数野 太郎

過去と未来ーある思索の道ー 1977年(昭和52年)
私の恩師ー北から南からー 清水多栄先生 1977年(昭和52年) 臨床科学
人生行路 1987年(昭和62年)
特殊胆汁成分の研究 1988年(昭和63年)
スェーデンのカロリンスカ研究所に留學して 1991年(平成3年)

続人生行路 人生の終末にあたり 1991年(平成3年)
父、数野太郎のこと

同級生数野太郎兄の偉業に想ふ 安宅三郎(昭7)
父逝去のご挨拶

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過去と未来

ーある思索の道ー

著者略歴

明冶40年 2月 2日 香川県大川郡志度町に生まれる
大正13年 3月   香川県立大川中学校卒業
昭和 2年 3月   香川県立師範学校専攻科卒業
昭和 7年 3月   金沢医科大学薬学専門部卒業
昭和 7年 4月   岡山医科大学生化学教室入局
昭和16年12月   薬学博士の学位授与(東大)
昭和17年 1月   岡山医科大学附属医学専門部教授
昭和21年 4月   広島県立医学専門学校教授
昭和23年 4月   広島医科大学教授
昭和28年 8月   広島大学医学部教授
昭和33 年 8月   スゥエーデン国へ留学(1カ年)
昭和35年〜昭和41年 医学図書館分館長
昭和38年 6月   3ヵ月欧州へ出張
昭和40年 7月   2ヵ月欧米へ出張
昭和45年 3月   広島大学定年退官
昭和45年 4月   広島大学名誉教授
昭和45年 8月   欧州ソ連視察

数野太郎

広島市可部町字城718−7

はじめに

この手記は著者の生涯にわたって行った研究の記録であって、前半の岡山医科大学生化学教室時代のものは記憶をたどって書いたもの、後の広島大学医学部時代は著者の日記帳の記載から正確をきしたが研究の経過については発表した論文によるものである。

著者の青少年時代は大正年代(1912〜1925)の後半から昭和の初期にかけてであって、生家は香川県大川郡志度町という瀬戸内海にめんする半農半漁の寒村であった。祖父の世代すなわち徳川幕末頃から明治時代の前半にかけて、その地方を代表する大きな商家(讃岐の砂糖・肥料・木材などの卸問屋)であったが明治末期は既に外国物資の日本進出による産業革命時代になっていて、昔からの国内的産業が斜陽となり、著者の物心ついた時は既に父は祖父時代の商業をやめ、小作米だけの収入で生活する小地主の状態になっていた。しかし盛業時代から残された大きな住家から盛業時代をしのぶことが出来た。

当時5年制の旧制中学校を卒業する頃までは全く時代と世状にうとく、父からも何の指導もされることなく、自分が将来どの方向に進むべきかについても全く無智であったように思う。ただ進学をしたい希望だけはあったように思うが、ずぬけて頭脳がよいわけでもなかったし、家に充分な資力があるわけでもなかった。

当時全く学資がかからなくて勉学出来る学校は師範学校第2部(中学校を卒業後1カ年で小学教員になれる資格がえられる)のみであったから、そこへ入学して一年後更に専攻科(数学)に一年学んで後、小豆島の寒村坂手村で6ヵ月教員をつとめた。その間やはり上級学校えの進学の希望をもって勉学することはおこたらなかった。

そのうち兄のすすめと学資の援助がえられるようになって、拾数倍の難関を突破して、金沢医科大学附属専門部(現在の金沢大学薬学部)に入学出来たのは、中学校を卒業してから6年目の昭和4年春であった。しかしこの5年間の脇道の生活は、その後の実生活に大きなよりどころとなっていったし、また金沢大学で多くの立派な教授にめぐり会い、将来への道が開かれる原因となったものである。なぜ郷里から遠い金沢大学を受験したのか記憶にないが、人生の不可思議はこういうところに一本の運命のつながりを持っていたことが、後に思いあわされたものである。

ここにかいた手記は全く私的なもので、人に見せたり、公にするようなものではない。著者が古稀を迎えるにあたり、過去約50年間大いに努力して、自身の能力以上と思われる成果をあげて、何物かを後世に残すことが出来たという信念から、自分自身のよろこびを感ずるままに筆をとったものである。

昭和52年7月  数野太郎

第6章未来への希望

昭和45年(1970)3月末で広島大学の内規による63才定年制により退官するため、44年秋に主催した日本生化学会総会を無事おえた機会に、退官の準備に研究論文集の編集をはじめた。

その一つは胆汁塩の研究という題で、英文により教室で約25年間に行われた研究を下記のように6分野にわけ、発表した論文302編から88編をえらび、その研究論文に関する要約を集めて印刷して254頁からなる論文集を作り、3月にこれを教室関係者、ならびに多くの知人、大学の関係者に謹呈したものである。

STUDIES OF BILE SALTS

1)Chromatographic studies of stero−bi1e acids and bi1e alcoho1s.
2) Isolation,chemicaI structure and biosynthesis of the new bi1e acids and bile aIcohols from the bi1e of frogs,toad,newt,salamander,carp and the other fishes.
3)The synthesis of the new stem acids of stero−bi1e acids.
4)The synthesis of the new stero−bi1e acids.
5)Synthesis of bile alcohoIs.
6)The metabolism of the new stero−bile acids and biIe alcohoIs.
7)Chemistry and metabolism of biIe alcohols and higher bi1e acids.

