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幻のピアニスト

 鉄のカーテンの向こうに、ものすごいピアニストがひとりいるらしい、という噂が、アメリカにも伝わってきていた。
 一九五五年ジュネーヴの首脳会談によって、米ソ両国の間で音楽家を派遣しあう、いわゆる文化交流プログラムが開始されてから、数年後のことである。
 戦前のプロコフィエフ以来、ほぼ二十年ぶりにアメリカに姿を見せたソ連の独奏者たち、すなわちギレリス、オイストラフ、コーガン、ロストロポーヴィチなどの一騎当千の独奏者たちは、揃いも揃ってその高い技量と強靱な音楽で聴衆を圧倒、大評判となっていた。
 だが、切り札というべきピアニストが、ソ連にはまだひとり残っているというのである。
 その名はリヒテル。

 スビャトスラフ・リヒテル。
 ソ連人演奏家の先頭を切って一九五五年に訪米したエミール・ギレリスは、アメリカ人たちが彼に捧げる絶賛に対して、こう答えた。
「お待ちなさい。その言葉は、リヒテルを聴くまで、とっておきなさい」
 伝説のはじまりである。
 一九五八年四月十六日、ヴァン・クライバーンは、モスクワ音楽院大ホールの客席にいた。
 第一回チャイコフスキー・コンクール授賞式で優勝メダルをもらった、すぐ次の晩である。
 審査委員のひとり、リヒテルがリサイタルを開くというので、大勢のコンクール参加者や審査委員たちとともに、聴きに来たのだ。
 彼も、すでにその名を耳にしてはいたが、実際に演奏を聴くのは初めてだった。
 プロコフィエフの第七番のソナタ、シューマンのトッカータなどからなるその晩は、リヒテルとしても最高の出来の演奏会のひとつだったという(近々パルナッソスなるレーベルから、当夜のCDが出るらしい)。その演奏を聴いたテキサスの若者は、すっかりリヒテルの音楽の虜になってしまった。
「こんな人が審査委員だと先に知っていたら、コンクールではもっと興奮したでしょう」
 こう彼は称え、そしてアメリカに帰ってからも、その素晴らしさを語っていく。
 同じ年にソ連を訪れた、ユージン・オーマンディ率いるフィラデルフィア管弦楽団も、プロコフィエフの第五協奏曲でリヒテルと共演し、その音楽性に驚かされることになった。
 彼ら、ソ連を訪れた少数の人の噂話が、リヒテル伝説にさらなる神秘を加えていく。

 そうして期待は高まっていったのに、一向にリヒテル訪米の話は、出てこなかった。
 ギレリスは、一九六〇年初めまでにすでに三度も訪米を重ねているのに、対照的にリヒテルの方は気配すらないのである。
 いや、彼は西ヨーロッパにすら来たことがないのだという。
 病気で体が弱く、長旅にたえられないらしいという〈情報〉も流れた。しかしチェコやハンガリー、ポーランド、ルーマニア、そしてブルガリアなど、毎年のように共産圏諸国を訪れているのだから、それを信じる者はなかった。
 『ドクトル・ジバコ』を書いた作家パステルナークが、自国ソ連の政府の圧力で、ノーベル文学賞を辞退させられたりした時代である。
 リヒテルが出られないのも、政治的事情が理由らしいとは、だれにも容易に想像がついた。

 やがて、リヒテルのLPが何枚か、西側でも手に入るようになった。
 といっても当時、ソ連邦内で録音された音源が西側に出てくることはなかった。リヒテルが五〇年代後半に東欧諸国を訪れた機会をとらえて、録音されたものである。
 わざわざそんな面倒なことが行われるほど、このピアニストへの関心が強まっていたということだろう。
 ドイツ・グラモフォンによる、プラハやワルシャワでの独奏曲や協奏曲のスタジオ録音も称賛されたが、なかでも話題を集めたのは、《展覧会の絵》などを弾いた、一九五八年二月のソフィアでのライヴ録音だった(日本ではフィリップスが発売)。
 目のさめるような技巧、圧倒的なパワーと繊細な叙情の共存が、彼のただならぬ実力を証明していた。アメリカでもコロンビアが発売、ベストセラーとなったこの録音は、〈幻のピアニスト〉への期待をさらにかきたてていった。

