広島県保険医新聞 私が企画した市民公開講演会

「輸入野菜の安全性は・・」食品ジャーナリスト・内田正幸さん2002年9月10日(第316号)
「市民公開講演会「患者の権利と患者中心の医療」NPO法人患者の権利オンブズマン理事長・池永満さん
「臓器移植から学ぶことー人工透析から腎移植へ」田中信一郎先生1999年9月10日(第280号)
「笑いとガン」コロムビア・ライト氏1998年9月10日(第268号)
「ホロコーストと私」大塚 信さん1997年8月10日
「いま、家族の時代」野田大燈氏1996年9月10日(第244号)
「今を生きる、生きがい療法とその周辺」柴田高志先生1995年6月1日(福山)
「今を生きる、生きがい療法とその周辺」柴田高志先生1995年2月1日(広島)

生き方の指針となる言葉 心に残る言葉 活動 考え方
→見出しページへ


「輸入野菜の安全性は・・」
食品ジャーナリスト・内田正幸さん2002年9月10日(第316号)

食品ジャーナリストの内田正幸さんの講演は、1)日本に輸入される野菜はどこから来るのか?、2)輸入野菜は安全か?(農薬)、a)中国産野菜の相次ぐ違反、b)日本の検査体制はどうなっているのか?、c)違反品でも食卓にのぼる!!、3)輸入野菜は安全か?(重金属)、4)輸入食品の問題点(食品添加物から遺伝子組み換え食品まで、というレジメに添って行われた。安全性を犠牲にしてでも安い食品を輸入している我が国の食料自給率は40%という異常な低さになっていて、容易に食料危機に陥る可能性がある。安全性を確保し、食料自給率をあげることができるかどうかは、「いかに買うか」ということに尽きるようだ。規制緩和のかけ声で安全基準を引き下げ、運搬のための多大なエネルギー消費で環境破壊をもたらしながら大量に輸入される安い食品を買わないことから始めなければいけない。そのためには産地表示などの情報公開をきちんと行わせることが必要であり、消費者が少々高くても地域でとれたものを食べる「地産地消」という行動をとれば、企業や業者も危険で安い輸入食品を扱わなくなるはずである。インスタント食品やファーストフード、冷凍食品などを避けて、地域でとれた旬のものを食べれば健康にも良いはずである。あらゆる分野で大量生産・大量消費の時代に終わりを告げなければならないことを改めて感じさせられた講演だった。

→見出しページへ


市民公開講演会「患者の権利と患者中心の医療」
『自分で決める能力を養うための患者教育が大切』

NPO法人患者の権利オンブズマン理事長 池永 満
広島県保険医新聞 2001年9月10日(第304号)

キーワード
患者の自己決定権:患者中心の医療
患者の権利:インフォームド・コンセントの権利とプライバシー権

講師の池永弁護士は一貫して患者の権利に取り組んできた方で、「NPO法人患者の権利オンブズマン」という組織を作って活動している。苦情を抱いた患者や家族が自ら直接苦情の相手方である医師なり医療機関との対話の中で問題点を打開し、苦情を解決し、システムを改善していくという考え方で「自立支援による相談活動」を行っている。医療機関も問題点を解明して解決すれば、その苦情を契機に自分たちのシステムの質が改善され、患者との信頼関係も強化されるので、苦情から学ぶ医療システムともいわれ非常に重要なやり方である。インフォームド・コンセントの権利とプライバシー権の二つの患者の権利を活動や話し合いの基準にしていて、自分の権利が尊重されていない時にはいつでも苦情を申し立てできる「苦情調査申し立て権」に基づいてアドバイスしたり、調査をしたり、一定の意見を出したりするのが患者の権利オンブズマンである。

インフォームド・コンセントというのは医療機関が提案するものについて同意することだけではなく、選択、拒否という内容を含むことが原則である。医者は今の状態を正確に伝えた上で、自分が提案する治療方法についてのメリットとデメリットおよび危険性、代替の方法、何もしない場合と最低でも三つのものを伝えて最終的には患者自身が決める。インフォームド・コンセントの主体は医師ではなく患者である。インフォームド・コンセント原則は患者の権利を守るためにも、安全な医療を受けるためにも、自分の命を守るためにも、非常に大きな役割を果たそうとしている。インフォームド・コンセントの問題は、医師や専門家の保護主義から患者自身の自己決定権へと大きく変わる中で起きてきている。

カルテ開示やプライバシー権は、コンピューター社会、情報化社会へと社会構造が変化する中で、プライバシーを守るために「自己情報コントロール権」という個人情報を患者自身のコントロール下に置くという考え方に基づいている。患者はいつでもカルテの記録にアクセスでき、間違いがあれば訂正を要求できる権利が確認されてきた。すべては患者の自己決定権に基づいているのだが、人生の終末期のことも含めて自分自身が決定できる能力を患者自身が身につけていくことが大事である。

