Homeへ

不思議の国のオペラ

 この「はんぶる」で述べたのは二年も前のことになるが、一九六〇年初夏のウィーン芸術週間には、オットー・クレンペラーが手兵フィルハーモニア管弦楽団を率いて登場している。
 彼らはベートーヴェンの全交響曲を演奏し、意志の力がそのまま音に化したような音楽を、楽友協会大ホールに鳴りひびかせた。
 口やかましいウィーン子をして、「これだ、これしかない」といわしめた名演だった。
 ウィーン留学中の外山雄三は、このチクルスの前半を聴いて日本に帰国したのだが、それから三カ月後のN響世界楽旅の途次、思わぬ場所でクレンペラーと対面することになった。
 九月八日、ルツェルン音楽祭にN響が出演したときである。
 岩城の指揮の日で、空き番の外山がスタッフと楽屋にいると、突如クレンペラーがその不自由な巨体を、ノックもなくぬっと現したのだ。
 彼は、一曲目の曼荼羅交響曲だけ聴いて、近くの自宅へ帰るところだった。迎えのタクシーが来るまで、とりあえず楽屋で待とうと来てみたら、外山たちがいたというわけである。

 実をいうとこの夏、七五才になるクレンペラーの心身の状態は不安定で、あの圧倒的なベートーヴェン・チクルスの指揮者とは、別人のような不首尾も少なくなかったらしい。
 前々日に同じ会場でフィルハーモニア管弦楽団と《大地の歌》を演奏したときも、ほとんど判別不能の不明瞭な指揮で、しかたなくコンサートマスターが代って指示を出したものの、ロンドン名物の霧に包まれたような、正体のない演奏に終わってしまったという。
 さらにその少し前には、ひとりで散歩に出かけて、心配であとをつけた実の娘にあっても、誰だか判らないようなこともあった。
 まるでただのボケ老人である。これが彼の演奏に出来不出来が多かった理由のひとつなのだろうが、このN響演奏会の日は、さいわいにも頭がはっきりしていたらしい。
 彼は見知らぬ日本人たちに興味をもったらしく、外山にいろいろと訊ねてきた。

 「大変立派な演奏で良いオーケストラである。これは日本の皇室管弦楽団かね?」
 「いーえ、これはNHKという日本の公共放 送局のシンフォニー・オーケストラです」
 「ほー、シンフォニー・オーケストラかね。他にも日本にはオーケストラはあるかね」
 「あります。首都の東京だけでもオーケストラは六つあるのです」
 「えーっ(ビックリ)六つもあるのか。もちろんそれじゃオペラもやっているんだね」
 「えー、オペラもやっています。イタリアから歌劇団も参りますし、ウィーンの国立オペラもきております。しかし、オーケストラは別に歌劇場に附属してはおりません。六つのオーケストラはいずれもシンフォニー・コンサートを行うものであります」
 「おや、シンフォニー・オーケストラだけで六つもあるのですか」
 (越路達夫/見た人・会った人・聞いた人/『フィルハーモニー』昭和三六年一月号、なお語句の一部を省略した)

 他のほとんどの欧米人と同様、クレンペラーにとっては、日本に東京だけで交響楽団が六つもあるというのは、大きな驚きだった。
 さらに、にもかかわらず歌劇場が存在しないことは、なんとも不可解なことだったろう。
 彼のような歌劇場たたき上げの音楽人にとって、オペラと演奏会とは車の両輪のように、互いに欠かすことのできないものだったからだ。
 やっぱり不思議な国だなあ、と思ったのではないか。
 四年後、東京オリンピックの記念公演のためにN響がクレンペラーを招こうとしたとき、彼は出演を受諾した。この不思議の国を自分の目で見てみたい、と思ったからだろう。
 しかし残念ながら、健康上の理由で周囲が反対し、この話は流れてしまった。

