5/31  最近の週末は、句会・歌会・読書会などの会合、仕事、息子と外出、この3パターンのどれかになりがちだ。家に居ることは、あまりない。それでもたまには、家に居ることがある。しかし、かつてはやっていた手の込んだ料理をあまりやらなくなった。おかげで、3年前のニンニクの醤油漬が未だにある。  先日、ひさしぶりにニンニクの醤油漬を使った。存外うまい料理に仕上がった。時間がたっぷりあるときにやったことが時間のない時には貴重な遺産となる、ということかもしれない。  およそ2億年前の海底には、たっぷりと時間があり、時間がプランクトンを石油にした。石油には何年分の時間が詰まっているのだろうか? 5/30  ポーランドのSF作家、S.レムが死んでもう何ヶ月になるのだろうか。定番の「ソラリス」やら、架空の本に対する書評集である「完全なる真空」やら、印象深い話はいろいろとあるが、「マクスウェルの悪魔」を種にした短編をよく思い出す。「マクスウェルの悪魔」自体も、熱力学に伴って生じたパラドックスめいたものだが、レムはさらに奇妙なものを編み出した。  小さな箱に気体を満たす。気体の分子は箱の中を自由自在に飛び回り、分子同士がぶつかって軌道を変えたり、あるいは壁にぶつかってみたりときままにふるまうだろう。小さな箱の気体といえども分子の数は無数であり、その無数の分子は瞬間瞬間にありとあらゆるバリエーションの位置を取る。そうした無数のバリエーションの中には、分子の配置自体が何らかの意味を持っている場合があるだろう。たとえばある一瞬の分子の配置は源氏物語の一節を表す文字の連なりと同じとなっているかもしれない。  レムの考え出した悪魔は、そうした意味ある分子の配置を瞬時に読みとって箱の持ち主にいちいち報告する。物語は、箱の持ち主がそうした情報の洪水で立ち往生する場面をクライマックスとしている。  この話、何年か前に出てきた「マクスウェルの悪魔」が実在しないと言うことの証明と似たところがある。「マクスウェルの悪魔」の方は、悪魔の目の前にやってきた分子のエネルギーが大きいか小さいかを判定し振り分けるが、次々にやってくる分子に対応するために分子を振り分けた後はその情報を忘れなければならない。忘れるときにエネルギーを消費する。次々にやってきた分子の情報を次々に忘れるために、結果として消費するエネルギーは莫大なものとなる。したがって、「マクスウェルの悪魔」は存在し得ない。  というような論旨だが、レムの考え出した悪魔と似たようなところがある。次々とやってくる情報を忘れるか、蓄えるかの違いだけだ。あらためて、レムは偉大であったと思う。  1年ぶりに放送部の顧問となり、嫌な読書を始めている。朗読コンクールの課題となる小説を読むことだ。  通常の読書と異なり、ここは朗読には向かない部分だとか、ここはぴったりでなかろうかとか、この部分を読むとすればどう読んだらいいのだろうかとか、自分が朗読するわけでもないのに、色々とよけいなことを考えながら読んでしまう。おかげで、読み終わっても読んだ気がしない。  また、どちらかというと私が普段は読みたくないタイプの小説、登場人物の間の微妙な心理の綾とか、日常のちょっとしたことで心に生じる波乱とかが課題に選ばれやすい。おかげで読書の幅が広がるとも言えるが。  過去に課題になった、庄野潤三や高樹のぶ子などはこんな機会でもないと読むことはなかったろう。まあ、荒俣宏や佐藤賢一、隆慶一郎などが課題になることはないだろう。司馬遼太郎なども難しい。東海林さだおは案外あるかもしれない。  俳人のエッセイが課題になるとすれば、長谷川櫂よりも黒田杏子のような気がする。 5/58  読書会での摂津幸彦のレポートを終えて帰宅。今、葉書を眺めている。知人から譲り受けた摂津幸彦の句集、『陸々集』に挟んであった知人宛に送られた彼からの葉書である。  手漉き和紙に滲むのをものともせず、太々とした字で以下のように書かれている。  