[文化・宗教]

[共生の世界観 今こそ必要] 梅原猛の心(下)アイヌ文化、生命循環の思想、環境問題にも 朝日新聞「戦後60年を生きる」2006年1月28日
[疑いと直観で真実を知る] 梅原猛の心(上)怨霊史観、神道からはずれる靖国神社 朝日新聞「戦後60年を生きる」2006年1月27日
[「反時代的密語」何かが語っている] 梅原 猛 朝日新聞 2006年3月21日
[「反時代的密語」金田一理論の光と影]
 梅原 猛 朝日新聞 2006年2月21日
[「反時代的密語」二種廻向と親鷺] 梅原 猛 朝日新聞 2005年9月20日
[「反時代的密語」神は二度死んだ] 梅原 猛 朝日新聞 2004年5月18日

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[共生の世界観 今こそ必要] 梅原猛の心(下)アイヌ文化
生命循環の思想、環境問題にも
朝日新聞「戦後60年を生きる」2006年1月28日

「まだ大きな仕事が残っている。縄文文化の解明です」3月には81歳。が、知の冒険への意欲は衰えない。日本文化の基層には縄文文化があるとして、解明の手がかりをアイヌ文化に求めて研究に奮闘中だ。「縄文文化は約1万3千年前から約2千年前まで続いた狩猟採集を基盤とする文化。同じ狩猟採集生活を受け継いだアイヌ文化の中に縄文文化の名残があるはずだと考えたんです」

アイヌの古老の言い伝えに縄文文化の秘密を解く鍵があると言う。「アイヌのおばあちゃんかかめら、子供が死んだときは甕に入れ、逆さまにして家の前に埋めると聞いた。先祖が子供となってこの世に生まれ変わって来たばかりなのに、すぐにあの世に帰すのはかわいそうだ。もう一度お母さんの胎内に戻り、新たな子になって生まれてこいということだと。縄文時代にも同じ風習があったんです」

縄文の土偶の謎も、アイヌの古老の話で解けると言う。「妊婦が死ぬと胎児は閉じこめられてあの世へ行けない。いったん葬った後、墓をあばき、妊婦の腹を切って胎児を取り出し、妊婦に抱かせて葬るという。土偶を死んだ妊婦の像と考えると謎が解ける。土偶が異様な顔をしているのは死霊の顔を表しているのであり、腹には真一文字の傷がある。土偶は妊婦が死んだときに鎮魂のためいっしょに埋められたのでは」

さらに、「特に今夢中になっているのが、アイヌ語の研究」だそうだ。「日本語の基礎にアイヌ語があると考えています。アイヌ語で贈り物を意味する『ミヤンゲ』は、『土産』の語源と推測できる。このようにアイヌ語に類似した言葉が今も数多く残っている。日本語の7割ぐらいはアイヌ語をもとに説明がつくと思う。あと1年ぐらい研究を続け、本にまとめて発表したい」

梅原さんはアイヌの人々の世界観にも注目している。「アイヌの社会では熊を、おいしい肉と皮をミヤンゲとして人間の世界を訪れたマラプト(客人)と考えます。殺すときには、感謝を込めて丁重に、熊の魂をあの世に送る祭りをする。それにより、熊はまた再びこの世にやって来てくれる。死と再生を永遠に繰り返す思想です」こうした自然と共生し、生命の無限の循環を理想とする世界観が、環境破壊など近代文明がもたらした問題を解決する鍵になるという。「人類は、小麦農業と牧畜によって西洋文明、西洋哲学をつくり上げた。それは、人間が自然を支配する人間中心主義だった。科学によって世界を認識し、技術によって支配する。現代のすばらしい文明をつくりながら、一方で環境破壊などももたらした」

