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「やさしくなければ医療じゃない」「がんばらないけどあきらめない、なげださない」

[言葉で治療する(1)「医療者の言葉で患者と家族は天国にも地獄にもなる」] 週間朝日 2009年2月6日号

→鎌田實「なげださない」
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言葉で治療する(1)「医療者の言葉で患者と家族は天国にも地獄にもなる」

好評連載「がんばらないけどあきらめない」の鎌田實さんが帰ってきた。
「言葉で治療する」。鎌田實さんと読者の命の対話が始まる。
週間朝日 短期集中 新連載 2009年2月6日号

病にかかったとき、患者と家族は医師や看護師からかけられる言葉しだいで、治療を受ける日々が天国にも地獄にもなる。患者側は医療者の無自覚な言葉に心を痛めたり、逆に医療者のあたたかな言葉にとても励まされる。多くの患者や家族が、医療者とのいい関係をつくりたいと願っているが、うまくいかなかった人も多い。

医療費抑制政策の結果おきてきた病院の医師不足による医療崩壊のまっただ中で、医療者側はあたたかな言葉をかける余裕を失っている。その上、以前から医療を提供する側と受ける側のコミュニケーションが日本の医療現場ではうまくいってなかった。それがますます厳しい現実に迫られている。見わたすと、そこらじゅうのコミュニケーション能力が落ちている。政治家と国民、教育現場、職場、家庭。コミュニケーション能力がないために生産性も落とし、ときには傷ついている。まずは医療と介護の中の「言葉」にこだわってみたい。読者の方から体験募集を行った。いただいた手紙やメールを分析しながら、医療者と患者とのコミュニケーションをどうつくり直すか、どう立て直していくか、考えてみたいと思う。

X  X

ケアマネジャーの方から手紙をいただいた。医療関係者とサービス利用者、家族の間にたって仕事をしている方だ。両者の行き違いを数多く見てきた。医療訴訟が多いのも理解できるという。原因はコミュニケーション不足で患者側に十分納得してもらってないからだという。

ご自分の父親が、終末期医療を受けていた。主治医が母親に「そろそろ治療をやめますか」と聞いた。お母さんは、見捨てられたと思ったそうだ。「お父さんは治るつもりでいるのに、どうしてやめますかなんて言うの!」と、今でも怒っているという。医療関係者は、がんの末期なら「治療しても効果が期待できない」と当然わかる。しかし、一般の人には通じない。助かる可能性がないことをゆっくり話す。しかもくり返し説明する。そのあとで積極的治療をやめることが本人のためになるかもしれないと、一つの提案として話せば、この誤解はなかったと思う。

ぼくが、直接いただいた手紙の中には、この種の、コミュニケーション不足が散見される。逆に、がんの末期状態を迎えたとき、家族がもう無理な治療をしてほしくないと思っているのに、治らないと言いながら、次々に再手術や、新しい化学療法など積極的治療をすすめられた話もあった。がんなのに長く人工呼吸器につながれ、家族が戸惑っていることもあった。このケアマネジャーの父親の場合は反対で、医療者側に先にあきらめがあり、家族は投げ出されたように感じてしまったのだ。どちらの場合も、たいへん不幸である。本人にどれだけ本当のことが伝わっているかが問題で、本人がどう思うかがいちばん大事である。本人が無理なことをしたくないと思っているならば、それを家族にどう納得してもらうかが大事になる。結局、インフォームド・コンセントという「説明と納得」が十分に行われないために、治療のやりすぎの悲劇も、やらなさすぎの悲劇も起きてしまう。納得が大事なのだ。

別の手紙をいただいた。48歳の胃がんの患者が、ある地方のがんセンターで治療を受けた。その妻からの手紙だった。胃がんはステージ2。全摘手術を受けたが、縫合不全を起こし、再手術を行った。2ヵ月半、絶食に近い状態が続いた。やっと退院できたとき、頭痛を訴えたが、主治医に相手にされなかった。

