早朝四時。いつもよりも一時間早く起きてきた彼はその場の惨状に小さくため息をつく。しん、と冷え込んだ、太陽も地平線の下深くにいる時間だというのにここはまだほんのりと暖かい。今は消えている暖房がつい先ほどまで稼動していた、ということだろう。
もう一度ため息をついて見渡す。広い、キッチン。店のほうは二階にある家族用キッチンよりも五割増しくらいのスペースで冷蔵庫や調理台も業務用を置いてある。その、普通の家族用ダイニングテーブルくらいの調理台がなかなかにすごいことになっていた。
散乱するボウル、泡立て器、粉篩などの器具。いや、散乱しているのは数個のボウルだけなのだが、いかんせん、どれもが固まったチョコレートやケーキ種らしきものに彩られている。台の上は軽く拭いてはあるものの、床までは気が回らなかったようだな、と無言で片付けに取り掛かる。ボウル二つ、泡立て器、計量カップにスプーン。当座はこれでよい、と後は隅に一塊にしておく。床は開店時間までに掃除すればいい。
少し前までここにいただろう誰かはきっと、一度寝て起きてから片付けるつもりなのだろうなと考えながら作業に必要なだけの場所をざっと拭いて洗った用具を置き、戸棚に向かい・・・三度、ため息。「・・・とことん失敗した、か・・・」
深いため息とともにそんな言葉が思わずもれる。買い置きしてあった薄力粉、ココア、グラニュー糖に白砂糖がほとんど残っていない。冷蔵庫のほうも同様。バターも卵も記憶の半分以下、だ。記憶にないものもひとつばかり、戸棚に増えてはいたが。
出版社で編集をしている弟が編集部の方針、とやらで担当作家にヴァレンタインのお菓子を『手作りで』プレゼントすることになった、とぼやいていたのは三日ほど前。市販のチョコを溶かして固めて、とかなんとかぶつぶつ言っているのを苦笑しながら聞いた。その時、たまたま食事にやってきた当のターゲット、『担当作家たち』の一人にそれを聞きとがめられ、簡単に済ませるはずだったらしいのがなぜか『売り言葉に買い言葉』でどんどん妙な方向に向かった。どうやら意地になっているようなのだが、傍観者にはそれも苦笑を誘うものでしかなく、黙って聞いていた。だが、本人にとってはその意地は突っ張り通すべきもの、だったらしい。夜になる頃、飛び出していって帰ってきた弟は手に大きなスーパーの袋を持っていた。
薄力粉、板チョコレート、ケーキ用のマーガリンにあんずジャム。卵とバターと生クリーム。そしてその夜から料理など子どもの頃にしかしたことのない弟の格闘が始まった。無論、仕事があるのだから帰宅後、寝るまでの数時間だけだが、その尽くが敗北に終わっているらしいのは朝起きてきた時の顔を見れば明白だった。
そしてヴァレンタイン当日を数時間後に控えた昨夜。思わぬ残業で足りなくなった材料を買い足せなかった、と途方に暮れる弟の無意識に救いを求める視線にため息をついて、明日になったら買い足してこい、と前置いた上で店の在庫を使う許可を出した。その後、二階キッチン使用権と家族用の砂糖争奪戦で妹に負けたのを見て、さらに砂糖も使用許可物に入れた。事の発端になった某フリーライター、イラストレーターとの漫才、そしてその後の様子。加えて几帳面に揃えられた材料と弟の性格を考え合わせたら何を作ろうとしているかなど、明白だったから、どうしても足りなくなったら少しは使っていい、と薄力粉やココアも出してやった。あんずジャムの大ビンをつけてやったのもまぁ、応援してやるか、との軽い気持ちだった。だが。
