、私が知るかぎり、良い意味で、こんなにバカになって演奏できているものはない。
 後年の同じ曲の録音では、演奏者の方が、何か恥ずかしさや照れくささをふり切ることができずに、演奏しているような印象がある。
 それに対してこの一九六一年の演奏には、一切をつきぬけて、音楽の奔流に身をまかせていく凄まじさがあるのだ。打楽器群のリズムのキレの見事さなど、チェリビダッケの賛辞は、けっして大げさではない。
 こんな没入が可能になったのは、いうまでもなく、海外の聴衆が送ってくれた喝采のおかげだろう。帰国後、数カ月を経ていたとはいえ、楽員たちがまだその興奮と熱気を忘れていなかったから、ここまで夢中になれたのだろう。
 外山が「ヨーロッパぼけの真最中」だったからこそ作曲できた、というのとまったく同じことが、この演奏にもいえると私は思う。
 スタジオ録音ながら、ここには当時、この曲をとりまいていた〈熱〉が見事に捉えられているのではないか。CDは残念ながら最近見かけないが、いずれきっと再発されるだろう。

 だが前章にも触れたとおり、皮肉なことにこの曲の成功ほど、日本の批評家に憎まれたものはなかったのである。
 前章にもひとつ紹介したが、当時の音楽雑誌から、さらに引用してみよう。

  小山氏や外山氏のあの種の作品(引用者註・前者の《木挽唄》と後者の《ラプソディー》を指す)は、日本で中学、小学校の観賞教材にでも使うべきすじのもので日本の代表作だなんて外国へ出すのはちょっと顔があかくなります。悪い言い方をすれば芸者――
 (佐川吉男/座談会「一九六〇年後期の音楽界の展望」/『音楽芸術』昭和三六年四月号)

  作品自体は実につまらない。ヨーロッパでN響を聴いたある知人が、この曲をチンドン屋のような感じ、といっていたが、まさに適評である。この曲が、現代日本の代表的作品として、海外に紹介されていたのかと思うと、背筋に冷たいものがはしる。
 (志鳥栄八郎/月評「管弦楽」/『レコード芸術』昭和三六年五月号)

 かたや「芸者」に、かたや「チンドン屋」。顔があかくなったり背筋に冷たいものがはしったり、まるで風疹にかかったみたいだ。
 志鳥の批評は、先に紹介した録音が、モノラルLPで発売されたときのものである。
 当時は一般家庭のステレオ機の所有率がまだ低く、同じ録音がモノとステレオの両方式で、値段の差をつけて発売されていた。志鳥は翌月のステレオ盤の月評でも、「知性のないたいへんつまらない作品」と追い討ちをかけている。
 賛否両論、などというものではない。
 ただひたすら当時の雑誌には、ヒステリックな否定論が並ぶのだ。先のふたり以外にも、「あの種の作品が好評だったとしたら、外国での受けとり方自体が問題だ」(角倉一朗)や、「僕の知っている(海外の)批評家たちで、外山君の曲が非常にいい作品だというのを見たことない」(吉田秀和)など、やや泣き言じみた言い方までして、彼らはこの曲を撃滅しようと躍起だったのである。

ばかばかしさの魅力

 こうした批評を読むためには、それが書かれた昭和中期という時代の意識と、現代のそれとの差を、考慮しなければならないのだろう。
 音楽に限らず、この一九六〇年前後の日本人の文章を読むと、欧米一般の日本観が、いまだにフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリの異国趣味の域を出ないことに、もどかしさを覚えている人が少なくなかったことがうかがえる。
 彼らにとってはこのN響の楽旅は、日本には三味線も琴も入っていない、〈ちゃんとした〉立派なオーケストラが存在することを、欧米の人々に知らしめる絶好の機会と思えたのだ。
 それなのに、なにもことさらに外国人の異国趣味に媚びた、「チンドン屋みたいな」音楽をやることはないじゃないか。そんなもので受けてしまったら、元も子もないじゃないか。
 そんな歯がゆさが、あれほどに感情的な酷評となってしまったのではないか。

 また、当時は今よりもずっと、知識人は知識人たらんと意識していた。高尚なものと低俗なものとの間に、越えがたき一線が画然とひかれていた時代だった。
 クラシックは当然、高級な音楽である。
 音楽のリズムに合わせて、体を動かしながら聴くなんて見苦しい、そんなことを平気で口にするひともいた。
 だから、《ラプソディー》などは中学、小学校の観賞教材にでも使え、となるのだろう。
 このような自律と自制心は、見事で立派なものだったとは思うが、こと音楽にかぎっては、一面的で不自由なことも少なくなかった。

 個人的感想をいわせてもらえば、私は、この《ラプソディー》が大好きである。
 高尚とはいいがたい、通俗的作品だとは私も思う。だが、このフンドシ一丁で踊りまわるような〈ばかばかしさ〉は、土俗的だの非西洋的だのという議論をこえて、音楽が本来持っている不可欠の要素のひとつ、だと思うのだ。
 私は同じ要素を、たとえばサン・サーンスの《サムソンとデリラ》のバッカナールとか、オッフェンバックのオペレッタのいくつかの部分とか、あるいはジャズの、ベニー・グッドマンのカーネギー・ホール・コンサートの《シング・シング・シング》の演奏(とりわけ、ジーン・クルーパのドラム)などに感じる。さらにいえば、美空ひばりの《お祭りマンボ》にも。
 欧州の聴衆は、日本的だから喜んだのではなく、その生命力に対してこそ、喝采したのではないか。
 私には、そう思えてならないのだが。

 話は、変わる。
 一九六〇年、という年の面白さは、実に多くの出来事が重なることだと、前も書いた。
 ただ重なるばかりでなく、ひとつの事件と別の事件とが、互いにネガとポジのように好対照をなして、それぞれの輪郭と陰影をよりくっきりと鮮明にするような、絶妙の組み合わせになっていることも、少なくないのだ。
 N響世界楽旅にも、そんな好対照がある。
 この年、近衛秀麿率いるABC交響楽団も、その後をなぞるように欧州楽旅を行ったのだ。
 N響からひと月後れて、十月三日に総勢七二名で出発した彼らは、三カ月間に欧州六カ国を歴訪、五十回の演奏会を開くことになる。

 この楽旅はかなり前から予定されていたもので、我が国の交響楽団初の海外楽旅の栄誉は、本来なら彼ら、今はなきこのA響が担うはずであった。
 ところが急に割りこんできたN響に先をこされてしまい――一番乗りはN響でなければ、という意識がおそらくあったにちがいない――、彼らと鉢合わせしないように、A響の方で日程や公演地を調整することを余儀なくされてしまったのである。
 格下の弱みだが、しかしA響には、N響にない〈日本独自の特徴〉があった。
 琴、が入っていたのだ。
 《春の海》で有名な宮城道雄の養女で、その後継者の宮城喜代子(後の人間国宝)と数江の姉妹が随行、《春の海》のオーケストラ編曲版などを演奏して、好評を博している。
 国内では、琴との共演はほとんどなかったという。おそらくは、この楽旅を企画したアメリカ人プロモーターの要望だったのだろう。
 日本の批評家が《ラプソディー》以上に、このA響の琴を嫌ったことは、いうまでもない。
 N響が、演奏した曲はともかく、一応日本の交響楽団には琴も三味線もないと示してきたのに、やっぱり琴はありますと、すぐ後から触れてまわったようなものだったからだ。
 この近衛とA響の楽旅、じつはこの琴以外にも、問題が山積みだったのである。
 次回は、その話をしよう。

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