[死は散文的にやってくる]

「弱者の視点で映画再現芸」ボードビリアン マルセ太郎さん 毎日新聞「悼」2001年3月27日
「『本物』しのいだ表現力」ボードビリアン マルセ太郎さん 朝日新聞「惜別」欄 2001年2月7日
「笑いと感動 ありがとう」村田千晴さん(真酒亭)2001年1月31日 北日本新聞
「芸人魂 命の限り」西日本新聞コラム「春秋」2001年1月28日
「"芸人魂"命の限り」マルセ太郎、最後の福岡公演 毎日新聞(夕刊)2000年11月11日
「奇跡は奇跡的には起きない」マルセ中毒の会 広島・福山病棟 数野 博 2000年11月18日
「記憶は弱者にある 」辛淑玉 (シンスゴ)さん 週間金曜日より転載 348号 1/26
「芸人マルセ太郎さんをしのぶ」藤井康広さん、マルセ中毒の会メイリングリストより 2001年1月25日
「信念転じて笑いとなす」マルセ太郎さんを悼む 2001年1月24日 朝日新聞掲載
「とても無念です」昨年入院中のマルセさんを見舞ってアフタヌーンティーで話した人 2001年1月23日
「マルセ太郎さん死去」独自の話芸、ボードビリアン 2001年1月23日 朝日新聞掲載
「マルセ太郎のこと」 野田 泰弘 高津高校5期生の前のホームページ

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「弱者の視点で映画再現芸」
ボードビリアン マルセ太郎さん 1月22日死去 67歳
毎日新聞「悼」2001年3月27日

「スクリーンのない映画館」と呼ばれた映画再現芸の迫力は、小空間で実際に接してみないと、よく分からない。例えば、シリーズ第1作となった小栗康平監督の「泥の河」など、マルセ太郎さんの気迫ある話芸の方が、映画をしのぎ、原作を超えるのではないか、とさえ思わせた。単なる映画の内容紹介でなく、現代を見据え、マルセさん自身の生き方を真っ向からぶつけながら、作品の時代背景を説明し、子役の一人一人まできっちり演じ分けた。鋭い観察眼による批判精神が、マルセさんの笑いの根底にある。映画再現芸が誕生したのも、昼間に見た映画「瀬戸内少年野球団」で戦後描写のごまかしが許せず、夜のライブで「泥の河」と比較しながら、詳細に批判したのが、きっかけとなっている。

1933年、在日朝鮮人2世として大阪に生まれ育った。80年代前半に日本国籍を取って「金原正周」となるが、「在日」としての民族自覚は、精神的なバックボーンとなった。好んで書く言葉に、「記憶は弱者にあり」。過去の記憶を強者はすぐに忘れるけれど、被害を受けた弱者は忘れず歴史に学ぶ。マルセさんの話芸や喜劇は弱者からの視点が貫かれている。代わりに、権力者や体制への風刺は、手加減がなかった。影響を受けた思想家に三木清と羽仁五郎を挙げる。

大阪の高校を卒業後に上京、マルセル・マルソーのパントマイムに興味を持ち、彼の名にちなんで芸名を付け、コント活動などを経て、浅草で動物の形態模写を始めた。特にサルは絶品で、演芸評論家の矢野誠一氏に「本物のサルよりサルらしく、哀しげだ」と高く評価された。ただし、玄人受けする芸は、テレビ界からほとんど見向きされなかった。50歳を過ぎてから、1本の映画を最初から最後まで語り尽くす映画再現芸という新しいジャンルを開拓し、熱烈なファンを獲得したのである。

94年末に、肝臓がんを告知され、以後、幾度も手術を受けた。実体験は、黒澤明監督「生きる」の映画再現芸へ織り交ぜられた。98年には、韓国国際演劇祭に招待され、初めて韓国を訪れ、亡父の故郷・済州島に寄り、親族の歓迎を受ける。翌99年にマルセさんの作・演出で「イカイノ物語」が上演された。在日朝鮮・韓国人が多く住む大阪市の猪飼野を舞台にした自伝的な喜劇である。マルセさんの柔らかな笑顔が、印象に残っている。【編集委員・高橋豊】


