6/30  「理系白書」を読み終えた。後半はケーススタディが多くなり、一個一個のケースを持って一般論としてよいのかどうかこちらが迷う話が多かった。  ただ、科学研究費の予算配分の折りに、研究成果を点数化して満遍なく配るのではなく、それぞれの研究成果を点検しうる目利きが必要なこと。日本にはそうした人材が少ないこと。若手の研究成果には、バイアスをかけてでも思い切って奨励すべきことなど、他の分野でも通用しそうな話が結構あった。 6/29  漱石を調べたそもそもの発端は、朗読課題の「坊ちゃん」である。そのなかに「ポッケット」と書かれた箇所があった。「ポケット」ではない。国語辞書にもこの両方の書き方が載っている。  「ポッケット」で検索をかけて、わかったことがあった。  「ぽ〜ケットの中には、ビスケットがひとつ♪」という童謡があったが、この歌の「〜」の部分は「ポッケット」の最初の「ッ」に当たる部分だったのだ。  最近「カモミール」と呼ばれることの多い薬草は、昔「カミツレ」と呼ばれていた。これはドイツ名Kamilleを和名にうつすときにアクセントを強調するために「カミッレ」としたものが、「ッ」を大きく書くことがしばしば起こり「カミツレ」になってしまったと聞く。  鈴木棠三の「言葉遊び辞典」に、「のどかなるかすみぞのべのにおひなり」から濁点を取って「のとかなるかすみそのへのにおひなり」と書かれているのを、「のどが鳴る糟味噌の屁の匂ひなり」と読んでしまった、という話が「東海道中膝栗毛」からの引用として紹介されている。  日本語表記における補助記号のことをいろいろと考えてしまった。  ポケットはポッケットとや夏燕 6/28  たまたま漱石を調べる必要があり検索をかけると、『吾輩は猫である』が、「「太平の逸民」たちの延々と続く議論が読者にかなり苦痛を感じさせる」と述べている文にぶつかり、びっくりした。 http://www1.odn.ne.jp/~cax58080/soseki3.htm#3  たしかにそうなのかもしれないが、私にとっては10代最後の頃(村上龍描くところの「69」以後の時代)の重苦しい雰囲気を逃れる手段の1つが「「太平の逸民」たちの延々と続く議論」を延々と楽しむことだった。  かえって懐かしく思い出した。  紫陽花や『猫』に首くくり力学論 6/27  ひょうそうのアフターケアとして、左手中指に毎日二三回沃チンを塗っている。昼食後、やっている最中にうっかりとパン屑に沃チンをこぼした。見事な沃素澱粉反応が起きた。なぜか、ああ梅雨だと思った。   マニキュアのように沃チン塗れば梅雨 6/26  何も書くことがない。一ヶ月、ほぼ毎日書いて種切れか。書くことによる弊害も出てきた。句会の締め切りを忘れていたのだ。これまでには、考えられないことだ。  俳句を書くペースは、毎日1〜5句と変わらないが、句帳から清書の段階へ移すペースが落ちてきた。少し、この日記の書き方を工夫する時期に来ているようだ。いっそ、句帳代わりの日記にするか? 6/25  師の話から、私が最初にもっとも影響を受けた人物を思いだした。高校時代の国語教師、仮にHとしておこう。私も周囲の友人も生意気盛りだから、Hに尊敬を抱くなどという殊勝な心がけはなかったが、牧水・晶子・中也・朔太郎・達治・心平・信吉・光晴・白泉とすべて彼の口から初めて聞いた名前だった。大逆事件をめぐる啄木・鴎外・春夫・鉄幹なども聞いた。戦後の定型詩批判を紹介したときは、臼井吉見や小野十三郎は取り上げたが、桑原の第二芸術論は取り上げなかった。彼なりの意図があったのだろう。  おそらく、私や周囲の友人達が彼の口を借りずに発見したのは、五木・野坂・寺山などの当時の流行か、宮沢賢治などの当時は傍流と考えられていたものに限る。