論文集のその二は、さきに昭和37年(1962年)教室開講15年を記念して、3巻の研究論文別冊集を編集したが、それ以後、すなわち昭和38年以降行われた研究成果である欧文研究シーリーズ、第49報、Synthesis of 5β-cho1estane−3α、7α、12α、26,27−pentoIから第105報、On the formation of cholic acid in the biIe fistuIa rat from some natura11y ocurring poIyhydroxy bile sterols までの各論文別冊に、アメリカの Advances in Lipid Research,Vo1ume 6(1968)に発表した綜説の別冊を加え、更に下記のような各種専門雑誌に投稿した綜説類をふくめて、論文別冊集、第4巻、STERO−BILE ACIDS AND BILE ALCOHOLS(METABOLISM OF CHOLESTEROL)を50部編集して同学の外国の知人をふくむ日本の同学の人々に謹呈した。

(1)胆汁酸の薄層クロマトグラフィー。代謝, 2 : 77, 1965.
(2)コレステロール代謝と胆汁アルコール、コレステロール側鎖切断酵素分離の可能性。化学と生物, 3 : 185, 1965.
(3)胆汁酸の吸収。最新医学, 20 : 3098, 1965.
(4)胆汁成分とこれに対する腸内細菌の作用面からの実験動物の特異性。実験動物, 14 :103, 1965.
(5)コレステロールの代謝、特に胆汁酸の生成とAtheroscIerosis。日本臨床, 24 : 1148, 1966.
(6)AtheroscIerosisと胆汁酸。広島医学, 19 : 442, 1966.
(7)胆汁酸の代謝。綜合臨床, 16 : 1071, 1967.
(8)胆のう機能検査とその限界。日本臨床, 25 : 1134, 1967.
(9)解毒。昭和42年度日本医師会医学講座, p.153, 1967.

既に述べたように、表面上の学生紛争はおさまったとはいえ、医学部には学生によって提起された問題点となるべき慣習、またはこれが改新を要する制度が存在する。これを今後どのようにして内部的に改正することが出来るか、それによってよりよい医学教育環境の推進をはかるべきかにつき、重くるしい空気が医学部全体に当時みなぎっていた。
明治維新以来百有余年、独逸型医学教育で組立てられて今日にいたった医育制度、そのものに近代的変革を必要とすること、近代科学の進歩にとり残されている部分の旧医育制度の改新の必要はたれにも認められるものである。医学教育の根本的改新は国の政治におうところが大きく、一医学部自身で実行出来る内部的改変は極微々たるものである。しかし教育の近代化なくして、医学教育の基礎をなす基礎医学の振興はありえず、学問の進歩から教育がとり残される結果となることは明らかである。このことが退官にあたり最も心痛されるところであった。

近年約200種類の蛋白質について、その一次構造の知見から、タンパク質の構造と機能、またそれらの進化と分化、ひいては生物の進化に関して多くの重要な情報がえられている。一次構造上の変異に起因する分子病についても多くの知見がえられてきている。特に細胞内電子伝達に関与するヘム蛋白質であるシトクロムCについて広い範囲の生物種の一次構造が決定され、それらの一次構造上の近縁関係から分子系統樹と呼ばれる生物の系統樹がつくられているがこれらの比較研究は生物進化への新しいアプローチとしてきわめて重要になってきている。

われわれの研究は蛋白質のような大きな分子量を有するものとちがって、小さい分子量を有するものであるが、コレステロールが肝臓で分解されて胆汁中に排泄されたもので、各種動物の胆汁成分を明らかにして、単離し、その化学的構造が決定されているおもな胆汁塩を次表にあげてみた。すでに生物学者が明らかにしてきた脊椎動物の系統樹と、その動物の肝臓から排泄する胆汁塩と対比さしてみると、あきらかに胆汁塩分子は系統樹の枝にそって変化をおこしていることがうかがえる。

胆汁から分離した胆汁酸と胆汁アルコール(略)
脊椎動物の系統樹と主胆汁塩(略)

胆汁塩分子の進化の段階を追究することは、とりもなおさず動物進化の道をこの方面から明らかにすることにつながると思われるが、両棲類だけでも2千余種類あるので、われわれが調査したものはその内の拾数種類にすぎない。現在の蛋白質解明の研究に比較すればまだまだ道遠しの感なきを得ない。さらにコレステロールから胆汁塩への道に関係する酵素蛋白質についての解明は未だその入口にやっと到達したぐらいのものであるが、我々のきづいた小さな土台から将来の広大な道が開かれるだろうことを念願するものである。
広島大学医学部に於ける20有余年にわたる私の教育研究活動に多大の援助と協力をえた下記多くの教室に居た方々に衷心より感謝の微意を表わす。(略)

