[医療の質と評価]

→日本の医療を正しく理解してもらうために 川崎市立川崎病院 鈴木厚

[がん登録 個人情報の壁] 朝日新聞 2006年7月5日
[30年遅れで「がん登録」始動] 生存率格差の解消目指し、世界の常識導入 Nikkei Medical 2004年5月号
[保険医療と「質」の矛盾] 田辺 功(朝日新聞編集委員)日医ニュース第1020号 2004年3月5日
[病院の評価〜米国に比べかなり甘い日本] 田辺 功(朝日新聞編集委員)著「ふしぎの国の医療」p.72ー78、2001年7月15日
[「病院は治療成績公開を」格差大きい手術後の生存率] 毎日新聞「記者の目」2000年9月6日
[「病院の評価」米国に比べかなり甘い日本] 田辺 功「ふしぎの国の医療」朝日新聞 2000年12月17日
[厳格な病院評価がミスを防ぐ] 中野次郎(元オクラホマ大学教授)朝日新聞「論壇」2000年7月12日
[医療事故を防ぐ米国の制度] 毎日新聞コラム「余禄」2000年6月21日
[「入室前の着替え」集中治療室でも要らない?] 田辺 功「ふしぎの国の医療」2000年3月12日

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[がん登録 個人情報の壁]
朝日新聞 2006年7月5日

がん患者の診断や治療成績などを集め、分析する「がん登録」が個人情報保護の壁にぶつかっている。6月16日に成立したがん対策基本法で全国規模の制度化を盛り込む動きもあったが、先延ばしになった。患者や家族からは「病院選びに役立つ」「本人に告知できない場合に抵抗がある」など賛否が分かれる。がん登録を先行して実施している道府県では、病院から情報提供を断られるケースもあり、データ蓄積に支障が出ている。(武田耕太)

患者不在の議論に抵抗

がん登録は、患者の治療情報や予後、名前、住所などを国がデータベース化して傾向を分析する制度。地域ごとの傾向などを把握し、がん対策に役立てる狙いがある。患者や家族からは、個人情報保護の観点から、慎重な意見がある一方、全国規模で病院ごとに治療法の成績が公開され、患者が医療機関を選ぶ指標として役立つのではないかと期待する声もある。

3年間、白血病の母親に告知しなかった群馬県の女性(39)は「本人に知られないように、がん保険に連絡するのにも神経をつかった。無条件に母の情報が流れていくとしたら、と考えると違和感が残る」と話す。横浜市に住む肺がんの男性(50)は「診療や告知の際の医師の対応に不信を持ち、そんな医師にデータを登録してほしくないと思う患者もいるのではないか」。川崎市に住む乳がん患者の女性(52)は「患者の思いは様々。その本音を聞かず、患者不在でがん登録の是非が議論されることには反対だ」という。

NPO法人「がん患者支援ネットワークひろしま」(広島市)のアンケートでは、がん登録制度に賛成なのは22人のうち16人。反対1人で、5人は「どちらともいえない」と答えた。「どんな患者もその時点でもっとも先進的な治療が受けられるべきだ。そのためにはがん登録制度による統計学的な分析は必要」(65歳男性)との声がある一方、「患者にはそれぞれの思いに違いがある。何がなんでもデータを集めるという考え方は嫌だ」(61歳女性)との意見もあった。病院内で集めたデータを都道府県に登録する際、患者の同意を得るかどうかが難しい。本人に病名の告知をしていない場合、登録をするのかどうかという問題も残る。アンケートでは、登録に際し本人への病名告知が必要としたのは「本人が知らない情報を第三者が扱える理由はないと思う」(40歳男性)などの理由で9人、告知は必要なしとしたのは「より正確なデータを求めるため」(74歳男性)などの理由で10人だった。

自治体は義務づけ期待

40年以上の歴史がある大阪府のがん登録事業。府の委託を受けてデータの収集・分析などは府立成人病センター(大阪市)で行われている。最近、病院からの情報提供が拒否されるケースが出てきている。「病院側に過剰反応が起きている」と大島明・調査部長は指摘する。同センターは、昨年4月に個人情報保護法が全面施行されたこともあり、情報の漏出に注意を払っている。コンピューターのネットワークは府部局ともつながっておらず、センターの限られた職員しかアクセスできないようにしている。がん登録について、厚生労働省は「個人情報保護法の適用外」との通知を出しているが、登録を義務づける法律はない。同センターは「このままではデータの精度が高まらない。がん対策を立てるうえでも問題だ」という。

神奈川県は川崎市から情報が伝わらない状態だ。03年4月、市の審議会が「同意のない患者についての情報提供は問題がある」と答申したためだ。兵庫県は00年度末でがん登録事業をいったん休止したが、審議会の検討を経て今年度中に再開予定という。そのため、自治体からはがん登録を義務づける法律の整備を期待する声が高まっている。

田島和雄・愛知県がんセンター研究所長は「公益性のある情報提供には国民の協力が必要。国は、がんにかかる割合である罹患率を激減させるというが、がん登録がなければ正確な罹患率は出せない。がん登録がないままに進められるがん対策は、羅針盤を失った船と同じだ」と話す。欧米では多様な法制度が見られる。厚労者の研究班によると、米国やデンマーク、スウェーデンでは届け出は法的義務とされ、患者の事前の同意も必要がない。一方、英国やフランスのほか、ドイツの約半数の州では、患者に拒否権が認められている。研究班長の丸山英二・神戸大法学研究科教授は「国による全国的な登録制度で、原則患者全員を対象にするのが望ましい。ただ、患者に拒否権を認めるかどうか。個人情報保護と、正確な罹患・治癒状況の把握の両立のための議論が必要だ」と話す。

