縁側に座って家主はぼ〜っと空を見上げる。真夏の夜の六時なんてまだまだ明るい。でも確実に日は終わりに向かっていて、うだるような暑さだった空気も心なしか、涼味を帯びてきたように感じられる。陽射しが和らいだのもさることながら、夕方になって吹き始めた緩やかな風がその一助となっているのだろう。
当座の仕事も終わり、何もしなくてもよい贅沢な時間を満喫する。これで『みんな』が来てくれれば言うことなしなんだけどな、と小さく笑う。別に何がある、という訳でもないのに。
夏の前半に固まっている盆踊りや花火大会、夏祭は〆切に追われているうちに過ぎてしまった。組んで仕事をしている従弟も同じ事情だったが、あっちはもっと大騒ぎだった。一人暮らしの彼と違って小さい弟たちがいて、祭りにつれていく、と約束させられていたらしい。それが反故になって一番下の弟などはしばらく口もきいてくれなかった、と憔悴してぼやいていた。
『・・・それじゃ、ちびはお祭りに行けず終いか?』
『いんや、パルスとシグナルがつれてってくれた』
『そうか。それならまだよかったな』
『ああ』
ふ、と脳裏に浮かんだ会話とその時の従弟の表情を思い出してくすくす笑う。上の弟二人をからかいまくる困った『兄』が実は救いようのない兄バカなのは意外に知られていないらしい。まったく素直じゃないからな、あいつは、と年上の余裕で断じる。
明るい碧から暮れなずむ紫とも藍ともつかぬ色に染まっていく空をもう一度、振り仰ぐ。軒先に吊るした古風な南部鉄の風鈴が風に揺れてちりん、と澄んだ音を奏でる。
「・・・あつい、ね・・・」
ぽつり、とつぶやくと空気の暑さが身体の中に気持ちよく染み渡ってくるような気がしてまたひとしきり笑う。その耳にきぃ、と庭に通じる開き戸のきしむ音が届いた。
「なぁにを一人で笑ってるかな? あいっか〜らず安上がりに極楽してんのか?」
ほとんど野草だらけの土を踏みしめて現れた巨大な男に目をやってにっこり、と挨拶。もちろん、このにっこり、は男の手にある大きな包みに向けたもの。
「やあ、オラトリオ。どうしたんだい?」
どうやら彼のにっこり、の意味を正確に汲み取ったらしい。オラトリオがはぁ、とこれ見よがしにため息をついてから応える。
「どぉっせぼんやりしてんだろ〜と思ってな。優しいオラトリオくんが食事の用意をしてやりに来た」
その言葉にくすくすっと笑う。
「う、そ。バーベキューだろ? たぶん来るんじゃないかと思ってたんだ」
「あのなぁ・・・下拵えするのは結局俺じゃねーか・・・」彼のツッコミにもめげず、縁側に荷物を置いて着々と準備を始めながらオラトリオが文句を言う。正しいが、誰に手伝わせる気もないくせに、と笑う。だが、これで一人きりだったはずの夕暮れは楽しいものになりそうだ。従弟の弟たちも後から来るだろうし、久しぶりにその姉にも会えるかもしれない。それにオラトリオのことだ、気心の知れた友人たちも呼んでいるだろう。
「ああ、そだ」
ふ、と手を止めたオラトリオが彼を振りかえる。なんだろう、と思った視線の先にひょい、と片手で差し出される大きな緑と黒のボール。
「西瓜、持ってきた。冷やしといてみんなで食おうぜ」
両手で受け取ってぽんぽん、と叩いてみる。適度な重さと手に戻ってくるよい響きの音に満足して抱え直す。
「それじゃ、井戸にでもつけてこよう。この大きさじゃ冷蔵庫には切らないと入らないからね」
引っ越して数ヶ月。この家にある井戸を掃除して使えるようにしたのは夏になる直前だ。生活用水にしている水源とは別に庭の片隅に家庭用のビニールプールくらいの溜め池を作ってあって、常に井戸水を少しづつ循環させている。いつもきれいで冷たい水が張られているそこはやたらと広い庭の散水に使っているが、本物の井戸と違って落ちたりする心配もないから従弟の末の弟が水遊びをしたりすることもある。今日はそれがちょうどいい冷蔵庫の役割を果たしてくれそうだった。
