長らく中断していた「第二芸術論について」をまとめた。前半と後半の間に約2年の空白がある。
1999.3.1 野口裕




「第二芸術」論について

 気に入った本を読んでいて、少しおかしいなと思う所があると気になる。小林恭二の「俳句という愉しみ」に、桑
原武夫の「第二芸術−現代俳句について−」に言及した個所がある。それによると、「現代俳句は芸術の名に値しな
いというのがこの論の骨子であった。内容に関して言うなら少なからず粗雑なもので、現代にあっては真面目に論ず
るには値しないと断定してもよかろう。」とあった。
 その文は続けて、「しかし内容はさておき、この第二芸術論が若い俳人達を発憤させたことも事実で、その後の俳
句の発展に逆説的にではあるが、相当寄与したことは疑いがない。」とし、「その意味では極端な暴論でありなが
ら、やはり歴史的必然を背負って生まれてきた論であったとは言えよう。」とまとめて、衝撃を柔らげてはいる。
が、「真面目に論ずるには値しない」という「断定」は重く響く。

 「俳句という愉しみ」という本は、「俳句という遊び」という本の姉妹編で、両編とも現在の最高水準にある
俳人達による句会の実況中継であり、スリリングかつ闊達な雰囲気の楽しい本である。しかし、それだけによけいに
前述のところが気になって仕方がない。以前、立花隆の「ロッキード裁判批判を斬る」をそうかそうかと思いながら
読んだ時に、三浦和義が出てきた所の論述に少し首を傾げたことがあった。しかし、首の傾げ方は今回の方が大き
い。

 首を傾げた人もあるようで、いくつかの批判文も出たようである。いまさら私が駄文を連ねる必要もないのだ
が、齢四十を越えるまで俳句にそれほど興味を持たず今頃作り出した人間にとって、無意識にでも「第二芸術」論を
肯定する部分があったわけであり、しかし俳句を作るとなると「第二芸術」論を忘れるわけにはいかず、どうしても
このへんでまとめておく必要を感じた。「第二芸術」論は、四六年から四七年にかけて提出された短歌・俳句を否定
的に論断した複数の著者による一群の論文を指す総称でもあるが、ここでは桑原武夫の前述の一篇に絞りたい。「真
面目に論ずるには値しない」かどうかを見てみたいからだ。

 まず、「第二芸術」論を非難する場合必ず取り上げられるのが、論文冒頭の作者当ての部分である。桑原武夫
は当時のプロ十名とアマ五名の作品を無作為に並べて、その優劣の違いを一般人は見極められないとした。そして、
そのことが彼にとって俳句の「芸術品としての未完結性すなわち脆弱性」を示すものであった。なぜなら、「志賀直
哉の作品はどれをとっても、同人雑誌で二、三年苦労した人の作品より優れている。」し、パリで見た「ロダンや
ブールデルの小品」は、「いかに小さいものでも帝展の特選などとははっきり違う」からだ、としている。

 ここから、「第二芸術」論は出発するのだが、すでにこの部分から議論が百出する状態である。現に、「俳句
という愉しみ」でも俳人達の夜話の材料として「第二芸術」論が取り上げられているが、そのポイントは作者当ての
部分に集中している。それ以外にも様々な反論の多くが作者当てに異論を唱えているようである。異論を乱暴にまと
めてしまうと、プロの作品はもっとましなものを選べたはずだということと、プロの作品が最高水準でないにもかか
わらずアマの作品とは区別できるという二点に括れる。だが、そうした異論を待つまでもなく、たとえ優劣の違いを
一般人が見極められなくてもそのことが俳句の「脆弱性」を示すことにはならない。たとえば、「ロダンやブールデ
ルの小品」の中に贋作が紛れ込んでいた場合一般人にはとても見極められないだろう。それだけではなく、多くのプ
ロの鑑定家を誤らせた贋作も歴史は教えている。贋作を見極められないことが彫刻芸術の「脆弱性」を示していると
は、私にはとても思えない。