患者や家族を納得させる必要

1カ月後、肝臓と肺と脳に転移があることがわかった。こういうことはまれにある。だが、患者が、頭が痛いから検査をしてほしいと言ったことに対し、主治医が、胃がんはそう簡単に脳に転移しないと取り合わなかった。これが患者や家族にとっての不信感になっている。医師は再発してしまえば、どうせ早く見つけても同じで、ほとんど助からないと考えてしまう。そのために発見が一歩、遅れてしまうことが多い。医師の中で無意識の選択が行われているのだ。患者側は、症状を何度も訴えたのに取り合ってもらえなかったと、心に傷が残ってしまう。この患者は、外科から内科に移った。内科の主治医は、「ぼくは余命については、たとえ聞かれてもお答えしません。なぜなら、余命というのはあくまで統計的な数値にすぎず、患者さんの経過はみんなそれぞれ違うのです」と言った。患者や家族は、この先生なら信頼できると思った。その胃がんの夫が、あとどれくらい生きられるかと聞いた。主治医はあっさりと、「あと3ヵ月」と答えた。妻は怒った。主治医に、「余命は言わないと言っていたのに、なぜ言ったのか」と聞いた。主治医の答えは、「ご主人はご自分の病状について楽観的に考えているようだったので、はっきり理解してもらうほうがいいと思ったから」。妻は、主治医が、あと3ヵ月くらいと伝えたいのならば、告知した後、できることはしますから一緒にがんばりましょう、と励ましてほしかったと思っている。患者や家族はわずかでも希望が欲しいのだと思う。結局、夫は3ヵ月も生きられず、1ヵ月後に亡くなった。悲しみの中で。夫は意識がなくなる直前、「この病院に殺されにきたようなものだ」と衝撃的な言葉を残したという。外科に入院しているとき、夫が落ちこんでしまった。担当してくれている若い医師に相談すると、「ぼくたちは病気の治療はできますが、心までは診ることはできない。精神科の先生に診てもらって」と言われた。夫も妻も、聞いてくれるだけで、少し楽になったのにと思った。相談しても、精神科へどうぞと言われてしまって、取りつく島もなかった。ときには精神科に受診させることが大事なことがある。その際はまず、よく聞いてあげてから、なぜ精神科を受診する必要があるのかを「納得」させてあげないといけないのだ。

病院の医療費を極端に抑制してきた結果、医療者側が心の余裕を失ってしまったためなのか。冷たい病院がある。「再発したがんは治りません。ここには緩和ケア病棟がないので、地元の病院かホスピスヘ移ってください」という事務的なことを言われた人もいる。困難の中に生きる人を丸ごと面倒をみてあげようなんて考えられなくなっている。

安心して死ねる病院が少ない

患者側は治らないのはしかたがないと思っている。治らないことを怒っているのではない。患者の心に寄り添ってくれる医師が欲しかったのだ。日本のがん治療におけるトップレベルの病院で、こういうことが起きている。がん診療連携拠点病院で「がん難民」を発生させているのだ。「なぜ、お医者さまたちは、患者や家族の感情を考えずに、自分の思ったことをストレートに言ったり、感情をそのままぶつけたりするのでしょう。医師としてよりも、まず人としての基本的なコミュニケーション能力が欠けているように思えてなりません」と、この方は言う。

厳しい進行したがんや再発したがんでも、手術をしよう、これから抗がん剤治療をしようというときには、どんなに淡い希望でも、希望が命を支えてくれる。でも、積極的治療をやめるとき、患者はとてもつらい。このときに精神的な支えが欲しいと言っているのだ。この方の手紙は、最後にこう結ばれている。「クオリティー・オブ・ライフという言葉がある。命の質とか、人生の質とか生活の質とかという意味だ。死と向き合う患者に対してはQOLだけではなく、クオリティー・オブ・デスということも考えてほしい」。「死の質」。人間にはいつか必ず死がやってくる。安心の中での、人生のしめくくりを望んでいるのだろう。安心して死ねる病院が日本では実に少ないという現実があるような気がする。医療におけるコミュニケーションの問題について、もう少し連載で掘り下げていきたいと思う。

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