 そして一九六〇年、ついにリヒテルのアメリカ・デビューが決定した。
 九月後半から二五日間、フルシチョフ首相が国連総会に出席するために、ニューヨークに滞在する。その直後、リヒテルが登場するのだ。
 当時、ソ連の演奏家のアメリカでの興行権を一手に握っていた大興行師ソル・ヒューロックは、リヒテル登場をこの秋の音楽界最大のイベントとすべく、思いきった公演日程を組んだ。
 二カ月半で三十公演を行い、目玉はニューヨークのカーネギー・ホールでの、十二日間で五回の連続リサイタル(曲目重複なし)である。
 こんな大規模なデビューをした演奏家は前例がなく、しかもその切符はすべて、あっというまに売り切れたのである。

フルシチョフの爆弾

 この頃、米ソの関係は一年前の〈雪融け〉が嘘のように、冷えきっていた。
 フルシチョフは九月二三日の国連総会で、高らかに全植民地の即時独立を訴えた。
 情熱的で芝居気たっぷりのこのソ連首相は、演説の途中に脱いだ靴で演壇をひっぱたくという派手なパフォーマンスをやって、後々まで語り草になった。それはこの年、アフリカで十七もの国家が独立するなど、それぞれの植民地問題に頭を悩ます西側諸国への挑発だった。
 アメリカとて例外ではない。彼らの半植民地だったキューバが、一年前の革命で社会主義国家に転向し、アメリカ資本の巨大な工場や農園を、次々と接収していた。そしてアメリカの干渉を断つために、ソ連に急接近しつつあった。
 国連総会の席で、フルシチョフはキューバのカストロと初めて顔を合わせ、アメリカ側をいらつかせている。
 こうして、総会を引っかき回したフルシチョフが船に乗って去るのと入れかわりに、再びソ連の力を誇示するかのように、リヒテルがやって来た。彼を、
「ソビエトの新しい爆弾」
などと呼ぶ新聞もあった。
 初日は十月十五日、シカゴでの特別演奏会である。ラインスドルフ指揮のシカゴ交響楽団と共演(予定ではライナーの指揮だったが、一週間前に冠状動脈瘤に倒れた)、ブラームスの第二協奏曲ほかを演奏した。
 翌々日にそのブラームスをスタジオ録音した後、いよいよ十九日から、カーネギー・ホールでの連続リサイタルが開始される。

 この五公演を、アメリカのコロンビアがすべてライヴ録音することになっていた。
 興行権をもつヒューロックはRCAとの関係が深く、そのためリヒテルのスタジオ録音もRCAが行なっている。しかしコロンビアが調べたところ、録音の権利はヒューロックが所有しているわけではなく、ソ連の国営レコード会社、メロディアにあることが判明した。
 ということはメロディアと話をつければ、コロンビアもリヒテルを録音することができるのだ。そこで交渉がはじまったが、ソ連側の代理人は六万ドルという高額を吹っかけてきた。
 その高さに困惑した担当ディレクターのチェイピンは、コロンビアの名物社長、リーバソンに相談した。社長の返事は見事だった。
「キューバを差し上げます、といえばいいじゃないか」
 金に糸目をつけるな、どんな条件でも呑め、RCAに独占させるな、という意味である。
 これで話は決まったのだが、しかしチェイピンはいやな予感がした。
 高いには高いが、どうも話が簡単すぎる。
 その後の動きも妙だった。ソ連側はコロンビアのマイクや機材の設置を拒否し、ホール備え付けのマイクでの録音を要求してきた。それはあくまで記録用で、音質は問題にならない。しかもステレオ録音が当然の時代に、モノラルでしか録れないのである。
 ――ひょっとしたら演奏者には知らせずに、勝手に録音してしまう気なのではないか。
 チェイピンはそう思ったが、もはや契約が結ばれている以上、相手に従うほかなかった。リヒテル自身に直接会うこともできなかった。
 アメリカにあっても、リヒテルは鉄のカーテンに包まれているかのようだった。

