Homeへ

世界でいちばん孤独な場所

 前号で紹介した、リヒテルが第一回チャイコフスキー・コンクールの直後、一九五八年四月一六日 にモスクワで開いた演奏会のライヴCDが入手できたので、さっそく聴いてみた。
 旧ソ連の放送局音源のコピーらしく、録音は聴きやすい。曲目は、プロコフィエフのソナタ第七番、《シンデレラ》から五曲、《束の間の幻影》六曲、シューマンのトッカータ、それに当日のアンコールらしいドビュッシー、ショパン、ラフマニノフの小品五曲である(シューベルトの第二一番のソナタも演奏されているが、CDには未収録)。
 この演奏会、リヒテルの過去数年間のモスクワでの演奏のなかでも、特筆される出来と評されたそうだが、私も一聴して、その評価が誇張でないと知った。
 冒頭の《シンデレラ》抜粋が鳴りだした瞬間から、キレ味鋭い響き、ひきずり込むような集中力の強さ、息をのむ緊張感に、背筋がゾクゾクするような感覚を味あわされた。こんな感覚は、ほんとうに凄い演奏に接したときにしか、覚えることのないものである。
 そして聴きながらつくづく思ったのは、たしかにこんな演奏ができる人間にとって、あのカーネギー・ホール盤は、不本意、などというものではないのだろうな、ということだった。
 そこでも弾かれているラフマニノフの前奏曲の作品二三の五など、モスクワ盤の、電撃の走るような力強さは、まったく消えうせている。
 この差は、無論、解釈の差などではない。リヒテル自身にもコントロールのできない、体調とか精神状態の差なのである。そのちょっとした調子の差で、結果がまったく変っている。
 まことに演奏という行為はスポーツに似て、苛烈にして残酷なものだ。しかしそれゆえにこそ、人間の力の凄さと素晴らしさを、これ以上に教えてくれるものもない。

 モスクワ盤は、一九五〇年代後半における、リヒテルの絶好調の演奏の一例だろう。そしてカーネギー・ホール盤は対照的に、彼の絶不調の演奏を示すもの、といえる。
 この二組は、好一対をなしている。良い方だけ残して、悪い方はいらない、とは私は思わない(リヒテル自身はそう思うだろうが)。 
 なぜなら悪い方を聴きこむことによって、良い方の凄さを、より深く考えることができるように思うからだ。逆もまた、同様である。
 しかしこんな考え方ができるのも、録音というテクノロジーのおかげかも知れない。
 どちらの演奏にも、一定の距離を(否も応もなく)おいて接するからこそ、こんな余裕がもてるのである。
 もし苦労して、徹夜して入場券を買って、やっと入りこめた演奏会だったら、最高の演奏をしてくれなければ、困る。怒って当然だ。
 だが、人間の心理とは面白いもので、そんなときに自分の困惑や不満を、そのまま露にするとは、かぎらないのである。
 鳴っている音楽がどんなに出来が悪かろうとおかまいなく、耳をふさいで、自分は「歴史的事件」に立ち会っているのだ、と自己催眠をかけ、熱狂していくということがある。 
 一九六〇年十月、カーネギー・ホールにリヒテルを聴きに来た聴衆は、ひょっとするとそんな心理状態にあったのかも知れない。彼らが叫ぶブラボーや大喝采は、舞台上に鳴っている音楽とは、まったく別のものが生みだしたものだったのではないか。
 そしてその晩、会場にいる他の誰よりも早くそのことに気づき、うちのめされるような孤独感を味わったのは、ほかならぬ舞台上のリヒテル、その人だったのではないか。