「本物」しのいだ表現力 ボードビリアン マルセ太郎さん
1月22日死去(肝臓がん)67歳
朝日新聞「惜別」欄 2001年2月7日
「いかに生きるべきかは、いかに演じるかである」と人生観を語っていた
写真集「芸人マルセ太郎」(明石書店近刊)から

病床のカバンに、手書きの台本が残されていた。その週末に退院して語るはずだった「ライムライト」のものだった。

「人生が芝居なら、下ろされる幕を、僕はしっかりと見つめたい」(著作「奇病の人」)。その言葉通り、再発を繰り返すがんと向き合い、ピンと背筋を伸ばして舞台に立ち続けた。

浅草の演芸場での長い下積みが、話術と肉体の表現力を鍛え上げた。代表作の映画再現芸「泥の河」。橋の欄干に両ひじを張り、あごを載せて川面をのぞき込む。そんなしぐさだけで「運河にたたずむ男の子」がたちまち観客の前に現れた。たった一人でセットも音楽も使わず、時に本物をもしのぐほどリアルに演じてみせた。

形態模写する相手の特徴をつかみ取る観察眼は「ホンモノとニセモノ」を厳しく見分けた。それは在日の鋭いまなざしでもあったが、難しい語り方はしなかった。色紙に好んで書いたのが「記憶は弱者に在り」。「痛めつけた側はすぐに忘れてしまうが、痛めつけられた側は忘れない」との意味だ。「戦争責任」をあっけらかんと忘れて他者の痛みへの想像力を欠く人たちを、シンプルな言葉で突いた。

カバンの中には、入院直前にこなした公演の観客アンケートの束も入っていた。「ファンのみなさんが最期まで寄り添ってくれたようです」と、娘の梨花さん。治療の合間に、一人ひとりに返事を書いていた。

訃報を聞き、親族や友人が入れ代わり立ち代わり自宅を訪れ、名残を惜しんだ。眠るマルセさんのそばで、座り込んで酒を飲み、とっておきの思い出を語り合った。泣いたり笑ったり、騒いだり、頭を垂れて黙り込んだり……。だれともなくつぶやいた。「マルセさんならこの様子、全部ネタにしちゃうね」

「別れの宴」は三日三晩続いた。棺は芸人らしく、鳴りやまぬ拍手に送られて旅立った。(社会部・佐々木亮)

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「笑いと感動 ありがとう」マルセ太郎さんを悼む
<富山でも数々の映画再現芸 がんと闘った6年間>
村田千晴さん(真酒亭)2001年1月31日 北日本新聞

マルセさんからの年賀状に「病院との縁は切れませんが、しぶとく今年も」と書いてあった。その後届いた案内には、6月までのスケジュールが記され、映画再現芸「天井桟敷の人々」が予定されていた。富山ではまだ披露されていないので、早速、富山での公演希望を伝えておいた。今年もしぶといマルセさんの芸が楽しめそうだと喜んでいた。それが、突然の訃報。「死は散文的にやってくる」と劇中で言っていたマルセさん。それがついに現実になった。

「マルセさんが『泥の河』をやっちゃうんだよ」。知人のこの一言がマルセさんが富山で公演を始める発端だった。以前、テレビでサルの形態模写をやっていたのを覚えていて、猿より猿らしい芸をすぐに思い出した。映画を再現する芸は、すごいに違いないと確信した。1993年4月の「泥の河」公演は立ち見の出る大成功。以来、私が世話役を務める「みゃあらく座」が「マルセ太郎映画塾」と銘打ち、「息子」「生きる」「ライムライト」など、9回公演を行なってきた。

黒い四角い台が一つあるだけのシンプルなステージだが、マルセさんの語りと演技によって映画が浮かび上がる。「泥の河」の田村高廣が確かにそこにいる。にこっとすると、「息子」の和久井映見が私たちに笑いかける。富山のマルセファンは増えていった。

マルセさんは93年以降、自ら演出した喜劇を東京・渋谷のジャンジャンなどで上演してきたが、その舞台にも富山から熱心なファンが毎回見に出かけていた。そして、97年4月、「花咲く家の物語」富山公演。県教育文化会館を埋めた観客は、感動の喜劇に涙した。

