島川昭三先生
ドクターちゃびんの呉三津田高等学校時代の恩師

[島川先生の遺稿] 講話集「竹庭(2)ー輝ける瞳に語るー」 盈進-今を捕らえる、明日に頼む勿れー
[島川先生の遺稿] 講話集「竹庭ー生徒に語るー」後記
[島川先生の遺稿] 講話集「竹庭ー生徒に語るー」序文
[島川先生からの手紙] 呉三津田高等学校を卒業して一ヵ月後(1966年4月25日)

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[島川先生の遺稿] 講話集「竹庭(2)ー輝ける瞳に語るー」
平成五(九三)年度 生徒例会一九九三・六・十

盈進
-今を捕らえる、明日に頼む勿れー

おはようございます。新緑の五月が終わって今日はもう六月も十日、中旬に入ります。六月はじめじめした梅雨のシーズンですが、一年生の江田島研修や体育祭が計画されていますので、昨日のように良い天気に巡り会えばいいがと今から心配です。今年の県総体も、先程披露しましたようによい成績を挙げてくれました。皆さんの真剣な練習のお陰です。私は時々クラブの練習を見て回ることがありますが、毎日毎日休まずに練習を重ねているのを見て感心しております。今日はこのことについて話してみたいと思います。

皆さんは学校の勉強のことなどで、何か課題つまりやるべきことがあった時、明日もあるあさってあると思って先送りして、とうとうやらずじまいで終った経験があるでしよう。人間は誰でも凡人は、辛いこと面倒なことを先送りし後回しにして逃げようとする、そして結局忘れてしまってやらずに終わるということが多いものです。

福山に私立の盈進高校という学校があるのを知っているでしよう。昔戦前は盈進商業と呼んで商業科の学校でしたが、戦後いつのころからか普通科を置いて盈進高等学校となり、今では中高一貫の男女共学の高校になっています。この学校の校名「盈進」というのは、どんな字を書くか後で辞書を引いて見て欲しいと思いますが、これは中国の孟子という書物にある言葉で、孔子が言った言葉を引用したもののようです。

盈進の盈は満たす・満ちる・溢れるの意で、進は進むということです。原典では「科(あな)を満たし而して後に進む」とありますが、ここから取ったのが「盈進」です。分かり易く言いますと、今凹凸のある斜面を想像してください。高い方から水を流したとしますと、水は最初の窪みを満たし一杯になって次の窪みへとオーバーフローします。中途半端に半分くらいで次の窪みへ流れることは自然の物理法則が許しません。なにか特別の力を与えない限り考えられないことです。

同じように人間の生活も、一日々々を盈して進む、つまりその日にやるべきことはその日にやり終えて、決して次の日に延ばさないという心構えが大切であることを教えていると思います。しかし人間は、お互いに弱いもので、今日の課題を明日に残しても、「まあ明日もある、あさってもある」という気安い気持ちで毎日を過ごし、弱い自分と妥協しているのではないかと思います。

「今できる事は明日に延ばすな」というイギリスの諺がありますが、心すべきことだと思います。ここで言っている今日・明日というのは、今日、本日とその翌日ということでもあるのですが、今日とは皆さんに取って現在・高校時代・青春時代を、明日とは皆さんの将来のことを指してもおります。

また、今から二、000年も昔に生きたローマの詩人ホラティスは、「今を捕らえる、明日に頼む勿れ」と言っております。「今を捕らえる」とは、今、現在を大切に生きよということで、「明日を頼む勿れ」とは、明日を当てにして先送りすなということです。

私はこの言葉の意味もさることながら、二、000年もの昔の人もこんなことを考えていたということに驚きを感じております。芸術・スポーツ・学問、その他どのような道でも、それぞれの道で大成し一つの奥義を極めたような人は、若い時からこのように先送りし積み残すようなことをしなかった人、弱い自分に妥協しなかった人だと言えると思います。

世に言う天才と呼ばれる人も、実は生まれながらに持っていた才能でなく、自分の努力によって華開いた結果であると思います。エジソンは、「天才は一%の霊感と九十九%の努力の結果である」と言っています。若い皆さんのような時代から、コツコツと継続し努力していかなくてはならないということです。例えば、中国大会や全国大会にまで駒を進めるようなクラブの人も、決して生まれながらに持った技術でなく、毎日々々その日の練習を先送りすることなく練習を継続して来た努力の結果に外ならないということです。