→見出しページへ


「臓器移植から学ぶことー人工透析から腎移植へ」
国立岡山病院第二外科医長 田中信一郎先生
広島県保険医新聞 1999年9月10日(第280号)

梅雨明けの猛暑の日曜日に、臓器移植についてのお話しを聴いた。田中先生は日本腎臓移植ネットワーク中国四国ブロックセンター事務局長をしておられ、第一線の腎移植医として活躍している。先生は、(1)臓器移植・・・どの様な幸せが待っているのでしょうか?(2)臓器移植の現状はどうなっているのでしょうか?どのくらい移植は行われているのでしょうか?(3)臓器移植推進の課題は何なのでしょうか?脳死とは?臓器移植法の問題点は?(4)臓器移植から学ぶことは何なんでしょうか?というレジメにそって話された。

講演の最初のスライドは腎移植を受けて元気になり、子供を二人産んだ女性の幸せそうな写真であった。人工透析から開放され、子供も産めるという移植医療の画期的な成果である。しかし、臓器移植法施行後の脳死移植は全国でまだ4例しか行われておらず、昨年中国四国ブロックでの20人の提供者からの腎移植はすべて心停止後の死体腎移植であった。これに対して腎移植希望の登録者数は中国四国ブロックで現在1162人いて、これは透析患者の8%にあたる。移植希望者の2%にも満たない人しか移植を受けられないことになる。

日本で脳死移植が普及しなかった理由として、死体を傷つけたくない、脳死が受け入れられないという日本人の心情と、医療に対する不信感があげられるが、脳幹の機能が残っている植物状態と蘇生限界を越えて回復の見込みのない全脳の死である脳死が混同されていることも大きな理由である。また現在の臓器移植法では本人と家族の意志に基づく脳死移植しか認めれておらず、15歳未満は対象とされていないので、日本では小児に対する心臓移植は不可能である。

たとえ本人の意志表示があり治療の限界を越えて回復の見込みが無くなったとしても、家族が治療の継続を望めばそのまま治療を行う。大切な人の死(特に突然の死)に直面したとき、家族は混乱し、死が信じられず、回復を期待し、場合によっては医療者側に対する不信感を持つこともある。これらの過程を克服し、大切な人の死を受容できた家族に対してはじめて、本人が何を望んでいたか、本人の希望をかなえるために何かできることはないか、ということを主治医が話すことが可能となる。そして家族も臓器提供を望めば、コーディネーターが派遣されて臓器提供についてさらに詳しい説明がなされる。決して臓器提供を催促したり、臓器提供を前提とした医療を行ったりはしない。

講演後、会場からの質問を受けていただいた。臓器移植における費用の問題(提供者側に経済的負担は無い)、死体腎移植における具体的な手順(本人や家族の意志を尊重して慎重に対応するので、決して無理をしたり強要したりはしない、具体的な手順についても話された)、免疫抑制剤の必要性(一生必要であるが、提供者と受ける側との相性にもよる)、妊娠の問題(危険性はあるが可能である)、移植された臓器の細胞は自分の細胞に置き代わるか?(置き代わらない)、移植コーディネーターの資格について(国家資格はないので、学会として養成している)、生体腎移植の場合の提供者の危険性は?(やはりある程度の危険性があるので気を使う)、何歳まで提供できるか?(個人差が大きいが70歳位まで)、指定病院以外では提供できないのか?(脳死移植場合はできない)、指定病院に移すことはできるのか?(移植のためだけに移すことはしない)、臓器移植は人の寿命を操作することになるのではないか?(個人の考えや宗教観によるが、時代と共に変化する)、などの質問がなされた。最後に、田中先生に腎移植手術をしてもらった人から、移植した腎臓が働いて初めて尿が出たときの感動をまじえた経験談を聴いて閉会とした。

→見出しページへ


「笑いとガン」
あゆみの箱理事長 コロムビア・ライト氏(市民公開講演会・福山)
広島県保険医新聞 1998年月日(第268号)

7月26日(日曜日)、福山グランドホテルで約180名の方々の参加を得て、ガン撲滅と禁煙をテーマにした漫才や講演を展開しているコロムビア・ライトさんのお話しを聴いた。ライトさんは、平成三年に喉頭ガンで、声帯摘出手術を受け、お笑い芸人の命ともいえる声を失った。もちろん悩んだ末の決断であり、医師と現代医学に対する信頼に基づいた決断だった。「声は失っても命は助かる、命が助かれば、声を出す方法はある」という、経験豊富で自信に満ちた医師の説得で、ライトさんは手術を受けた。手術後も「病気はあなたがなおすのです」といって、抗癌剤などは使わず、日常の健康法などを指導した主治医の言葉に従い、自分で治すという強い信念と実行力と家族の協力に支えられて、ライトさんはガンを克服した。