人類の長い歴史において、農耕、牧畜の文明はたかだか1万年なのに比べ、狩猟採集の時代ははるかに長いと強調する。「アイヌの人々のように、自然と共生していた狩猟採集時代の世界観に立ち返る必要がある。現代の技術文明をそういう世界観と結びつければ、環境問題の解決にも道筋がつき、人類は生き永らえることができるのではないでしょうか。そうした『人類の哲学』を書きたい」遠大な構想だが、ひるむ様子はない。「残された人生はどう頑張っても90歳ぐらいまででしょう。親鸞や富岡鉄斎は80歳から優れた仕事を成し遂げた。この2人を目標に挑みます」(池田洋一郎)

「人類はいかに生きるべきか、100年、200年後に伝わる思想を探求するのが哲学です」(写真の解説)

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[疑いと直観で真実を知る] 梅原猛の心(上)怨霊史観
神道からはずれる靖国神社
朝日新聞「戦後60年を生きる」2006年1月27日

 「負けると思っている戦争に行き、死ななければならない。死の理由を自らに納簿させるために哲学を学ぽうとしたんです」 仏教から古代史、民俗学、縄文文化などアカデミズムの枠を超えた独創的な研究を続けてきた国際日本文化研究センター顧間の梅原猛さん(80)。「私は常に哲学者」という出発点をそう語る。

「自らの頭で考え、西洋哲学と東洋思想を総合して独創的な思想体系を創造した西田幾多郎の哲学にひかれて」、1945年春、京都大哲学科に入学。が、直後に召集され軍隊へ。内地で敗戦を迎え復学した。「戦後の京大哲学科は、西洋哲学の研究だけすればよいというのが主流でした。もう一つは、西田や田辺元の哲学を絶対視してそれを祖述すればいいという流れ。私はどちらにも反対で、両方から疎外されました」そこから様々な思想遍歴が始まる。人間の情念の暗闇を見つめる実存主義にひかれ、ニーチェやハイデガーを読みふけった。「笑いの哲学」を構想し、研究のため大阪・道頓堀の寄席に通い詰めた。そして、空海の密教思想と出合い、仏教研究にのめり込む。60年代後半、仏教と文学の関係などを考察した『美と宗教の発見』『地獄の思想』といった著書を次々と発表する。

69年、大学紛争の中、教授を務めていた立命館大を辞め、浪人生活に入った。時に40歳代半ば。「突如として古代世界が私に取り愚いてきたんです」。古事記や日本書紀を読み始めた。後に「梅原古代学・日本学」と呼ばれる独特の論理の世界が築かれるきっかけだった。70年代初め、藤原不比等が、、大和の古い神々を出雲に流して、自分たちの神を奈良の春日大社にまつったとする『神々の流竄』、一族を殺害された聖徳太子の怨霊を鎮魂するために法隆寺は建てられたとした『隠された十字架』、歌聖柿本人麿は政府高官で流刑死したと説く『水底の歌』を次々と著し、ベストセラーに。学界の反発を呼び、論争も巻き起こした。

「私は哲学者だから、学界の常識にとらわれずに検証してみた。ソクラテスやデカルトから学んだ懐疑の精神と徹底した論理性を日本研究に応用したんです。哲学の元は無限の好奇心。しかし、ただ知るだけでなく、疑いと直観をもって真実を知ることが大切なんです」

「梅原古代学」の根幹には、「怨霊」という概念がある。この怨霊史観に基づき、梅原さんは首相の靖国神杜の公式参拝に反対し,続けてきた。「日本の神道は、自分たちが滅ぼした人々の怨霊を神としてまつり、鎮魂してきた。が、明治以後、日本は廃仏毀釈で神仏を排除し、国家を神とする新しい宗教を作ってしまった。それが靖国神社であり、そこには日本の侵略の犠牲となった中国や韓国などの人々はまつられていない。これは神道の伝統からはずれることであり、国際的に孤立せざるを得ない。首相が靖国に参拝するのはよくない」今、若い人に望むのは、新しい日本の理想を追求するために優れた先人に学ぶこと、と言う。「聖徳太子、人麿、空海、菅原道真、親鸞、世阿弥、千利休……。おおむね、流罪か死罪になって怨霊になった人が多い。怨霊にならんと超一級の人物にはなれんのです。僕? 僕は殺されるのはかなわんから、怨霊にはならなくても結構や」'(池田洋一郎)