がん対策基本法(07年4月1日施行)

・国、自治体(以下略)は「がん対策推進基本計画」をつくり、施策の目標と達成時期を定め少なくとも5年ごとに見直す
・早期発見に向け、検診の質や受診率の向上を図る
・患者が等しく適切な医療を受けられるよう専門医を育成し、専門の医療機関を整備する
・患者が疼痛緩和医療を早期から受けられ、在宅でもがん医療を受けられる態勢をつくる
・情報提供態勢を整備し、患者と家族の相談支援をすすめる
・新規患者や予後などの状況を把握し、分析する取り組みを支援する
・厚生労働省に、患者や家族・遺族の代表者と識者による「がん対策推進協議会」をおく

キーワード「がん登録」

病院が患者の治療情報などを「院内登録」して、都道府県に報告し「地域登録」されると、地域ごとの新規患者数や生存率、医療水準の違いなどがわかる。さらに、国が全国規模でデータをまとめる。現在、法的整備がされないまま都道府県事業として34道府県で実施。しかし、統一された指針がなく、登録方法や作業手順、自治体の態勢なども異なっている。先の国会で審議されたがん対策基本法の民主党案には「がん登録制度の創設」が盛り込まれたが、個人情報保護の観点から自民党が反対。付帯決議で.「検討を行い、所要の措置を講ずる」とされた。

がん登録の仕組み

患 者 →医療機関を受診→がん診断、院内でがん登録(名前、住所、がんの種類、治療法)
→都道府県へ報告→地域がん登録(名前、住所、がんの種類、治療法)、5年生存率・新規患者・予後・地域ごとの傾向など把握
→国へ報告→全国規模でがん患者をデータベース化(がん対策に活かす)

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[30年遅れで「がん登録」始動] 生存率格差の解消目指し、世界の常識導入
Nikkei Medical 2004年5月号 p24〜25

解説【がん登録】癌患者を対象に、診療情報およびその他の情報源から、あらかじめ定めた項目について、情報を収集、整理、作成、それを集計、解析することにより、癌医療、癌予防、癌対策を支援、把握、評価する活動をいう。わが国では、地域がん登録、院内がん登録、および全国臓器別がん登録の3種類が行われている。

癌の発生・生存・死亡の実態を知る上で「がん登録」は基礎中の基礎。日本では"放置"に近かったが、世界より30年遅れで国立がんセンターが本腰を入れ始めた。これ以上の停滞は許されない。

「がん登録は、癌対策を行う上での、中枢神経(眼や耳)である。われわれは眼や耳をふさいだまま、癌対策という道を歩んでいる」東京・築地の国立がんセンターにある、がん予防・検診研究センターの情報研究部の扉には、こんなポスターが張り付けてある。国立がんセンターは「院内がん登録」を行ってきたが、それは"本物"ではなかった。『がんの統計'03」(がん研究振興財団発行)には、国立がんセンター中央病院の主な種類の癌に関する5年生存率が出ている。しかし、これは入院患者だけを対象にしており、病期についての情報などは含んでいない。胃癌、肺癌、結腸病、乳癌に関しては病期別の1-5年生存率も示されているが、各診療グループから提出されたもので網羅性はない。すなわち癌治療の"総本山"である国立がんセンターに、疾病、病期別に網羅的に同じ条件で継続的にフォローしたデータがないのである。2004年4月から"本物"の院内がん登録に着手した同センターの情報研究部は、冒頭のポスターによって意欲と決意を示しているわけだ。

今年4月以降、国立がんセンター中央病院を新たに受診した患者は外来、入院を問わず院内がん登録データベースに入ることになる(入力作業は8月から開始)。また、生存率も病期別にまとめて一元的に集計されるようになる。予想される年間登録患者数は約6000人。同センターは院内がん登録整備のため、新たに2人の登録作業担当者を配置した。がん登録の責任者である、同センター情報研究部長の祖父江友多氏は、「国立がんセンターの治療成績を、合理的総合的に示せるようにしたい」と意気込んでいる。

登録標準化にようやく着手

4月21日、国立がんセンターに全国のがんセンターのがん登録担当者22人が集まった。「地域がん登録の標準化ワーキンググループ」の第1回会議に参加するためだ。院内がん登録と地域がん登録を連携して整備するための、データ取り扱いルールに関して内容を確認、合意した。日本では精度の高い院内がん登録を実施している施設は極めて少ない。従って、施設間の生存率一つとっても、そもそものデータの定義や精度が異なり厳密な比較はできなかった。また、全国33道府県市で実施されている地域がん登録でも、データの定義や精度が大きく違った。そのため、現時点では各地のデータを単純に合計することはできない。本来、院内がん登録(このほど87の入力項目が決まった)が整備されていれば、各施設はそこから地域がん登録に必要なデータ(25項目。当面は12項目)だけ切り出して提出すれば済む。しかし、これまでは項目が標準化されておらず、地域がん登録のために臨床現場の医師などが、わざわざデータを作成しており、提出率低迷の一因になっていた。