 リヒテルと彼の政府との関係というのは、とても微妙なものだった。
 一九一五年にウクライナに生まれた彼の家系には、さまざまな民族の血が混じっているという。ドイツ系の姓を持つ彼の父はポーランド人で、ウィーンで学んだピアニストだった。
 絵描きになろうか、指揮者になろうか、さまざまな才能を持っていた彼が最後に選んだ職業が、父と同じピアニストであった。
 そして彼が名教師ネイガウスに学ぶべく、オデッサからモスクワ音楽院に単身おもむいていたときに、悲劇が起こる。
 第二次世界大戦下、ソ連とドイツが激しく戦っているさなかのことだった。
 オデッサのドイツ領事館でピアノを教えていた父が、対独協力者としてスパイ扱いされ、処刑されてしまったのだ。自国に絶望した母は父の弟と再婚、そしてソ連領から後退していくドイツ軍と共に、ドイツに移住してしまったのである。母子は、長く音信不通となった。
 父の刑死と母の亡命。二十代後半のリヒテルの人間形成に、この事件が深刻な影響を及ぼしたろうことは、想像に難くない。彼は国家によって〈みなしご〉にされてしまったのだ。
 だが、リヒテルがどんなショックを受け、どんな反応をしたかは、明らかになっていない。少なくとも表面的には、彼はそれらを皮膚の下に隠してしまったようである。
 何もいわずに彼は勉強に専念し、ソ連国内のコンクールで優勝し、第一等のピアニストとして認められた。音楽に没入すること、それが彼の生き方だったようである。
 それはしかし、ソ連にいるかぎり避けられない生き方でもあった。さもなければ、すべてを捨てて亡命するか、すべてを取り上げられて隠退生活をするか、どちらかしかないのである。
 リヒテルはただ演奏した。
 ソ連の演奏家はどんな大家であれ、教職を義務づけられるのに、不思議にも彼ひとりは演奏活動に専念し、一年のうち九カ月も演奏旅行に出るような日々を送ってきた。
 彼は特別だ、そう周囲に納得させてしまう何かを、彼と彼の音楽は漂わせていたようだ。
 しかし、そんな特別扱いを受けながらも、西側に出ることは許されなかったのである。両親の一件のためなのか、亡命の危険があると疑われていたのだ。
 風向きが変わったのは、新しい文化相にフールツェヴァが就任したかららしい。意欲満々のこの女性閣僚がフルシチョフに働きかけ、リヒテルの出国許可をとりつけたといわれる。
 一九六〇年の五月、彼は初めて共産圏外の、といっても距離的には間近の、フィンランドで演奏会を開いた。この〈予行演習〉で安全を確認したあと、やっとソ連はリヒテルをアメリカに送りこむことにしたのだ。

カーネギー・ホールにて

 しかしリヒテルにしてみれば、西側への実質的デビューはできればアメリカではなく、フランスかイギリスかイタリアといった、西ヨーロッパにしたかったのではないだろうか。
 これはアシュケナージが述べているのだが、ロシア人にとってアメリカは、まるで違うのだという。「そびえ立つ摩天楼と、生き馬の目を抜く商業主義」に慄然とするのだという。
 ヨーロッパはいかに体制が異なろうと、地つづきの、ロシアの延長上にある地域で、さほどの差は感じないのだが、アメリカはまさしく別大陸の、別世界と感じられるのだという。
 政治体制、文化(音楽も含め)などさまざまな点において、ヨーロッパを原形として正反対の方向に発展したのが、アメリカとソ連の二大国家だった、といえるのではないだろうか。
 原形に対しては共通点が見いだせるのだが、互いには方向が違いすぎて、ただ圧倒されるばかり、となってしまうのかも知れない。
 リヒテル自身、地球の反対側のアメリカは、地理的にも心理的にも遠すぎたと語っている。
 なじめない環境が、彼をいつになく緊張させた。ニューヨークの演奏会の成否に、今後の演奏生活のすべてがかかっているように思えてきて、その重圧に気も狂わんばかりになった。
「不安でたまらないのに、何が不安なのか分からなかった」
 彼は後に回想している。

 このアメリカという国では、なにもかもが劇的に、センセーショナルに仕立てられる。国全体が大きな劇場だともいえる。
 そこではあることないこと、リヒテルをめぐってさまざまな噂が流れていた。
 三十晩分の演奏会の演目をすべて暗んじていて、今すぐにも弾ける暗譜力。
 演奏が気に入らないと、お客が帰った後の会場で、ひと晩の演目をくり返し朝まで弾いてみたりする完全主義(これは誇張らしい)。
 神経質なキャンセル魔。
 〈幻のピアニストの歴史的デビュー〉へのニューヨーカーの期待は爆発寸前にまで膨れあがって、そして、初日の晩が来た。

