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春の駿馬
一九五八年四月、モスクワで行われた第一回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したのは、アメリカの二三才の青年、ヴァン・クライバーンだった。
この結果は、世界中の人々を驚かせた。
というのもこのコンクールは、世界に名だたる英才教育システムを確立、各地のコンクールで優勝者を輩出してきたソ連が、はじめて自ら開催する国際コンクールなのである。ソ連の参加者が優勝するのが当然と、だれもが思いこんでいたからだ。
それがこともあろうに、アメリカ人に栄冠が輝いてしまった。
たしかにその演奏を聴けば、この長身のテキサス青年の技量が、他の参加者より図抜けていることは、だれにも明らかだったという。選考の段階ですでに、クライバーンは聴衆のアイドルとなり、圧倒的な人気を集めていた。
そしてエミール・ギレリスを委員長に、スビャトスラフ・リヒテルやゲンリヒ・ネイガウスなど、錚々たる顔ぶれの審査委員会も、優勝はクライバーンしかない、と結論を出した。
審査結果を報告された文化省大臣は、あとはフルシチョフ首相その人の裁可を仰ぐほかないと判断した。ことはもはや文化の次元ではなしに、国家の威信をかけた政治的な問題だと考えたのである。
だが厳しい冷戦のさなか、たとえ芸術文化の分野であれ、「敵国」に後れをとるような結果を、フルシチョフは許すだろうか。
結局、ソ連の参加者、レフ・ヴラセンコが勝つさ、というのが大方の見方だった。モスクワ市民たちは、自国の政府のやり方を信用していなかった。
ところが仔細を聞いたフルシチョフは、言下にクライバーン優勝を認めたのである。
政治と文化は別だ、とフルシチョフは思ったのだろうか。
それともこの程度のことで、国民や他国の誹りを招くのはつまらない、ここは花を持たせてやろう、という政治的判断だったのか。
スターリン時代から続く米ソの緊張状態に、だれもが疲れていた。大陸間弾道ミサイル(ICBM)の登場によって、もし戦えば勝敗などなく、双方ともに一瞬に壊滅することが必至という状況が現実化したことで、逆に両者に、歩みよりの気分が見えはじめていた。
フルシチョフの決定の背景には、そんな〈雪解け〉の気分があったのであろう。
四月十五日、そのフルシチョフから優勝メダルをさずけられたクライバーンは、それから三日後に、優勝記念のリサイタルをモスクワ音楽院大ホールで行った。リヒテルとショスタコーヴィチが客席にいたという。
そのうち《熱情》ソナタがCDで聴ける。若さにまかせ、明るくバリバリと弾きまくる演奏で、まさしく〈春の駿馬〉のおもむきがある。
クライバーンはそれから三週間、ソ連国内を演奏旅行し、各地で大歓迎を受けた。
ロシア人たちは、その打鍵の勁さと燦然たる技巧、シャイで控えめな人柄の魅力の背後に、自由で豊かな西側世界そのものを、見た。
当時十才のギドン・クレーメルも、彼に夢中になった少年たちのひとりだった。クライバーンは自由への漠然とした希望の、シンボルだったと、彼はのちに回想している。
五月十六日、クライバーンを乗せた飛行機がニューヨークに到着すると、蜂の巣をつついたような大騒ぎが、帰国した彼を待っていた。
彼の奮闘と勝利は、ニューヨーク・タイムズ特派員の手で、逐一母国に報道されており、出発したときはほとんど無名だった彼が、一躍国民的英雄になっていたのだ。
アメリカ人はロシア人たちとは対照的に、とにかくソ連に勝ったことを、赭熊の鼻をあかしたことを、単純に大喜びしたらしい。
クライバーンは彼らのナショナリズムを、いたく刺激したのだ。だから彼は音楽家というより、アイゼンハワーやマッカーサーのように、凱旋将軍のように扱われることになった。
五月十九日、カーネギー・ホールで凱旋演奏会が行われ、クライバーンはコンクール本選で弾いた、チャイコフスキーの第一番と、ラフマニノフの第三番の協奏曲を演奏した。
モスクワの勝利を再現すべく、そのときの指揮者だったコンドラシンがわざわざ招かれ、シンフォニー・オブ・ジ・エアを指揮した。余談だがこんな急な演奏会に起用されるあたり、やはりこの楽団は、基本的にヒマだったらしい。
