平成8年 9月19日 ふくしやまぞえ 第42号

「長い歳月を経て・今……」

 昭和52年7月13日。その日は我が家にとって忘れることの出来ない日となりました。次男弘樹の受傷日なのです。あれから丸19年。本当につらいつらい長い歳月でした。でも、今振り返ってみますと、苦しい中にいろいろの体験をし、また温かい人情に触れ、そして今まで全く知らなかった世界に踏み込んだような19年でもありました。

 先日、片付け物していて弘樹が受傷してから退院まで介護の合間に書き溜めておいた日記を見つけました。小学校の頃から日記となるようなものは夏休み、冬休みに仕方なく続けた位の私でしたが、弘樹の入院中の2年2ヶ月は1日も欠かさず記入してあり、小型の大学ノート2冊と大型の大学ノート2冊程になっています。

 字はいたって下手で、書くのも苦手でしたが、後で何かの参考にでもと思って続けたのです。今読んでみて当時は医学用語も知らずに思いつくまま書いたのでしょう。判読せねばならないところがたくさんあります。そして私の疲れたときは下手な字が余計に乱れていて、その時の体調が良く分かります。おそらく忙しい手術日等は二、三日溜めて書いたように思います。でも、毛原の行事のある日には必ず、その日のはじめに記入してあり、主人の両親へご不自由をかけた事等思っていた様子が分かります。

 退院した昭和54年9月まで2回転院しましたが当時は奈良県にリハビリの専門病院はなく、弘樹のように脊椎損傷患者は県外へ入院するしかなかったのです。そこで首の固定手術を終え、大阪府枚方市の星ヶ丘厚生年金病院にリハビリを受けるべく入院しました。

 日記には毎日の排尿量、排便の様子がくわしく記入してあり、食欲が出てきた頃には好きな食べ物を買って食べさせ、喜んでくれた事、無理を言って困った事等、今思えば「私も若かったなあ」と、昔を振り返っています。この日記を書いたのを覚えていましたが、これまでページを開く気持ちは余りなかったのですが・・・。

 現在は温かい山添村の福祉行政のお陰で、弘樹も不自由ながら精神的にも落ち着き、性格も元どおりの明るさが戻ってきました。特に社協のみなさん、ホームヘルパーさん方に大変お世話になり、私もつらい思い出の詰まった病床日記を心から懐かしく、明るい気持ちで目を通す事が出来ました。

 私もすっかり年を取り、同年配の方々とは、はるかに年上に見られる位に背中も曲がり、老けましたが、19年間体験した事で少しでもお役に立つことがあればお手伝いしたいと思うこの頃です。


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