米に離され、韓国に抜かれ

今後は(1)標準ルールを国立がんセンターが率先して実践する(2)国立がんセンターが自らの経験を踏まえ、各地の主要病院を教育・指導する(3)主要病院が地域内の病院を教育・指導するという連鎖での、がん登録普及を目指すことになる。ただ、これでは全国への普及に数年はかかる。データ入力を開始してから5年生存率を集計するには、さらに数年を要する。わが国で施設別・地域別の癌の治療成績が明確になるのに、今後10年以上もかかることになる。わが国のがん登録は先進国の30年遅れといわれる。「がん登録に関しては発展途上国」(大阪府立成人病センター・大島明氏)、「全体方針を率先して決める主体がなかった」(愛知県がんセンター・田島和雄氏)という状況に、なぜ日本は陥ったのか。

多数の専門家の意見を総合すると、(1)厚生労働省が、がん登録の重要性に理解が薄かった(2)国立がんセンターは基礎研究重視で、がん登録のような地道なインフラ作りに力を入れてこなかった(3)"大物"学者などの発言で対がん戦略が決まるカルチャーが色濃く、がん登録による罹患率、治癒率の捕捉への二一ズが低かったといった要因が挙がる。ここ2-3年で隣国の韓国のがん登録は長足の進歩を遂げ、日本より地域カバー率も追跡率も上回るようになった。

第3次対がん総合戦略にある「均てん化」(高度な癌診療を全国に浸透させる)によって、生存率が高い施設の成績を他の施設が実現できれば、5年生存者が年に数万人程度は増えると考えられる。一刻も早くがん登録を整備して施設間、地域間の成績格差をモニターすることが不可欠だ。宮城県立がんセンター前総長の公道茂氏は、「登録なくして評価なし、評価なくして対策なし」とがん登録の重要性を強調する。日本の対がん総合戦略が前近代的なまま止まるのか、そこから脱せるのか。国立がんセンターの院内がん登録の成否が、わが国の癌治療の行く末を示す。(埴剛健一)

●がん登録に関する''意外な事実"
【全般】
1. 日本のがん登録は、がん登録先進国に比べ「数十年遅れている」という専門家が少なくない。
2. これまでがん登録を推進する根拠が不明確であった。「健康増進法」(2003年5月施行)と「第3次対がん10カ年総合戦略」(04年4月開始)で、ようやく根拠となる文言が盛り込まれた。
3. 米国ではがん登録作業を行う専門家である腫瘍登録士が約5000人いるが、日本では資格が整備されておらず50人程度が携わるだけ。

【院内がん登録関連】
4. 国立がんセンター中央病院では、診療している「癌患者総数」に関する統計データがない。今年3月末まで、精度の高い院内がん登録の仕組みがなかったため。
5. 国立がんセンター中央病院の咽頭癌の5年生存率(68.O%)は大阪府全体のそれ(75.0%)より低い。これは同病院の生存率が入院患者しか集計していないため。
6. がん助成金による研究班による全国がん(成人病)センター協議会の生存率調査(2003年3月報告書)では、2割程度の病院がデータを提出しなかった。
7. .院内がん登録の入力項目の標準フォームは、2003年6月に決まったばかり。

【地域がん登録関連】
8. 日本では33道府県市で地域がん登録が実施されているが、全国的には実施されていない。東京都には地域がん登録がない。
9. 地域がん登録はそれぞれ独自の方法で実施されており、標準化がなされていない。
10. 33道府県市の地域がん登録のうち精度が高いのは10カ所余りで、それをベースに全国の癌罹患数は「大まかに推定されている」にすぎない。
11. 世界のがん登録に関するハンドブックには日本の地域がん登録のうち6つが紹介されているが、世界標準レベルの精度があるとされているのは、そのうち広島の地域がん登録のみ。
12. 地域がん登録で個人情報を取り扱うことを認める根拠は、今年1月までは不明確なままであった(厚生労働省局長通知で明確化)。

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[保険医療と「質」の矛盾]
田辺 功(朝日新聞編集委員)
日医ニュース第1020号 2004年3月5日

医療の質の確保が叫ばれて久しい。しかし、その質の確保を目指すほどに見えてくる現行保険制度の矛盾点について、今回は長年、新聞記者として医療に携わってきた視点から論じてもらった。

田辺 功(たなべ いさお):朝日新聞編集委員。昭和19年生まれ、東京大学工学部卒業。昭和43年朝日新聞入社。大阪本社学芸部、東京本社科学部などを経て、平成2年から東京本社編集委員。医療、医学担当。著書「ふしぎの国の医療」「医療の周辺その周辺」(ライフ企画)「漢方薬は効くか」(朝日新聞社)共著「医を語る」(黒川清教授と、西村書店)など。

ドクターちゃびんの解説:田辺さんとは2000年、2001年と「癒しの環境研究会」の米国研修旅行でご一緒させて頂きました。こっぴどく医者(もちろんできの悪い医者)をこきおろす本を沢山書いている人ですが、大変愉快なおじさんです。田辺さんとの研修旅行に参加したお蔭で、9.11に遭遇せずにすみました。本当は9.11にはニューヨークのツインタワーから2キロにある病院のホスピスを、デーケン先生の研修旅行で見学する予定でした。帰国後、大阪にできたユニバーサル・スタジオで同窓会をしたときに、できたての「ふしぎの国の医療」を頂きました。その本の75ページに私の写真を載せてくれています。