99年8月にはマルセさんの自伝的喜劇「イカイノ物語」を大都市以外では唯一、富山で上演した。マルセさんの集大成と言える感動作だった。「人間の行動を典型化すれば喜劇になる」というのが持論で、だからこそ観客は笑いながら共感して涙を流したのだ。

94年に肝臓がんと分かって以来、マルセさんは「人生を芝居とするならば、その幕が下りるのを見届けたい」と言っていたが、ついに幕は下りてしまった。マルセさん、あなたはそれを見届けることができましたか。「マルセ太郎の人生」という、一幕の大喜劇は傑作でした。「イカイノ物語」の上演のころがクライマックスでしたね。本当はつらくて拍手もできないのだけれど、マルセさんのフィナーレですから力いっぱいの拍手を送ります。心にしみる笑いと感動をありがとうございました。(みゃあらく座代表世話人)

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「芸人魂 命の限り」
西日本新聞コラム「春秋」2001年1月28日

がんの手術を繰り返しながら、独創的な話芸を追及してきたマルセ太郎さんが先日67才で亡くなった▼「舞台のそでで気持ちを集中する姿には、いつも鬼気迫るものがありました。先月始めの福岡公演のときは、乗り切っていくんだという強い意思を感じていたのですが・・・」。5年前に福岡のファンでつくった「がんばれマルセの会」会長の安永卓さん(59)=西南学院高校教諭=は、そう話している▼パントマイムでデビューした。サルの形態模写であっといわせた。映画を一人で丸ごと再現する「スクリーンのない映画館」で独自のジャンルを開拓した。「春が来たら新しい劇団を手がけます」と意欲を燃やしていたという(安永さん)。全国のファンに支えられながら▼とりわけ福岡には特別な思いがあったようだ。先月の公演は「もう一度、福岡で」との本人の希望で実現した。生前に語っている。「毎日が幸福感でいっぱいです。愛すべき人がたくさんいる人ほど、死を恐れないんじゃないでしょうか」▼在日朝鮮人二世。時代を撃つ言葉も。「日本のエリートは言い逃れやごまかしばかり」「僕の芸や、脚本を書いた芝居には、偽物を憎む精神が生きている」「芸人はもっと闘わなきゃ。誇り高く生きたい」。マルセ語録に魅せられた人も多い▼福岡公演は、補助椅子や階段で見る人がいるほどの人気だったという。タイトルは「芸人魂 命の限り」だった。

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「"芸人魂"命の限り」
マルセ太郎、最後の福岡公演・・・来月1、2の両日
重いがんと闘いながら「熱烈ファンに応えたい」
毎日新聞(夕刊)2000年11月11日

重い肝臓がんと闘いながら、「映画再現芸」など独特の話芸に執念を燃やすマルセ太郎(68)を福岡地区で支援する「がんばれマルセの会」は来月1、2両日に福岡市中央区荒戸の「ふくふくホール」で、福岡では最後の公演「マルセ太郎"芸人魂"命の限り」を行うと発表した。

マルセは名作映画を主役わき役含めてすべて一人で演じ切ってしまう独特の話芸で親しまれてきたが、1995年に肝臓がんとわかり、それ以降は入退院を繰り返しながら全国各地で公演活動を続けてきた。

今年5月には九州を訪れ、北九州市、福岡市、宮崎県高鍋町の3カ所で公演。その後8月には再び岡山県の専門病院に入院して、がん細胞への栄養補給を断つ肝動脈塞栓術という治療を受けた。結果は良好で、韓国へ旅行したり、北陸・東北地方への公演旅行も無事終え、本拠地の東京では新作の「枯れない人々」を上演するなど、創作活動になお意欲を燃やす。

10月中旬には再び岡山の病院で検査。結果はまだ出ていないが、医師は「治療もほぼ限界。来年春ぐらいには立って歩くこともままならなくなるのでは」と予測しているという。来年のスケジュールはまだ立てられない状態。しかし、熱烈なファンの多い九州でもう一度舞台に立ちたいというマルセ本人の希望もあり、12月の福岡公演が実現した。