 では、出発点ですでに間違っている「第二芸術」論は「真面目に論ずるには値しない」ものか?それが、そう
も言えないところがある。「第二芸術」論は、俳句作品の優劣の見極め難さから、優劣の基準としての世俗的地位を
保証するための党派が必然的に生まれるとしている。党派の存続のため古くは「何々庵何世」などと称され、現在も
俳句講座の広告に「××先生(○○氏令息)指導」(実名は本編を参照されたし。)とあるではないかと。まさに、
俳句の世界の中に有る家元制度を衝いている。

 また、「一たん強力な勢力が現はれると器用にそれになびく。そして強い風がすぎさるとまた超俗にかへる。
柳に雪折れはないのである。文学報国会ができたとき、俳句部会のみ異常に入会申込が多く、本部はこの部会に限っ
て入会を強力に制限したことを私は思い出す。」と書き付けている点にもうなずける。

 私には、上述の論は桑原武夫が当時(戦前を含めて)眼にした現象から、背後にある原理を類推して理論を組
み立てたような印象を受ける。おそらく、当時の彼にとり俳句と呼ばれる文芸は小さな存在であっただろうが、その
俳句を作り出す人々の集団は無視出来ないものがあっただろう。そうした集団に対する反発が先にあって、立論した
ための論の乱れとはとれないだろうか?

 分野は異なるが、現象の観察から原理の抽出に失敗した例として、ガリレオ・ガリレイがあげられる。彼は慣
性の法則の発見者として知られるが、彼の推論では「物体に何の力も加わらなければ、物体は回転運動(!)する」
はずであった。「地面をころがる物体に摩擦が働かなければ、物体は地面をどこまでもころがる。地面は地球の一部
だから物体は回転運動をすることになる。これと同じ理由で、天体は回転運動をしている。」という論法が、彼の地
動説に対する論拠であった。現在の眼から見て、この論法は明らかに間違っているが、ガリレオ・ガリレイが地動説
の発展に何の寄与もしなかったと断ずるわけにはいかない。

 似たような事情は、「第二芸術論」にもある。作者当ての部分にしても、この観察の延長上に類句・類想問題
が現れるはずである。また、「かゝるものは、他に職業を有しない老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさは
しい。しかし、かゝる慰戯を現代人が心魂を打ち込むべき芸術と考へるだらうか。」と書いた当人が、結核やハンセ
ン氏病に冒された人たちの俳句に「心魂を打ち込む」態度に頭を抱えたという後日談も、この小論を規範と受け取る
のではなく問題提起と受け取るべきだ、ということを示唆しているように思える。

 赤城さかえの「戦後俳句論争史」によると、「第二芸術論」に反駁した中村草田男、加藤楸邨などの立論は
「第二芸術論」の論の乱れを指摘するばかりでなく、「第二芸術論」が立論されねばならなかった背景にも眼がゆき
とどいていたようだ。加藤楸邨は、小説「をとり」(藤森成吉)のつぎのような会話を引用している。
「蛙の飛び込んだ水の音に刹那のいのちを感じた、乃至気がついたとしたら、これは立派な哲学だ或は悟りだ、単に
悟りの句だとあがめるのもばかばかしいが、悟りもなにもないときめつけるのもあたらん、しかしぼくが問題にして
ゐるのはその悟りかただ。」
「悟りかた?」
「さういふ悟りかたは現在のぼくらの真理追究の方向に反してはゐないかつていふ疑ひだ。」
「もつと理論的な方法にたよらなくちやいけない、つていふんですか?」
「まあそうだ。象徴にいたるまへにいろいろ知的な努力があり、またなければならん、その努力によつてこそ人類は
発展する。従って詩も‥‥‥少なくとも今後の詩は、その努力を除外するやうなものでなく、大いに取り入れるやう
なものであつて、初めて発展の可能性があるんじやないか?果して俳句がそれに適するか?生きながらへ得る詩形
か?つていふうたがひだ」

 そして、「桑原氏の第二芸術論にしても臼井氏の認識形式の問題にしても、あらゆる問題は恐らくこの一点に
繋りを持つと思はれるのである。そしてこの問題は結局、人間的要請と俳句形式の問題に整理せらるゝものであると
思ふ。」とまとめている。

 「俳句もやっと第二芸術になりましか。」などとやりすごすのもひとつの方法ではあるだろうが、「真面目に
論ずる」ことも必要ではないだろうか。

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