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私の恩師ー北から南からー
清水多栄先生
数野太郎 広島大学名誉教授
臨床科学 第13巻第12号 p1553〜1556

清水先生が広島医科大学学長の時, 広島県医師会発行の広島医学雑誌が, 清水先生還暦記念号を発刊しているが, その巻頭の言葉に, "少しも自己を語らぬ人,それでいて彫刻のように鮮やかに全貌をむき出しにしている人を我々はまれに見ることがある. 厳然と近寄り難くそびえ立ちながら, ながめているうちに自然にその懐に分け入りたい衝動に誘われるあの富士山に例え得る人, 茫洋とつかみどころのない中に, しみじみと旅情をかき立てる春の海のごとき人, 時流に崩れず, 環境にしばられず超然と自らを持してゆく当代珠玉の人, 我々はゆくりなくも清水先生の中にそれを見いだすのである"と.

これ以上に先生を表現する適切な言葉が見当たらない. 先生は, 大正4年, 京都帝国大学医学科を御卒業と同時に医化学の創設者荒木寅三郎先生に師事され, 御研鑽を重ねられ, 大正9年から11年にかけて, 当時, 胆汁酸の化学的構造解明に学績かくかくたるドイツのハインリッヒ・ウィーランド教授の下に御留学, 帰朝して岡山医科大学教授となられ, 昭和4年には再度渡独して同教授に師事されたことにより, 以後の先生の胆汁酸に関する研究が世界的レベルの下に輝かしい業績を挙げられたことは, ここで再び記述するまでもないことである.

昭和初期から, 先生が岡山医科大学学長(昭和15年)になられるまでの10余年は, 常時, 30余人の研究生がいて, 日夜教室は電光に輝き, 先生のエネルギッシュな御指導と教室員のたゆまざる努力で, 教室はあふれんばかりの活気と, 大河の何物をも押し流すあの静かな熱気のなかに我々もいたような思いがする.

先生は毎日, 必ず研究室を回られ,「どうかね」という言葉で始まり, 研究の進展のもようをお聞きになりながら,「うんうん」とうなずかれ,「しっかりやるんだね」という言葉で部屋を出られるが, 先生はそこでは決して具体的な指示はされなかった.「やっているね, 勉強するんだよ」という無言の親心がいつもその温顔に感じ取られた. 毎日の3時のコーヒーの時間には, 皆で先生を囲んで, いろいろと先生からお話を引き出すのだが, その時の先生のお話には茫洋とした風格から出る何かつかみどころのないような会話が多かったように記憶する. それは人間のスケールが一回りも二回りも大きくて, 我々凡人の計り知れない心の動きがそうさせたものであろう.

戦局の激しさが加わるころ, 岡山医科大学学長となられ, 米英に対する開戦も加わるころ, 医者の養成が緊急を要することとなり, 医科大学に附属医学専門部を, 高知県, 広島県に医学専門学校の創立などで御多忙の御様子であったが, その間にも教室におられる時は必ず部屋をのぞかれ, 研究に対する熱情は全く頭の下がる思いであった. 敗戦となり日本が全く崩壊の状態となってからは, 医学教育の再建に, 新制大学の創設に日夜心を砕いておられたことは我々の想像を超えるものがあったようで, 御自分の健康を省みられるいとまがなかったのではないかと思われる. 広島県立医学専門学校が戦後の学制改革で廃校寸前にあったのを救われたのも, 又, 医学専門学校が医科大学に昇格する直前, 建設中の校舎が全焼して再起不能の状態になった時も, 皆清水先生のあの円熟した人格と暖かい人間味に接していた多くの文部省, 叉広島県関係の人々の心からなる清水先生への徳望が, それを救って, 今日の広島大学医学部を築く基幹となったことは, 皆のよく知るところである.

戦後から, 昭和27年岡山大学学長になられて新制岡山大学の建設に専心されるようになられるまで, 先生は岡山から呉市にあった学校まで絶えず当時の混雑した汽車で通われて, 医科大学の設立とその発展のために心血をそそがれたのであるが, 当時, 血圧が高くて皆が心配していたが, 時々,「今日は血液を抜いてもらおう」と言われて, 呉市広町にあった附属病院で抜血されて周囲の者たちを安心させておられたように見受けられた.

戦前の先生はヘビースモーカーで, 片時もたばこを手から離されたことがないように見受けられた. いつの時か, 恐らく血圧が高くなったことに気付かれた時であろう, 禁煙を始められて,「たばこを吸う夢を見たり, 手にやに臭い油汗が出るよ」と言われて教室員に見せたりしておられたが, 完全に禁煙されて教室員を感嘆させられたものである. 禁煙の困難さを皆が知っていたからでもあった.