「がんばれマルセの会」事務局の瀬戸芳子さんは「マルセさんにはこれからも活動を続けて欲しいが、遠方まで出向くのは、本人の健康状態を考えるとほとんど無理だと思う。福岡での公演は今回が最後になる」と語る。

福岡公演は両日とも18時半の開演。1日は「マルセ太郎の痛烈話芸ーBe動詞:記憶は弱者にあり」と題し、日本人の人権感覚への批判などマルセ哲学たっぷりの内容。2日は「スクリーンのない映画館息子」と題し、山田洋次監督の同名映画を笑いとぺーソスを交えて演じる。各日の料金は前売り3500円、当日4000円。問い合わせはキコシネマ内の同会(電話092-771-5623)へ。


「奇跡は奇跡的には起きない」
マルセ中毒の会 広島・福山病棟 数野 博 2000年11月18日

マルセさんの肝臓癌の手術を行い、その後の繰り返し起きる再発に対して治療してきたがんセンターは、マルセさんにこれ以上の治療は不可能であり余命6ケ月と宣告した。その一週間後の昨年9月29日(水)の午後、大阪梅田のホテルの喫茶店で差し向かいに座ったマルセさんは、いつもの生真面目な顔で「いよいよゴールが見えてきたようです」と切り出した。マルセさんの言葉には深い意味があることが多いので、その言葉が何を意味するのか彼の目を見ながら考えた。「もうこれ以上治療はできない、あと半年だろうと言われたんですよ」と諦めと怒りを込めた言葉だった。主治医が書いた説明のための絵とメモを見せてくれた。それを見て驚いた。お世辞にも上手とは言えない絵と納得できない治療不能の理由が走り書きしてあった。これが日本でもトップレベルと言われる病院の医師が書いたものとはとても信じられなかった。それが一人の人間の人生を決めるかも知れないのだ。

マルセさんの免疫療法を受けてみたいと言う言葉をきっかけに、まだまだ治療はできると思われるということ、病院での治療以外にも沢山の方法があること、免疫療法のことなどを話した。がんも結局は自分で治す病気であり、生きがい療法をまさに実践しているマルセさんは、何かのきっかけで奇跡的な自然治癒力を発揮できるはずなので、まずタバコをやめるように話した。静かに聴いていた彼は「私が知りたいのは、あとどれくらいかということです」と言った。私は「それが分かるのは神か、よほどの薮医者でしょう。とりあえず一年一年を目標にしてやっていきましょう」と応えた。

あらゆる手をつくして一年が過ぎた。マルセ太郎はこのままゴールを走り抜けるのか、この一年も私たちに人間の生き方を教えてくれるのか。福山の薮医者は奇跡の気配を感じつつある。今まさに皆でマルセ太郎を応援する時です。


「記憶は弱者にある 」
辛淑玉 (シンスゴ)週間金曜日より転載 348号 1/26

昨年末、人生はじめての入院を経験し、編集委員座談会(346号〔1月12日〕)にも出席できませんでした。申し訳ありません。はじめての長期療養で、恥ずかしい話ですが「生」についてゆっくりと考えることができました。そんなおり、さきほど(1月22日)、マルセ太郎さんの訃報を耳にしました。在日の同胞先輩で、かつボードビリアンの「マルセ太郎」さんは、たくさんの言葉を残してくれました。森正編著の『マルセ太郎 記憶は弱者にあり』(明石書店)に、その一部が記録されています。その中から、自分に語られた記憶と合わせ、ここでいくつかをご紹介させていただきます。

「反体制は笑いの根元なんです。今のテレビの貧弱な笑いは、仲間内をからかうことなんです。だからといって、才能の乏しいタレントを責めてはいけない。番組を提供している企業を責めないと」

