『……そこは私が踏み込んではいけない場所だったのだ。
後悔と慙愧の念に堪える今ならば、その予兆らしき物もはっきりと指摘できる。
しかし。あの時の私にとっては想像もつかないことだった…』
クオータ
鈍色の空から今にも雪の舞い降りてきそうな寒さの、とある午後。
大根やら長葱やら中身満載のスーパーのビニール袋とリサイクルバッグを軽々下げた二メートル強の青年が、アパートのドアを力強くノックしている。「おーい。オラクル、起きてっか? 差し入れだぞ〜」
彼、オラトリオはそこそこ売れ始めのフリーライター。従兄の絵描き、オラクルと組んで仕事をしている。
一家の主夫で毎日決まった時間割で生活している彼と違い、一人暮らしの従兄殿の方は、創作に興がのると何食も果物やジャンクフードで済ませる傾向があるため、つい心配になってこうして来てしまう。
室内から何の応えもないので、もう二、三発叩く。乱暴なようだが仕方がない。チャイムなんて洒落た物はついていないのだから。「どーせたいしたもん食ってねぇんだろ? ほーら出てこい。オラトリオ様特製おでん、煮込み二日目だぞ」
ついでに言うならインターフォンもないが、こうやって普通の音量でしゃべるだけで充分中まで聞こえる。
「…っかしいな。出かけてんのか? 電話しといたのに。…まさかまた寝込んでるとか」
高熱を出したオラクルが窓を開け放した室内で布団の上にころんと転がっていたのを発見したのは、たしか去年の冬のことである。
「熱下げるため、じゃねぇっつーの!」
急速に広がる悪い予感を打ち消すように悪態をつき、ノブをまわしてみる。鍵はかかってない。
「不用心だな。…入るぞ」
眉を顰めながらも一応律義に挨拶して、グイとドアを引き開ける。
途端に鳩尾がずんと冷たくなる。そこには記憶どおりの光景が広がっていた。
まず目に入るのは真正面で寒空に向かって全開の窓。両側には天井まで届くぎっしりと詰まった本棚。その谷間に敷かれた布団がこんもり盛り上がり、向こう側に少し猫っ毛の薄茶色の頭がのぞいている。
少なくとも今回は布団の中には入っているが…。「お、おいっ! オラクル?」
靴を脱ぐのももどかしく室内に駆け上がり、荷物をその辺に投げ出すように置く。敷き布団の端ぎりぎりの所、床にまで整然と積まれた本を崩さぬよう、歩を運ぶのに合わせてみしみし軋みをあげる本棚の横を急ぎ足で通り抜け、枕元に膝をつく。
「…どうした? 具合悪ぃのか? ん?」
そっと襟元に手をかけ覗き込む。
「ほえ〜? おりゃといお?」
彼を認めて深緋色の瞳が嬉しそうに少し開かれる。
まただ。ろれつが回ってない。「しっかりしろっ! ばか野郎! 何遍言わせる。熱のある時に窓を開けて寝るんじゃねえ」
罵倒しつつも掛け布団と毛布ごと従兄を抱え起こして、その額に自分の額をごんっとあてて熱を測る。
「いたっ」
「熱があるならあると、どうして電話の時に言って…。あれ? 熱…ほとんどないな。下がったのか?」
「誰が… ばかだって?」
至近距離から、すっかり座りきった目と声が返される。
「おでんが来るからって、わざわざ掃除して待ってたのに」
寝起きにいきなり覚えのない馬鹿呼ばわり、あげくに頭突きときては、オラクルも不機嫌になろうというもの。
「〆切明けだし久しぶりに隅々まできれいにして、換気も完璧にすませてお迎えしようとしてたんだぞ〜」
まだよくまわらない舌で懸命の抗議をする。
「お前ぇが寝こけてるから勘違いしたんだよっ」
オラトリオの方も不安の大きかった反動で、怒りも大きくなる。
「そんだけ大事なおでん様をお迎えするなら、なんで寝てるんだ」
「寒かったんだよ」
「真冬に窓開けてりゃ当然の結果だ」
「埃がなかなか出て行かないからどんどん寒くなってきて、セーター重ね着しても我慢できないし。仕方なしにお布団に入ってたんだよ」
「…で眠っちまったわけね」
なんだか盛大に脱力してしまうが、これだけは言わねば、と力を振り絞るオラトリオ。
「頼むから窓は…いや扉もきちんと閉めてから寝てくれや。俺の寿命のためにも」
オラクルはまだ何か言いたそうにするが、結局やめて頷く。
「…うん。気を付けるよ。……ごめん」
「…俺も、その…早とちりして悪かったな」
「いつものことじゃないか」
「ひでぇ…」