 このころ日本には、たしかに専用のオペラハウスこそなかったが、二期会、藤原、長門美保の三歌劇団が活動していたし、国立の歌劇場をつくろうという動きも、具体化していた。
 一九六〇年の初春のこと、千代田区隼町の三宅坂に建設される国立劇場の概要が、変更を重ねながらも予定より一年おくれで決定し、五輪前の開場めざして準備が開始されている。
 歌舞伎などの第一劇場(千三百席)と、オペラやバレエなど洋楽用の第二劇場(千八百席)を中心とする、大がかりな複合型の劇場施設となるものである。
 どんな運営方針だったのかはよく分からないが、この原案どおりに建設されていれば、われわれは一九六四年には、小さめだが立派なオペラハウスをもっていたはずなのだ。
 ところが同じ年、ちょうどクレンペラーと外山が会う十日ほど前の、八月三十日の設立準備協議会常任委員会で、計画はくつがえった。
 第二劇場の建設は見送りとなり、第一劇場と能・邦楽用の第三劇場だけが、三宅坂に建てられることになったのである。
 理由は、脇を首都高速が通ることになり、それに用地を割いたために、併設では手狭となってしまうこと。また、五輪にむけた公共建設ラッシュのなかで、三七億円もの巨額の予算の確保がむずかしい(現在なら五百億円くらいか。ちなみに翌一九六一年開場の東京文化会館の建設費は、十六億円)ことなどであった。
 用地も予算も、劇場より高速道路が優先、というのはいかにも高度経済成長の時代にふさわしく、仕方のないことかも知れない。
 しかし、それでなぜ第二劇場だけ見送りになったかというと、この日の委員会の出席者が、邦楽関係者だけだったから、ともいわれる。たとえば、洋楽側委員の実力者、有馬大五郎はN響事務長として楽団の世界旅行に帯同して、まさに〈前日に〉出発したばかりだった。
 西洋の猿真似をした歌劇場など、国費でつくることはないとか、いや歌劇場のない国など、とても一流とはいえないとか、建てるにしてもこんな設計案と運営ではだめだとか、さまざまな論議を呼び起こした第二国立劇場、いわゆる「二国」論議は、この一九六〇年の併設見送りに、端を発するのである。 
 五輪より二年遅れた一九六六年、『菅原伝授手習鑑』の通し上演で、国立劇場は開場する。

歩く〈日本オーケストラ史〉

 一方、交響楽団はどうか。外山の話には東京に六つとあるが、このうち現在の九つと共通するのは、四つである。順不同にあげてみる。

 NHK交響楽団
 日本フィルハーモニー交響楽団
 東京交響楽団
 東京フィルハーモニー交響楽団
 ABC交響楽団
 インペリアル・フィルハーモニー交響楽団

 最後の二つは一九六〇年当時、定期演奏会もろくに開けない台所事情で、数年のうちに消えてしまうが、それでも六つとは大したものだ。
 日本の交響楽運動は、このときすでに、三十年以上の歴史を有していた。
 その創始者のひとりとして知られるのが、本章の主人公、近衛秀麿である。
 しかしこの近衛というひと、草創期の活躍に較べ、第二次世界大戦後、一九七三年に亡くなるまでの中年以降の活動は、すでに忘れられつつある、といっていいのではないか。
 だが戦後日本のオーケストラ史にも、彼の名はあちこちに登場する。その行跡を、追っていくことにしよう。

 近衛は、名門中の名門の出である。
 一八九八年、彼は五摂家筆頭、つまり藤原氏最高の家に生まれた。父の篤麿公爵は貴族院議長、兄文麿は戦前日本の首相、そして秀麿自身も、子爵にして貴族院議員であった。
 外遊した伯父から、ベルリン王室歌劇場の話を聞いた幼いころ以来、彼はいつか、日本に交響楽団をつくることを夢みるようになった。
 一九二三年に欧州に留学すると、翌年ベルリン・フィルを自費で雇い、いきなり指揮者デビューを飾った。帰国後の一九二五年、山田耕作とともに日本交響楽協会を創立したが、翌年に山田と袂を分かち、新交響楽団を結成する。
 この新響が、めぐりめぐってN響になる。
 日本初のこの本格的交響楽団を存続させるために、彼はずいぶん私財を投じたというが、楽員とのイザコザは少なくなかった。ついに一九三五年、事務局の不明朗な経理を指弾され、彼は楽団と訣別することになる。
 そして彼は渡米、ストコフスキーと仲がよかったためなのだろうか、結成当初のNBC交響楽団の指揮者陣のひとりに加わったりしたが、日米関係が悪化する時勢のなかで、反日感情のために帰国を余儀なくされる。
 しかしその後も、彼はすぐに、第二次世界大戦初期の戦勝にわくドイツに赴いた。
 各地の楽団を振りまくり、ワインガルトナーが持っていた、指揮した楽団が九十という記録を塗りかえたという。
 だが一九四五年、ドイツの敗北と同時に、彼は米軍の捕虜となった。七カ月の収容所生活の後、十二月末に日本に送還される。その間に母が亡くなり、そして帰国直後、戦犯となるのを恥じた、兄文麿の服毒自殺という悲劇にあう。

