はみ出し高校生のおトボケ回想録



・・・壁の色は、私の学年色「緑」でございます。見にくいかもしれませんが、勘弁して下さい(汗)。


 「15過ぎればただの人」何て俗語があるらしいですね。私はこの言葉を「海がきこえる(氷室冴子著・徳間文庫刊)で知ったんですけど。まさしく私のことだと思いましてね。そこで、私がいかにして、母高校(色々な噂が巷ではあるらしいが)に入学し、どんな生活の3年間だったかを振り返ってみようと思います。これを読んで、高校の進学に慎重になってくれる人がいて下されば幸いです。
第2回 第3回 第4回 第5回 第6回〜11回 第12回〜 特別付録


第1回:序章:高校に進学する、の巻


 そう、思えば私の高校は、第2志望の県立高校であった(ちなみに第1志望は名古屋市瑞穂区にある市立の高校)。ま、親としてはこちらの高校の方が「シボってくれる」し、「何もないからまっすぐ帰ってくる」から、良かったらしいのだが、私は少しふくれていた。なぜなら、あこがれの「定期券通学」ができないからであった。それに、私の当初持っていたこの学校のイメージは「勉強一直線、真面目な人間しかいないでくそつまらん学校」であった。何せ、中学校に置いてあった「学校案内」のパンフレットの表紙が、体育祭の時の男子の騎馬戦の様子(みんな上半身裸)で、それにひどい嫌悪感を抱いたからでもあった(実際、このパンフは評判よろしくなかったらしい(笑))。


まさか、自分が「行きたくねぇ!」と思っていた高校へ入学するハメになるとは!と入学式まで、ホントにふくれていたのである。

 それでも、これも何かの縁だ、第2志望の学校にはそれはそれで何かあるだろう、と、ある種開き直って、入学式当日を迎えることになったのである。

 ここで、普通の読者の方は、「そしたら何でそんな自分の行きとうない高校受験するんや!」とお思いだと思う。まぁ、その辺は15歳の私が、親と公立高校のあの難しい『複合選抜制』からやっとの思いで探し出した掛け合わせだと思って笑っていただきたいですね。



第2回:科学部物理班に入部する


 ふてくされながらも入学した第2志望の県立高校。入学式は何事もなく済み(ちなみに前日の夜、買ったパソコンをいじりすぎて、半分寝ていた)、担任の先生の一言にも『3年間勉強漬けになりそう』というイヤな予感をひしひしと感じつつ、取りあえず終了。

 翌日、嫌々ながら自転車こいで田舎道を20分走り学校へ。当然この日は1日がかり。朝の朝礼、学年集会(生徒指導の先生から(この人は後、私の3年時の担任となる)かなり『五月蠅い』事を言われ、これも私をげんなりさせた。)、学級役員選出(なぜか私はLT委員をやらされるハメに)など、怒濤のように雑イベントを消化、運命の「部活動紹介」の時間がやってきたのである。

 そもそも私は、この高校の部活動に余り興味を抱いていなかった。理由は、あまりにも文化部が少ないからだ。前回登場の「むさくるしい」学校案内に書かれていた文化部は、 「科学・音楽・ESS・JRC・コンピュータ」 たったこれだけであったのだ!なんと少ないことか!!こんな所からも「勉強一直線」ぽさがにじみ出ているなぁ、と感心2割、あきれ8割したものだった。

 それはおいといて。そんな状況で、居眠りしながら、しかし、一生懸命各部活が「ウケ」をとろうと悪戦苦闘している雰囲気を感じつつ、でも緊張している1年生からすると、笑えるものでは到底なく、やはり、この高校の生徒は「みんな堅物だなぁ」という印象を私に与えたにすぎなかった。

 翌日以降、オナチューの仲間達とあちこちの部活を見て回った。結局みんな、中学の部活と同じ所に入部していき、そんな私も結局心のどこかで「科学部に入ろう」と決めていた。しかし、うちの学校は「科学部」が『化学班』『物理班』『生物班』に分かれていたのだ!  正直これには参った。大所帯の化学班をとるか、それとも廃班の危機に瀕した物理班にするか(生物班だけは同じく廃班の危機にあっても初めからout of眼中でしたが(謝罪))、正直迷っていたのだが、隣のクラスのコ(男ですからね。お間違えのないように)が入部すると言うので、 それに引き連られるように私は「物理班」に入部したのである。まぁ、中学時代から白黒写真やっていたし、それが出来るのがここだった、というのも一理あったけど。