「斬新な学説は多くが死後に評価される。死んでからが楽しみや」と語る梅原さん(写真の解説)

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[「反時代的密語」何かが語っている]
梅原 猛
朝日新聞 2006年3月21日

二年間ご愛読いただいた「反時代的密語」も今回で終わりになる。それゆえ私がなぜこの連載エッセーに「反時代的密語」という表題をつけたのかをここで語っておきたい。「反時代的密語」という言葉は「反時代的」と「密語」という二つの言葉から成るが、反時代的という思想を私はニーチェの著書『反時代的考察』から学び、密語という言葉を空海から学んだ。『反時代的考察』において、若きニーチェがもっとも厳しく批判した思想家は、当時ジャーナリズムの寵児であったヘーゲル左派のダーフィト・シュトラウスである。ニーチェの論争の原則は、そのとき栄えているもののその内面に時代の深い病気を宿している思想家を論争の相手として選び、しかも自分はその思想家よりはるかに無名で孤独であるということであった。

ニーチェは数を頼んで論争を挑むことを潔しとしない。真理だけを頼りにして孤独に闘えというのであろう。私はこのニーチェの思想にひかれ、若き日、あるいは小林秀雄に、あるいは丸山貞男に容赦ない批判を加えた。私は一時、彼らを尊敬していたものの、彼らの著書に大いなる退廃を感じたからである。無名の私が彼らを厳しく批判したことによって、その後払はさまざまな迫害を被ったが、このような暴挙と迫害なしに私は多くの著書を書き続けることはできなかったであろう。

世界に例をとれば、ソクラテスもイエス=キリストも孔子も釈迦も、日本に例をとれば、柿本人麻呂も菅原道真も世阿弥も千利休も、反時代的人間であったと思う。真の学問や芸術はその時代の権威の思想に反するものであり、それが容易に理解されるとは思われない。私の青年時代はちょうど戦争中であり、反戦論者の私はまったくの非時代的人間であった。また戦後、マルクス主義が全盛した時代にも私はそれを信じることができず、厳しく批判したために反時代的人間になり、今また蕩々たる右傾化の中で超時代的人間になろうとしている。

「密語」という言葉には、ひそかな言葉という意味とものがいっぱい詰まっている言葉という意味がある。思想家というものは、神仏といわれる何か偉大なるものがひそかに語る言葉を人々に伝える人間であろう。私はかつて、人が思いもよらなかった法隆寺=聖徳太子鎮魂説、柿本人麻呂=流罪刑死説、アイヌ文化=縄文文化継承説などを提出し、学界やマスコミ界を驚かせた。それらの説は最初、罵倒、冷笑、黙殺の対象であったが、今はそれらをまじめに検討しようとする学者も現れ始めたようである。

三月二十日、私は八十一歳の誕生日を迎えたが、老齢の私に今、かつて経験したことのないような重要で困難な学問的課題がふりかかってきた。それは前稿で少し語った日本語の起源の問題である。日本人が土着の縄文人と渡来した弥生人との混血によって形成されたことは自然人類学的に明らかであるが、その場合、言語がどうなるかが問題である。渡来した人間が土着人を征服して国をつくった場合、その渡来した人間が土着人より数が多いか、あるいは引き続き渡来が続くならば、言語は渡来人の言語になるが、そうでなければ土着人の言語になるというのが言語学の法則である。日本の場合は明らかに、渡来した弥生人に対して土着の縄文人のほうが数において多く、土着人の言語、すなわちアイヌ語に強く残る縄文語が主体になったと思われる。しかし渡来人が支配者になったので、文法は渡来人が使っていたと思われる古代朝鮮語的になったのではないかと考えざるを得ない。

このような仮説を整然たる体系をもつ学説にするのは困難きわまる仕事であるが、私に与えられた課題はそれだけではない。私は十年ほど前から、人類の哲学というものについての構想を練っている。今までの哲学は西洋という一つの文化圏の哲学にすぎず、しかもその哲学は今の世界の状況の中で限界を露呈し始めたと思う。しかし私は単に西洋哲学に対して東洋哲学あるいは日本哲学を主張しようとしているものではない。人類はかつてない滅亡の危機に直面している。その危機を免れるためには人類の文明を根本的に反省しなければならないであろう。