変りはじめた医療
多くの識者が指摘するように、日本の保険医療は、基本の理念から、具体的な診療報酬の決め方に至るまで、現実とのずれが拡大している。ほとんどの議論は、医療費総額の増加を重視する。そのとおりではあるが、私は保険制度の崩壊につながる、より本質的な問題の一つとして、医療の質を指摘したい。

私は三十年も医療報道に携わっている。病気や薬についての解説、薬の副作用、医療事故、新しい治療法や低侵襲医療を試みる病院の紹介、患者の権利、保険制度の矛盾や問題点などだ。読者の八割は患者を想定してきたが、二割くらいは医療関係者や専門家に読んでほしいと思って書いてきた。二〇〇一年出版の「ふしぎの国の医療」は、半分以上医療関係者に向けたメッセージのつもりだった。

振り返ってみると、私の仕事は、「インフォームド・コンセント」と「医療の質の向上」だったと思う。昔は、がんの告知に限らず、医師は患者に説明をしなかった。わざわざシートの縁を切って、患者に薬の名前も知られ韓ないようにした。まして、薬の副作用情報や医療事故などは論外。国も病院も医療情報を秘匿した。新しい治療法の紹介だって、医療情報の開示だから、私も第一線時代は取材先から随分嫌われたものだ。

二十年もの間、私たちがどう書こうと変わらなかった医療が、この数年、大きく変わり始めている。インフォームド・コンセントという言葉も普及したし、患者への説明もていねいになってきた。一方、専門医の有無や手術数などの広告制限の緩和が拡大されるなど、医療情報への抵抗が少なくなった。長期入院の入院費用の逓減制や、一定の手術数に満たない病院の手術料カットなどの診療報酬点数は、明らかに「質」を意識した改正だろう。

置きざりにされた「医療の質」
かつて国民は簡単に医療を力受けることができなかった。だれでも安く医療が受けられる制度として国民者保険制度ができた。地域に多くの病院や診療所ができ、国民は近所の民間病院から遠くの大学病院まで自由にかかることができるようになった。その点で、国は見事に目標を果たしたが、その代わり、「医療の質」はつい最近まで、まったく無視されたままだった。

保険制度では、同じ検査や手術なら、どの病院でも基本的には同じ料金になっている。どの医師もとの病院も均質の医療を提供できるとの前提だからだ。A病院とB病院の手術死亡率が〇%と五〇%と品質に格差があるなら、同じ料金でいいはずがない。

心電図をベテランの専門医が見ても、研修医が見ても同じなのは、能力に差がないと信じるからだ。半人前の新人も、三人分働く看護師も均質と見なすから、看護師数だけで看護料のランク付けになる。いわば看護師の数が質を代弁している。それが正しい場合もあるが、少数の看護師が創意工夫でよい看護をしても報われない。医師数の不足も、結局は人数合わせだ。二次診療圏のベッド数も、一流病院とひい病院も同じ一床計算で医療充足地域と判断される。医療の質を左右する麻酔や病理医の処遇も点数上は冷たく扱われているのも、制度が「質」を評価しない証明だ。

現行保険制度の矛盾
初めての腹腔鏡治療で患者を死なせた大学病院が非難されているが、保険制度では、本来、医師の診療範囲は制限されていない。これまで同じケースは山ほどあり、だれも責任は問われなかったのに、突然、昨年からそうでなくなったかのようだ。日本では、医師免許さえあれば、自分が経験のない診療科の看板を出して開業できる。心臓外科だけをやってきた専門医が、開業翌日から腹痛を診る。今春から臨床研修の義務化で医師はプライマリ・ケアの習得を求められることになったが、今のほとんどの医師は最初から専門科だけしか学んでいない。どの医師も知識や経験と無関係に薬を処方できる。抗がん剤の量を間違えて患者が死ぬと問題になるが、知識のない医師が効かない抗がん剤を処方して、副作用で命を縮めてもおとがめはない。専門医と非専門医も同格だ。手術の技術を問うなら、これらも当然、問われることになるだろう。

そもそも保険制度のなかに事故の救済システムがないのもおかしい。事故は起きないという「無謬神話」があったとしか思えない。

医療情報の公開で、本当なら従来の制度は危機に瀕する。手術数や専門医数、医療事故などが患者に伝わると、患者はレベルの高い病院や医師に集中する。資本主義経済下では、高品質の商品は高価格で、低品質の商品は低価格だ。そうすると、東京のA病院と地元のB病院の診療点数が同じことの合理的な説明が成り立たない。もし、難しい心臓手術は東京で受けるしかないとすると、地方の人の「いつでもどこでも医療を受けられるアクセス」は、まやかしということになる。アクセスの悪い地域は、保険料を安くすべきではないかという議論が起こる。そもそも同じ給付のはずの国保の保険料が、今でも数倍の格差があることも知られていない。