先生は酒をたしなまれたとはいえないが, 酒席の雰囲気を愛されたというべきかもしれない. 私の岡山時代に, 助手たちが先生に書類の印をもらったり, 研究用品を買ってもらうためのお願いとか, 研究についての御指導を仰がねばならないことができると, 決まって教室の宴会が催される日の午後の時間をよく利用したもので, そのような日は先生の御きげんが殊に良いことを皆が知っていて, 入りにくい教授室に, 当日は先生をお訪ねして御指導を仰ぐ教室員が多かったなどは, 人局してまもなく知ったことである. 酒席で隠し芸をひろうされるのはいつも先生で, どこで仕入れられるのか細かい文句まで手帳に書き込まれていて, 教授たちの酒席でも教室員だけの会でも, よく楽しそうに特技をひろうされていた. 私が現に覚えていて何かの席で皆さんにお目にかける隠し芸は, 先生直伝のものが多い. こんなことを書くと, 先生が天国で苦笑されているだろう顔が目に浮かぶようである.

昭和25年に先生は学士院会員になられたが, 学士院では毎月例会といって, 各分野の会員の研究発表会がある. 当時, 岡山大学学長であった先生から, 時々, お手紙をもらって,「次の月の何日の学士院例会で君の研究論文を発表するから, 何日までに岡山へ持参するように, そしてその論文は学士院紀要に発表するので, 英文で何頁くらいの論文として持参するように」というもので, 最初, 全く突然のお手紙で面食らうことがしばしばであった. 研究論文ができたところで, 先生にその発表をお願いするのがふつうであるが, そういうことには全くむとんちゃくに, 関係なくお手紙をちょうだいするのであるから, 広島の私の所へ言えば, いつでも研究の進展があって発表論文があるものとの御期待か, これは先生が弟子を励まされるための激励であろうと思い(当時は, まだ戦後まもなくで十分な資料もなく, 研究の困難が続いていた時代), 最初そういうことがあってから,「これはうかうかしとれんぞ, 先生に言われないうちにこちらから学士院での発表をお願いできるようにしなければ」と, 教室員一同, 大いに緊張発奮して研究の進展に一層努力したことを思い出す. 昭和27年ごろから31年にかけて28編に及ぶ論文の完成をみて, その発表を先生にお願いして学士院紀要に発表できたのも, この先生の陰の強い御指導のたまものであったと思っている. この31年の年末ごろ, 先生のドイツにおける恩師ウィーランド先生の生誕80年を記念するための記念論文集の1編として, ドイツ化学雑誌(リービッヒ・アンナーレン・デル・ヘミー)に投稿できた論文が, 先生との最後の共著論文となった.

先生のあの茫洋とした風格からは考え及ばないほど, その反面ちゃんと細かい事にまでよく気が付く繊細な感情と鋭敏なセンスをもたれていて, 至らぬ隅もない人情味の通人であったと同時に, アップ・トウ・デートの問題への鋭い関心の持ち主でもあった. それは先生が今日ある姿の広島大学医学部, 又は新制岡山大学の基幹作りに, 御自身の健康を省みず東奔西走されたことをみればおのずから明らかであるし, 岡山大学の津島校内にある体育館の玄関に立てば, あの言うに言われぬ先生の像姿に接することができるのもそれ故であろう.

先生はたくさんの知友をもたれていたが, それらは一度, 先生の深いヒューマニティーと暖かな人間性に直接触れ, 先生の人徳に魅せられた方々であったと思う. 先生の膝下にあること20有余年, 鴻鵠の翼に抱かれて成長したようなもので, 私にとって先生は空気のようなもので, 先生について語ることは現在でも誠に困難で, ただ私の胸の奥深く常在することを何かにつけ感ずるのである. この先生の膝下にあった長い年月, 先生のお怒りになった顔を1度も見たことがない. 喜怒哀楽を色に表さざるを君子と言うそうであるが, 先生は喜びや楽しみはさることながら, 怒りや悲しみの情は, これを外に表して人に不快な感を与えぬだけの度量の広さと寛容さをもっておられた. 温容常に駘蕩として, 激越な調子などいかなる場合にも見受けられなかった. この点, 深く先生に学ばねばならぬと今でも思っている.

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人生行路

数野太郎 昭和62年

序文

昭和62年2月2日で80才の誕生目を迎え、元の教室員が集まつて傘寿のお祝いをしてくださつた記念のために、私の歩んだ長い様で短い年月を、初めは自分の記憶をもとに、後は日記をもとに、自分の歴史を記して子孫に残したい為に、ワープロの出現を機会にこれをものにしたわけである。
既に私の研究の歴史を綴り印刷発刊(過去と未来、ある思索の道)して研究の協力者に贈呈した本の巻末に数野家系として記載してはあるが、数野松次郎(父)とスギ(母)の次男として(姉3人と男3人の兄弟)香川県志度町の半農半魚の寒村に生をうけたが、健康に育ててくれた両親に心から感謝の誠を捧げたい。海岸に面した住まいで何不自由なく生長することが出来たのも、祖先の残した財産と両親の努力の賜物である。
明治時代の末期から大正時代、そして昭和時代の今日、国家の変動期に生長し、その生活もランプの時代から電気が付き電車が走り初め、間もなくホロつき自動車が馬車にかわる交通機関となり徐々に汽車が普及して全国に開通したが、その間軍備も増大して行き隣国中国ばかりでなく、南方諸国を占領してついには米英を相手に世界戦争となり、多くの同胞の血を流して敗戦となり、平和が戻つたが国は米国の占領下に荒廃の極にたつした。