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[島川先生の遺稿] 講話集「竹庭ー生徒に語るー」

後記

「竹原」という地名は、この地に多くの竹が自生することから付けられたとする説がある、十日で竹になるという筍の、真っすぐに天を突いて伸びる様は見事である。途中で曲がったりくねったりしないで、一途に天を目指し天を突いて伸びる姿は、ただ一つのものを信じて生きようとする心にも似ていて、何かしら青年の純真な心意気を表現している。そして成長なった竹の、少々の風雪には負けないしなやかさは、青年の柔軟性・力強さをも象徴している。竹の成長力は素晴らしい。筍として地上に生まれると、あっという間に自分を完成する。何年たっても賛肉をつけず、連なっている地下茎を通して子孫の繁栄を図る。竹はどんな時でも一人ではない。大勢の仲間の中にあって、自分だけ太ろうとか、高くなろうとか、自分だけカッコ良く生きようともしない。地下でしっかりと手をとりあって一族を形成し、共に仲よく生きていく。

叢生した竹の一族は、松籟に似た自然の曲を奏で、その懐は炎天の真夏といえども涼しい風を送り、ひんやりと肌を癒す。これまでどれだけ多くの人々がその懐に憩い、瞑想し詩歌を歌い、その美しさを絵筆に託して来たことであろうか。竹は節を持つ。この竹に節というものがなく、中が単に空洞であったとしたら、すぐに縦にひび割れて、あんなに逞しく立ってはおれまい。竹は節があるからこそ、強い風にも耐えて立つ。「竹は節ありて風雪に強し」とはよく言うている。しかし、これが仮に一株の竹ならば、そうはいくまい。叢生した竹林は、集団のもつ力を見事に証明して見せる。竹にとって節は誠に大切だが、人間にもこのような節が欲しい。そう言えば、人間にも節があった。「節目を正す」「節度を守る」という言葉、そういう心構えが人間の節である。私はこの言葉が好きである。

竹原は、私の教職三十八年の終着駅であった。最後の四年間、私を育ててくれた駅である。温厚な教職員、素直で純朴な生徒達と共に学んだ四年間は、本当に幸せであった。竹高の将来に栄光あれ。本冊子のネーミングについてはいろいろと悩んだが、「竹庭」とすることにした。このような言葉は辞書には無い。無くともよい。「チクテイ」と読むことにする。竹原の四年間、思えば思うほど竹が好きになり、竹高生には、竹のような青年でいて欲しいとの願いを込めたつもりである。庭とは言うまでもなく「学びの庭」、つまり学校を指す。「庭訓」という言葉が辞書にあった。これは「庭の訓・にわのおしえ」の訓読みであるが、本冊子にそれ程の名を戴くほどの中身はない。冒頭に、久留須先生のお言葉を飾らせて戴いたことを、とても嬉しく思う。重ねて厚くお礼を申しあげたい。

追記・私は、植物の葉の形の美しさ・造化の妙に魅せられている。じっくり眺めると、千態万様、そこに変化と統一を感じる。一体この美しい形は、誰がデザインしたものであろうか。本冊子編集作業と併行して、暇をみつけてスケッチしたものを行間にあしらってみた。読んでいただく方々に、一休みしていただくためのものである。

○表紙の緑は、竹原高校のスクール・カラーである。

六三(一九八八)・九・二 記

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[島川先生の遺稿] 講話集「竹庭ー生徒に語るー」
ごあいさつ

ある先輩校長の言葉に、校長心得の一つとして、「校長は生徒に話す機会を大切にせよ」ということがあります。「校長は、五分間の朝礼講話に一週間の推敲を重ね、卒業式の式辞は一年間の宿題として熟慮せよ。そして、話しは簡にして明なること、自分の語る一言々々が、生徒の感性に訴えるものとせよ」ともありました。