均質な医療実現は?
こうした要求は、保険制度の根幹を揺さぶる。私は、国や医療機関が医療情報を隠してきたのは、これらの「均質神話」を守る必要があったからだと思う。しかし、厚生労働省は意識してか、せずにか、医療情報の開示に向かっている。患者本位の医療という意味では喜ばしいが、このままでは保険制度は立ち行かなくなるのではないか。国民が納得する程度の均質な医療が実現できればよいが、現実には無理がある。保険点数や自己負担に病院や医師の質の差を導入する一方、政策的に医療格差を少なくするしかない。米国のHMOは、医療レベルを守るために、評判の悪い医師、事故の多い医師、技術の下手な医師などは契約解消という手段をとっている。また、難しい心臓手術のできる病院のない地域には、国立病院に専門医を高給で迎えてでもできるようにするか、民間病院を補助して高レベルのセンターを維持するなど、平準化を工夫するしかない。

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[病院の評価〜米国に比べかなり甘い日本]
田辺功(朝日新聞編集委員)著「ふしぎの国の医療」p.72ー78、2001年7月15日

日本では病院や医療の質をチェックする制度がほとんどない。期待されているのが財団法人・日本医療機能評価機構だ。先日、病院の訪問審査に同行した。評価調査者は一定の研修を受けた院長や婦長、事務長などの経験者で、この日は四人。審査は一日だけで、午前は病院の資料をもとに面接し、午後は病棟などを回った。カルテを点検し、トイレや風呂の緊急ベルの位置なども確認した。病院の種類や規模によるが、四、五百項目を調べる。

評価機構は一九九五年に発足、九七年度から審査を始めた。病院からの希望を受け、数十の大項目を五段階評価する。合格すると認定証を出す。二〇〇〇年十一月末現在、全国約九千三百病院のうち六百二十一病院(約六・七%)が申請し、三百九十七病院を認定した。手本は米国の「医療施設認定合同機構」(JCAHO)。前身は五一年に設立された。北接総合病院(大阪府高槻市)の中野次郎理事は「説明ですむ日本と違い、証拠を求められるので、厳しかったですよ」と四十数年の米国時代を振り返る。

審査は三-五日続く。個々のカルテの記載方法や、薬や検査の必要性を点検する。医療事故は内容だけでなく、扱い方も重要だ。院内に常設の機能評価委員会の調査、議事録などのデータを提出させる。三年に一度の審査に落ちると、病院は保険から締め出される。結果はすべて公開される。

「米国の医療の質の競争は日本の比ではありません」と亀田総合病院(千葉県鴨川市)の牧野永城・診療統括副院長もいう。同病院は約十年前から、米英約千四百病院の質評価グループに参加している。年四回、患者の死亡率、重症度別手術死亡率、再入院率などの数字を報告すると、グループ全体での位置づけを知らせてくる。病院の弱点をつかみ、より高品質の病院をめざす努力の一つだ。

日本の評価機構の合格点はかなり甘いが、病院の申請と費用負担で「改善の手伝い」をする今の仕組みではあまり厳しくもできない。「米国だって評価法や基準を確立するのに五十年かかっています。日本の病院の質も必ずよくなります」と評価機構理事でもある岩崎栄・日本医科大学常務理事は話す。

JCAHO(医療施設認定合同機構)を訪問

二〇〇一年二月、私は「癒しの環境研究会」の米国研修旅行で、シカゴ近郊のイリノイ州オークブルックテラス市にある民間機関JCAHO(Joint Comission on Accreditation of Healthcare Organizations)を訪問した。職員はJCAH0を略して「ジョイント・コミッション」(JC)と呼んでいた。JCは「施設の改善」が目的で、質や安全性を継続的に調べ、その一環として認定業務を行うとの解説だった。四階建ての立派な本部ビルに約五百人の職員がおり、他に評価調査者(サーベイヤー)が約六百五十人いる。一九五三年から病院の審査・認定を開始したが、今は病院だけでなく、診療所、民間医療保険グループ、長期ケア、在宅ケア、薬物やアルコール中毒などの行動ヘルスケア施設にまで広がっている。専門家を派遣する審査や指導は有料で、審査の場合は、小規模病院で一万五千ドル、大規模病院で四万ドルとのことだった。「米国では、会計監査法人による企業の監査は毎年あり、四万ドル程度かかる。JCは三年に一度なので、高くはない」と幹部は話していた。米国には老人向けのメディケア、低所得層のメディケイドという二つの公的保険があり、JCAHOの認定と連動している。これらの保険は病院収入の平均三割を占めており、認定取り消しは病院の一大事。実際には取消しになるのはまれで二%未満」という。

センチネル・イベント

JCAHOは医療事故のことを「センチネル・イベント」(警鐘的事例。センチネルは歩哨、見張り、信号の意味)と穏やかに表現している。一九九五年、JCAHOは病院に報告を求める「警鐘的事例制度」を発足させた。病院や個人を罰するのではなく、どのような事例があるかを収集し、予防するシステム作りをめざすため、病院などに自主的に報告してもらう制度だ。私たちの訪問日でまとまっていた統計は、表の通りだ。一位が自殺で二位が投薬ミスになっているが、幹部は「恐らくは報告もれがあるためで、本当は投薬ミスの方が多いだろう」と話していた。実際には自主的な報告は六六%にとどまり、一六%はマスコミ報道、九%は患者の苦情などからJCAHOが把握する。