昭和20年(1945年)8月15日(敗戦の日)以後の日本社会は其こそ変動の日々であつた。戦時中米国の日本都市空襲に使用されたB−29の飛行機が最初の交通機関となり各国の距離を短縮したが、この飛行機も双発のゼツトから4発のゼツトとなり地球を益々狭いものに変えて行つた。人が月面に立つ様な時代となり、天空には通信衛星がうようよ打ち上げられ地球上の出来ごとは直ちに人々の耳に入る時代となつた。今に天空3万メートルに宇宙基地が出来る時代となろう。

兄の援助で昭和4年金沢医大付属薬学専門部に入り昭和7年3月ここを卒業したがこの年の初めに上海事変が起こり日支間に風雲急をつげる事となつた。然し金沢の浅野先生のお世話で先生の友人であつた岡山医大の生化学の教授清水先生の教室にはいり、先生のライフワークであつた胆汁酸の研究に取り組む事となつた。昭和7年から22年迄清水教室にて研究に取組、多くの研究医師と知り合いになつたが、この間戦争は益々深みにはいり多くの軍医を要する事となり全国の医学部と医科大学に臨時医専を作つて短期に軍医を養成する事を始めた。当時清水先生は岡山医科大学の学長であり臨時医専の化学の講義をする為医専の講師となつた。

その間胆汁酸の研究も着実に進展して、その内のガマ胆汁主成分を分離してその化学的構造を明らかにした論文(ドイツ生化学雑誌)を主論文として当時東大の教授になつていた浅野先生を通して東京大学薬学部に学位の請求をしていたが論文主査に落合教授がなり、昭和16年12月23日に東京大学の教授会を通過した。時あたかも日米英開戦の直後であつた。
昭和17年1月には医専の教授となつた。その為の努力をして研究の進展に努めたが、金沢大学や岡山大学で良い教授との出会が必要であつた。人生は良い友、よい先生との出合が必要であつた事を思う。医学部を出て研究に教室へ来た者は皆さん国の為軍医となつて出征していつた。
20年の4月に広島県の要望により清水学長の世話で広島医学専門学校が創立され生化学の講義に行くようになつた。その後広島医科大学の教授に、清水先生のお世話でスエーデンに留学するようになつたのは本文に書いた。胆汁酸の研究の進展は多くの教室員の努力に依る事は言う迄もないが、特に助手時代からの長い間の共同研究者である穂下教授の努力、増井、奥田両教授の援助に心からの感謝を捧げるものです。

昭和62年(1987年)。傘寿の誕生日に 数野太郎

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特殊胆汁成分の研究

数野太郎 昭和63年

前文

昭和23年4月に広島県立医科大学が開校し、同時に教授になりて呉市阿賀町に生化学教室を開設して以来、多くの教室員と研究者の援助をえて、岡山医科大学生化学教室時代に続いて、特殊胆汁成分の研究に没頭していたが、その間昭和28年8月(1953年)国立に移管して広島大学医学部となり、昭和32年(1957年)には呉市阿賀町より、広島市霞町の現在の医学部所在地に移転して教室の規模を拡大した。
昭和33年(1958年)8月にスエーデンの首都ストックホルムにあるカロリンスカ研究所生化学教室(ベルヒストローム教授)に留学して、近代科学の洗礼を受けて帰国した。そして教室における研究の近代化と研究の進展に努力を傾注して、昭和45年(1970年)3月をもつて広島大学を定年退職した。
その間に多くの研究員の助けを借りて得た胆汁成分についての研究成果のうち、主要な研究成果は、欧米人にも理解を得るために、全て英文にして各種の欧文雑誌に発表してあるが、今日これらの研究をやられたかつての研究生の皆さんの思い出の理解を得るために、これらの105報に及ぶ英文原著を、日本語抄録に訳して書き上げたものがこの本である。更に Advances in Lipid Research に我々の研究成果を主にして投稿したReviewの日本語抄録をも記載してある。又私の在職中多大の犠牲を払いつつ研究に励まれ、論文を完成されて医学博士号を獲得された方々の研究論文名を、この本に記載して、それ等の方々の労苦に感謝する次第である。最後には欧米人との交友のために文通した手紙の内退職の時整理を免れて手元に残つていた先方からの手紙を再録したものである。