「前略、励ましのお葉書き拝受。恐縮です。貴兄の年齢を思い合わせ、吉本隆明や埴谷雄高、大島渚や吉田喜重、つげ義春や林静一、コルトレーンやマイルスデビス等に取り囲まれて過した七十年前後の熱き日々をふと思いだした事でした。稀なる一読者である貴兄の為にもせいぜい頑張ります。」  「せいぜい頑張ります」は葉書の隅に一行を確保できず、前の行に寄り添うように書かれてある。消印は、92.6.15芝。  以前に変わった論文を読んだことがある。風の影響を受けて地震が発生するという趣旨の論文だ。あまりはっきりとは覚えていないが、たしか地球規模で風速を調べている人の説だったと思う。風速の変動と地震の発生状況を調べてみると、風速が強まったあとに地震が発生しやすくなる傾向があるという内容と記憶している。ヒマラヤ山脈あたりが風で受ける影響は馬鹿にならない、とも述べられていたように思う。  真偽のほどはわからないし、にわかには信じがたいのだが、ヒマラヤ山脈の南方洋上で地震が発生するたびに思い出してしまう。また、近年は地球温暖化の影響で地球の平均風速も強まっていることだろう。風が直接地震を引き起こすほどのエネルギーはなくとも、地殻にたまったエネルギーを開放する、地震発生の引き金を引く程度のエネルギーはあるかもしれない、と思うと、地球温暖化が地震を引き起こすという奇妙な結論が頭の中を駆けめぐる。  十年が昨日の地震鵙の贄 5/27  歩くと言うことは一見無駄な行為だ。歩くこと以外何もできない。特に地下を歩くことは視界から風景さえ奪われている感覚におそわれる。  とりあえずの対処法は歩きながら考えること。無駄な時間を過ごしているという感覚を忘れさせること。考えるとっかかりとして短文は相性が良い。理屈としては散文の一節でも良いはずだが、まず無理だ。脳に残っていない。どうしても俳句が多くなる。短歌は覚えている量が限られている。俳句と同じ短さの川柳も意外と記憶していない。   鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ 渡辺白泉  なぜ、俳句が記憶されやすいかを考え始めると、季語という単語が口に上りそうになるが、ここは慎重にした方がよい。とりあえず、古い哲学用語で「トポス」と言っておいた方が無難だろう。「トポス」についての議論は中村雄二郎の著作にあったと思う。「トポス」なる外来語を使わないとすれば、さらに不正確になるおそれがあるが、「形」とでも言っておかねばならないか。しかし、「形」なる日本語(これも嫌になる言葉だ。母語の方がなんぼかまし。)が出てきた途端にこの話続けるのが嫌になってきた。「形」が因習に堕落する可能性を持つ「作法」と関連するからだ。  「形」とよく似たニュアンスを持つ言葉として「パターン」がある。たとえば、コンピュータに「犬」という「パターン」を認識させる場合に、「犬」というものを「定義」してから、認識させようとすると失敗する。まず、これは「犬」ですといろいろな「パターン」を示すことから始める。コンピュータはここから出発して、さらに多様なパターンを「犬」であるかどうかを学習して行き、「犬」を認識する。つい最近読んだ記事によると、外国語への機械翻訳も、文法に基づかない統計処理による翻訳に切り替えることによって翻訳の効率が上がり始めたとのことだ。  「作法」には近づきたくないが、いろいろな「パターン」を極めようという意欲はまだある。  しかし、地下の歩行、とくに早朝の地下の歩行は苦痛である。時間を天引きされている気分となる。 5/26  鞄の中に一冊入れて置いた本を、朝の出勤途上に、早々と読んでしまっていることがある。そんなときに、帰りの電車の中で時々困る。読む本がないのだ。活字中毒者としては非常に困る。  今日の夕刻はちょうどそんな状態だった。飢えを満たすために夕刊紙を買った。