そして翌日、クライバーンは紙吹雪の舞う五番街をパレード、ニューヨーク市長から記念のメダルを授けられた。
翌二一日は指揮者や楽団とともに移動、フィラデルフィアで演奏会。二三日と二四日はワシントンDCで演奏会、そしてアイゼンハワー大統領と会見。二六日にはニューヨークに帰り、再びカーネギー・ホールで演奏会。
実に八日間で五回、チャコフスキーとラフマニノフの協奏曲ばかり弾いたのである。
演奏会申込も殺到していたし、RCAとは新人として破格の条件で、録音契約を結んだ。凱旋演奏会のラフマニノフと、後でセッション録音したチャイコフスキーの両協奏曲が二カ月後に発売され、爆発的に売れまくった。
とくにチャイコフスキーはビルボード誌で七週間にわたってアルバム・トップを独占、クラシックとしては初めて百万枚を突破した。ホロヴィッツもルービンシュタインもやっていないことを、二三才の新人が達成したのだ。
演奏のコンクールは、それまですでに、各地でさまざまなものが開かれていた。
しかし、それらはあくまで登竜門、名演奏家への入り口であって、その優勝者がいきなりスター扱いされたことなどは、かつてなかった。
クライバーンの未曾有の成功は、冷戦という時代状況でしか、おこりえないものだった。
そして同時に、アメリカという、マスコミや放送メディアが極度に発達した巨大な大衆消費社会でこそ、初めておこりえることだった。
メディアの力は、彼の虚像を数百倍にも数千倍にも拡大してみせたのである。
それからの十年ばかりは、彼にとって夢のような、しかし目覚めることを許されない、強制された夢のような日々であったろう。
もうショパン弾きじゃない
コンクールというものの面白さ、興行的、商業的価値が〈発見〉された、という点でも、クライバーンの成功は重要な意味を持っていた。
そして二年後の一九六〇年、ショパン・コンクールが五年ぶりにワルシャワで挙行されたとき、音楽マネージャーやレコード会社は、第二第三のクライバーンをものにしようと、鵜の目鷹の目で見つめていたにちがいない。
一九二七年以来の歴史を持つショパン・コンクールは、ポーランドの国民的行事である。
この年はちょうどショパン生誕一五〇年目に当たり、その生誕記念祭もあわせて行われ、盛り上がりはひとしおだった。
現在のコンクールは作曲者の命日、十月十七日の前後に行われるが、当時は誕生日の二月二二日の時期に開かれていた(ただし、誕生日には三月一日説もある)。
コンクールの名誉審査委員長もつとめるルービンシュタインが、その二月二二日に記念演奏会を行い、ショパンとブラームスの二つの第二協奏曲と、そして英雄ポロネーズを豪快に弾ききり(ムザその他でLP化されている)、第六回ショパン・コンクールの幕が上がった。
参加者は、三十カ国から七七人だった。
前年のロン=ティボー・コンクールで松浦豊明が優勝して意気上がる日本からも、小林仁を筆頭に四人が参加した。ただし、有力候補だった十五才の中村紘子は年齢制限に引っかかり、参加を許されなかった。そのせいか結局、小林の奨励賞が最高位だった。
一方、記念の年だけに、ポーランドはできれば自国人に優勝させたかったろう。しかし六位入賞すら果たすことができず、前々回(一九四九年)のチェルニー=ステファンスカ、前回(一九五五年)のハラシェヴィッチに続けての三度目の栄冠を得ることはできなかった。
実は二回とも、ソ連の参加者の方が本当は優れていたのに、身びいきで優勝したとささやかれていた。第六回の自国の参加者が、ひいきしようもない程度の出来だったのは、審査の公正を図る上で、むしろ幸いだったかも知れない。
もともとこの年の選考過程では、疑惑などおこりようもなかった。
イタリアから参加した十八才の少年、ポリーニの演奏が比較の余地もないほどに見事だったため、彼がブッチギリで優勝したからである。
「ポリーニはすでに、我々審査員のうちのだれよりも上手だ」
ルービンシュタインのこの発言は、あまりにも有名である。その審査員には、彼のほかホルショフスキ、マルクジンスキ、タリアフェロ、オボーリンなどが加わっていた。