大きな西瓜を抱えて庭を歩く。適度に野生味を残したそこが元はジャングルだったなんて、もう考えられないな、と笑う。きらきら光るような水に西瓜をつけてさて、と伸びをしたところで新たな客の声。
「こんばんは、オラクル」
柔らかく微笑みを含んだ声に振り向くと、夕映えに負けないくらいの小柄な美人がにっこりとそこに立っていた。後ろに無愛想この上ない大きな影を従えて。
「やあ、カルマ。いらっしゃい。クワイエットも来てくれたんだね」
旧知の友人たちの揃っての訪問ににっこり、と笑みを返す。クワイエットが軽く頭を下げる。オラトリオはちゃんと彼らも呼んでくれたらしい。喫茶店が休みの日だからだいじょうぶ、と踏んだのだろう。
「お言葉に甘えてお邪魔しにきました。早速ですが、氷、作らせていただけますか?」
「氷ならいっぱい作ってあるよ」なんだろう、とカルマの手にある色とりどりのビンが入ったスーパーの手提げ袋から相変わらず無言のクワイエットに目をやって。ああ、と納得する。
「カルマたちはかき氷の当番なんだね」
にこにこ、とカルマがうなづく。ということは、大男の抱えているのは家庭用のかき氷器だろう。
「ご飯やおかず以外で何か、ということでしたので」
業務用を借りに行ったら『これで充分だ』と言われてしまって、と美人がくすくす笑う。
「クワイエットが作ってくれるなら安心だね。そういえばクイックは?」
「・・・昨日から学校のキャンプに行っている」寡黙な男とも気楽に言葉を交わして庭へと案内する。
「オラトリオー、カルマたち、来たよ」
「おー、いいとこに来た。よし、クワイエットもいるな? ちーと手伝え」二人を連れて縁側へ回る。折り畳み式のテーブルを持ち出してざくざくとバーベキューの下拵えをしていたオラトリオが指示を出す。年若い子たちが来る前に全部準備を済ませないとまた大騒ぎになるから。
指示に従って引っ越し祝いにもらったバーベキューセットを納戸から出してきて、また笑う。『オラクルーっ♪ お祝いっ! みんなでやろうねっ♪』 そう言ってこれを持ってきてくれたのはシグナルだった。きっと今日は大満足してくれるだろう。
組み立てをクワイエットにまかせて彼は持ち出した七輪で炭火を熾す。新聞紙一枚と火付きの早い小枝があれば炭に火をつけるなど、たやすい。しっかり火のついた炭を種火にしてバーベキュー台に充分熱の行き渡る量を熾す。それを台に移したところで、オラトリオのほうも一段落したようだ。
「おっしゃ、こんなもんだろ」
「食器の準備もできましたよ」縁側と空き箱や折り畳み椅子などを使ってきれいにセッティングされた庭に夏の夕日が最期の一筋を投げかける。ちょうどいい頃合いだった。
「オラクルーっ!」
「オラクルく〜ん! きましたぁ」見事なタイミングで聞こえてくる元気な足音と元気な声。少年が幼い弟を抱いてこれまた元気よく手を振っている。その後ろからはゆったりと歩く、青年になりきってない少年。従弟の弟たちだ。
「シグナル、ちび、パルス。ちょうどよかった。今から始めるよ」
「やたっ! なーいすたいみんぐっ♪」
「浮かれてねーで焼くのくらい手伝えっ!」
「はーいはい! のっけてけばいいんだよねーっ!」
「くぉら! ちったぁ頭使いやがれっ! それじゃ焦げるだろうがっ!」
「うるっさいなぁ! じゃ、オラトリオ、やってよーっ!」
「しぐなるくん、おらとりおおにーさん、けんかはいけませんよ?」たちまちにぎやかになった場に目をやって微笑む。本当に元気でいいなぁ、とぎゃいのぎゃいのとやりあっている子どもたちを見る。
そうしてバーベキュー・パーティーは始まった。