「エリートとは、100人の中の1人になったならば、学ぶことの出来なかった99人のために何が出来るのかを学ぶ人のこと。新井将敬は間違ったエリートで、最悪ですよ」

「知識人は逃げるんですよ。関東大震災の時、朝鮮人が大量虐殺されたが、それに対して知識人はほとんどコメントしていない」

「日本の戦争……、インパール作戦で死んだのは撃ち合いじゃなくて、餓死ですよ。撃ち合いで死ぬならまだしも、むちゃくちゃな指導者の下で死んでいるんですよ」

「大衆の人権意識が低いから警察が喜ぶんですよ」

「人権というものを考えるとき、ぼくは、まず基本的に、権力者、あるいは権力につながっている高級官僚は全部悪いことをしている、という考えを立てます」

「愛国心は悪いものです。日本が愛国心の名のもとにいいことをしたという事実があるなら教えてください。愛国心が歴史的に良い方向に作用したのは侵略された側においてなんです」

「日本はアジアを侵略してきた前科者です。まだ?ちゃんと刑に服していない」

「戦力をもたないはずの憲法を変えようという人間は、必ず100パーセント、中国侵略の事実を認めない。南京大虐殺を認めない。朝鮮人従軍『慰安婦』を認めない。これは不思議だと思いませんか」

「日本の国歌『君が代』を歌って心が高揚しますか」

「憲法を変えたい連中は憲法は押しつけだというくせに、農地解放が押しつけだとは言わない」

「お前らにあんなもの(日本国憲法)作れる頭あるのか? あの戦争が終わったとき、もし、アメリカがあんたの好きな国作りをしなさいっていったら、一体どんな憲法を作ったと思う? とぼくはこう問い返すことにしているんですよ」

「ニンジンをぶら下げられていない『在日』は、出世できないからこそ真実を見つめる目が育つんです」

私は、彼の遺志を引き継げる後輩でありたい。

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「不屈の芸人・マルセ太郎を悼む」
<最後の命燃やした芸の迫力に圧倒><大阪・猪飼野が芸の原点>
作家・梁 石日 2001年1月26日『東洋経済日報』の記事から

今年の1月6、7日に私は崔 洋一・映画監督と脚本家の鄭 義信、そして松竹映画関係者二人と一緒に、私の原作『血と骨』のロケハンのために大阪に行った。昔、私が生まれ育った東成や生野を見て回ったのだが、そのとき猪飼野東2丁目の火葬場の近くに住んでいた私の家を見ることになった。戦前から建っている火葬場は朽ち果て、私の住んでいた六軒長屋のうち4軒が廃屋になっていて、その荒れ果てた光景に私たち一行は呆然とした。

じつはマルセ太郎も高校を卒業するまで、この火葬場のすぐ近く、私の家と目と鼻の先に住んでいたのである。私がこの長屋に住み始めた頃、三歳年上のマルセ太郎はすでに上京していて会うことはなかったが、鄭 仁という私の親友とマルセ太郎が親友だったことをあとで知った。人生の不思議だが、めぐりめぐって、マルセ太郎は芸能界の底辺を這いずり回り、私も人生の行き場を失って大阪を出奔したあと東北地方を旅し、東京へ来て十年間タクシー運転手を勤めて、もの書きになった。

そしてマルセ太郎が「スクリーンのない映画館」で注目を浴びだした頃と、私が小説を書き始めた頃と時期を同じくしていた。そのころから友人の鄭 仁にマルセ太郎と一度会うようすすめられ、渋谷のジャン・ジャンに出演しているマルセ太郎を見に行こうと思いながら十数年が過ぎたのだった。

ある日、エッセイストの朴 慶南と落ち合って所沢の航空公園にある文化会館でマルセ太郎の演技を初めて鑑賞したのである。すでに癌に侵されていたマルセ太郎は、しかし凄まじいばかりの迫力で私を圧倒した。人間は自らの命を最後の最後まで燃焼し続けられるという証でもあった。芸人の魂がこめられているあの異様な風貌は、他の追随を許さない厳しさに満ちていた。

公演後、マルセ太郎と私はファミリーレストランでビールを飲みながら語り合ってみると、なんとマルセ太郎の友人の多くが私の友人でもあった。そしてマルセ太郎と私は、まるで幼な馴染みでもあるかのような語らいをしていた。それは時間の枠を飛び越えた、実に奇妙な夜であった。