 結局、その年僕らと同期で入部したのが9人(!)だった。残念ながら、最後までまともに活動したのが2人だけだったけど。ある意味これは、私の母校の部活動における宿命なのかもしれない。みんな、勉強に忙しくなってしまうから。だからみんな入部動機が「遊べそうだから」とか「親父王 (パソコンでできるシューティングゲーム、映像はショボイが未だ誰もクリアできないと言う素晴らしい(?)作品)が楽しかったから」とかなのだろう。これは、今年の物理班入部生の動機と何ら変わらない(笑)。みんな、娯楽に飢えているのね(爆笑)。

 


第3回:スポーツ大会初参加!物理班写真係誕生

 入部してまもなく、4月の「みどりの日」の目前。うちの高校では「スポーツ大会」が行われた。中学時代とは違い、フィルムを朝、班長から受け取り、自分で好きなように撮りまくればいいらしい。ただ、私のカメラは一眼レフではあるが50mmという、きわめてスナップショット向けの長さしか積んでいなかったため、また、私の腕の下手さも手伝って、なかなか思うような写真は撮ることが出来なかった。

 そんな中、一つ、後に大いに関わってくる問題が発生していたのだ。 そのやりとりの一例。

他人「カメラもって、何しとるわけ?」
わし「部活動」
他人「うちの学校、写真部なんてないがぁ」
わし「いいや、科学部物理班の中に暗室があって、それで出来るわけ」
他人「じゃぁ、それ、カラー?」  ※注1
わし「白黒しかできないもんで」

と、このような会話が教員、生徒を問わず発生したのである。私は正直、自分より学校にいる期間が長いはずの教員の方々が、写真の出来る部活動があることを知らない、なんて事実があることにびっくりした。

 とりあえず、このいきさつにより、私(のみ)が所属する「写真係」が公にも復活したのである。しかし、このとき撮影されたフィルム(他の班員の方々にもご協力いただき、占めて3本撮影されていた)は、過去に使われていた薬品を使い回した上、更に半年間の私の写真現像のブランクも手伝って、ものの見事に全滅してしまった(汗)。正確には、フィルムのネガはちゃんとあるのだが、上手にプリントアウトできないのである。
 だから、未だにこのとき撮影されたフィルムは、学校の暗室の奥底に、私が抹消したっきりになっているであろう。

 今頃、カビはえてなきゃいいけどなぁ(汗)。今度、掃除いかなきゃ・・・。


※注1:往々にして高校ごときの安い部活動用予算では、「カラーネガ」を自家で現像するのは無理なのです。まず、第一に3〜4色の発色可能な、特殊な現像液がいる。それを印画紙にプリントアウトするための特殊な現像機が必要。さらに、カラー用の「生印画紙」は必須です。これらは非常に高価で且つ、一般に入手は困難であるのです。もし、白黒写真の設備一式の金額が知りたいのならば、名古屋市中区栄にある「トップカメラ」の2階をご覧下さい。もし一括で揃えようとするならば、現像液の粉末から初めてタンク、液パッド、果ては現像機本体まで、あなたのアルバイト2ヶ月分の給料は、食いつぶされることでしょう。だから、カラーなんか、我々の想像も付かないくらい、高い設備投資が必要なのです。

第4回:2期考査までの日常生活

 何とか5月のGWの宿題の山をクリアして、1期考査に突入。初めての定期考査は無事(??)クリアし、とりあえずは梅雨シーズンに突入しました。ちなみにこのときは、政経が1点差で赤点を免れたのでありました・・・。某大手予備校に通っていたのにねぇ。何してたんだろ、私。

 とりあえず、実力考査はあるものの、約1ヶ月は何事もない平和な日常。やる事はといえば、まず、部活のさらなる発展に日夜邁進すること(笑)。具体的には暗室の「掃除」ですね。何せ錆だらけなんで擦ればこするほど汚れが出てくる。あまりの凄さに途中であきらめちゃいました。後輩のみなさん、ご免なさい。