「おや、にぎやかですね」
第三弾くらいの串に刺した野菜や肉がおいしそうな音をたて始める頃、もう一人の訪問者。ビジネススーツの背広片手に現れたのは彼らの担当編集だった。
「クオータ。遅かったね」
にこにこと手招きする。カルマがお疲れさま、と冷たいおしぼりと麦茶を差し出している。
「すみません、ちょっと打ち合わせが長引いてしまって」
襟元を緩めながらいつも通りの口調で応えるクオータが、それでもくつろいで見えるのがうれしい。こんな席でまでぴりぴりするのはやっぱりよくない、と一人うなづく。
「そうだ、きんぎょ、つれてきました」
麦茶で一息ついたところで、クオータが差し出したのは夜店のきんぎょすくいで入れてくれるような袋に入ったきんぎょ。思わず受け取って笑う。
「うわぁ、かわいいな。ありがとう、クオータ」
「えーなになに? わ、きんぎょだぁ♪」
「きんぎょですー、かわいいですねぇ、くおーたくん!」袋の中、すいすい泳ぐ二尾の金魚に子どもたちが歓声を上げる。そして頭上から降ってくるもうひとつの声。
「・・・をい・・・なんできんぎょなんだ・・・?」
両手に焼きたての串をのせた皿を持ってオラトリオがぼやく。それを見上げてクオータがにっこりと笑う。
「え? ご飯やおかずの材料以外、ということでしたから」
一瞬静まりかえる、場。湧き起こる爆笑の渦。困惑する表情がなんともクオータらしくて笑いが止まらない。
「クオータ、クオータってば最高っ☆」
「あ・・あの? なにか、変でしたでしょうか?」
「・・・も、いい・・・お前にじょーしきを求めた俺が悪かったよ・・・」それぞれに笑ったり受けたり、疲れたり。きんぎょをカルマが持ってきてくれた硝子の器に移してバーベキューの続きに戻る。そろそろ食事も終わってデザートタイム。寡黙な喫茶店マスターがかき氷を作り始めている。
「ちびちゃん、シグナルくん。シロップは何になさいますか?」
「しろいのがいいですー!」
「ぼく、イチゴミルク〜っ! ミルク、たっぷりねっ♪」
「はいはい、みぞれとイチゴミルクですね」助手を務めるカルマが手際よく子どもたちの要望に応える。やったー、と手を打ちあわせて喜ぶ子どもに、にこにこと視線を向けながらクオータとビールなど酌み交わす。
「はい、当たり入りですよ」
「わーいっ! ありがとうっ!」
「かるませんせー、ありがとうですっ!」
「ちび、ほら気をつけろよ。こうやってゆっくり回りから崩して・・・」
「はいっ! こぼさないようにたべるんですねっ!」楽しそうな声に視線を向けつつ、一段落したオラトリオが彼の傍へやってくる。ずっとバーベキューの面倒を見ていたからさすがに疲れたのだろう。
「あっち〜・・・お、さんきゅ」
お疲れさま、とクオータが差し出した冷えたビールを半分ほど干して、オラトリオが笑う。彼と同じく、仕事に忙殺されている間に去ってしまおうとしていた夏をなんとか弟たちにプレゼントできてうれしいのだろう、と思う。
「まったく・・パルス、ま〜た寝てやがる・・・」
いつもならたたき起こしにいくのに、今日は文句を言うだけで笑っているオラトリオ。夏休み中、下の弟たちを見ていたのはパルスだったというから、オラトリオなりの感謝の気持ちと見える。
「あはは。縁側、気持ちいいのかな?」
「ほんとうによくお休みになりますねぇ」かき氷の器を持ってやってきたカルマが声を低めてくすくす笑う。ありがとう、と差し出された器を受け取ってその冷たさを楽しむ。向こうで子どもたちの歓声。
「うわっ♪ 葛まんじゅうだぁ♪」
「きゃ〜♪ あいすのみですぅ、ももあじです〜♪」かき氷の中から何かでてきたらしい。楽しそうだ、と期待を込めてカルマを見上げるときれいなウインクが返ってきた。どうやらこちらにも何か仕込んでくれたらしい。上品でたおやかなくせに茶目っ気たっぷりの保父さんだ。