埴谷・吉本の名さえすでに彼の口から出ていた。  授業のスタイルは、コピーのない時代なので、とにかく作家の例文をひたすら書きまくり、こちらはそれをひたすら写すという今では考えられない方法だ。授業が終わると、鉛筆の炭素に汚れて右掌のノートに触れる部分が真っ黒になっていた。話は、授業の最後の10分ほどだったろうか。  そういえば、三島は彼の口から出ていたが、大江はついぞ聞かなかった。一年の締めくくりの授業が丸山真男だったことを考え会わせると、論理の明確な文章を選び抜いていたのだろう。  後年、とある人からこんな話を耳にした。その人が新任教師として赴任してきたとき、Hに授業について相談したらしい。こう答えたそうだ。「あなたは、教科書の好きなところを授業して下さい。私は、ロッキードをやります。」  論理の明確な立花隆の文章は格好の材料だったのだろう。 6/24  久しぶりに、「俳句研究」、「俳句」と俳句総合誌を立て続けに読んだ。個々の記事の良し悪しではなく、あちこちにある「○○師」、「△▽先生」の尊称が気になった。三十代早々に大学に残ることを諦めて以来、師弟関係とは無縁でいようと決めている人間には異様な光景に映る。  人の世に老若のある限り、師弟関係のあることは免れないだろうが、どんな分野でも基本は自学自習であり、それを邪魔しないのが理想の師であるはずだ。  もちろん、手っ取り早く玄人になるためには、教え上手な師につくのが早道だろう。だが、玄人ほど退屈な物はない。どんな中途半端な玄人でも、「俳人」と自称できるのが俳句の世界では悪影響を及ぼしているのだろうか? 6/23  「理系白書」(毎日新聞科学環境部)を読んでいる。理系の一般教養が失われてゆく現状への危機感が書かせたようだ。理科教育に携わるものとして、その部分での共感はある。  一方で、世界をリードしてゆく理系の才能が育つ状況にないことへのいらだちも読み取れる。しかし、社会構造に対する視点はない。ポスドクなど、かつては我が身に降りかかった話もあるが、今となっては遠い。  本の途中に、働く母親の算数教室で出された「あみだくじの出口はなぜ重ならない?」という問題が紹介されている。読んだところまでに、答えは書かれていない。私なりの証明を考えてみた。  (0)どの入口から出発しても、必ずただ1つの出口に到着する。  (1)あみだくじの入口と出口の数は同じである。  (2)あみだくじの出口が重なると、入口の数と比較して余った出口が出てくる。  (3)余った出口を逆にたどると、(0)から必ずある入口に到着する。  (4)(3)の入口は(0)から、余った出口に到着することになる。  (5)したがって、余った出口は余った出口ではない。  (6)(5)は矛盾する。  と、こうなるが(0)がいまだ不十分だ。どうも私がどんな分野で論理展開をしても、肝心の所で詰めが甘い気がする。   目に見えぬ阿弥陀籤あり蚯蚓這う 6/22  近藤康二という画家がいた。雨の光景を好んで描いた。雨粒の塊が風にあおられて空中でぐぐっと動く。そんな瞬間をなんとか画面に定着させようと、画面いっぱいに白い点がおかれた絵を何枚も制作した。雨の背景には公園の噴水、フランス人形など。  彼の絵を一枚たりと所有しているわけではないが、20代の頃にあれやこれやと話し込み、絵に対する情熱を見せつけられたことは忘れがたい。彼が住んでいた団地の自室をそのまま画廊として、グループ展を開いたときの印象は強烈である。ビラ貼りや宛名書きを手伝った私は最終日に酔いつぶれ、トイレの中で泥酔していた。  その後私が大学の上級課程に進学するにつれ、彼の住む地域とは離れてしまった。何年かして、近藤康二追悼展の案内が舞い込み、愕然とした。  