広島大学医学部に在職中編集したMonograph:
(1)論文集:第一巻胆汁酸の生理作用に関する研究(1948−1961年)
(2)論文集:第二巻胆汁酸の化学と代謝に関する研究(1948−1961年)
(3)諭文集:第三巻Stero−bi1e Acids and Bi1e Stero1s.Metabolism of Cho1estero1(1948−1961年)
以上の3巻は教室開講10周年記念に、それまでに完成した研究の別冊を集めて編集したもので、清水先生に対する感謝の意をこめたものである。
(4)論文集:第四巻Stero−bi1e Acids and Bi1e A1coho1s. Metabo1ism of Cho1estero1(1963−1970年)
この別冊集は広島大学医学部を定年退官するに当たり編集したもので、Swedenへの留学から帰国してからの、最もアブラノ乗つた時代の研究の成果でもある。この本に載せた大部分の日本語による抄録はこの時代の研究の成果でもある。
(5)過去と未来(ある思索の道)
この手記は私の生涯にわたつて行つた研究の記録で私の古稀を記念して執筆したものである。
(6)人生行路
昭和62年2月2目で満80才のBirth Dayを迎え元の教室員が集まりて傘寿のお祝の会をして下さつた記念のために、私の歩んだ長いようで短い年月を自分の記憶と日記をもとに、自分の歴史を記したものである。

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スェーデンのカロリンスカ研究所に留學して
数野太郎 平成3年

Sweden StockhholmのKaroIinska生化学に留学して

1958年の米軍占領下にStockholmに留学して、放射性物質の取り扱い方法を収得したことは(日本国内では禁止されていた)、なによりも重要なことであった、目に見えない量で、その有する放射能だけで物質を追及するChromatoraphy法、Paper Chromtography法とGaiger counterのみで、この物質が何であるかを知ることができる方法は、貴重である。日本へ帰つてからの私の業績を見れば一目瞭然である、いかにこの方法が重要であるかが判明する、丁度核爆発がそこの住民に偉大な影響をもたらすかを知る事と同じである思う。
欧州各国を巡り、その風習なり国民の考え方、米国の人々の思考の方法を知り、得たことは何よりの収穫であつた、最とも驚いたことはスエーデン人の行動で、特に変わったことは、若いときに男も女も自動車の免許を取る事、娘も良い男性を見付ける事、老人になれば国がその面倒を見るので、働かない人が多い事(医者は別であるが、女医者が多い事)、従いて若い男性に根性がない一国の広さは日本と同じようだが、人口は千万人足らずで、老人福祉の面で昔から有名な点は、人口の少ない点である一うなずける、鉄鋼石は米国に輸出し、木材は全国的で、気車で北に行くと森林の間をどこまでも走り、駅舎もなくて、ただ二本のレールがあるのみで、いかに森林が多いかが知れる(しかし寒いので大木はないが、年輪が狭くて、スエーデンの家具は有名である)。

スエーデンは女性優先で、教室で婦人と歩くと扉の前で必ず連の男性が扉を開けること、若い男女が仲良くなると、ほかの人は知らん顔をする、教授の家に呼ばれると、その奥さんが横に座り、主人がその客をもてなす(日本の習慣とは逆である)、然し奥さんが客をもてなす準備をするのであろう(スエーデン人でも、その逆のケースが時にある)、老人になると、別居してそれぞれ年金を貰い、時に一所になるケースもある(一つの家に住むと、年金は一人前しかくれないから)、土地も家も国のもので、家が古くなるか、すると再建築してくれる、家は4あるいわ5階建の大建築でその内に多くの家族が住むので、そのうち一家族は寒い冬の暖房の機械を取り扱う、その入口は必ず二重扉になり、入ると上の階に通ずる階段とエレベーター(4または5人乗りの)が必ずある、一定の年令になると国から、たれでも年金を貰えるので、現在勤めている人は沢山の税金を支払う必要がある(例えば教授は月級の半分は税金で取られる)、スエーデンの福祉は、あまりにも有名であるが、これお支えるものは国の収入(即ち税金)である、この福祉の現状を見るためにStockholmを多くの人々が訪間する、日本の老人福祉の現状はこれからである。
今日の新聞記事によれば(1991年9月18日)スエーデンの現政府は他の政党に変わるというが、この老人福祉政策に変化はないであろう。

この国は見渡すかぎり平原で、南部の平原では小麦が少し出来るが、食料として輪入される物には税金は全く掛けないのが普通である、果物とかコーヒー、ココア等はそうであろう、エビは近海でたくさん取れるが、生の物は販売も禁止され、湯を通さないとだめである(寄生虫のためか)。
私は給料として月1000クラウンの約束できたが、その20%は税金で引かれる、話題はTax(税金)で始まり、Taxで終るのが普通である、日本では月給は貰うが、税金をいくら引くか知らない人が多い、私もその一人で、スエーデンに来て税金の重要さをしつた者である。
スエーデンとノールウエイの国境に山脈が繁るのみで、スエーデンは平原で森林と湖の国であるが、ノールウエイは大西洋に面する山の国ということができる、地形は日本によく似るが、スカンジナビア半島上で、天変もなければ地震もないところはスエーデンによく似る。
日本ではノールウエイの首都オスロウでノーベル平和賞の授与式があり、Stockholmでノーベル賞の授与式があること位しか知られていない。
1991年度の外科学会がStockholmで開催されて、岡山医大の関助教授(その婦人は私の第2女である)が婦人と共に出席して、娘の帰宅しての話に、昔のStockholmの思いで話に、Stockholmの地図をだして、昔話に花を咲かせた。