「クオータはレモン・・・ミルク、かけますか?」
「あ、お願いします」
「・・・レモンにミルクぅ?」
「悪いですか? おいしいんですよ」子どもにかえったかのような楽しいやりとりを聞きながら抹茶シロップに甘みを押さえたつぶあんをのせた氷を崩す。仄かな苦みがかえってさわやかで暑さを忘れさせてくれる。
「あ・・・水羊羹だ・・・」
「私のには白玉が入っていました」小さな宝物の発見を笑いながらクオータと披露し合う。これは楽しい。自分たちでもこんなに楽しいのだから子どもにはもっと楽しいだろう。さすがカルマだな、と感心する。その向こうでオラトリオが仏頂面でぼそり、と文句を言うのが聞こえた。
「・・・カルマ・・・なんだ、これは?」
ごつい手に握られた細いスプーンの先には、ちんまりとバランスをとって乗っている茶色のふくふくした固まり。
「人形焼です」
打てば響くような返答に思わず吹き出す。それはオラトリオでなくても驚くだろう。
「水を吸わないように冷凍しておきましたから、ほどよくしゃりしゃりしてておいしいですよ」
素知らぬ顔でそう言ってのけた美貌が無邪気に笑って首を傾げる。
「人形焼、お好きだったと記憶しているのですが?」
「いつの話だ、いつのっ! んなもん、かき氷に入れるなっ!」
「おや、意外性があってなかなかおもしろいと思いますよ?」
「ありすぎるわっ! クワイエット、お前も少しは止めろっ!」熱くなるオラトリオをどこ吹く風、と受け流すカルマ。小さいかき氷器で器用に喫茶店仕様の氷の山を作っているクワイエットも意に介していない。暖簾に腕押し、糠に釘、と見物に回る。
「・・・しゃりしゃりの人形焼、おいしそうですよ?」
「だーっ! ぼけたこと言ってんじゃねぇっ、クオータ!」
「な〜に騒いでんのさ!」
「そ〜です、もうよるですよ〜。ごきんじょにごめいわくですぅ」にぎやかさに惹かれてやってきた年少組にまで呆れられているオラトリオにお腹が痛くなるほど笑う。滅多に見られない『やられっぱなしの兄』の姿はバーベキュー・パーティーと共に、夏休み中放っておかれて寂しかっただろう彼らの斜めな機嫌を直すのに充分な材料だろう。カルマのことだ、もしかしたらそれを狙っていたのかもしれない。
「ちびちゃん、シグナルくん。ほら、花火がありますよ。パルスくんも起こしていっしょにやりましょう」
「花火、花火ーっ! パルスーっ、起きろよーっ!」
「ぱるすくーん、はなび、ごいっしょしましょうっ」タイミングよく子どもたちの注意をオラトリオから逸らしてくれたカルマにああ、やっぱりな、と笑って彼も花火用の水を汲みに立ち上がる。そこで思い出す、今日最大の、夏。
「シグナル、それが終わったら西瓜、切ろう。井戸で冷やしてあるから」
弟と二人がかりで寝ている兄を起こしていた少年がさっと振り返って輝くような笑顔を見せる。
「うんっ! 夏はやっぱり西瓜だよねっ!」
元気一杯、夜でも太陽を呼び込むような明るい笑顔に広がる微笑。クオータもカルマも、ふてていたオラトリオも。普段は笑みなど見せないクワイエットまでが幽かに唇を緩めている。
他愛のない、普通の時間。けれど、何よりも煌いている彼の夏祭り。
ほんのひとときだからこその輝きはきっと忘れがたい思い出の積み重ねとなっていくだろう。
しみじみとその光景を心に焼き付ける。
来年はもっとみんなと夏を楽しめたらいいな、と思いながらよく晴れた空を見晴るかす。まだまだ暑い空はそれでも満天の星のどこかに一服の涼を隠しているようだ。
「・・・残暑お見舞い、申し上げます」
小さく笑ってつぶやいた言葉は花火の音と歓声にまぎれて消える。
秋はすぐそこ、だった。