アイズ・ワイド・シャット

アイズ・ワイド・シャット




人間の性を理解するのは、とても難しいこと。なぜかというと、 言葉で、性を語ろうとすると、どんどん実体から遠くなっていくような気がするし、 実体に近づこうとすると、言葉でそれを伝えることがどんどん難しくなっていくような 気がする。本能的に体現されるものって、言葉になりにくい。だからといって、 性という問題から目を反らしてはいけないと思う。 人間は決して性から解放されることはないのだから・・・

遺伝子を次の世代に伝えるための性。快楽のため性。しかし、ここに第三の性があります。 愛は見ることも触れることもできない。感覚のように不確かなものに頼るしかない愛の 不思議さ。その愛のもっとも人間的なコミュニケイションの媒体としての性が・・・。
幾万語を費やしても、言葉だけでは、満足な愛の伝達はできない。言葉は人間が発明した およその記号でしかないのだから・・・。 愛しあう二人は抱きあうしかないみたい。ただ抱きあうのみ。それしか愛を交換するのに 的確な方法はないような気がする。 からだの隅々まで愛の波長が伝わって、髪の毛も首筋も 、指も足も、背中も肩も、くちびるも耳も、乳房もふれあうことによって、なおいっそう お互いの愛は浸透していく。あまりにも動物的?であってもいいんじゃあないだろうか。 それが人間的だし、またそのことを分かることが知的なこと。 この映画の中でキューブリック監督が投げかけている性もきっと これなんでしょうね。

彼女は彼に女の秘密をうちあける。あたなを愛していても、他の男に抱かれたいという 欲望を秘めていることを・・・。結婚制度に安住して嫉妬しようとしない彼、 結婚してるから、君を愛してるから、他の女には興味が ないという彼の言葉に彼女は納得がいかない。常識や習慣を脱ぎ捨て 裸の心で愛して欲しいという激しい彼女の思いが、 彼に揺さぶりをかける。彼は愛する妻の女の秘密を知ったときから、飢えた狼の影を 落としながら、荒野をさまよう。自分の構築した虚構を自分の 牙で食いちぎらなければならないほどの激しさでもって・・・。しかし、彼の求めた 獲物は、娼婦も快楽の館も、彼にとっては、ただただ、なまなましくも現実そのものの日常でしか なかった。快楽の館でみた超現実的な光景、厳粛な儀式の中で繰り広げられる、仮面を かぶった人達のファックシーンも、人間を包む全ての衣装、権力や政治や特権階級や、 その他虚飾に満ちた世界の延長でしかなかった。、あの仮面は虚飾の世界の象徴なのか? それとも、妖しくも魅惑的な禁断の世界への架け橋なのか?・・・・・

なくしたはずの仮面を、彼女が眠るベットの上に見たとき、彼は、突然、泣き くずれます。そして、彼女に全てを打ち明ける決心をします。ベットの上の仮面は、 快楽の館でみたすべてを 詮索してはいけない。そうすれば家族に何が起こるか保証はしないという再度通達だった のでしょう。快楽の館で繰り広げられる性の儀式は、非日常的な世界への人間の欲望があからさまに 見え隠れします。理性の目で見たら俗悪なものも、感情の目でみたら素敵な美にみえたりする。 快楽の館での光景はとてもエロティックで美しくさえありました。 いったい、あれは単なる人間の道楽なのか、それとも芸術だったのか?・・・なぞは とかれないままに・・・。あの出来事が彼の妄想の通りなら芸術でしか理解できないでしょうし、 そこに居合わせていたという男の人が彼に語った通りなら、あれは道楽ということに なるでしょう。でも、ベットの上の仮面がますますそれを分からなくしています。

彼女はいいます。「 たった一夜のことは、二人の間に流れる時間に比べたら、夢物語にすぎない。二人に とって一番大切なことから始めよう。」・・・彼がいいます。「それは何?」・・・ 彼女は一言、「ファック!」・・・・・
一つの肉体ともう一つの肉体が愛のもとに抱きあう。素敵なことですね。

愛のもとに性を追求していくなら、それは人生につながっていくだろうし、 快楽のもとに性を追求していくなら、それは芸術につながっていく・・・・・ これが、きっと、キューブリック監督のメッセージなのだと思う。






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