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続人生行路

人生の終末にあたり(平成3年)

先に"人生行路"として私生活の大略を書いて、皆さんに配布しましたがその後におこつた世代のなかの様さまの出来事、教室員たちにより開催して下つた喜寿と傘寿の会の同時記録、この会でいただいたVTRの活用で30巻もの、多くの出来事を撮影出来たことは(テレビの映像から転写)、その時代を知るうえで最とも大切なことであるが、この本の主な流れでもあるこれを皆さんにお見せできないことは、はなはだ残念に思われるが、いつかの機会にお見せ出来るものと思う。

終生胆汁酸の研究に取組、動物ではなくてはならない肝臓での胆汁の生成、特に現在まで不明であつた下等動物の胆汁含有特殊成分の解明が出来たのも、多数の教室員の努力の賜物で、その元をただせば"故清水多宋先生"の20年間に及ぶ御薫陶の賜物と思う。

これと同時に体内コレステロール(経口的なものと、おもに腸上皮でAcety1−CoAから合成されるものとの2種類)の余分のものは(1部は血管ヘキに沈着して高血圧の原因となる)肝臓で胆汁さんに分解されて胆汁中に排泄されて、腸管で脂肪の吸収に必須である(コレステロールの母核の胆汁さん核への変換はカロリンスカ研のBergstroem教授、その側鎖の変換機構は我々教室員たちである)。

慎んで清水多宋先生の霊前にぬかずくとともに、私の研究を助けて下さつた多くの旧教室員に感謝の誠をささげる次第である。

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父、数野太郎のこと
広島大学名誉教授(医学部・生化学)

私の子供たち(太郎の孫)は、「そうじゃ・じいさん」とよんでいる。子供たちが何かを話しかけたり、問うたりするとまず「そうじゃ」と返事をして、いろいろと教えてくれるからだ。いつも穏やかで怒ることはない。母は一度も父にしかられたことがないそうだが、私は一度だけしかられて外に出されたことがある。何故しかられたのかは思いだせない。朝早く出かけて、実験や研究で夜遅く帰ることが多かったので、父と話すことはほとんどなかった。

父のことで記憶していること

タバコを吸っていたころ、ピースの缶や空箱の銀紙をもらったこと。
三輪車を買ってくれた時、汽車で三輪車をさげて帰ってくる父を駅まで迎えに行ったこと。
キャッチボールをしてくれたこと。
魚釣に連れていってくれたことが二度。一度は同じ天応の町に住んでいた脈管学会の創設者で当時広島大学医学部生理学教授の西丸和義(やすよし)先生宅から海に出て竹竿で釣りをし、帰りにカルピスをご馳走になり飲み過ぎて下痢をした。そのころ天応町には、現在広島大学の学長をしている耳鼻科の原田康夫先生や、当時広島大学医学部病理学教授の玉川忠太先生も住んでいた。二度目は教室の人たちと一緒に行った蒲刈島での船釣りで、ベラを沢山釣って帰り夜遅くまで母が七輪で焼いていた。
やはり教室の人たちと一緒に錦帯橋のかかる錦川での鵜飼に連れていってくれたこと。この時は夜遅くなり地御前の水口誠先生のお宅に泊めて頂いた。
広島市内で開業されている松原博臣先生の自家用車(たしかルノーだった)で松茸がりに、連れていってもらったこと。途中で自動車が故障して修理のため大幅に遅れて、松茸がりはせずにすき焼きをご馳走になり松茸を沢山お土産に頂いて帰った。
毎年、正月元旦に教室の関係者を家に呼んで朝から夜まで皆で酒を飲んで、皆が帰ると父は母の膝枕でゲーゲーと吐いていたこと。父は酒が強く晩酌もしていた。元旦の宴会では外科の奥坊先生と亀尾先生が酔っ払っていつも喧嘩をしていた。大晦日は家族全員で元旦のご馳走の用意をするのが恒例になっていて、最後に母が巻き寿司を巻くころには、除夜の鐘が鳴り終わっていた。

父の助言

私が中学受験に失敗して、呉の高森先生(歯科)宅へ寄留して越境入学で二河中学へ進んだのは父の考えだと思う。中学時代はよく勉強して、一番上の姉(私には3人の姉がいる)が出た呉三津田高校へ入学した。高校時代は親友と学内外での活動が多くなり、成績は下降気味であった。手先が起用で工作が好きだった私は、大阪大学の基礎工学部で建築設計の勉強をしようと思っていた。当時、ニューヨークの摩天楼の設計のコンペをテーマにした映画に刺激された記憶がある。高校3年生の秋になって進路を決定するために父に相談したところ、医学部に行っても医者以外の道もあるから、とりあえず医学部へ行くのが良いのではとの助言があり、結局医学部を受けることにしたと記憶している。一番下の姉も医学部に進学していた。

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同級生数野太郎兄の偉業に想ふ
安宅三郎(昭7)
金沢大学薬学部同窓会誌より