 ところで私は、「カーネギー・ホール」という言葉の響きそのものに、根拠のない憧憬をいだいてしまう性質である。このホールで収録されたライヴ盤には、なにか特別な熱気がこもっているような気がするのだ。
 だが同時にこのホールは、数ある演奏会場のなかでも、とりわけ聴衆が自己催眠にかかりやすい場所だとも、私は思う。聴衆の過剰反応が演奏とは無関係になった録音も少なくない。
 演奏と喝采との遊離がとりわけはなはだしい演奏家というと、ある名前がすぐ頭に浮かぶ。
 ホロヴィッツだ。
 一九六五年の《歴史的復帰演奏会》と、一九六八年の《プレイズ・ラフマニノフ》の両ライヴ盤で、それは特に著しい。不快感を覚えるほどに聴衆ははしゃいで、やかましい。
 どうもホロヴィッツという演奏家は、スピーカーを通してではわからない、聴衆を異常に興奮させる特殊なオーラを放っていたらしい。そこに〈カーネギー・ホール効果〉が加わると、もの凄いことになってしまうのである。

 そのオーラをもてあましていたのは、当のホロヴィッツ自身だった。
 よく知られているように、彼は前述の一九六五年の演奏会で復帰するまで、十二年間も公開演奏の場から遠ざかっている。
 一九五三年三月十日、ミネアポリスでのリサイタルをキャンセルしたのが、長い引退のきっかけになったが、その直前の二月二五日には、〈アメリカ・デビュー二五周年記念演奏会〉をカーネギー・ホールで行なって、熱狂的な喝采を浴びたばかりだった(RCAがライヴ録音した)。
 しかしその喝采は、熱狂の度合いが増せば増すほど、彼には大きな苦痛になった。どんなに弾いても弾いても、「もっともっと」と求められているように聞こえたのである。
 まるでローマ帝国時代の闘技場の、血に飢えた観衆の前で、勝ちぬいても勝ちぬいても、仲間やライオンなどと死ぬまで戦わされる奴隷剣闘士のように、自分が思えたのだ。

 ついに耐えかねて、彼は演奏会から逃げた。
 彼は自宅にこもったまま、レコード録音だけで、聴衆と接触するピアニストになった。自宅に録音機材を運びこませ、自室のピアノで何枚かのLPをつくったのである。
 ところが数年たつと、多少やる気が出てきたのか、自宅ではなく、無人のカーネギー・ホールで録音したいと言いだした。
 そこで一九五七年二月にショパンの小品、そして一九五九年の五月と六月には彼の最初のステレオ録音として、ベートーヴェンの第七番と《熱情》ソナタが同ホールで録音された。
 これは、演奏会復帰の予行演習をかねていたらしい。またRCAは、このベートーヴェンを一枚目に、以後ホロヴィッツのステレオLPを続々と発売すると予告していた。
 だがカーネギー・ホールの客席は、空っぽであってもなお、ホロヴィッツの意欲を萎えさせる力を持っていたのである。
 録音こそどうにか完了したものの、彼は復帰を取りやめ、また録音結果にも満足できず、以後の録音計画も放棄してしまった。
 RCAとの関係はこれで決定的に悪化し、ホロヴィッツは一九六二年にCBSに移籍するまで三年間、沈黙を続けることになる。
 一九六〇年には、彼はまったく不在のピアニストだった。

行きちがう男たち

 不在のピアニストといえば、我々にはもうひとり、グレン・グールドという大物がいる。
 ただし彼は、一九六〇年には、いた。まだ演奏活動を続けていたのである。
 とはいえこの年は、グールドという天才の、おそらく天才のゆえにもつ暗い一面が、端的にあらわれた年であった。
 彼は左腕の痛みのため、この年の前半の演奏会の大部分をキャンセルしていた。ピアニストにとって腕の故障は別に珍しくないが、その原因というのが、妙なのである。
 グールド自身の説明によれば、前年の十二月にニューヨークのスタインウェイ本社を訪ねたとき、そこで会った同社の調律師に、左肩を強く押されたのが、左腕痛の原因だというのだ。
 しかしそのとき居合わせた関係者によれば、件の調律師は、グールドとは意見が合わなかったが、もちろん暴力などふるうはずもなく、軽く彼の肩に手をそえた程度だった、という。
 真相はわからない。ただスタインウェイの主任技術者を務めるほどの人間が、一流ピアニストの肩を痛めるほどに押すなどということは、普通は考えられないことはたしかである。
 だがグールドは激しい痛みを訴え、演奏するためにコーチゾンという強い薬(逝去直前のリパッティが使ったことで有名)を使い、その効果が切れると、大きなギプスをはめて二カ月も治療に専念した。
 そしてこの年の暮れには、三十万ドルもの賠償金を求める訴訟を起こすにいたる。事を荒だてたくなかったスタインウェイ社は一万ドル弱の賠償金を払って、示談に応じた。グールドの妄想だろうと何だろうと、大物を怒らせては損だと判断したらしい。