医療の本場・米国でも、日本と似たような初歩的な医療過誤が起きているのがわかる。たまたま九五年は米国で医療過誤事件が相次いで話題になった年だった。一つはフロリダ州タンパの病院で、糖尿病患者の壊疽の足の切断手術で、症状の軽い方を間違えて切断してしまった事件。もう一つは前年、ボストンのダナ・ファーバーがん研究所で起きた抗がん剤の過剰投与で乳がんの女性記者が亡くなった事件が報道された。

制度が浸透しつつある九九年十一月、米国科学アカデミー医学研究所が「米国全体で毎年四万四千人から九万八千人の入院患者が医療過誤で死亡しているしとの衝撃的な報告書を発表した。犠牲者は、交通事故(四万三千人)やエイズ(一万七千人)よりも多い。そこで同報告は、五年間に少なくとも医療過誤を半減するために、政府に情報収集・防止機関の設置、などの対策を提言している。

JCAHOは危機感から、患者の安全確保により真剣な対応を迫られている。

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[「病院は治療成績公開を」格差大きい手術後の生存率、患者に選択権与えよ]
高木昭午(科学環境部)毎日新聞「記者の目」2000年9月6日

胃がん手術後の5年生存率に病院の間で大きな差がある、という日本胃癌学会の調査結果を報道した記事(8月6日付朝刊)に、大きな反響があった。大学病院で誤診された経験を持つ男性は「患者にとって一番知りたい情報だ」と話し、神奈川県の心臓内科医は「各施設の具体的な成績を掲載したのは画期的。循環器の分野にもメスを入れてほしい」と激励のメールを送ってきた。治療成績は患者の生命にかかわる問題だが、その格差は胃がんに限らない。各病院や医学会は主な病気について施設別の治療成績を公開し、患者に選択権を与えるべきだ。そのことが、病院ごとにバラバラの治療方針を統一し、格差を解消する早道になると思う。

調査は大学病院や各地のがんセンターなど、有名な18病院が対象だった。その中でさえ、同じ進み具合の胃がんで、5年生存率に最大約30%の差があった。18病院のうち五つは「患者の年齢や、がん以外の病気の有無の差が考慮されていない調査だ」「公平な比較ではない」「成績の悪い施設に対する仁義を欠く」などの理由で調査結果の掲載を嫌がった。だが、何人かの専門医に成績の差の原因を尋ねると、がんを切り取る範囲や抗がん剤の使い方など治療法の違い、さらには医療チームの熟練度の違いを指摘する声が多かった。本来、患者の病状が同じなら、とるべき治療法は科学的にかなり限定されるはずだ。しかし現実には、個々の病院、医師の流儀によって大きく異なる。

胃癌学会が全国1100病院を対象に実施した別のアンケートによると、同じ早期がんでも、がんだけを内視鏡で切り取る病院もあれば、開腹手術して胃と膵臓と脾臓を取る病院がある。手術後の抗がん剤も「原則使う」「使わない」「(その抗がん剤の効果を調べる)臨床試験のときだけ使う」に分かれた。治療法は科学的根拠のあるものだけに限ろう、と胃癌学会は今年2月、治療ガイドライン案を作った。しかし学会内には治療法の標準化に反対する専門医もおり、実際どれだけ浸透するかはこれからだ。

成績の差は胃がんに限ったことではない。1993年には、進行卵巣がんの4年生存率が、大学病院や国立病院などの間で、52〜5%とばらつくことが、厚生省研究班の調査で分かった。抗がん剤の使い方の違いが原因だった。

ある大学病院の外科医は「うちの心臓外科は手術が下手で、院内の内科からは患者を送ってもらえなかった。教授の代替わりで改善された」と話した。別の医師によると心臓のバイパス手術の死亡率は1%程度の病院もあるが、大学病院でも25%に達するところがあるという。ほかの有名病院では「手術が下手で有名な医師がいて、食道がんの患者がたくさん亡くなった」と打ち明けられた。

明らかに成績が悪い病院と知っていて、命を預ける患者はいるまい。亡くなった人はあの世で恨んでいるだろう。「日本の医師は、科学でなく我流で治療法を決める人が多い。知識や技術の不足を”医師の裁量権”という言葉でごまかす結果、判断ミスによる医療事故が多発する」と、がん治療が専門の福島雅典・京都大教授は指摘する。

福島教授は、治療成績の公開やカルテの整備、開示などを柱とした「医療の質管理法」を制定すべきだと主張している。「がんなど重大な病気について、患者全員を対象とした治療成績の統計を各病院に作らせて公表させる。成績の悪い病院は改善を迫られ、我流の治療はできなくなる」と説明する。欧米では一足先に治療成績の公開が進んでいる。例えば米ニュージャージー州政府は、州内で実施された心臓のバイパス手術について、患者の重症度などを加味した調整死亡率を、病院別、外科医別に公表している。ニューヨーク、ペンシルベニア、カリフォルニア州にも同様の制度がある。日本では国立病院でさえ「治療成績のデータは集めていない」(厚生省国立病院部)。自主的に成績を公表している病院もあるが、数が少ないし、病院間で統計の取り方が統一されているかどうかも分からない。比較は難しく、せっかくの公開データも生かしにくい。厚生省出身の浅野史郎・宮城県知事は「こういう情報(治療成績)がこれまで一般に知らされていなかったことに驚く」と8月22日付の本紙「新聞時評」で述べている。