 焼け野原の日本で指揮を再開した彼は、以後は一転、国内の活動に専念することになる。
 帰国直後に常任指揮者となったのが、映画会社専属の東宝交響楽団だった。
 彼がベートーヴェンなど古典ものをやり、後輩の上田仁が、より新しい演目を取りあげる形で演奏会を行っている。
 ところが一九五〇年、日本の労働運動史上に名高い〈東宝争議〉の余波で、宝響は東宝傘下を離れることになった。
 楽団の理事をしていた近衛が、再出発する楽団のために考えたのが、東京シンフォニー、転じて東京交響楽団、という名前だったという。

 しかし近衛自身は、この際に親しい楽員十数人とともに独立、エオリアン・クラブなる室内楽団をつくった。
 やがてこの団体が拡充して、近衛管弦楽団となる。通称は、近管では他の楽団と語呂があわないためか、近響と呼ばれた。
 近響が定期演奏会を開始したのは、一九五二年のことである。コンサートマスターにわざわざドイツからウォルフガング・シュタフォンハーゲンを招くなど、自らの名を冠した楽団だけに、近衛の意欲もひとしおであった。
 このころ、芸大に入学したばかりの岩城宏之は、アルバイトの打楽器奏者として加わっていた。彼によると楽団の練習は、赤坂の近衛邸の一階のホールで行なわれていたという。
 いかに少なめの編成とはいえ、オーケストラが練習できる自宅というのは、凄い。華族制度がなくなった戦後になっても、近衛家は斜陽とは無縁だったようだ。

 とはいえ、さすがに個人の力で交響楽団を維持するのには、無理があった。
 経営安定に一番いいのは、他の楽団がしているように、放送局の専属となることである。そこで近衛は、ちょうど専属の新楽団をつくりたがっていた文化放送に、話をもちかけた。
 紆余曲折があったが、当初の構想では、新楽団の音楽監督を近衛に、専属指揮者を渡邉暁雄にしよう、ということになったらしい。
 そして事務局長には、当時名古屋交響楽団のマネージャーをしていた小林公に白羽の矢をたて、近衛自らが声をかけている。
 ところが、断られてしまった。

  だが私は以前から近衛氏と親しく、その性格を良く知っていたので慎重に言葉を選んでお断りした。
 (小林公/「二一世紀のコンサート」展望と提言/芸術現代社)

 細かいことは分からないが、信頼できない、ということなのだろう。
 近衛というひとの難しさであった。

貴人、情を知らず

 東宝交響楽団で、彼の助手をつとめた福永陽一郎は、こんなふうに回想している。

  近衛秀麿は終生、オーケストラとの関係を不首尾に終わらせている。本来の指揮者としての力量を承認しないものは一人もいなかったが、その対オーケストラの思考の方向は、いつもオーケストラ自体の首肯し難いほうへ進んだ。(中略)天皇家よりも由緒の明確な千年の貴族というものの悲喜劇を、首相だった長兄の文麿公ともども体現した人だったといえる。
 (福永陽一郎/演奏ひとすじの道/《CONDUCTOR》編集部)

 「貴人、情を知らず」という言葉がある。
 高貴な生まれのひとというのは、個人的にはどんなに人柄のよい、心やさしい性格であっても、どこか決定的なところで、人間を人間とも思わぬ、冷たさがあるという。
 小林は、近衛にそれを見たのかも知れない。
 ところが結局小林は、この新楽団、日本フィルハーモニーの事務局長になる。
 近衛が、計画から外されたからである。
 その事情は色々あるらしいが、近響を新楽団の母体にしたい近衛と、新鮮な楽団をつくりたいという放送局側の意向との衝突が、表向きには一番の理由だった。

