需要と供給

 寺田寅彦のエッセイ「電車の混雑について」に、以下のようなことが書いてある。

 大正十一年当時、彼は東京市電に乗る時の経験から、混雑した電車のあと短時間のうちに空いた電車がやってくることに気がついた。この事実から、彼は次のように推論した。
 電車が一定の時間間隔で次から次へと来るなら、停留所で待つ人数も一定数になり均等に乗客を乗せながら運行されて行く。しかし、ある電車が何らかの理由で少し遅れてやってくると、その間に停留所で待っている人数が増える。人数が増えると停留所での乗り降りに時間がかかり、その電車は次の停留所に行く時間が遅くなる。次の停留所への到着時間はより遅れて、待っている人がさらに増えている。以下同じことを繰り返して、電車は混雑をきわめる。

 一方、その電車の次にやってくる電車は、前の電車が遅れた分だけ停留所で待つ人数が減り、乗り降りにかかる人数も減るので早く発車できる。前の電車の遅れと、こちらが早く発車できた分だけ時間間隔が短くなり次の停留所で待つ人数はさらに減ってくる。こちらも以下同じことを繰り返して、電車はがら空きになる。こうした推論を確かめるためにあらためて観察してみると、混雑した電車の後に何台か空いた電車が続きまた混んだ電車がやってくるという繰り返しが三、四台ごとに見られたという。

 この現象を元にある仮想実験をしてみると、ある種の経済現象がわかりやすくなる。その仮想実験では、電車の切符に定価がなくて、停留所で待っている人達のせりによって価格が決まるとしてみる。混雑した電車では切符の価格は暴騰し、空いた電車では下落する。混雑した電車と空いた電車の繰り返しが見られると言うことは、切符の価格が乱高下することを意味する。

 これを需要(電車を待っている人)と供給(電車の本数)という言葉を使って、少し詳しく見てみる。夜遅い時間帯では、がら空きの電車ばかりなので供給過多の状態になり切符の価格は下落する。また寺田寅彦の報告にもあるように、朝のラッシュ時には待っている人が多すぎてどの電車も満員である。需要過多の状態で切符の価格は上がる一方となる。朝を少し過ぎて、停留所で待っている人が少し減った状態の時に混雑とがら空きの繰り返し、切符の価格の乱高下が現れる。このとき全体を平均すると、混雑とがら空きが相殺されるので需要と供給のバランスは数字の上では取れている。

 初歩の経済学の教えるところでは、需要と供給のバランスの取れたところで価格が決定され、価格が安定するはずであった。しかし、そうはならない。価格は激しく変動する。その端的な例が、今日の円やドルなどの外国為替レートの変動に現れる。この場合、需要と供給の関係は入れ替え可能な概念となっているが、便宜上どこかの国の通貨を買う側を需要、それを売る側を供給としておく。全世界の為替市場の規模は一日で日本の国家予算を超える額であり、需要が多ければただちにその国の通貨は上昇し、供給が多ければ下落する。需要と供給のアンバランスはただちに価格に反映される。その結果として、需要と供給のバランスはよく取れている。しかし価格(為替レート)が安定せず、ちょっとしたことで大きく変動することは周知の事実である。

 では、価格が安定する場合はどんな場合だろう。初歩の経済学の予定では、需要と供給の完全に一致したところがそのような場合であった。しかし、実際に価格の安定するところは、需要と供給のバランスから少しずれたところ、わずかに需要の多い地点か、わずかに供給の多い地点のどちらかになる。

 寺田寅彦は病弱のために、混雑している電車をやりすごしてできるだけ空いた電車に乗るようにしていた。もし、こういう人が何人かいると、切符の価格をせりで決める場合に価格の暴騰は押さえられる。もちろん、需要が極端に多ければ、いくら待っても電車に乗れないことになるが、わずかに需要が多い場合にはうまく機能するだろう。

 一方、わずかに供給の多い場合とは電車の本数をちょっとだけ増やすことに相当する。ここでは、供給側が少し損をして価格が安定する。この手法は、通常の商品売買において自然発生的に行われて来た。商品を商品棚に並べることもそれに相当する。もし、需要と供給のバランスが完全に取れているのであれば、商品は棚に並べたそばから売れてしまう。もちろん、そんなことは起こらないが逆に言うと商品が棚にある待ち時間の分だけ供給者は損をしていることになる。

 需要者が待ち時間と言う犠牲を払う場合にその損失は計算しにくい、というよりも普通は計算しないだろう。供給者も規模の小さな場合は需要者と同様である。しかし供給者は供給の規模が大きくなればなるほど、利率により待ち時間を金額に変換するためその損失に敏感になる。コンピューターや通信の発達は、それに対する感度を秒単位にまで拡大した。(ちなみに2000年問題は、秒単位の変動に敏感であるがために大きな時間単位を失念した結果とも見ることができる。)

 ところで俵万智の「サラダ記念日」のなかには、商行為を取り上げた歌が多数存在する。現代短歌に詳しい方ではないので断言はできないが、たとえば石川啄木が商行為を取り上げた短歌を作ると、 「飴売のチャルメラ聴けば/うしなひし/をさなき心ひろへるごとし」 と言うような調子になるのと比較すると、もっと客観的な報告の要素があり、なおかつ多様な場面に展開されている。

 まず、供給者側の需要の喚起に乗せられた気分の活写。 「大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋」

 需要の喚起がまさに引き起こされようと言う場面。 「白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる」

 供給者が少し損をしている場面。 「いつ見ても三つ並んで売られおる風呂屋の壁の『耳かきセット』」

 供給者側が少し損をしている場面から需要者(非需要者?)に引き起こされるちょっと複雑な気分。 「一山で百円也のトマトたちつまらなそうに並ぶ店先」

 供給者側が需要の喚起に失敗している場面。 「小春日の早稲田通りのちんどん屋見ルナ見ルナというように行く」など、など。

 どの場面においても、需要者側である自分自身の気持ちに正直なところが客観性を高めている。

 こうした「サラダ記念日」に出てくる諸相に比較すると、「チョコレート革命」の中の歌は大規模供給者側への批判が出ているように思える。 「通販の人気商品等身大枕を抱いて眠る東京」 「死というは日用品の中にありコンビニで買う香典袋」

 歌としてどちらが成功しているかは、わからない。ただ、需要と供給のある種の理想郷がどちらの側も少しずつ損をするところにあるとすると、「サラダ記念日」の次の歌はその理想郷にかなり近いのではないだろうか。 「オクサンと吾を呼ぶ屋台のおばちゃんを前にしばらくオクサンとなる」

 さて、大規模供給者はどうすれば少し損する事を納得するだろうか。もっとも、それができれば為替レートの激しい変動など起きるはずはないのだが。

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