天理時報 人を救うということ・・・・・

天理時報に「座右のおふでさき」というコーナーがあります、先月その中の記事に釘付けになりました、ここに紹介します。その号のおふでさきの言葉は、「いまのみちいかなみちでもなげくなよ さきのほんみちたのしんでいよ」でありまして、主題は「救えなかった自責の念 初めて「心の高さ」悟る です。以下本文です

「憩の家」事情部講師を務めていたとき、ある肺がんの患者さんと出会った。よく話を聞いてくださり、おさづけの取次ぎも素直に受けてくださる方だった。自分の十年分の命と引き換えにご守護いただきたいと、おつとめとおさづけに全身全霊を込めていたつもりだった。

 半年ほどたったある朝、いつものように事情部の講師控え室に入った。ふと壁の掲示板に目をやると、夜に出直された人の名前を書く欄に、その方の名前があったのだ。その時の衝撃は言葉に出来るものではなかった。どうすればよかったのか、何がいけなかったのか・・・。神殿でひたすら自分の真実のなさをおわびした。「私には、この御用をつとめさせていただく力も徳もありません。辞めてゼロから始めます。ただ最後に、なぜあの方を救うことが出来なかったのかどうかお教えください」と泣きながらぬかずいた。

その時少年期の風景が浮かんだ。 よく川遊びにでかけ魚を網ですくった。網は魚の下に置かないと、うまくすくえない・・。

ハッとした。「自分はあの方の心の苦しみ以上に低い心でいたのだろうか。いや、高い立場から『たすかりますよ』と言っていたのだ」と初めて 己の心の高さを悟った。相手より高いところに心を置いて、人に助かっていただくことなどできはしない。 以前、誠の心の理で人の身が助かると伺った事がある。

あの患者さんのお出直しを通して、生涯のお諭しを頂いたと肝に銘じている。 S田 Y徳 Y城分教会長  以上

人を救う(すくう)為にはその人より低い心でいなければいけない、救うとすくう。

話を少し進展させると、人にお願いする時も同じだと思います、低い心で接しなければ人は動きませんし、気持ちよく受けてくれません。気持ちよく受けられないと人は双方に救われません。天理教にかかわる方は心が広くて「お願いをされるほうの方」が、心を低くしてくれておりますので、「お願いをする人」はついつい調子に乗り「お願いの仕方」が配慮にかけたものになりがちです。しかしそれは天理教内だけの話で、世間では通用しません。天理教の中では人にお願いする時にその人に対して心の配慮が足らないと思う時がよくある気がします。「やってもらって当たり前だ!」と思う人たちがよくいると見聞きします。それは非常に残念なことです。 たまたま上の立場にいる時だからこそより低い心で、自分を支えてくれている人たちがより喜んで動いてくれるように、心の配慮を尚一層していかなければいけないと感じます。
 お願いするほうもお願いされるほうも喜んで気持ちよく物事をさせていただくように段
取りと配慮をしなければ、結果的に人は救えないと感じます。

 ある時、100kg近い「ウス」を一人で移動しなければならない事がありました、その時はそのウスの下にカーペットを敷いて、引っ張って移動しました。下に敷いて引っ張れば軽々とニコニコしながら移動できます。下に敷いて、押してもだめ。上を持って移動させても、ウスに傷がつきかねません。

「人を助けて我が身助かる」・・助けた人も助けられた人も「両方、助けられた人!」
誰が偉いわけではない、ホッとする言葉ですね。