雨の激しい季節になると、彼が生きていたらどんな絵を描くかと思いをはせる。 6/21  左手の中指がまた腫れてきた。急いで医者に行く。「D」が打ちづらい状況もまたやってきた。  昨晩は、私が一番早い帰宅となるので、夕食を作った。ほとんど片手だけの料理となり、やりにくいこと夥しい。夕食後、うっかり風呂の中で寝てしまう。包帯を巻き直すことになる。 6/20  昨夜は、仕事帰りにとあるところへ電話した。しばらくあっていない人物についての会話をした。電話後に電車の中で山崎正和「社交する人間」を読んだ。次のくだりに出会った。  『考えてみれば奇妙なことだが、ホイジンガは人間の行動の類型を比較するさい、最初から遊びとまじめな仕事の二つしか念頭に置いていなかった。彼が完全に忘れていたのは、彼のいう「日常生活」の大部分がそのどちらでもなく、いわば第三種の行動、曖昧で不定形の行動に満ちているという事実であった。正直に反省すれば、現実には人間の日常は機械のような反射的行動、ふまじめでなげやりな惰性的行動、偶然に動かされた刹那的行動に溢れている。それらを支配しているのは半ばは人間の内外の自然、すなわち生理の機構と環境の刺激であり、半ばは無意識化された受動的な慣習である。じつは大多数の人間は日常ではこの受動性の中に眠っているのであって、時たまそこから身を起こして遊んだり仕事をしたりするにすぎないのである。』  電話したところは、受け持っている不登校気味の生徒の家である。読書している本との奇妙な一致にそこから先には読み進めなかった。 6/19  本日も朗読コンクールに、生徒同伴。一日、外出。  なんやかやで、ここ一週間まともな読書をしていない。今鞄に入れている本に食指が動かないのか、読書欲の減退なのか、よくわからない。いささか、疲れているのは事実だろう。  こんなときは、他人の句でも口にしよう。   本人が他人だと云う蝉丸忌   三百の手勢率いて田村草   (村木佐紀夫「近松寺内」)  作者は、1918年生まれの大津市の俳人・連句人。軽い俳諧味が特徴だが、軽くするために洗い出した澱をまとめて、ときおり重い句を作る。   逆子よと鵙は地上へ叫び出す   北國の雪の山系子殺し唄  会議が終了。これより残業モード。明日から、5クラス200人に実験を課す。その実験道具の点検に入る。ニュートンの頃は「自然哲学」という言い方をしたらしいが、ま、そんな雰囲気はない。  ニュートンも錬金術師冬籠 有馬朗人  錬金術で思い出したが、フラスコなるものは、錬金術が始まりらしい。連想の赴くところ、こんな句を思い出した。   フラスコの影もゆるさぬ暑さかな  江戸時代の古句のようだ。子規の俳句分類でちらりと見た。いったいどこにあったのやら、皆目見当がつかない。良い句だと思う。 6/17  放送部の朗読コンテストで沢山の朗読をたっぷり聞いた。今回は審査員ではなく、出場者の引率だけなので気楽だった。  とはいうものの、80人ほどの声を次々と聞くのは結構胃にもたれる。文章に対する理解の深浅・多様性、朗読の巧拙さえもがいろいろとものを考えさせてくれる。しかもそれが一貫した思考とならずに、朗読者が変わるたびにリセットされる。なかなか忙しい。  前任校では廃校となる一年前に、部員がいなくなった。転勤直後は、放送部とは関わりがなかった。大会に顔を出すのは3年ぶりのこと。こうした文章の読み方があったのだとあらためて思う。 6/16  コメント欄で、「ひょうそう」の話をしているうちに、病弱だった子供の頃のことを思い出した。  ひどい小児喘息で、10の頃一ヶ月ほど入院し、退院後も長く登校できなかった。発作が治まっている昼間も出歩けず、テレビばかり見ていたように記憶している。