声帯を失った今、ライトさんは「食道発声」という方法で話しをする。大変困難な発声方法で、何年たっても「ア!」という声が出せない人もいるという。しゃべることが仕事のライトさんは、努力と工夫と奥さんの叱咤激励で、ゲップで声を出す方法を身に付けた。誰にでもできることではないかもしれないが、ガン患者の方々を激励し、禁煙とガン撲滅の活動を続けるライトさんの考え方と生き方を学びたい。まずライトさんは、インテリであり、人から学び自分で実行する努力家である。納得できれば、前向きにどんどん前進する。話す姿勢も背筋を延ばして常に前を見据えている。何事もプラス思考である。コップに残った水を見て、「もうこれだけしかない」ではなくて、「まだ、これだけ残っている」と考える。そして「がんばれば、必ずできる」という信念で努力する。ライトさんの子供さんたちは、東大、早稲田、慶應をでている。大切なのは母親の「躾け」と強調する。

時々コップの水で「のど」ならぬ「食道」を潤し、会場を歩き回りながら、ユーモア一杯にからだの底から搾り出すようなゲップの声で、リミットの一時間近くの講演であった。「福山で寄席をしましょう」という嬉しい約束をしてくれ、会場の出口では一人一人に笑顔一杯に両手で握手をしてくれた。まだ梅雨空の日曜日であったが、「心に太陽を、唇に言葉を、社会に笑ひを、人生まず健康です!」というモットーと、感動とさわやかさ残してライトさんは新幹線で帰っていった。

→見出しページへ


「いま、家族の時代」
喝破道場理事長 野田大燈氏(市民公開講演会・福山)
広島県保険医新聞 1996年9月10日(第244号)

お盆前の8月11日(日曜日)、福山グランドホテルで約80名の方々の参加を得て、脱サラの青年僧のお話しを聴いた。野田氏は、四国高松の五色台の山麓で、醤油樽を住居とし、廃品利用のバスを禅道場として、禅僧の第一歩を踏み出した。自然の中で、坐禅と開墾の自給自足の生活を、反社会的・非社会的行動の青少年とともに送る毎日であった。

強い信念と実行力と多くの理解者の協力に支えられて、青少年錬成施設喝破道場と禅寺報四恩精舎(永平寺の末寺)は人々の心のよりどころとなり、施設も整備された。その活動は、社会にも認められて、正力松太郎賞を受賞し、国の認可した情緒障害児短期治療施設「若竹園」(全国初の仏教関係の不登校児施設)の開設となった。

野田氏は、講演の中で家庭教育の重要性を強調した。今も昔も、子供は変わってはいないが、環境が大きく変化した。子供には素晴らしい適応力があり、環境によってどのようにでもなるが、子供を取り巻く環境は、決して良くない。世の中は、「不足が不足」し、物が溢れる飽食の時代であり、心の飢餓の時代である。家庭では、核家族化と少子化が進み、親は過保護、過干渉となり子供達は、漫画やテレビにさらされ過ぎており、家庭でのルールが確立されていない。すべては子供達に対する親の教育と接しかたの問題である。

幼児教育で大切なことは、善悪を繰り返し繰り返し教える「躾け」である。人間には、快楽を求める本能がありそれを制御する理性を培うのは教育「躾け」である。持て余して育てたのでは、子供達は自立できない。家庭の機能は、(一)子供の保護、(二)憩いの場所、(三)躾けの場所である。苦楽相半ばし、思い通りに行かない「娑婆」世界にうまく適応し、人間として生まれた目的(天職)に目覚めた人は幸せである。お盆の時期に、多くの方々とともに、「生きる」ということについて学ぶことができ、大変有意義な一日でした。最後に、喝破道場で、毎日、朝食の時に皆で唱和する五つの指針を紹介しておく。

「喝破五訓」 
一、よろこんで与える人間となろう。  
一、いのちを大切にする人間となろう。 
一、心静かに考える人間となろう。   
一、使命に生きる人間となろう。    
一、規律ある幸せよろこぶ人間となろう。

→見出しページへ


「今を生きる、生きがい療法とその周辺」
健康教育は実践してこそ意義がある
生きがい療法の五つの指針

倉敷市柴田病院院長 柴田高志先生(市民公開講演会・福山)
広島県保険医新聞 1995年6月1日(228号)

広島の総会での記念講演が大変好評でしたので、再び福山で柴田先生に講演をお願い致しました。この日は、雨模様の母の日となりましたが、多くの方々の参加を得て、「生きる」ということについて共に学ぶことができ、大変有意義な一日でした。