 文化放送がダメなら、別の放送局をさがすほかない。一九五六年五月、日フィル発足と時をあわせ、近響も大阪朝日放送(ABC)の専属となり、ABC交響楽団と改称する。
 楽員の移籍など、混乱は多かった。シュタフォンハーゲンなど、近衛が日フィルのコンマスに横すべりさせるつもりで、すでに契約もさせていた。それを強引にA響に引き戻したため、両楽団と二重契約をしたことになり、結局日フィル側が折れることになったりしている。
 しかし、A響になって二年もたつと、人気優先の放送局では楽団を持てあますようになり、補助金も大きく減らされることになる。
 楽団主催の定期演奏会は減り、オペラやバレエの伴奏など、雇われ仕事ばかりが増えた。
 楽員の士気は下がるばかり、そのうち給料も遅れるようになってきた。
 数カ月の紛糾をへて、一九五九年十二月、ついにシュタフォンハーゲン以下、七三名の楽員がA響からの退団を表明、新たにインペリアル・フィルを結成することを発表した。

 A響に残ったのは、十数人だけだった。
 普通ならこれで一巻の終わりだが、楽団にも朝日放送にも、そうはできない事情があった。
 翌一九六〇年秋、欧州楽旅が決定していたからである。
 面子にかけて、中止することはできない。出戻りやN響OBなど七十人をかき集め、周囲の危惧をよそに、A響は楽旅を決行する。
 ところが、さらに別の落とし穴があった。
 楽旅を企画したアメリカ人プロモーターは、現地の演奏会の出演料は保証するが、往復の旅費は日本側で負担すべし、としていた。
 まだ航空運賃が、バカ高かった時代である。約三千万円、今なら五億円くらいにもなる旅費のうち、帰りには出演料をあてようと、片道分しか用意しなかったのが、大失敗をよんだ。
 意地と面子と、楽団存続のためだけに行われたような楽旅だから、旅費の不足など、眼に入らなかったのかも知れない。
 なんだか、充分な補給計画もなく、占領後は現地で自活せよと命じられた、東南アジアの帝国陸軍みたいである。勝てるはずのない勝負を運まかせでやってしまったのだ。
 出演料など、滞在費に消えた。
 三カ月の演奏旅行の末、とうとう帰国の旅費がないまま、楽員の一部が二週間もローマに立ち往生する羽目になった。
 現地の日本大使館に援助を求め、直営の国際留学生会館に居候し、ようやく全員が帰国できたのは、年を越した一月五日のことである。
 このぶざまな騒ぎで、演奏会の多少の好評などは吹っ飛んでしまった。やがてA響が自然消滅していったのも、当然の結末だった。

 しかし近衛は、くじけなかったらしい。
 帰国間もない正月、彼は東京都知事の東龍太郎のもとを訪ね、本年には東京文化会館が開場することだし、それにふさわしい東京都の交響楽団をつくるべきだ、と進言している。
 都知事は然諾し、三年後に東京都交響楽団が誕生するのだが、計画はすべて役人主導ですすめられ、近衛が加えられることはなかった。
 以後、在京の各楽団に客演したり、京都大学管弦楽団などアマチュアの楽団を指揮することで、彼の指揮人生は費やされていく。
 一方、彼のもとを離れていったインペリアル・フィルも、長続きしなかった。
 一九六二年、新発足の読売日本交響楽団に、シュタフォンハーゲン以下の主要な楽員を引きぬかれると、もう後がなかった。
 それにしてもシュタフォンハーゲンというひと、指揮者や教育者(「神童」渡辺茂夫もその弟子である)としても名高いのだが、楽士としてはずいぶん現実的なひとだったようだ。

 現在入手できる近衛のCDは、その読響を、一九六八年に指揮した四枚組が唯一である。
 もっと前のライヴなど聴いてみたい(特にオペラ)が、その機会を得ない。しかしこの四枚組の演奏、強烈な個性には欠けるかも知れないが、私は好きである。
 とりわけ《新世界》や《田園》は、ふわっと軽く呼吸するフレージングが心地よい。
「音楽はアウフタクトだ。休みが音楽なんだ」と彼はいったというが、たしかにその呼吸は、往年のドイツの名匠たちに通ずるものがある。

 しかしその才能は、交響楽団の経営者としての能力には結びつかなかった。
 その足跡は深く大きかったが、横にそれたり踏みちがえたり、やがて薄くなって、高度経済成長の時代のなかに、消えていった。

Homeへ