くす、と笑いを含んだ声音で言い力を抜いたオラクルの重みに押され、同じくほっと一息つきかけていたオラトリオは後ろにとんと腰をおろす。従兄入りのひとかたまりを抱え込んだまま。
「お、っと…」
「…あ」
オラトリオにのしかかる態勢になったオラクルが、はっと叫ぶ。
「だめ!」
妙に焦ってきっちり巻かれた布団から苦労して片腕だけ抜き出し、相手にまわす。そしてぐっと引き寄せる。
「だめ?」
オラトリオが聞き返したその瞬間。
「いらっしゃいますか? オラクル。ドアが半開きですが…」
軽いノックの音と伴にかけられる、やわらかな男の声。
「ま、待てっ!」
思わず声の方に手を伸ばし制止するが、構わず素早く開かれる扉。
「…おやおや。お邪魔してしまったようですね」
銀縁の眼鏡の縁に指をかけ、どことなく楽しげな冷笑を唇にのせ、玄関のたたきに立つスーツの青年。彼らの担当編集クオータだ。
「ああ… よりにもよって一番見られたくない野郎に…」
伸ばした片手を何気ないふりで畳に落し、聞こえないように嘆息するオラトリオ。
「クオータ。どうしたんだい? 今日打ち合わせだっけ?」
腕の中から悪びれるようすもなく挨拶する大物。
「いえ。アポはとってなかったですね。近くまで来たので寄ってみただけで」
「他の作家がいるわけでなし。近くに他の用があるもんか」
オラトリオが聞こえよがしにぶちぶち文句をたれるのをすっぱり無視し、喉を鳴らすネコさながらのにんまりで言葉を継ぐクオータ。
「おかげでいいものを見せてもらえました」
「へえ、なんだい? いいものって」
にこにこと尋ねているオラクルをよそに、無駄とは思いつつも凄んでみせるオラトリオ。
「言っとくが、こりゃ、お前が邪推しているような状況じゃねえぞ」
「邪推? 『ありもしないことをゆがんで推察する』? …日本語は正確に使ってくださいよ。文書きなんだから」
「…これで弱みを握ったつもりじゃねぇだろーな」
「とんでもない。たったこれしきのことで?」
心外だと言わんばかりに傷ついた表情を作り肩を竦めるクオータ。
「でもね。一言忠告させて頂けるなら…」
すっと声を顰め、真剣な面持ちで言う。
「鍵はかけた方がいいと思いますよ」
「だあぁ! だから違うと言うに!」
「鍵ね。うん。オラトリオにも言われた」
「そうでしょう」
「セーター三枚も着て布団に入ってていいことするヤツがいるか!」
「二枚、なんだけど」
「二枚も三枚も同じようなもんだ。この際」
「そうなんですか? 大事にくるみ込まれていて見えませんが」
「こっちに来い。来て自分の目で確かめろ」
「大分違うと思う。いくら私だって三枚重ねはしないよ」
「これ以上お二人のお邪魔をしたら悪いですし」
「ぜーんぜん悪くない。あらぬ誤解受けたままよりは!」
「ホント誤解だ。第一、三枚も着たらもこもこになって冬眠前のクマみたいじゃないか」
「寝ているだけならクマだろーがなんだろーが構わねぇだろ」
「では。失礼します」
局地的に文書きと絵描きがもめている間に、皮靴を脱ぎすたすたと室内に上がりこむ編集。
「もこもこだと気分よく眠れない…あ! それ以上近寄るな!」
我に返って大声をあげるオラクル。
「ほら。相棒はこうおっしゃってますよ?」
えたりとばかりに薄く笑うクオータ。
「…なんでだよ。お前だって嫌だろ? 妙なこと言いふらされるの」
「言いふらしたりしませんよ。秘密は知るものが少ないほど効き目があるんですから」
「効き目… 何もやましいことしてないのになんで脅されなきゃなんねぇよ。来いったら来い!」
「じゃ」
オラトリオとは反対側の壁際の『道』に進むクオータ。ぎしぎし不気味に鳴る本棚。
「だめだってば〜」
オラクルの悲痛な声が響く。
「そんなに恐がらないでください。…何もしませんよ」
ちょっと立ち止まって宥めるように掌をオラクルに向ける。
「その言い方…悪役すぎるぞ」
「どうせ悪役。『鬼の編集』ですよ」
自嘲気味に言い捨てて踏み出したクオータの身体が、不意に沈む。はたから見ていてもわかるほど5センチ以上。
「え?」
同時にオラトリオの足元がふわっと浮き上がる。
「お?」
慌てて立ち上がるオラトリオ。反動でうねる床。クオータの傍の本棚のてっぺんがゆらりと手前に傾いでくる。
「押さえろっ!」
「あなたに言われなくったって!」
身体をひねり両手で枠を押さえるクオータ。棚の傾きは止まったが中の本が埃を舞い上げてどさどさ抜け落ちる。反射的に目を閉じたところに足の甲に重い図版の直撃。
