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これはね、太閤秀吉が、家来達にいったことなんですけど、一番大きな
歌を詠んだものに、この脇差しをやるっていったんですね。それで、まずは、
福島正則が詠んだわけですけど、実はどんな歌だったか忘れてしまった(^^;。
で、次に加藤清正が頭をしぼってこう詠んだんですね。
「須弥山に 腰打ちかけて
大空を 笠にかぶれど 耳隠れず」
すると今度は、そろりしんざえもんが
「須弥山に 腰打掛し
その人を 鼻毛の先で 突き飛ばしけり」
でもね、これは加藤清正の焼き直しということで、失格。で、最後に、
秀吉の歌の先生である細川幽斎が
「天と地を 団子に丸め 手のひらで ぐいと飲めども 喉にさわらず」
と歌ったんです。たぶんこれ以上大きな歌は作れないでしょうね。
もちろん脇差しは細川幽斎に。。。
なんで、秀吉が歌をやるようになったかといいますと、
実は公家に馬鹿にされたことに始まるんですね。公家の三人は
秀吉は成り上がり者で、武芸には長けていても、学はないだ
ろうと、からかって挑発したんです。で、その挑発にのって歌を
一句詠む羽目に・・・。その際、秀吉は、百人一首の中の一つだった
んですけど、思い出して詠んだはいいけど、間違えてしまったんです。
百人一首に「奥山に もみじかきわけ なくしかの
声きくときぞ 秋はかなしき」という歌があるのはご存知ですか。
秀吉はそれを「奥山に もみじかきわけ なくほたる」
といってしまったんです。本当は「なくしかの」といわなくて
はいけなかったんです。で、次が出てこなくて後日に下の句は
ということで、その場は別れたんです。公家は当然、我々のほうが
勝ったと思ったことでしょう。でもね、歌の先生に相談した
ら、下の句を作ってくれて、秀吉は難を逃れることができ、
それから秀吉も歌を勉強するようになったというわけです。
その下の句とは
「奥山に もみじふみわけ なくほたる
しかとは見えで みねのともしび」
"しかとは見えで"のしかは、"なくしかの"を間違えて蛍と
言ってしまった、その"しか"とかけているというのは分かりますよね。
さて、秀吉とて歌の習い始めはとっても下手だったんですね。それで
先生が「物事はそのものずばりを言わないで、間接的に表現せよ」と
アドバイスしたのはよかったんですけれど、次のようなヘンな歌を作って
しまったんです(汗)。
「地こぶ影 星の親父が ずばぬけて
火事の玉子を そこで吹き消す」
地こぶって何かわかります?。実は山のことなんですね。先生の教え通り
間接的表現をしたんです。で、星の親父はお月様のことで、火事の玉子
とは"ちょうちん"のことね。つまり、月がとても明るかったのでちょうちん
は消したよという意味です。
もちろん、秀吉もそのうちめきめきと上達して先生と堂々と渡り合えるようになる
んですね。ある日のこと、先生が秀吉邸を訪れたのはいいんですが、庭に美味しそうな
柿の実がなっているのを見つけてこっそり採って食べてしまったんですね。それを
偶然秀吉が見つけてこんな句を歌いました。
「柿のもと 人まるくこそ 見えにけり
ここは明石の うらがしらなみ」
先生はすぐに次のような句を返しました。
「太閤の 御前で恥を かきのもと
人まろならで 顔は赤人」
どちらも柿のもと人麻呂という歌人の名前を入れているところが面白いでしょ?。
最後に秀吉の歌の先生?の一人だった太田南白?名前を忘れましたが(汗)、彼が
琵琶湖を訪れた時、籠やのご主人がそんなに偉い先生なら琵琶湖八景を歌の中に
全部入れることができたならただで籠にのせてやると言ったんですね。ご主人も
いくら歌の上手い先生でも、まさか31文字のなかに全部入れることなんてでき
ないだろうと高をくくっていたんですけど
「のせたから さきはあわずか ただのかご
ひらいしやまや はせらしてみい」
と見事31文字の中に琵琶湖八景を入れて歌ってみせたんですね。
せた
からさき
あわず
かただ
ひら
いしやま
はせ
みい