 原因はともかく、腕の痛み自体はあったのだろう。治療の甲斐あってグールドは七月には復帰し、秋からは例年のように、北米各地の地方都市をめぐる演奏旅行に出発した。
 演奏不能、という恐怖を味わった後だけに、演奏旅行嫌いの彼としてはめずらしく、演奏できること自体に喜びを覚えたという。
 このときのツアー中のライヴで、ポール・パレー指揮のデトロイト交響楽団と共演したベートーヴェンの協奏曲第二番が、CD化されている。ヒラメキにみちた、コロコロと弾けるような音色の、いかにもグールドらしい見事な弾きぶりである。
 このデトロイト公演の他にも、一九六〇年から六一年にかけてのシーズン、グールドは各地でベートーヴェンの各協奏曲を弾いた。モントリオールでは、三晩かけて五曲を連続演奏したりしている。
 レコード録音も行われた。三月十七日から三日間、バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルの定期演奏会で第四番を演奏したのに続けて、三月二十日にこの曲を録音している。

 グールドとバーンスタイン。ともにコロンビア・レコードのドル箱アーティストであり、これまでに三曲の協奏曲を録音してきたふたりだが、この第四番の録音セッションでは、どうやら両者の考え方のちがいが、明白になったらしい。
 以前の章で述べたように、この当時バーンスタインは、木曜日から日曜日までの定期で演奏した曲を、月曜日に一気に録音していた。
 この三月二十日の録音セッションでも、グールドとの協奏曲以外に、驚くなかれ、彼はバルトークの《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》とブリテンの《青少年のための管弦楽入門》を録りきっている。
 ちょうどこのころ、バーンスタインの副指揮者としてニューヨークに到着したばかりの小澤征爾は、ほとんど休憩もとらずに録音をしていくバーンスタインのエネルギーに、驚かされていた。その小澤によると、グールドとの協奏曲は、なんとノン・ストップで全曲を録音してしまったものだという。
 たしかにそのくらいでなければ、一日 に三曲は録れないだろう。だが、グールドの方は、こんなやり方をどう思っただろうか。
 独奏曲の録音では、いくつも表情を変えてくり返し録音し、それらをつなげあわせたりすることを好んでいたグールドである。到底、満足していたとは思われない。
 だが不満は、バーンスタインも一緒だった。おそらく遅めのテンポ設定のことだと思うが、彼は独奏者の意向に、しぶしぶ妥協していたのだという。だからこそ、ノン・ストップで録るなどということをやったのかも知れない。

 この録音からちょうど一年後、一九六二年四月に再び共演した彼らは、ブラームスの協奏曲第一番の解釈をめぐって、有名な〈スピーチ事件〉を起こすことになる。
 この事件が起こったのも、カーネギー・ホールにおいてだった。あまりにも意見に相違が生じたため、演奏前にバーンスタインが、そのことを聴衆に話してしまったのである。
 だがこの事件の伏線は、すでにベートーヴェンの録音において、はられていたのだ。
 グールドが演奏会から身を引くのは、一九六四年の春のことである。

 リヒテル、ホロヴィッツ、グールド。
 ピアノという楽器は、他の楽器に伴奏してもらう必要もなく、いわば自己完結できる楽器だけに、ピアニストというのは、自己と他者の関係について、より敏感にならざるを得ない人種なのかも知れない。