「ぐ!」
たまらず膝を折り、支えの手が弛んだクオータに残りの本が容赦なく追い討ちをかける。
助けに行こうとしたオラトリオにも背後から本棚がおおい被さる。「む!」
背中と大きく横に広げた腕で食い止めるが、頭上で本棚上部だけが折れて中身と一緒にばさばさっとくずおれてくる。
「どわぁ!」
それでもクオータの二の舞にはなるまいと意地で堪える。だが。斜めになっていた下半分が自重に負けて更に二つに分離し、膝裏に重い一撃をかけるに至っては、足払いをくらった格好で前のめりに倒れるしかない。
後は。無情に降り注ぐ、本の雨。あめ。アメ・・・。
六畳の部屋の中は暫く、いつ果てるともしれぬ倒壊の音と押し殺した悲鳴、悪罵、もうもうたる埃に覆い尽くされたのであった。
窓から吹き込んでくる寒風にようやく埃が晴れる。
「…せっかく…掃除したのに」
部屋の中央、全く変わらず布団の中で半身を起こした姿勢のままの一人が、哀しげにぽそりと呟く。
それに対して抗議の唸り声が2匹分、壁際から立ち上る。「あ。怪我…しなかった、よね?」
思い出したように左右の山の下に呼びかけるオラクル。
分解した本棚の部品と本に埋もれ憮然と座り込んでいる二人から、ようやくうめき声ともつかぬ返事が返る。「…こぶ程度です。たぶん。…本と本棚の雪崩で打ち身・捻挫…きっと労災は降りないでしょうね」
分厚い画集を頭と肩から慎重に除けながらこぼす、クオータ。
「…俺は平気だが…地震があったらどうするんだ」
腰まで本に埋もれて苦々しく言うオラトリオ。
「それで簡単に三段に分割できる軽い本棚にしたんだ。突っ張り棒の代わりに天井まできっちり本を詰め込んでおいたし。『重力集中点』に平均的大人二人以上の体重が掛からなければ、揺らぎはしても崩壊の恐れはないのと、寝床には降ってこないのも確認済みだったんだけどなあ」
頁が開いて落ちた本を拾っては、傍らに置き直しながら、とうとうと説明するオラクル。
「…実験してたんかい、お前」
「先に教えておいてくれれば、みすみす踏まなかったものを…」
違う種類のため息を、それぞれ深々とつく二人。
「今度から、ちゃんと前もって言うから」
「根本の解決にはなってないな」
「じゃ。とりあえず、大部分を段ボールに入れて、その上にお布団敷いて寝るかな」
「…今度は床が抜けるぞ。今でさえふにゃふにゃなのに」
「もっと丈夫で広い家に引っ越しなさい。それくらいの稼ぎはあるでしょう?」
「探してるけど。なかなか見つからなくてね」
「贅沢言っていては見つかりませんよ」
「贅沢じゃないよ。雨漏りさえないなら古くてもいいし、本が全部無理なく収納できる広さがあって、なるたけ離れてない所がいいなあってだけで。ここ便利だから」
「微妙に、そこはかとなく贅沢な気もしますが…」
「俺も時間ある時手伝ってやっから。いいのがないか、商店街のおっちゃんおばちゃん達にも聞いてみる。…五丁目の北の方なんか狙い目じゃねぇか?」
「足元見るような不動産屋なら私が交渉しましょう。腕の奮い甲斐があると言うもの」
「お前、嬉しそうだな」
「担当作家達が怪我して入院でもした日には、商売あがったりですからね。オラトリオは指一本でも動けばキーボードを打てるから、まだいいですけど」
「どこがいいもんか」
「…ありがとう。オラトリオ。クオータ」
「え?」
にっこりと礼を言うオラクル。
「私はいい友達を持ったよ」
「お互い様、さ」
にっ、と笑みを返すオラトリオ。
対照的に、クオータはかぶりを振って否定する。「…ですから。全ては仕事のため。ひいては何事も自分のため」
「うんうん。仕事極めるタイプだものね」
一緒にまじめな顔で首を振るオラクル。横でにやにやしているオラトリオ。
コホンと空咳をしてから、話を変えようと皮肉を言うクオータ。「いや、しかし。私も何年かこの仕事をやってきて、色々な作家を担当しましたが、本棚に押し倒されたのは初めてですよ」
「ほう。作家にならあるのか?」
「あ、り、ま、せ、ん!」
「人生、何事も経験だ」
「そんな経験つんでどうするんです」
「何にでも最初ってもんがある」
「私も初めてだよ。天井が抜けるってジョークは聞いたことあったけどなあ」
しみじみと感激しているオラクル。
「天井?」