とりあえず出してきた材料を見て、肩をすくめる。薄力粉は残すところカップに半分くらい。バターは一箱の四分の一、というところか。砂糖は袋の底に辛うじて姿が見える程度。卵とココア、ジャムに至ってはほとんどない、が正確な表現だろう。卵、ココア、ジャム以外は業務用がまだあるが、それはモーニングセット用だから手をつけるわけにはいかない。卵は開店前に市場にでも購入しにいかねばならないだろう。ふ、と思いついて戸棚を見たら製菓用チョコレートも欠片となっていた。これでは予定していたものは作れない。
まぁいい、と虚ろに宙を仰ぐ。戸棚に鎮座していた究極のチョコレートケーキ、ザッハートルテを見る限り、ぎりぎりで弟の意地は通ったらしい。名に恥じぬ優美でシンプルで艶やかなチョコレートケーキの王様は苦労していただけはあった。それならば材料がなくなっていようがよしとしよう、と気持ちを切り替える。なんにせよ、予定は変更、だ。
冷凍庫からアーモンド・プードルの袋を出してきて口を切る。残ったバターをボウルに移してから空になったまま忘れられていた生クリームのパックを上半分だけ切って洗い、わずかに残っているケーキ用マーガリンを塗って薄く粉をはたく。オーブンをセットして下準備は終わり。さて、とバターを泡立て器で練り、粉類を計量スプーンで量って加えていく。量は通常の五分の一程度だから種を作るのもあっという間、だ。最後にほどよく解凍されたアーモンド・プードルを加えてざっくり混ぜれば種の出来上がり。手早くパックの型に流して軽く台に打ち付けて空気を抜き、ちょうど余熱の終わったオーブンに入れる。この量だから焼く時間もそんなにかからない。
さて、と使った用具を手早く片付けて、は、と思う。そろそろ起きてくるだろう弟がこれでは恐縮しまくるな、と。先ほど手をつけなかったものくらいは残しておくか、と渋々と片付けたい衝動を押え込む。なぜ一部だけ片付いているのか不思議がられるだろうが、それくらいは勘弁してもらおう。そう決めて焼きあがったケーキをオーブンから出し、型ごと皿にのせてそそくさとキッチンを後にする。あえて暖房は入れなかったから十分もあればオーブンも冷めるだろう。
部屋に戻って一息。キッチンでの様子を見られてしまったら、彼がヴァレンタインにお菓子を作るなど考えてもいないだろう弟はせっかく成功したケーキを差し出すくらいのことはしかねない。あの材料の使いっぷりは午前中に使い込んだものを補充すれば間に合う、との読みだろうから。
まったくあの意地っ張りもなんとかならんものか、とため息をついてみても、込み上げる笑みを止める術はない。あのわかりやすさでよく『鬼の編集』などやっていられるものだ、と妙に感心する。
必要最低限の物しか置いていない自室で机に置いた皿を見やる。生クリームパックの高さほどもない小さなスポンジは仕上げにココアと粉砂糖をふれば立派なプチ・ケーキ、だ。型紙を置いて模様でも作ってやれば少しは今日の日に相応しい特別なケーキになるだろう。ベッドに座って目を閉じる。ふっと浮かぶ笑顔の面影にやさしい笑みを刻んで、イニシャルでも浮き出させるか、と考える。これを渡したい相手にはこんな素朴さがよく似合う、から。
シンプル過ぎる金色のスクエアケーキにこげ茶と白でイニシャル二つ。真ん中に小さなハートでも入れたら、と何気に考えて我ながら何を、と照れて小さく咳払い。誰が見ているわけでもないが気恥ずかしくてやおら立ち上がり、型紙を作ってしまおうと厚紙と鋏を取り出す。と、廊下の向こうで遠慮がちにドアが開いて閉まり、誰かが階下に降りていく気配。弟が起き出したようだ。そして不自然に長い静寂の後、どこか慌てたような勢いで水音がし始める。一部だけ片付いているキッチンにやはり悩んだらしいな、と苦笑して彼も作業を開始する。こちらも開店までに作ってしまわねばな、と笑って。
意地と突っ張りと究極のザッハトルテといかにも手作りプチ・ケーキの交錯するヴァレンタイン早朝。裏にたったひとつの想いを隠したそれらに、この後、どんな展開が待っているかは想像に難くなかった。