地域医療一筋に歩んで来た先生は、まさに現代の「赤ひげ」と言えるでしょう。医師になるとすぐ瀬戸内の小さな漁師町に診療所を開き、病人の治療は勿論のこと、乳幼児の健康増進から成人病の予防、老人のリハビリまで、保健・福祉・医療の指導者として「一日48時間労働」の献身的な活動でした。

病院と保育所と老人ホームを作り、20年をかけた「地域包括医療」の完成を目前にして先生は癌に倒れましたが、地域医療への並々ならぬ情熱で、癌を克服したのです。先生は地域に密着した医療者としての体験と、癌と闘い三回の手術を克服した闘病者としての体験から学んだ多くのことを生かし人生晩期の生活の場を提供するために柴田病院を開設しました。

そこでは、苦痛を取ってあげること、喜びや感動を与えてあげること、不満や不自由を支えてあげること、老いや死の受容を助けてあげることなどを目標として、医療と福祉と宗教を一体化した活動が行なわれています。

また、柴田病院で癌の治療として取り組んでいる「生きがい療法」は、(一)自分が自分の主治医のつもりでガンと闘っていく(二)今日一日の生きる目標に打ち込んで生きる、(三)人のためになることを実践する、(四)死の不安、恐怖と共存する訓練に取り組む、(五)死を自然界の事実として理解し、もしもの場合の建設的準備をしておく、という五つの指針を実践しようとする生き方のトレーニング法です。モンブラン登山などですでに多くの実績を積んでいますが、常に感謝の気持ちを持ち、前向きに今日一日を大切に、まさに「今を生きる」という気持ちで生きるということです。

先生は、終始一貫して「患者様」という言葉を使われました。「ゆりかごから墓場まで」の夢を追って、福祉と医療の融合を手掛け、「患者様の立場にたった、患者様本位の医療」を追及してこられた先生ならではの自然な言葉でした。

→見出しページへ


共感を呼んだ第19回定期総会記念講演
「今を生きる、生きがい療法とその周辺」
倉敷市柴田病院院長 柴田高志先生
広島県保険医新聞 1995年2月1日(第224号)

超満員の聴衆を前に、柴田先生は静かに、話を始められました。命とか心を無視して、人間を部品の集合体とみなす現代医学に対して、地域医療と老人医療一筋に歩んでこられた先生は、血のかよった優しい医療を目指しておられます。先生は終始一貫して「患者様」という言葉を使われました。それは「ゆりかごから墓場まで」の夢を追って、福祉と医療の融合を手掛け、「患者様の立場にたった、患者様本位の医療」を追及してこられた先生ならではの自然な言葉でした。

講演の前半は、瀬戸内の小さな漁師町で、乳幼児から老人まで、健康指導から衛生指導まで、孤軍奮闘の診療の合間に、大学病院に出かけて顕微鏡を覗くというクローニンの世界を彷彿とさせる診療所生活のお話しでした。この時期、先生は多くの死に出会い医療者としての死生観を培われました。地域包括医療の仕上げとして保育所と老人ホームを作られましたが、その完成を目前にして自らの癌細胞を確認した先生は、三回の手術を克服して生還されました。先生ご自身の癌患者としての体験が、病める人の心を理解し、病める人の側から見た医療・福祉の実現への情熱をさらに強いものにしたと思われます。先生は二十年間の地域医療への努力の結晶である診療所と保育所と老人ホームを地元の人に委ねて、医療と福祉が一体となった医療活動を起こすために、現在の病院を開設され、癌などの難病にたいする生きがい療法を目指していた伊丹仁朗先生と協力して新たな夢の実現へと出発されたのでした。

後半は、生きがい療法を中心に、心の持ち方や宗教心の大切さを話されました。生きがい療法は、神経症の治療法の一つである森田療法を基本に、精神神経免疫学を論拠として、(一)自分が自分の主治医のつもりでガンと闘っていく、(二)今日一日の生きる目標に打ち込んで生きる、(三)人のためになることを実践する、(四)死の不安、恐怖と共存する訓練に取り組む、(五)死を自然界の事実として理解し、もしもの場合の建設的準備をしておく、という五つの指針を実践しようとする生き方のトレーニング法です。モンブラン登山などですでに多くの実績を積んでいますが、常に感謝の気持ちと宗教心を持ち、積極的・前向きに、今日一日を大切に、まさに今を生きるという気持ちで生きるということを強調されました。先生は福祉というものを「日常生活の不自由を支えてあげて、より人間らしい生き方で心安らかな日々を送ることが出来るようにするもの」ととらえ、柴田病院での老人医療の場で実践されています。先生の生き方は、常により良い医療を目指して活動を続けてきた保険医協会の生き方そのものであり、先生の講演は、我々に大きな勇気と励ましを与えてくれるものでした。

→見出しページへ