 あと、現在も頻繁につきあいのある友人の方々と知り合ったのも、この頃でした。現在の漫画を読む習慣や、アニメを見る癖がついたのも、彼らの影響が大きいですね。ファンタジー文庫(私の記憶が確かならば、そのとき読んでいたのは『五霊闘士オーキ伝』(土門弘幸著:電撃文庫刊・全巻)の4巻だと思います)を読んでいたら、「そのジャンルを読んでいながら『新世紀エヴァンゲリオン』を知らないとは何たること!」といわれて見せられた事は、今でも忘れられませんね。今の私があるのは、明らかに彼のおかげです。それに、隣の化学班にいたあくの強い友人と知り合ったのもこの頃。高校生としては破格の資金力で、ラジオCDやLDなど、購入しまくってた彼にも影響を受けましたね(毎週金曜日は「仕入れの日」と言って、名古屋まで遠征していろいろ購入していたなぁ、彼は)。あと、うちの部活の先輩が、コンピュータ部に入り浸っているのにくっついて行った先でも、同級生と仲良くなりました。偶然とはいえ、そのうちの一部の人は、同じクラスだったんですね。そんなわけで、入学時に提出させられた自己紹介欄に、「趣味:読書」と書き、担任から「本ばかり読んでないで、友人と会話もした方がよい」なんて、保護者会で言われた状況から無事、脱出が出来たわけです(笑)。

 今思うと、あの部活動に参加していなかったら、今の自分はどうなっていたのでしょうか?って言うくらい、影響を受けましたね。良くも悪くも。細かい付き合いなどは、追々ふれることがあるでしょうから、それはそのときに、ということで。


第5回:“部活動 自前のカメラで キャンプを激写(?)”

 無事、期末試験(=第2期考査)を「化学の赤点」のみでクリアし(何が分からないって、1モル=・・・が何よりチンプンカンプン。よってこの公式を使った問題全滅。)、気分は夏休みモード!と言うところで、このイベントを忘れてはいけない。それがこれ、野外学習(=キャンプ)である。私の出身校では、期末考査があった週末に「進研模試」をやらされ、更にその翌週頭あたりで出発、2泊3日で帰ってきた翌日は終業式、と言う超過密スケジュールになっていた。私どもはそのスケジュールの中、各班の決定から、キャンプのスタンツの内容決定・練習までをしなければならなかった(まぁ、本校は多幸とは違い「教員機関車型」だから、生徒は何の企画を出すことなく、毎年お馴染みとなっている通り、パンフレットに印刷されて、それに従えばよいので、他校に比べてかなり楽ではあるのだが)。スタンツの練習は「放課後」午後4時から5時までのみで、午後6時以降の「残業」、学校休業日(土曜日)、及び校外での練習は一切禁止と言う条件下において、かなり厳しかったと記録している。

 私はどういう訳かLT委員の片割れ氏との協議により「スタンツ委員」に任命され、2〜3回ほど会議に出席した。やはり教師主導で、これ担当の教員(3年時の担任)氏はマメなので、第1回会議の時点で、もう「司会進行予定表」を持参してきていた。もはや我々に、「そんなこと生徒に考えさせる暇合ったら勉強させろ」といわん張りであった(ま、発言するほどのアイディア無かった私が今更愚痴ってもしょうがないけど)。

 では、前口上はこれくらいにして実際のキャンプの日程と、私の撮影記録(私の脳味噌の)をお送りしたいと思います。
 初日:朝8時集合。私は趣味で7時30分に到着。使用されている観光バスをチェック。東急鯱バスの旧型車8台。型式を統一してきたあたりはさすが、と感心する。荷物を床下に積み込み、出発式を校庭で挙行。この頃は確か帽子が男子制服にあり、クソ蒸し暑いのに被らされた(その後、休憩と称して浜名湖SAや帰りの恵那峡SA、帰りの日の昼食「おぎのや」バイパス店でも男子はかぶっての下車を強制された。写真を撮る私にしては邪魔この上なかったが)。こういった式典を撮影する許可は得られなかったので大人しく参列し、出発。車中は睡眠。昼食の場「白糸の滝」では若干仕事をし、その日は、西湖畔のキャンプ場で大人しく落ち着く。ま、さすがに夜中はちょっと遊んでましたが(笑)。