本県の教育事情は、校長として隔靴掻痒のところがありますが、そんな中で生徒に直接語りかけることは、校長の特権であり誰からも口を差し挟ませるものではありません。その代わり私は、始業式・終業式・生徒朝礼あるいわ学年別講話などは、すべてテーマを持ち原稿を書くことにして来ました。それは話しの内容を分かりやすく整理し、話しに密度を持たせ山をもたせ、少しでも生徒達の感性に訴えようとしたからであります。話の内容構成の上で留意しましたことは、抽象的よりも具体的に、格調高いものを求めるよりも生徒の学校生活や社会の動きの中から、題材を求めることにしました。朝礼講話は校長としての姿勢を語ることになりますので、その聞き手の半分は、教職員向けとして強く意識しました。

校長講話集なるものが、この出版ブームの中で多量に出されています。私もその中の二・三を購入して、題材を求めようとしましたが、これでは所詮借り物となり、魂の入らないものとなります。そんなことでは、生徒の心を動かすことはできません。日常生活の中で、自ら体験し感動し納得したものの中に題材を求めなくてはならないと考え、このことを心して実行してまいりました。大柿でも竹原でも、話しを聞いてくれる生徒に恵まれ、教職員からの手応えを感じることの出来ましたことは幸せであったと思います。

この小冊子に収めましたものは、私の原稿集の中のおよそ半数のものであります。内容はお恥かしいものばかりですが、多くの方々に支えられ多難な本県教育界に三十八年、自らの記念として編集したものであります。この小冊子を、お世話になりました方々の机上に、感謝の気持ちを込めてお贈りしたいと思います。

終わりになりましたが、先輩校長のお一人元呉三津田高等学校校長久留須康晴先生から、お言葉を戴きました。私は二十八才から三十二才までの五年間、可部高等学校補導部長としての先生から多くのものを学びました。また私の次男は、先生のお嬢様の乳母車を戴いて育ちましたし、高等学校卒業証書には先生のお名前が記されています。公私にわたりお世話になりご指導を戴き、私の若い頃のことをよくご存知の方であります。ここに厚くお礼を申しあげます。

昭和六十三年十二月      島川昭三

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[島川先生からの手紙]
数野君、元気でやっていますか?
呉三津田高等学校を卒業して一ヵ月後(1966年4月25日)

櫻も散り、四月も下旬、遅かった春もようやく本格的となり、学校の窓から見下ろす呉市街に、鯉幟が元気よく泳ぐ頃となりました。昨日あたりから、どことなく全身に汗ばみ、一足とびに夏の到来を思わせる昨今です。四組の皆様には、新しい生活を求めて、西に東に、呉をあとにされて、早くも半月を過ごしたわけですが、その後どうしていますか。このところ毎日のように皆様からの手紙が来ますので、夕刻勤務をおえて家に帰るのがたのしみです。

新しい大学、先生、友人、下宿(寮)、すべてのものが新しいので、とまどってはいないでしょうか。新しい未知の世界には、夢、不安、困苦、あらゆるものが君達を、あるいは嬉しく迎え、冷たくさえぎるでしょうが、これらの一つ一つを強くのり越え、初志を貫徹できたとき、君達は、押しも押されぬインテリ−として、有能な社会人として、温かく実社会に迎えられる日が来るのです。皆様の健斗を祈ります。

浪人をする人よ!!来年春こそは、ホームランを打って下さい。この一年、いろいろと苦しい事もあろうと思いますが、それらに耐え抜くことです。来年春、栄冠をかちうるか否かは、この一年間の生活態度如何にかかっています。自らに厳しく、自らに打ち勝てば、この一年の苦しみは、君の将来に、その幾倍もの力を与えると思います。大学に入った人達も心から君達の成功を期待し、祈ってくれていると思います。

就職をした人よ!!新しい職場はどうですか。仕事に誇りをもって、誠実をモットーとして頑張りなさい。はじめての俸給はもらいましたか。社会は君のような、真面目で有能な人材を求めていたのですから、自信をもって仕事に打ち込みなさい。

扨て私は、今度は又、一年担任に振り出しです。五十二名の新入生の担任として、頑張っています。安心して下さい。同封したものは、四組の人達の住所録です。お互いの文通のために使用して戴けば幸いですし、今後、住所の変更のあったときは、必ず連絡して下さい。皆様の健康を祈念し筆をおきます。

四月二十五日                            島川 昭三
四組の皆さん

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