今までの哲学は、考察を農業時代の思想の考察から始める。しかし農業が始まったのは約一万三千年ほど前であり、約二十万年に及ぶ今の人類の歴史からみれば農業時代は甚だ短い。工業文明は明らかに農業文明を受け継ぐものであり、人類に甚だ豊かで便利な生活をもたらしたが、あるいは農業文明以後の歴史の道は人類の滅亡への道かもしれない。人類を末永く生き永らえさせるためには、人類の運命を狩猟採集時代にまでさかのぼって考える哲学が必要であると私は思う。私にどれだけの時間が残されているか分からないが、老残の身でこのような課題の追究に熱中できる人生は、何か偉大なるものに命じられ守られている幸福な人生であるとつくづく思う。(哲学者、題字も)

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[「反時代的密語」金田一理論の光と影]
梅原 猛
朝日新聞 2006年2月21日

横清正史の小説に登場する名探偵、金田一耕助ならぬ金田一京助はアイヌ文化研究を大成された大学者であるが、アイヌ語に関しても注目すべき新説を発表した。アイヌ語では、一人称には「ア」、二人称には「エ」などが用いられる。この「ア」や「エ」について、日本研究者のチェンバレンは人称代名詞であるといったが、金田一はそれを人称接辞であるとし、人称接辞を用いるアイヌ語は、ヨーロッパ語が属する屈折語、中国語などが属する孤立語、朝鮮語、日本語が属する膠着語ではなく、アメリカインディアンの言語と同じ抱合語であると断定した。

彼は、アイヌの人は白人であるという通説を信じていたので、アイヌの人は人種的にも日本人とはまったく関係がなく、アイヌ語も日本語とはまったく異なる言語であると結論づけた。アイヌの人の血を受けた知里真志保は、アイヌ文化及びアイヌ語研究に関するめざましい業績を残したが、師、金田一のこの説については批判を加えなかった。したがってこの説は今でも定説としてまかり通っている。

しかし私は、この説は明らかに間違っていると思う。その後の考古学の発展によって、日本の基層文化が縄文文化であり、アイヌ文化は縄文文化を継承する文化であることが明らかになった。また埴原和郎などの自然人類学者は、アイヌの人は人種的に白人ではなく縄文人の末喬であり、一方、和人は縄文人と弥生人の混血であることを明らかにした。とすれば、アイヌ語は多分に縄文語を残す言語であり、いわゆる日本語は、縄文語と、渡来した弥生人が使っていた言語の混合語である可能性が高いことになる。

言語においてもっとも変わらない言葉の一つは日常的によく使われる動詞であると思う。アイヌ研究の開拓者、バチェラーの辞書からアイヌ語の動詞を列挙してみよう。アン(有ル)→ある(有る)、オロ(入ッテアル)→おる(居る)、エ(食スル)→えさ、えもの、ク(飲ム)→くう(食う)、エク(来ル)→いく(行く)、アリキ(エクの複数形)→あるく(歩く)、クル(近ヅク)→くる(来る)、アラパレ(行カシム)→あらわれる(現れる)、イキ(得ル、為ス)→いきる(生きる)、シニ(休ム)→しぬ(死ぬ)、コレ(与フ)→くれる、ウク(取ル)→うく(受く)、マカン(退却スル)→まける、サン(下ガル)→さがる(下がる)、ウシ(消エル)→うす、うしなう、ウツルアン(減ズル)→うつる(移る)、クタ(クダス、棄テル)→くだす、カル(為ス)→かる(刈る、駆る)、キル(転覆スル)→きる(斬る)、タタ(キル)→たたく