ダービーの記事があった。競馬をやらなくなって久しいが、競馬欄の小さなコラムがやたらと面白い時期もあった。今読んでもさほど面白くない。競馬欄だけでなく、小さなコラムが総体的に面白くない。こんな時に限って、詰将棋のコーナーもない。  最後の手段としては、適当な一句を思い浮かべ、その句についてあれやこれやと考えてゆくという手がある。  地下鉄にかすかな峠ありて夏至 正木ゆう子 今日はこれについてあれこれ考えてみた。 もちろん、結論は出ない。 5/25  日経サイエンスの最新号が来る。塩谷義雄の「いまどき科学世評」をちょくちょく読むが、そのたびに感心させられる内容である。今回は「『基本計画』の怪」というタイトル。環境・科学技術など、これまで行政が軽んじてきた分野に資金投入する際に、公共事業と同じ手法を導入しようとしていることへの危惧がおおまかな内容だが、全面的に納得できる。しかし、この怪物を今のところ止めようがない印象があるのが恐ろしい。 5/24  午後は仕事を休んで図書館へ。本に囲まれるのは気持ちが良い。 夕刻、ちょくちょく行く近所の仏蘭西料理店に。実はこの店、今月いっぱいで店を閉めることになっている。今16歳の愚息を乳母車を押しながら行ったこともある。シェフもマダムも歳を取った。地震後は繁華街の本店を閉めてまで、神戸市北区で頑張ってきたのだが…。  今朝、時鳥を聞いた。この鳥、託卵ということをやるのだが、とてもそんな風には聞こえない。ワインを飲み過ぎたようだ。 5/23  今週末に、摂津幸彦についてレポートすることになっているが、まとまらない。まとまらないなりに、いくつかポイントを拾い出してはいる。  @関西出身であるが、関西弁のイントネーションに由来する句は少ない。「南浦和のダリアを仮のあはれとす」  A坪内稔典との関わり  B俳壇からの言及の少なさ  C熱狂的フリークの存在  弱っているのは、いまだに彼を肯定するか否定するかの態度が決まらないこと。さっさと決めて、レポート後の議論に期待するというのも一方法なのだが…。  「鵺」という言葉が思い浮かんでいる。  最近一番面白かった本は、文芸書ではなく、S.シン「フェルマーの最終定理」。松岡正剛のブログで発見した。松岡氏の解説を読むまでは、フェルマーの定理だけでは話に膨らみが出ないだろうと予想して手を出していなかった。  ところがこの本では、前提となるピタゴラス・フェルマーだけでなく、オイラー・ガウス・ガロアなどの近代数学史の常連、カントール・ヒルベルト・ラッセル・ゲーデル・チューリング・ノイマンに至る現代数学の大物などを手際よく紹介し、それがフェルマーの定理と不即不離の関係で語られて行く。圧巻は、谷山−志村予想とフェルマーの定理の関連を語るくだりで、谷山の自殺というエピソードも盛られて、なにやら「博士の愛した数式」を彷彿とさせる。最終的には、定理の証明者であるワイルズの登場をもって締めくくられて行く。  著者は数学者ではなく、素粒子研究を専攻とする物理学者らしい。この本の展開の見事さは、数学者ではなしえなかったのではと思わせるところがある。専門分野の知識を一般社会への教養と変貌させて行くには、その専門分野と適度な距離を持つ知識人を待たねばならないのでは?という感想を抱いたが、力説するほどのことでもないだろう。  この本のきっかけは、BBCからの依頼らしくテレビ番組もあるらしい。機会があれば見たい。 5/22 sora歌会の帰路の車中、大橋麻衣子ご本人より寄贈の「シャウト」を読む。子を詠んだ歌にリアリティーを感じる。  練習はしないと言い張る子の腕をつかんでピアノの前に連れてゆく  出て行けと言えば出て行く準備する弾けと言っても弾かないくせに  やり合った後の気まずさか子は猫に話しかけつつ距離ちぢめくる 夫の歌がたくさんあるが、やや像をつかみにくい。 翌日、嵐山光三郎「文人暴食」を読了。資料を読み込む力に脱帽。