その後、マルセ太郎からいく度か公演の招待を受けながら、忙しさにかまけて観に行くことができなかった。死を目前にしていたマルセ太郎の心情をくみ取れなかったことを、いまさらのことのように悔やんでいる。見事な生き様であったと心から哀悼の意を表したい。

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「芸人マルセ太郎さんをしのぶ」
藤井康広さん(福井県三国町南本町3−3−20 医療法人聖仁会藤井医院)
マルセ中毒の会メイリングリストより 2001年1月25日

1月22日、敬愛するマルセ太郎さんが急逝した。1月初旬に三日間にわたる一人芝居の公演を終えて、予定通り肝臓癌の治療のために岡山の病院に入院していた。治療も無事に終了してもうすぐ退院となるその矢先、胃からの大量出血でこの世を去った。薬の効果が及ばない癌腫が隣接する胃に顔を出し、そこからの出血だった。それまで何個もある肝臓癌が大きくなるたびに、血管に薬を入れて癌を小さくしていた。8回目か9回目の治療だった。舞台が生きがいで、治療を終えるとまた新しい作品に取り組んでいた。弱者にやさしく、飾りっけがなく、最後まで芸人を貫いた。彼の言葉、「記憶は弱者にあり」「5歳の子供の悩みも50歳の大人の悩みも重さは同じだ」「笑い。その根底に人間への愛がなければ本当の笑いは生まれてこない」。市井の哲学者でもあった。

晩年、癌に蝕まれてやせ衰えた体ながら、舞台の上では身のこなしは軽かった。昨年5月、三国で演じた「立体講談・殺陣師段平物語」の段平が転がる場面では66歳、しかも肝臓癌の多発転移の身で鮮やかに前転を見せた。最後に段平が死ぬ場面は迫真の演技で、観客は本当にマルセさんが死んじゃったのではないかと思った人がいるほどだった。汗だくになって徐々に声が大きくなり一段と迫力が出てきた舞台だったが、終わってから「両耳の補聴器に汗が入って、こわれちゃったから」と笑っていた。彼は若い時から難聴というハンディを背負っていた。

移動の車中や、芦原温泉の旅館でずっと話をしてくれた。黙って一人でいると癌の恐怖がおそってくるからだそうで、以前にもましてよく話をしてくれた。感動した映画の話、竹中直人監督に口説かれて出演した映画「無能の人」の撮影の話、映画「息子」でその解釈のしかたを山田洋次監督に感心してもらった話。残りの時間がないから私たちに教えておきたかったのかもしれない。その話は何度聞いても腹の底から笑えた。間のとり方と語り、そして情景描写が絶妙であった。また記憶力も抜群で、独自の視点と思想からの映画評論は深く、何気なく見過ごしてしまいそうな映画の台詞を名台詞にした。

50歳半ばまで売れない芸人として過ごしてきたその苦労が芸に昇華され、パントマイムの専門だったから、一つ一つの身のこなし、瞬間がさまになっていた。だから彼を被写体とした写真には味わいがあった。生きているうちに知り合えてよかったし、二回も三国で演じてもらえたことを誇りに思う。「謹賀新年 早々にまた入院してきます。病気と共生しながら、今年もしぶとくやっていきます。暮れの「かす漬」ありがとうございました。2001年元旦 マルセ太郎」生きざまを表すような手書きの年賀状を見返しながらマルセさんをしのんでいる。

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「とても無念です」
昨年入院中のマルセさんを見舞ってアフタヌーンティーで話した人
個人的なメイル 2001年1月23日

今朝からずっとマルセさんのことを思いながら仕事をしていました。昨年2月にお訪ねしてから、ほぼ1年。1年というと人生ではあっというまに過ぎてしまうような気もするのに、マルセさんにとって、この1年が生き延びられたことで、あちこちでどれだけ多くの人々に感動を与えられたことでしょう。それを応援された先生の熱意にも改めて感動しています。それだけに、無念のほどは、私の及びもつかないことでしょうが、とりあえずメールを書かずにはいられませんでした。