「手術を受ける患者は前もって執刀医の実績を聞くべきだ。納得がいがなければ、別の医師に意見を求めるのがよい」と、JR東京総合病院の川端英孝・外科医長は主張する。川端さんは乳がんが専門で、患者には自分と同僚の実績を書いたパンフレットを渡している。各病院が自ら実績を公開する時代がくるまで、患者側が自衛策を考えるしか手はないのだろうか。

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[「病院の評価」米国に比べかなり甘い日本]
田辺 功 「ふしぎの国の医療」(62)朝日新聞 2000年12月17日

日本では病院や医療の質をチェックする制度がほとんどない。期待されているのが財団法人・日本医療機能評価機構だ。先日、病院の訪問審査に同行した。評価調査者は一定の研修を受けた院長や婦長、事務長などの経験者で、この日は四人。審査は一日だけで、午前は病院の資料をもとに面接し、午後は病棟などを回った。カルテを点検し、トイレやふろの緊急ベルの位置なども確認した。病院の種類や規模によるが、四、五百項目を調べる。評価機構は1995年に発足、97年度から審査を始めた。病院かからの希望を受け、数十の大項目を五段階評価する。合格すると認定証を出す。

先月末現在、全国約9300病院のうち621病院(約6.7%)が申請し、397病院を認定した。手本は米国の「医療施設認定合同機構」(JCAHO)。前身は51年に設立された。北摂総合病院(大阪府高槻市)の中野次郎理事は「説明ですむ日本と違い、証拠を求められ、厳しかった」と四十数年の米国時代を振り返る。審査は三-五日続く。個々のカルテの記載方法や、薬や検査の必要性を点検する。医療事故は内容だけでなく、扱い方も重要だ。院内に常設の機能評価委員会の調査、議事録などのデータを提出させる。三年に一度の審査に落ちると、病院は保険から締め出される。結果はすべて公開される。

「米国の医療の質の競争は日本の比ではありません」と亀田総合病院(千葉県鴨川市)の牧野永城・診療統括副院長もいう。同病院は約十年前から、米英約1400病院の質評価グループに参加している。年四回、患者の死亡率、重症度別手術死亡率、再入院率などの数字を報告すると、グループ全体での位置づけを知らせてくる。病院の弱点をつかみ、より高品質の病院をめざす努力の一つだ。日本の評価機構の合格点はかなり甘いが、病院の申請と費用負担で「改善の手伝い」をする今の仕組みではあまり厳しくもできない。「米国だって、評価法や基準を確立するのに、五十年かかっています。日本の病院の質も必ずよくなります」と評価機構理事でもある岩崎栄・日本医科大学常務理事は話す。(編集委員・田辺功)

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[厳格な病院評価がミスを防ぐ]
中野次郎(北摂総合病院理事、内科医、元オクラホマ大学教授)
朝日新聞「論壇」2000年7月12日

最近、多くの医療過誤が報道され、医師と病院に対する国民の不信を招いている。過ちを起こすのが人間の常とすれば、医療過誤を完全になくすことはできないかもしれない。しかし多くの医療過誤は、病院が周到な防止対策を講ずれは防止できる。特に病院の医療機能を院内・院外から定期的に評価する態勢を充実させることが必要だ。過去五十年余、米国のすべての総合病院は、安全で効率的な医療経営を維持するため、民間財団の米国医療機関認定合同委員会(JCAHO)から三年ごとに、病院の全診療機能の厳格な審査を受けてきた。もし病院に欠陥があり、早急に矯正されないときには、公式に認定されず、経営破綻に陥るのである。さらに、公的医療保険制度(メディケア、メディケイド)の診療報酬を支払う連邦医療財政庁(HCFA)は毎年、州政府衛生局に委託して、抜き打ちにすべての総合病院の医療機能、医師の質を検閲する権限を与えられている。HCFAの検閲は、JCAHOの評価を踏まえてさらに綿密な調査を行い、病院における医療管理の万全を期している。

これらの二つの医療機能評価機構は審査項目として、病院の設備、医師・看護婦数と資格、カルテの充実度、死亡率・罹病率、手術数と合併症数、院内感染、救急医療体制、誤診・輸血ミス・点滴ミスなど院内で発生したすべての医療事故の報告、危機管理体制、医師・看護婦の医学教育制度などが、詳細に検閲される。その結果と認定は公表される。認定されなかった病院は、政府ならびに民間の保険機構から診療報酬の支払いを停止されるから、破産に追い込まれざるを得ない。また国民は、これらの報告に基づき作成された病院ならびに医師のデータ・バンクの情報をインターネットでアクセスでき、患者の病院選定に大きく貢献している。私は在米中しばしば、JCAHO、HCFAの厳しい病院医療機能審査の実態を体験した。病院長はもちろん、医師、看護婦、その他のすべての病院職員が、これらの厳しい審査に神経をとがらしていた光景を忘れられない。これらの機能評価により、どれだけ病院の医療機能が改善され、医療ミス防止に役立ったか分からない。