お知らせ

 突然ですが、このたびHMVから、より実用的なフリーペーパーが新たに創刊されます。そこで「はんぶる」は、これでおしまいです。
 読者諸兄に対し、「ウィーン/六〇」が未完に終わってしまうことを、おわびします。しかし私は、強引な結末をつけるより、あえて途中経過のままにおくことにしました。
 以前にも触れましたが、「ウィーン/六〇」は書きだしてからの発見があまりに多く、現時点では、まるで全体のまとまりがありません。
 誇張なしに、演奏の歴史における「一九六〇年」はまさに逸話と事件の大鉱脈です。改めてすぺての材料を吟味整理し、構成を一新して書き直してみたいのです。ゆえに、とってつけたような結末は、私には無用のものなのです。
 この物語の完成版をいつかどこかで、皆さんにお読みいただく機会があれば、と思います。

 話は変わりますが、いまふりかえってみて、一九八〇年代後半にはじまったCD時代の最大の面白さは、イタリア等の非正規盤(演奏後二十年を経過して、権利が公有となったもの)の大量発売による、ライヴ音源の普及だったのではないでしょうか。
 道義的な批判は、ここでは措きます。
 LP期には割高で品薄で、盤質も悪かった非正規盤は、CDになるや廉価で、もともとの音質の限界はあるにせよ、かなり聴きやすくなって気軽に入手できるようになりました。
 そこには、スタジオ録音には得られない驚きと発見が、あったのです。
 年代も場所もさまざまなそれらのライヴ盤のなかで、なぜか一九六〇年の録音に面白いものが多いなあ、と感じたことが「一九六〇年」という年に着目するきっかけでした。
 具体的にいえば、ワルターのウィーン告別演奏会のCDと、クレンペラーのベートーヴェン・チクルスの初日のCDは、ともにウィーン楽友協会大ホールで、同じ五月二九日の昼と夜とに演奏された録音だ、という一致に驚いたことが、「ウィーン/六〇」のはじまりなのです。
 そして調べてみれば、それは単なる偶然の一致ではなく、彼らの旧師マーラーの生誕百年に係わる記念行事であり、さらにはふたりともそれぞれの演奏会の背景に、大いなる物語をもっていることが見えてきました。
 シンクロニティ、共時性の面白さ、玄妙さ。
 正規盤だけではこんなことを考えもしなかったろうことは、私の場合、疑いありません。
 たとえば何かの本で、ワルターとクレンペラーが同日に同会場で演奏した、という記述に接したとしても、それだけでは、単なる逸話に過ぎないのです。
 その音を実際に聴けることこそが、「単なる逸話」に血肉を与え、その背景世界に想いを馳せるための、力強い翼となるのです。
 そしてさらにいえば、それらのドキュメントが店頭に並び、読者も私と同様に耳にしうるという状況にこそ、「はんぶる」の意味も面白さもあると、私は考えてきました。

 しかし、ここ一、二年の間に、著作隣接権が日本やイタリアでも強化され、演奏後五十年を経ない非正規盤は、違法な海賊盤として、流通が許されないものとなってしまいました。
 もちろん私自身は、海賊音源だろうとテープだろうと何だろうと、耳にできるもの、使えるものは今後も何でも手に入れるつもりです。それらについて論じることも、できるかぎり続けるつもりです。
 個人的にはそれでかまわないのですが、読者の方がその音を耳にするのが難しくなったことは、レコード店のフリーペーパーとしては、かなり都合の悪いことになりました。
 玉石混淆、おもちゃ箱をひっくり返したみたいな、何が出るやら見当もつかぬ「非正規盤の時代」の終焉とともに、「はんぶる」の潮時も来た、ということなのでしょう。

 誤解のないようにつけ加えますが、HMVの側からは、海賊盤を取り上げるな、などという要請はただの一度もありませんでした。
 それどころか、ほんとうに好き放題に書かせてもらいました。
 無名の人間が書きちらした、CDの実売にも直接結びつかない原稿を、三年も発行してくれたHMV、とくに同社の金井氏に対して、この場を借りて感謝させていただきます。今後のHMVのご発展を、心よりお祈りいたします。
 そしてもちろん、読者の皆さま、ご愛読まことにありがとうございました。

 では、どちらさまもご堅固に。
 ごきげんよう。
                山崎浩太郎

Homeへ