中国と毎日新聞の訃報の記事のコピーをとったので、ニューヨークにいる次女にファックスで送ろうと思っていたら、先ほどメールで〃マルセさんのニュースを見て驚いている。福岡公演へ行ってよかったね。〃といってきました。本当に、本当に良かったです。新聞であんなに大きく報道される方なので、一フアンとしてはひとりでご冥福をお祈りするばかりですが、もし先生がマルセさんをしのんで福山のファンの会でも持たれるようでしたら教えて下さい。先生を通してマルセ太郎さんと出会えたことは私の一生の宝です。有難うございました。 高橋和子

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「信念転じて笑いとなす」マルセ太郎さんを悼む
2001年1月24日朝日新聞掲載

マルセ太郎が亡くなった。1月25日に退院して27日に東京都内で映画「ライムライト」を語るはずだった。4月には故郷を舞台にした作・演出「イカイノ物語」の再演、6月には久しぶりに「天井桟敷の人々」を3時間かけて語りたいと話していた。7年越しの肝臓がんとの闘いだったが、舞台にかける意欲は衰えなかった。入院生活すら喜劇のネタにしてしまうほどだ。「あなたはがんです。ガーン」といった具合だ。

インタビューは、いつも予定より長くなった。成功者にドラマはない、というのが口癖だった。 大阪で在日朝鮮人2世として生まれた。「住民票を変えるように国籍を変えた私は、日本人でも朝鮮人でもない」。ここから痛烈な現代日本批判を繰り出した。映画「泥の河」の語りでは、敗戦からしばらくたってもうずく戦争の傷跡と貧しさを、批評と哀感を込めて見事に再現した。戦後、器用に生きられない人間への共感があふれていた。

東京で新劇俳優を志したが7回も入団試験に失敗した。根強かった東京コンプレックスも東北の言葉の思いの深さに転化して話芸にした。公演もたった一人のピン芸。小劇場の舞台装置も何もない空間で、自分の病すらネタにして笑いをとった。

彼の舞台を見るたびに芸人はハングリーな職業だと思った。マイナーだから見えること、表現できることがあるという信念だ。しかもそれを笑いにしてしまう逆転の力、批評する力。

売れっ子の古舘伊知郎はよくマルセの舞台を見た。「私も人を笑わせられるが、マルセさんの笑いには感動がある。それを勉強したい」と言った。「人間の理想という言葉を信じたい」と照れくさそうに笑ったマルセの顔が目に浮かぶ。 (山本健一)

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「マルセ太郎さん死去」独自の話芸、ボードビリアン
2001年1月23日朝日新聞掲載

演技を交え一本の映画を丸ごと語る「スクリーンのない映画館」などで独自の話芸を追求した俳優・ボードビリアンのマルセ太郎(まるせ・たろう、本名金原正周=きんばら・まさのり)氏が22日正午過ぎ、死去した。67歳だった。葬儀・告別式の日取りは未定。自宅は東京都狛江市元和泉2の25の24。

在日朝鮮人2世として大阪市に生まれた。高校時代から演劇の勉強を始め、1956年、日劇ミュージックホールのパントマイムでデビュー。コントの修業などを通じて芸域を広げ、サルの形態模写で人気を集めた。85年に始めた「スクリーンのない映画館」は、東京・渋谷のジァン・ジァンを拠点に最近まで各地で上演を続けた。90年代からは「黄昏(たそがれ)に踊る」シリーズなど、演劇の作・演出・プロデュースにも取り組んだ。著書に「芸人魂」など。

95年、がんのため肝臓の半分を切除したが、その後も入退院をくり返しながら活動を続け、98年には韓国でも公演した。今月4−6日に、東京・シアターX(カイ)で「寄席芸特集」などの舞台に立ったばかりだった。岡山市の病院に最近入院したが、容体が急変した。

◇見事な晩年だった
<友人で共同の活動も多かった永六輔さんの話>

手術を繰り返しながら脚本を書き、演出をし「どこまで続くかな」などと言いながらも、舞台のスケジュールが埋まっていた方が病気には良いと、この夏の僕と2人の会の予定も決めたばかりだった。小さな劇場と少ないお客さんの好きな人で、年ごとに評価を高めてきた見事な晩年だった。同い年の友を失ったが、悔しいというよりお疲れさまと言ってあげたい。

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