「『未来のある日、なんじの隠居所の天井が突然抜け、長年かけてため込んでいたペリーローダンとグインサーガとこち亀とゴルゴが降ってくるであろう』ってやつだろ」
「私達が隠居する頃には一体…全部で何キロ、いや何トンあるんでしょう」
「大丈夫。こち亀とかは買ってないから」
何故かエヘンと胸を張るオラクル。
一瞬間をおいて。「あなた、天井裏にも本を置いているんですか!」
「オラクル! そーいや手塚治虫全集どこに仕舞ってるんだ!」
「『また買った』とか聞く割には増えてないと思ったら!」
血相を変えて詰め寄る『よい友人』達。
「えー? 梁とかを使ってちゃんとバランスとってるよ?」
異様な迫力にたじたじとなりながらも抗弁する。
「大丈夫じゃない! ここは桧の柱の豪邸じゃないんだ」
「天井が抜ければその重みと衝撃で床も抜けますね」
「そうすりゃ、お前もだけど下の部屋の奴も怪我じゃすまねぇぞ」
「それは困るな」
「…わかりました。私が一週間以内にもっと広くて丈夫で安い所を探してきます!」
悲壮な決意で宣言するクオータ。
「一週間? そりゃあまりに無謀じゃねーか?」
「事態は一刻を争います。一週間でも遅いくらいかも。今こうしている間にも…」
一同無言で天井を見上げ、その後視線を転じて床を見る。
「『頭上の脅威』…」
「『眼下の敵』? あはは…」
つい、乾いた笑いが漏れる。
「私が探している間に、あなた達は荷造りを始めておくこと」
「たち〜?」
「オラトリオ、あなただって相棒がいなくちゃ困るでしょう?」
「そりゃ、もう」
「忙しいですよ。新居が決まったら次の締め切りにかからないように引越し予定を立てなくてはいけませんし。あ、今のアパートの大家にも挨拶して敷金を返してもらわなければ。…でも。この床の状況がばれては敷金没収に。どうしましょうねえ…」
システム手帳を懐から取り出し、うっとりと計画を立て始めたクオータに、諦観の吐息をつくオラトリオ。
「…今週、来週、地獄のハードスケジュールに決定だな」
「…そのかわりきっといい物件見つけてきてくれるだろうね」
少し鼻白んで、笑うオラクル。
「こいつが俺達にここまで明言して、『見つかりませんでした』では済ませねえだろうからなあ…」
「そこ、何をごちゃごちゃ言っているんですか。希望条件を具体的にリストアップしますよ。広いのがいいと言っても、実際何部屋あれば収納できますか? 古さの許容範囲は築何年まで? マンション? それとも一軒家がいいんですか? あ。そもそも予算は?」
「庭! 庭があるといいぜ。みんなでバーベキューとかできるしよ」
「あなたの希望は聞いていません」
「庭に… 土蔵があるといいなあ」
「はあ?」
「丸ごと書庫にできたら言うことなしだ」
「…このあたりには倉付きの家はありませんよ」
「そうかあ。クオータなら知ってるかと思ったんだけど」
「心に留めておきましょう。留めるだけですからね。期待はしないように。次は?」
「自然光が差し込む部屋が一つは欲しい。あ、西日は御免だよ」
「絵描きらしいご要望がでましたね」
「長い時間ぽかぽかの縁側も憧れなんだ。だって日だまりで昼寝していたはずなのにいつの間にか日陰に取り残されていた時のショックって大きいよね」
「…オラクル。それ必要不可欠ですか?」
「できれば」
「う…ん。まずは最低限の線から攻めましょう。…蔵書の量を正直に申告してください」
「…えーと」
オラクルの口にした数字に、強烈な目眩と座り眩みを感じる二人。
「そ、それの入る家を一週間で探すんですか」
「それを…家事の合間に一週間で荷造りするのか」
歯を食いしばり頭を強く振って気合いを入れるクオータ。
「…一週間…ですね。楽しみに待っていてください」
鬼気迫る凄そうな笑みをうっすらと浮かべて背筋を伸ばす編集の、そのようすには、我が身の不幸も忘れてつい同情を禁じ得ない文書きであった。
そして一週間後。
大方の予想通り、クオータは条件どおりの新居発見の報告を入れにきた。さりげなく振る舞ってはいたが、その体重はオラトリオの目視測定によると五キロは減っていたらしい。
真偽の程は定かではないが、怒涛の引越し終了後にクオータが倒れてしまったのは、事実だ。
その後、担当する作家と『約束』をする時に、前にも増して慎重のうえにも慎重を期して行うようになったことも・・・事実である。