昭和四入学時は四十名、昭七卒業時は三十三名、平成二年現在の生存者は僅か九名大半の二十四名が死亡。会名は烏頭会(ウズカイ)。卒後五十年記念大会を京都で開催其後毎年五月中旬に同窓会を京都在住の河井勤兄御夫妻の御盡力により最後に残るのは誰れか等と楽しみ乍ら実行しております。

此鳥頭会員九名の生存者中に四十年の長きに亘り大きな業績を残され現在広島大学医学部の名誉教授をなさっておられる数野太郎兄の業績の一端を僭越乍ら紹介したいと思いますが此記事が数野兄の意と合わず却って御無礼であり御迷惑と存じますかと思いますが御容赦の程を。数野兄の業績は吾々鳥頭会のみならず金大薬学部の誇りでもあるかと確信しております。数野太郎兄は香川県志度町の豪農の三男三女の第五子として生れ初め教師を志し大川中学より師範に進み転じて薬学を志し当金大薬学部を卒業と同時に故浅野三千三教授の紹介で先生の東大学生時代の親友岡山大学医学部の清水教授の門を叩くように云われ入門す。

昭和二十三年四月広島県立医科大学開校と同時に医学部の教授となる。此時点より特殊胆汁成分の研究に没頭する事四十年。世界的に名声を馳せた同兄の努力と研究心に改めて深く敬意を表しますと同時に吾々鳥頭会のみならず金大薬学部の誇りでもあると確信しております。三十三年八月スウェーデンの首都ストックホルムの生化学研究所に留学。其他スカンジナビア、アメリカ、英国等にも留学する。

私は同兄の現在の地位に昇るまでの経過を全く知らず僅か三年間の専門学校出が旧制医大の教授になった事が不可解でならず或る年の同窓会の席上で御尋ねした時の返答が『私は(数野兄)最も良き師にめぐり会った事が最高の幸運だった』と謙虚な返事だったがそれでもまだ納得出来ず近年になって五十二年発行の「過去と未来」(ある思索の道)続いて六十二年発行の「人生行路」六十三年に本番の「特殊胆汁成分の研究」の三部の兄の貴重な労作の著書の贈与を受けて拝読して初めて兄の今日の地位を獲得された理由が釈然とし改めて兄の研究心に対し敬意を捧げます。

数野兄の四十年の長年月歩んだ道を大略して大別すると

広島市安佐北区可部町6−13−16に新住宅新築

広島大学医学部名誉教授

勲三等旭日中綬章を夫人同伴で宮中豊明殿、春秋の間にて陛下より授与

以上数野兄の研究の努力の一端を御推察願えれば幸と存じます。尚、同兄は同窓会には皆出席で御健康であるが今後の御夫人共々御健在を祈ります。

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父逝去のご挨拶

胆汁酸の研究一筋に生きた医学者・ドクターちゃびんの父数野太郎(広島大学名誉教授・医学部・生化学)は96歳で永眠いたしました。

父は、平成3年の春に広島市民病院で慢性硬膜下血腫の手術を受けてから次第に痴呆の症状が進行し、同年の秋に私が住む福山に母と共に引き取りました。平成8年の春には肺炎から一時は危篤状態に陥りましたが、奇跡的に回復したものの低酸素脳症のため寝たきりの状態になりました。平成12年の春からは、私と同じ岡山大学医学部第二外科出身で先輩である磯田義博先生の病院で手厚い介護をして頂いておりました。昨年末頃から胸水が溜まるようになり、次第に呼吸が弱くなってきておりましたが、5月24日19時50分、病院の皆様と家族に見守られながら安らかに永眠いたしました。生前のご厚誼に深謝申し上げます。

昨年、母を満開の桜の花で送り、今年は父を満開のバラの花で送ることができました。父が亡くなる丁度2週間前に私が代表世話人をしている「びんご・生と死を考える会」の10周年記念講演会を作家の柳田邦男さんをお招きして開催しました。『最後まで生きる〜人生の課題「生と死」』と題して講演して頂いた柳田邦男さんは、講演の中で「尊厳ある生き方、尊厳ある死に方」というお話をして下さいました。柳田さんのいう「This is my life」と言える人生を送ることができた父は幸せだったと思いますが、痴呆が進行し寝たきりになってからの父からは「どんな人にも尊厳ある生と尊厳ある死を!」という宿題を出されたように思います。遠藤順子さんに「心あたたかな医療」という講演をして頂いた母からの宿題とあわせて、答えは出せないかも知れませんが、私の生涯を通して取り組むことになると思います。これからもご指導とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

また思いもよらないことでしたが、父の葬儀に柳田邦男さんがメッセージと詩を贈ってくださいました。父を偲んで頂ければと思い、この父のページを小冊子にしたものと一緒に皆様に贈らせていただきました。父が生前賜りました御厚情に改めて感謝いたしますとともに、今後も私たちに変わらぬ御指導いただけますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

敬具

2003年6月1日
親族代表  数野 博

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