このようにみると、アイヌ語の動詞はほとんど日本語に受け継がれており、日本語の動詞はアイヌ語起源で説明できることが分かる。「来る」を表す「エク」が「行く」に、「飲む」を表す「ク」が「食う」に意味を変える例もあるが、それは長い歴史を考えれば当然であろう。他の品詞についても同じようなことがいえるが、興味深いのは助詞である。なぜなら朝鮮語や日本語が属する膠着語は「てにをは」といわれる助詞が発達した言語であるのに対して、アイヌ語においては助詞があまり発達していないからである。私は、日本語の代表的な格助詞である「を(お)」及び「へ」について、次のように考える。たとえば「京都を発って東京へ行く」というとき、アイヌ語では「オ京都、エ東京」という。「オ」はお尻あるいは性器を指し、「エ」は頭あるいは顔を指す。つまり京都に尻を向けて東京へ顔を向けるという意味である。ところがこのような言葉が古代朝鮮語を話したと思われる弥生人によって使われるとき、この語頭にあった「オ」「エ」が語尾の位置に下り、助詞「を」及び「へ」になったと私は考える。また朝鮮語にはR音で始まる言葉が存在しないので、渡来した弥生人はR音で始まる言葉を話せなかったのであろう。それゆえ他の音で始まるアイヌ語の言葉にはそれに対応する古代日本語があるのに対し、R音で始まる言葉にはそれがない。この二つのことは、抱合語であった縄文語が弥生人に使われることによって膠着語になり、古代日本語になったことを物語る。

物書きとして私は「そうであるのである」という言葉の使い方をするが、アイヌ語では文章の末尾に「ルエネ」すなわち「まさにそうである」という言葉が甚だ多く使われる。また私は妻をよぶときに「オーイ」というが、妻は私を「オーイ」とはよばない。アイヌ語で「オーイ」というのは悪霊を脅す言葉で、男性によってのみ使われるという。その他「みやげ」「まろうど」「みじめ」「しっかり」「しんどい」「ちゃらんぽらん」などのような日本語では由来を説明できない言葉も、アイヌ語で容易に説明される。アイヌ語が日本語の祖語、縄文語を残す言語であることは間違いない。そのような言語をまったくの異言語としてほぼ絶滅させてしまった近代日本の罪は大きい。(哲学者、題字も)

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[「反時代的密語」二種廻向と親鷺]
梅原 猛
朝日新聞 2005年9月20日

今では親鸞といえば『歎異抄』を思い出すほど『歎異抄』は有名になったが、この書物は長い間、西本願寺の書庫に眠っていて、それが宗門の学者たちの注意を引くようになったのは、古文辞学や国学の影響を受けて古典の文献的研究が盛んになった江戸時代中期であり、その著者を唯円としたのは、『歎異鈔聞記』を書いた妙音院了祥であった。しかし『歎異抄』が一般の人に知られるようになったのは明治末期であり、それはひとえに近代真宗学の開拓者というべき清沢満之と彼の弟子、暁烏敏、佐々木月樵、金子大栄などのおかげである。清沢満之は『歎異抄』をエピクテクスの語録とともに座右の書としたが、彼の著書『宗教哲学骸骨』などには『歎異抄』についての言及はほとんどない。

唯円は親鸞の高弟であり、親鸞の死の約三十年後、親鸞の教えが誤って伝えられるのを嘆いてこの書を書いたという。そこには稀代の宗教者親鸞の行動と言葉がみごとに語られ、読む者に感動を与えざるを得ない。『歎異抄』の第三章に「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉がある。自力作善の人でない、自力では生死を離れることのできない煩悩具足の悪人のために極楽往生の教えを説いたと親鸞はいう。これがいわゆる悪人正機説であるが、清沢満之の弟子たちは相次いで『歎異抄』の注釈書を書き、悪人正機説を中心に親鸞の思想を解釈した。この思想が倉田百三、三木清、丹羽文雄、野間宏などの作家及び学者の親鸞礼讃者を生み、『歎異抄』は日本人にもっとも親しまれる宗教的古典となった。