このコンクールでのポリーニの演奏は、協奏曲第一番や《葬送》ソナタ、そして小曲が残っていて、さまざまな形で聴ける。
クライバーンよりも繊細入念な音色だが、若々しく爽やかで、陰影は乏しい、という点では共通している。演奏それ自身の面白さより、ドキュメントとしてその颯爽たる姿を、楽しむべきものだと、私には思える。
ともかく、アメリカ人ではなかったが、ショパン・コンクール史上はじめて、西側諸国から優勝者が出た(それまではロシア人四名、ポーランド人二名だった)ことは、音楽業界にとって大いに好都合なことであった。
今度は、ヨーロッパが色めきたつ番である。国連がこの年を〈ショパン年〉と定めたため、ユネスコの後援により、世界各地でショパンが演奏されているのだ。
ブライロフスキーのように、ニューヨークとブリュッセルとパリの三カ所で、ショパン全曲を各六回の連続演奏会で演奏し、さらにミュンヘンとウィーンでも三回ずつのショパン演奏会を開く、などというピアニストもいた。
そんな年に、西側在住のショパン・コンクール優勝者となれば、もう各地で引っぱりだこである。優勝翌月の四月、ポリーニはロンドンに渡って、EMIに協奏曲第一番のスタジオ録音を行った。演奏会でのロンドン・デビューは、七カ月後の十一月と決まった。
録音の指揮者クレツキとは、五月にもフランス国立放送管弦楽団の演奏会で共演、また協奏曲第一番を演奏した。アルカディアがCD化したこの演奏が、おそらくパリ・デビューであろう。大喝采が終演後に贈られている。
ほかに旧ユーゴのアドリア海北岸の都市、ドゥブローブニーク夏期音楽祭での《葬送》ソナタもCDになっているし、《二四の前奏曲》のこの年のライヴも、LPで出ていた。
とにかくショパンを、弾きまくらされたらしい。さらに十月二四日の国連デーには、欧州ツアー中のNHK交響楽団とパリで共演、またもクレツキの指揮で、やはり協奏曲第一番を演奏することになった。これは全世界にテレビ放送される記念演奏会だった。
ところがポリーニは、この名誉ある公演をキャンセルしてしまう。
イタリアからスポーツカーで来るのに、腕を出したまま運転したため、関節を冷やしてしまったという、プロにあるまじき理由だった。
正確な演奏記録がないのでわからないが、ポリーニはこの頃から、演奏を厭いはじめたのではないか。一説には、金もうけばかりをたくらむ自分のマネージャーに、イヤ気がさしたのだともいわれる。
そして彼は数年間、演奏会から身を引いた。大学に入って哲学や美学を学び、さらに一九六一年には、あまり成果はなかったというが、ミケランジェリの講習会にも参加したりした。
「音楽以外のあらゆるものを、落ちついて考えてみたかった。私の中身はまだ、大きな出世をするほどに成熟してはいなかった。」
彼が演奏会に復帰するのは、六〇年代も半ばになってからである。その後の大成を思えば、まことに賢明な選択だった。
時代の立会人
再び、クライバーンに話を戻す。
一九六〇年も、彼の夢の日々は続いている。前年の九月には、フルシチョフがソ連首相としてはじめて、アメリカを訪れた。彼とアイゼンハワーは親しく会見し、〈雪解け〉は、いよいよ現実になりつつあった。
このときクライバーンは、ソ連大使館にフルシチョフを訪ねている。フルシチョフは上機嫌に、もう一度ソ連に来なさいといったという。
このころ、米ソは文化交流の一環として、演奏家やオーケストラを派遣しあっていた。年が明けた一九六〇年春には、コンドラシン率いるモスクワ・フィルが渡米してきた。
チャイコフスキー・コンクール本選で伴奏をつとめてくれた彼らとクライバーンは再会し、一万六千人の聴衆がつめかけたマディソン・スクエア・ガーデンで、プロコフィエフの協奏曲第三番を演奏した。
そして夏には、フルシチョフの言葉どおり、二年ぶりにソ連へ演奏旅行することになった。
この時期にはアイゼンハワーも訪ソしているはずで、クライバーンは両国元首の前で、クレムリンで演奏することになっていた。
こんな動きを見れば、クライバーンはまさしく〈雪解け〉のシンボル、米ソ宥和のかけ橋となっていたことがわかる。