 二日目。陸上部が朝練するというので、それにつられてカメラを持って起床。さすがに朝は冷える。身震いしながらも湖畔まで下りてみると、とある先生が自前のサイホンでコーヒーを煎れていた。堅ッ苦しいこの高校にもさばけている人がいると感心した。でも、結局練習はじゃれ合いみたいだったので撮影は遠慮。自分一人で散歩を堪能。
 その後朝食。+昼食のおにぎり(+魚肉ソーセージ;確か食糧管理は私の仕事に。炊事に居場所がなかったので)を作ってハイキングに出発。ところが間に合わない。説教たれられましたが、どう考えたって、飯盒み水入れてある程度こすっておかないと、米がこびりつき後ほど、大変な思いをする事が目に見えているので、こちらの方を優先すべきだと今でも私は思っている。で、えっちらおっちら山登り。危険極まりない崖だった所で一クラス分追い抜き撮影。写真屋さんなど、私よりも重いカメラバッグも抱えてもっと先に行ったので、私の苦労など歯牙にも掛かりませんでしたね。

 で、次の撮影はその夜の余興、「スタンツ」。自分のクラスの発表は、熱血バカ(いい意味で)教員にお叱りを受ける内容だったので、紹介を割愛。ま、でも色々ストロボ使って撮影。舞台前のおいしいところを(火を囲まず)占拠してしてました。この日はこのイベントが延長してしまったので、その後の予定は軒並みカット。私の撮影スケジュールも中止に追い込まれた。

 最終日、本来ならそそくさと片付けして、他人のその様子を撮影しようと思っていたのだが、「飯盒の中ブタがない!」「やかんのふたがない!!」など、訳の分からない事態に陥ったので、これの捜索作業に没頭し、仕事にならず。そのまま出発時刻になり、その後、帰りの道中は疲労から睡眠に没頭。

結局フィルム3本持参したにも関わらず、使用したのは2本。夏休みに現像したものの、以前書いたように、現像に失敗したため、他人様の目に留められる作品になったのは、わずか10点あまり。これを教訓に、次回の遠征イベント、修学旅行時は「カラーフィルム」を使用することにしたのである。



特別付録:一個年下の卒業式に乱入!

 えー、まぁ、表題の通り、今日(3月1日)は、愛知県下の県立・名古屋市立高校は軒並みそろって卒業式。てなわけで、このページのネタを拾いに、私の母高校に潜入を試みました。うちの学校の特徴として、卒業式次第に「卒業生祝辞」「在校生答辞」は前日の『卒業生を送る会』の中でやってしまい、その時間に若干の延長を加えて、「学校長が卒業生一人一人に卒業証書を手渡し」という余興があるのです。これ、在校生にとっては、延々1時間近くも拍手をしてなくちゃいけないという、ある種拷問に近いことを強要されるのですが(注:2年後より、生徒が40人(=1クラス分)増えますので、さらなる苦痛が予想されます)、私は、趣味の「旅行貯金」を済ませてから、その時刻に乱入して、その後「送り出し」まで参加いたしました。

誰にも予告無しで行ったおかげで、私の楽しみにしていた
『何であんたがおるの?!』

と言う反応が見られました。いやはや面白かった。縁の深かった科学部化学班・物理班、コンピューター部、柔道部(なぜ縁があるかは、追々本編で紹介することになるでしょう。特に「柔道部」は)の卒業生に挨拶できたのはまぁ、よかったですね。

 意外な反応を見せてくださった方。

1:学校長。なぜか私の顔を見て会釈して下さった。面識なんて無いはずなのに・・・。
2:第1教頭。なぜか私を見て「1年が経つのは早いだろう?」などと話しかけて下さった。
3:私にタメ口を聞いてくれる在校生(現2年生)の方々

 男子生徒は「あんたテレビに出とらんった?」とか言ってくるし(いや、実際そうだからいいんだけど)、女子生徒は「近鉄パッセの『カフェ・ド・クリエ』で見たよ」、と声を掛けてくれるし(返事は「今度見たらコーヒーくらいおごってやるから、声かけてきな」である。もしその時、持ち合わせがなかったらを考えると・・・)。声かけるべきは私からすれば、もう一個下に当たる今年の卒業生だと思うのですが・・・(笑)。

 送り出しはまぁ、私が体験した1年前と、たいして変わりありませんでした。強いて言うならば、「紙吹雪」。あれ、後から掃除が大変だから引き継がない方がいいよ(笑)。

 その後、特に意味があるわけでもないのに「写真屋家業」に徹したのは言うまでもありません(大笑)。だから私はOBだ、っちゅうのに。

 最後になりましたが、卒業生の皆さん、3年間の「苦行」、お疲れさまでした。皆さんの今後は輝いています。どうぞのびのびと羽ばたいてください。

皆さんの今後に幸多かれ!
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