私は過去何十回と『歎異抄』を読み、その注釈書も書いた。しかし最近、親鸞をもっぱら『歎異抄』で解釈し、悪人正機説を親鸞思想の中心におくことは親鸞思想の誤解ではないかと考えざるを得なくなった。親鸞の思想を正しくとらえるには、彼の弟子の著書ではなく親鸞の著書、特に彼が心魂込めて書いた主著『数行信証』に依らなければならない。たしかに『数行信証』の信の巻には悪人正機説のもとをなす悪の自覚について語られている。そこで彼は彼自身を、自分の親を殺したアジャセ王に比している。親鸞が親殺しをしたとは思えないが、それは人間の根源にある悪を見つめる親鸞の眼の異常な深さを物語るものであろう。

次の証の巻で、親鸞は二種廻向の説を説く。法蔵菩薩は難行苦行をし、四十八の願を立てて阿弥陀仏になり、その広大な善行を人間に廻向した。廻向には二種がある。一種は、どのような悪人でも口称念仏をすれば必ず極楽浄土へ往生するという廻向、往相廻向で一ある。もう一種は、極楽浄土に行った人間がまた衆生救済のためにこの世に帰るという廻向、還相廻向である。この二種廻向がはっきり語られている経典は天親の『浄土論』と曇鸞の『浄土論註』である。天親によれば、極楽には五つの門があるという。極楽へ行き、(一)まず阿弥陀仏に礼拝し、(二)次に阿弥陀仏の徳を讃嘆する。(三)次に自分も仏になることを願う。(四)そして遍く世の中を観察する。このように世の中を観察すると、阿弥陀仏の世界のすばらしさと同時にこの世で悩める人間の姿もみえてくる。とすれば、(五)悩める衆生を救うためにまたこの世に帰らざるを得ない。仏教は利他の教えであるので、念仏者はいつまでも極楽浄土にとどまることができない。この二種廻向の説は法然の説でもあるが、法然の主著『選択本願念仏集』ではほとんど語られていない。しかし流罪になった親鸞は天親の「親」と曇鸞の「鸞」をとって自己の名としたが、そのときすでに「もっぱら善導に依る」という法然とはひと味違った浄土思想をもっていたのであろう。

近代真宗学はこの二種廻向の説をほとんど説かない。それは当然ともいえる。なぜなら、科学を信じる近代人にとって、死後、浄土へ行くというのは幻想であり、その浄土からまた帰ってくるというのは幻想の上にまた幻想を重ねるようなものと思われるからである。しかし念仏すれば浄土へ行き、またこの世へ帰り、また念仏すればあの世へ行き、またまたこの世へ帰るというのは、人間は生と死の間を永遠の旅をするという思想である。この思想は、個人としての人間を主体にして考える場合、幻想にすぎないかもしれないが、遺伝子を主体にして考える場合、必ずしも幻想とはいえない。遺伝子が生まれ変わり死に変わりして永遠の旅をしているという思想こそ、現代生物学が明らかにした科学的真理なのである。われわれの現在の生命の中には永遠といってもよい何十億年という地球の歴史が宿っているのである。悪人正機説に甘える近代真宗学には、永遠性の自覚と利他行の実践の思想が欠如しているように思われる。二種廻向の説を中心として近代を超えるの真宗学を樹立することが切に望まれる。(哲学者、題字も)

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[「反時代的密語」神は二度死んだ]
梅原 猛
朝日新聞 2004年5月18日

二ーチエは、西洋の近代を神の死の時代と考えた。「神は死んだ。いや人間が神を殺したのだ」とニーチェはいった。ドストエフスキーもニーチェと同じような思想をもち、西洋の道徳がキリスト教を土台にしていたとすれば、神の死すなわち宗教の否定は道徳の否定になると考えた。そのような宗教と道徳を否定した人間の例が、彼の小説『罪と罰』における何の理由もなく老婆を殺害したラスコリニコフであり、『カラマーゾフの兄弟』における間接的に父フョードルを殺害したイワンである。ドストエフスキーは彼らのような神なき人間に満足せず、『カラマーゾフの兄弟』において天使の如き無垢な宗教性の所有者、アリョーシャの活躍を書く予定をしていたのに、それが書けずに死んだ。私は、これは偶然ではなく必然であると思う。神なき時代の人間の不幸は書けても、神を取り戻した人間の至福は近代人ドストエフスキーには書けなかったであろう。