クライバーンがモスクワに到着する十日前の五月十六日に、米ソ英仏の四首脳会談がパリで予定されていた。アイゼンハワーとフルシチョフの関係もさらに緊密なものとなるものと、期待された。
ところがここで事態は、劇的な暗転をする。
五月一日、ソ連領空に侵入したアメリカのU2型スパイ偵察機が撃墜され、パイロットが捕虜となった。アメリカのスパイ活動が明らかにされてしまったのである。
フルシチョフはこの背信行為に激怒、アイゼンハワーとのパリ会談を拒否した。米ソの関係は再び凍りつき、冷戦が復活することになる。
軍縮で仕事がなくなることを恐れた、CIAとKGBの共同謀議だという説があるくらい、あまりにできすぎたタイミングで、この〈U2事件〉は時流を逆転させたのである。
大統領の訪ソも中止、思わぬ事態の急変をきいたクライバーンは、猛烈な抗議にあうのではないかと不安になったという。
しかし、そんなことはなかった。
モスクワの空港に到着したクライバーンを待っていたのは、二百人の熱狂したロシア娘たちだった。まるでエルヴィス・プレスリーに対するアメリカ娘たちのように、彼女たちはすさまじい金切り声を上げて彼を歓迎した。
二年たっても、クライバーンはいまだにロシア人たちのアイドルだったのである。
このときのモスクワ公演の、ラフマニノフの第二番のソナタをRCAがCD化している。
ガンガン元気のいい、陽性の演奏である。とにかく明るく力強く、この当時のアメリカそのままのイメージともいえ、まさにこれが、ロシア人たちが彼に期待したものだったのだろう。
この演奏旅行のクライマックスは、レーニン・スポーツ宮殿で、コンドラシン指揮のソビエト国立交響楽団と共演した演奏会だった。二万人の聴衆の前で、クライバーンはチャイコフスキーの第一番と、アメリカの作曲家、マクダウェルの第二番の協奏曲を演奏した。
喝采に応えて終楽章がアンコールされたというマクダウェルの第二番は、それから三カ月後に、シカゴでスタジオ録音されている。
それを聴くと、よくも悪くも、クライバーンその人に似た作品、という印象を受ける。
ラフマニノフ風の耳ざわりのいい感傷的な旋律や、また技巧的なパッセージがちりばめられているが、表面的で、中身がない。
やがてアメリカ国内でも、ミーハーの女性ファンにしか聴かれなくなる彼の限界が、ここに象徴されているかのようだ。
歴史はときに、さまざまな大事件に続けて関わったり、居合わせたりする〈時代の立会人〉というべき人を生む。
どうもクライバーンという人は、一介のピアニストでありながら、政治家以上に時代に立ちあうことを、宿命づけられていたらしい。
たとえば翌一九六一年八月二八日に、彼は西ベルリンでケルテス指揮のベルリン放送交響楽団と共演、チャイコフスキーの第一番を演奏して、ドイツ・デビューを飾っている。
ステレオ録音が残っていて、彼の美しい音と技巧が堪能できるが、問題はこの日付である。
なぜなら十五日前の八月十三日、東ドイツは突如として東西ベルリンの境界線を封鎖、いわゆる〈ベルリンの壁〉を構築して、交通を遮断してしまっているのだ。
東ドイツからの亡命者をくい止めるためだったが、西ベルリン市民たちは、ひょっとしたらこのまま自分たちも併呑されるかも知れない、と不安におののいた。
彼らを守れるのは、アメリカの断固たる政治姿勢だけである。八月十九日、緊急派遣された千五百人のアメリカ軍部隊が東ドイツ領内を無事通過、西ベルリンに到着したとき、市民たちは歓呼してこれを迎えた。
クライバーンは、まさにその刹那に西ベルリンに来て、力強くチャイコフスキーを弾いた。
偶然だろうか。本来ならシーズン・オフの時期だ。ドイツやヨーロッパの他の場所で、同時期に演奏した形跡もない。フォード財団あたりが〈音楽の騎兵隊〉として、彼を急遽派遣したのではないか。そんな想像ができる。
自由主義の戦士アメリカを代表する、いや、アメリカそのもののピアニスト。クライバーンはその役割を、懸命に演じていく。
そして音楽家としてはそれ以上、成長することがなかった。
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