約15年前、日本でもJCAHOをまねた組織づくりが厚生省・日本医師会の指導の下に企画され、ようやく1997年に日本医療機能評価機構(JCQHC)が発足した。しかし、過去三年間に、全国の病院9358のうち認定を受けたものは、わずか318病院(3.4%)にすぎない。認定を受けるのは希望制で、ほとんどの病院は認定されてもされなくても病院の収益に影響しないと考え、評価を受けないのだという。そればかりか、JCQHCの審査評価査定は、米国JCAHOおよびHCFAの審査に比べてあまりにも甘いことも問題である。このような、病院機能や医師の質の評価がほとんどの病院になされていない現在、医療ミスを防止する体制がおろそかにされ、医療ミス頻発の大きな原因になっていると言っても過言であるまい。日本の診療報酬が、病院の実際の機能や医師の質の評価を無視して診療報酬請求明細書(レセプト)を支払い基準にしているのに驚く。架空、付け増し、振り替えなど、病院の不正請求が多いのは免れない。

日本では過去しばしば、週刊誌などに「有名病院」「名医」の名が掲載されてきたが、機能や質の評価に基づかない格付けでは、信用度に問題があると言わざるを得ない。第三者機構による病院機能評価がなされていない状態では、避け得るべき医療ミスが頻発し、患者さんたちが安心して治療を受けることのできる病院を選ぶことは不可能である。厚生省、日本医師会が、病院機能ならびに医師・看護婦の質の評価制度を強化し、認定病院と医師のデータベースを作成し、早急に公表されることを切望する。=投稿

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[医療事故を防ぐ米国の制度]
毎日新聞コラム「余禄」2000年6月21日

「事故を表面化させないためにお金で解決している例はいっぱいある。僕のケースなんて氷山の一角だ」。死亡事故を含む6件の医療ミスを起こした横浜市の産婦人科院長の談話だ▲この院長を含め、日本の医療ミスは総計どのくらいの件数に達するだろうか。それこそ巨大な氷山にぶつかったような、歯の根も合わない恐怖に襲われる。この院長のように、医療ミスを何度繰り返しても、防ぐ効果的な手段がないからお手上げだ▲一方、「アメリカでは、医療過誤を起こした病院には保険が支払われません。そればかりか、公表された病院の格付けがひどく低下します。さらに、時と場合によっては医療保険の支払いが停止されるのです」。在米45年、米オクラホマ大学教授などを歴任して帰国した中野次郎さんはこう言っている▲「アメリカの医師は日本の医師に比べ、緊張感を持って仕事に従事しています。アメリカの病院は『医師の質委員会』により、たえず医師が院内評価を受受けます。そのうえ、3年ごとにすべての病院が院外機構(医療機関認定合同委員会)により、病院の機能と勤務医の質はつねに監視されています」▲医療機関認定合同委員会は病院スタッフ(医師、看護婦、薬剤師、技師)の数と質、業務責任、評価などを審査し、詳細な報告書を作成、病院に送付するとともに公開する。この結果によって、政府と医療保険は医師と病院の医療報酬を決定し、被保険者に通達する▲米国の仕組みは中野さんの「誤診列島」(集英社)に詳しい。中野さんは述べている。「アメリカの医療だって最初からよかったわけではありません。医療過誤に対する訴訟により、医師たちが医療に精進するようになったから、現在の充実した医療制度が生まれてきたと言っていいでしょう」。今は生みの苦しみの時か。

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[「入室前の着替え」集中治療室でも要らない?]
田辺 功 「ふしぎの国の医療」(22) 朝日新聞 2000年3月12日

重症患者用のICU(集中治療室)やその心臓版のCCU、新生児版NICUなどに入るとき、家族や医師、看護婦らは着替えさせられる。帽子とマスク、かっぽう着のようなガウン、サンダルなどの完全装備だ。健康な人間の体にも細菌がうようよしている。それを抵抗力のない患者に移さないための対策だ。感染症病棟では、逆に菌を持ち出さないという役割もある。医療界で「ガウンテクニック」と呼ばれる。

青梅市立総合病院は1997年にガウンテクニックを廃止した。家族や職員は厳重な手洗いを求められるが、そのままの服装でICUなどに出入りしている。96年10月、同病院の星和夫院長は米フロリダ州の病院を視察した。驚いたのはどこのICUも、コートと土足のまま入れたことだ。感染の危険を尋ねると、看護婦長は「心配ない」と答え、逆に「ここでは薬はそのまま運び込むが、口本では段ボール箱やびんの外側も消毒するのか。患者の食事も滅菌するのか」と聞いてきた。星さんは「服につく菌を恐れてもほかはむとんちゃく。それで大丈夫ということは本当は不要、むだな規制だったんだ」と納得した。早速、ガウンテクニックの廃止を図った。米国研修を経験した看護婦長がいたせいもあって、看護婦らはすぐ賛成してくれた。医師は「米国と日本は気候が違う」「母校の大学病院がやっているのに」などと不安がった。星さんは院長室からそのままの白衣、靴ばきで日に何回もICUに出入りした。「院長がそうだから」と着替えない職員が次第に増え、家族も普通の服装で入るようになった。面会時間制限も取りやめた。それでも感染事故は起きていない。

手術場と違い、ICUや病室ではガウンテクニックは不要。それが欧米の常識だ。しかし、日本でやめた病院は数えるほど。「使い捨てでない、複数の職員が交代で着るガウンだと、かえって医師から医師へ菌が移る危険性さえあります」と星さん。マスクも通常は必要ない。英国の院内感染防止マニュアルには「患者ケアに際して、マスク以上に大切なのは医療従事者の笑顔である」と書かれている。マスクを外し、笑顔を見せて、患者を元気づけよ、という意味だ。(編集委員・田辺功)

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