そもそも言語とは生き物である。時代とともに変化し、自然界に自然淘汰というものがあるが如く、使いにくいあるいは時代にそぐわないものは自然消滅していく(「られる」という表現がそうだというのではない:念のため)。そして自然界に進化というものがあるが如く、あたらしい言葉が生まれ(その時代の人間にとって)使いやすいものはどんどん広まって一般化していく。いわば言葉というものは不変なものなどではなく、また、法律などで「正しい(標準)」ときめられているわけではない。文法というものも、そうしなければいけないという決まりではなく、たまたま現代語はこういう風になっていますよ、ということを学者が体系化したものにすぎない。文部省検定済国語科教科書に載っているものだけが正しい日本語なのではないのである。
つまり、言葉というものは「1+1=2 である」とか「地球は太陽の周りを回っている」といった類の不変の法則ではなく、特にそうあるべきと決められているわけではないが、たまたま多くの人が使うため何となくそうなっているといったデファクト・スタンダード(事実上の標準)に過ぎない。そうでないとしたら「正しい日本語」を使うためには古語(文語)を使わなければならなくなる。さらに言うと、それも実際「正しい」とはいえず、例えば「寒い」ということを表現するのに「チャップイ」というような、やたらと半濁音の多い古代日本語を用いなくてはならなくなる。
だから、「ら抜き表現」も「日本語の乱れ」なのではなく、そのほうが発音しやすいという便利さから生まれたもので、いわば「進化」の過程の一部なので、そう悲観することはないと思う。戦前はデファクトではなかったが、現代ではデファクトになりつつある言葉なのだから。
(2004/12/26追記)
ちなみに「られる」という助動詞は「自発・受身・可能・尊敬」の意味を持つが「ら抜き」言葉といわれている「れる」は「可能」の意味でのみ用いられる。他の用法との区別が付き、たとえば可能の意味で言った筈が尊敬と誤認されるといったことが防げるため、より効率的な方向に言葉が進化したものだと考えられる。