 その演目はすべてベートーヴェンで、ソナタの三番、九番、二二番、十二番、そして二三番《熱情》である。前述のコロンビアの録音で、すべて聴くことができる。
 これらの曲には前後二年ほどの、モスクワやレニングラード、プラハやブカレストでのライヴ録音も残っている。それらと聴き較べると、この晩はたしかに硬くなっていたようだ。回りきらない指にもどかしさを覚えるのか、短兵急に音楽を進めている。
 結論からいうと、聴衆の熱狂とは無関係に、リヒテルはこの晩の演奏に不満足、というよりも嫌悪した。
 だから、アンコールをたくさん弾いた、と彼は語っている。出来がよければアンコールなど不要だが、悪ければ聴衆へのお詫びが必要だからだ、という。

 ここで、いかにもアメリカ好みの劇的事件が起こる。
 リヒテルの母が、ドイツのシュトゥットガルトから訪ねてきたのだ。鉄のカーテンに引き裂かれた母子の、二十年ぶりの対面だった。
 これは危ない、とソ連側は緊張したろうが、リヒテルは亡命などせず、やがて親子はそれぞれの国に帰ることになる。
 連続リサイタルの二晩目は四日後で、今度はすべてプロコフィエフの作品だった。
 まだリヒテルは緊張していたため、医者から安定剤をもらって、演奏前にのんだ。ところがこれが効きすぎて逆に躁状態になり、すべてがバカらしく、滑稽に思えてしまったという。
 この日のプロコフィエフに、他の機会の同曲の録音で聴けるような鋭利さも緊張感もないのは、どうやらこの薬のせいらしい。
 三晩目以降で、やっと彼は落ちついてきたようだ。ドビュッシー、ベートーヴェン、ラフマニノフなど、いつもの名演が聴けようになる。

 十月三十日をもって、連続公演は終わった。演奏者の不満とは裏腹にどの回も大好評で、十二月二六日に追加公演が行われたほどだった。
 チェイピンは全録音の編集にかかったが、すぐに頭を抱えてしまった。
 音質が悪すぎる。緊張によるミスも少なくない。リヒテル自身に確認しようと、やっとのことで連絡すると、自分はあの演奏に不満足だから、出さないでくれという。
 だが彼の意向が伝わったのは、もう一九六二年秋の発売が、秒読みに入った時期だった。全四集、計七枚の〈リヒテル・アット・カーネギー・ホール〉のLPが発売されてしまう。
 すぐに廃盤になったものの、リヒテルは深く傷ついた。後年彼がアメリカに来なくなったのは、この一件のためだ、とさえいわれている。
 その後、一九七〇年のリヒテル初来日にあわせ、曲目を追加して日本でソニーが九枚発売したのを例外に、以後二度と再発されていない。

 リヒテルがこのライヴを嫌悪する最大の理由は、《熱情》ソナタの演奏にあるらしい。
 彼自身の言によれば、コロンビア盤はひどい出来であり、ひと月後にスタジオ録音したRCA盤は、それよりはましだがよい出来とはいえず、それ以前にモスクワで録音したライヴ(六月九日)が、一番よいと思うそうである。
 だが、そうだろうか、と私は思う。
 たしかにコロンビア盤からは、思うように弾けぬリヒテルのいらだち、もどかしさが、痛いほどに伝わってくる。そんな、演奏者が二度と思い出したくない演奏が、録音の形で残されるというのは、身を裂かれるような苦しみなのかも知れない。アメリカ公演以後彼は、この曲を弾いていないという。
 しかし、無責任な聴きての立場からいえば、コロンビア盤はその自暴自棄ゆえにこそ、他の録音には聴くことのできない凶暴なオーラを放っていて、一度聴いたら忘れられないほどに、印象が鮮烈なのである。
 私が聴いたアメリカ盤の七枚で判断するかぎり、たしかに一連のカーネギー・ホール・ライヴは、ドキュメントとしての価値は別として、より音のよい別録音を押しのけるほどの演奏ではない。ただし、この《熱情》だけは別だ。
 演奏者自身が一番嫌うものを一番いいと思うなんて、なんと聴きてとは勝手なものだろう。

 だが演奏会とは、そんな聴衆の無数のエゴのただ中に、演奏者のエゴがほうり出される場所なのだ。アメリカでは、カーネギー・ホールでは、とりわけその傾向が強い。
 ホロヴィッツやグールドのようなピアニストは、それが空しく、恐ろしく感じられて、演奏会から引退したのだろう。
 そしてリヒテルの場合は、ソ連へ帰った。
 何度か訪米を重ねたのち、前述のように、彼はいつしかこの国を避けるようになった。

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