最近日本でも、動機が金銭の強奪や嫉妬、怨恨ではなく、殺人のための殺人というべきものが起こっている。私は若き日、ニーチェやドストエフスキーのこの思想に深く影響されたが、日本における神殺しについては何らの認識ももっていなかった。しかし日本のことを研究すること五十年にして、最近やっと日本における神殺しの実態を理解することができるようになった。近代日本において神殺しは二度にわたって行われた。近代日本が最初にとった宗教政策、廃仏殿釈が一度目の神殺しであった。それは、仏教が明治維新という大事業を行うために何の役にも立てず、国学者及び水戸学者が唱えた尊皇嬢夷思想が倒幕のイデオロギーになり、彼らが明治政府の中心部に入ったことによって起こった。そこで殺されたのは仏ばかりではない。神もまた殺されたのである。外来の仏と土着の神を共存させたのは主として修験道であるが、この修験道が廃仏殿釈によって禁止され、何万といた修験者が職を失った。この従来の日本を支配した神仏を完全に否定することは、近代日本をつくるために必要欠くべからざることと思われたからであけいもうる。福沢諭吉のような啓蒙思想家などもこの神々の殺害を手助けしていたことは否定できない。

そして明治政府はこのように伝統的な神仏をすべて殺した後にただ一種の神々のみを残し、その神々への強い信仰を強要した。それは天皇という理人神と、アマテラスオオミカミをはじめとする現入神のご祖先に対する信仰であった。主として薩長によってつくられた明治政府が天皇を神としなければならなかったのは、一つには、先祖が神君として日光東照宮に祀られる徳川氏を倒すためには神君以上の神が必要であったからであろうが、もう一つには、そのような現入神という中心点をつくることによって、後進国日本が国民の全エネルギーを結集して一日も早く欧米諸国に追いつくためでもあった。

この現入神への信仰にもとづいて作られたのが、教育勅語という新しい道徳であった。教育勅語を起草したのは水戸学者、元田永孚であるが、教育勅語にはかつての仏教や神道の道徳はほとんど含まれず、現入神への信仰のもとに、儒教道徳に近代道徳を加えたものが羅列されたにすぎない。このような道徳のもとに日本は西洋諸国に追いつき、その挙げ句、アメリカ、イギリスという世界の強国に対してあえて戦争を仕掛け、手痛い敗戦を経験した。この敗戦によって新しい神道も否定された。現入神そのものが、実は自分は神ではなく人間であると宣言されたことによって、この神も死んだ。三島由紀美はこの神の死を嘆き、身をもってその神に殉ずるという悲惨で滑稽な劇で彼の人生の幕を下ろした。三島が第二の神の死のみではなく第一の神の死にも目を向けてくれていたならば、彼はドストエフスキー並みの作家になれたかもしれないと惜しまれる。

このように考えると、日本は西洋よりもっと徹底的に神仏の殺害を行ったことになる。この神仏の殺害の報いは今徐々に表れているが、以後百年、二百年経つと決定的になるであろう。道徳を失っているのは動機なき殺人を行う青少年のみではない。政治家も官僚も学者も芸術家も宗教心をさらさらもたず、道徳すらほとんど失いかけているのである。政治家や官僚が恥ずべき犯罪を行い、学者、芸術家も日々荒廃していく世の動きに何らの批判も行わず、唯々諾々とその時代の流れの中に身を任せているのは道徳の崩壊といわねばなるまい。最近、そのような道徳の崩壊を憂えて、日本の伝統である教育勅語に帰れという声が高まっている。しかし教育勅語はあの第一の神の殺害の後に作られたもので、伝統精神の上ではなくむしろ伝統の破壊の精神の上に立っている。私は、小泉八雲が口をきわめて礼讃した日本入の精神の美しさを取り戻すには、第一の神の殺害以前の日本人の道徳を取り戻さねばならないと思う。(哲学者、題字も)

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