その頃のテレビは、学校教育用の放送をNHKだけでなく、民間でも流していたようだ。理科の番組をよく見ていた。蝶々のように羽根をばたばたさせながら畦を飛ぶ紙飛行機などを覚えている。もちろん、白黒の画面である。  料理番組もよく見た。白黒では、「血の滴るような」という形容はよくわからなかった。ビフテキがなぜあんなに火を通すのかもよく分からなかった。薄切り肉しか食べたことがなかったのである。  などと、なぜ思い出したかもよくわからないが、記憶をたどって書いてみた。今となっては再現しようのない体験である。 6/15  句会、歌会、詩の会どれも行けそうにない。  昨年の転勤から、そんなことが多くなった。平日の仕事量には変化ないが、受け持ちのクラブのせいだろう。こればかりはしようがない。そういえば、留守番してほしい日かあるとの依頼もあった。  後ろから頭をがぶりとやられて、彪の食料となった大昔の人類もあったことだ。それよりはましと、思っておこう。 6/14 実験の続き。  漢字表をJISの第1水準に絞ると、私のイメージしていたでたらめな漢字の組み合わせに近くなった。以下、その例。 楓瞭  皿牲  研醗璽 錠琉偲 誕匿 倣習 織明禄  展峻腸 賜麺 灸膚  靖掠  批次員 欣遊 胴形 歓稼錐圏 省惣尚嫡 示椙矛 遁眼 餅華巴 蔓鍔 梧匡  紛后  銘沖 斥種   謂愛磯  崎粧 勘玖 相竜寸 切頬傷 憲居匂 目際主  俳句の世界で取り合わせや、二物衝撃ということがよく言われる。どのようなものを取り合わせても、そこに意味が生じるのではないか、というのが私の推測。はたして、上述の漢字の羅列は私の推測を証明してくれるであろうか?  ところで、漢字ではなく、ひらがなをでたらめに組み合わせると、意味ではなく、リズムを生じるのではないかと、妄想している。でたらめついでの実験の続きを紹介すると、 ばこひぉゎ へぐぎつもぱおあほ ぱちろぎさふらみ うえこどっに ぇよれみっ らばゐぶぱ  ゎゆをゅぱずにぺこ ぞやこっごほぴり ひきどったぞ ねぽきむぶ ゆさゐべゑ ゆをぺべゃはひぺゆ ちすろぱすぺぬゑ ゆぁけぃくと ゅにえぢぅ げぷぉおゅ てしわぱけぉげさだ ゑじりまめじみぇ なかまはへさ 6/13  実験の話の続きはそのうちに。  新聞の科学欄に、もっとも長く引用され続けている論文は、相対性理論ではなく、アインシュタインの量子力学に関する論文だと紹介されている。  量子力学に懐疑的なアインシュタインが、量子力学がもし本当ならこんなおかしなことが起こると述べた論文が、今でも引用されるとは皮肉なことだ。  おかしなことが起こるとした現象が、実験技術の進歩に伴って実際に実験で確認されるようになり、奇妙なことだが本当に起こることになってしまった。そればかりでなく、量子コンピュータと呼ばれる新しいコンピュータの基礎ともなっている。  アインシュタインの有名な言葉、「神はサイコロを振らない」は反量子力学を宣言する彼の信条だが、この件に関しては全く間違っていたことになる。  天才は必要だが、天才にも限度があるほど世界は広いと言うことなのだろう。 6/12  全くでたらめに漢字を二〜四文字、場合によれば五・六文字並べてもそれなりの意味は読みとれるのではないか?  そんな、馬鹿馬鹿しい発想のもとに、JISの漢字表から無作為に漢字を取り出して並べてみる実験をしてみた。実験回数が少ないせいもあり、何とも言えないところもあるが、やはりそれなりの意味を読みとることは可能であるとの感触を得た。  何とも言えない点のひとつは、並んだ漢字から受けた異様な、面妖な雰囲気だ。普段の私たちはそれほど多くの漢字を使っているわけではない。漢字表から無作為に取り出すと、私たちが普段使わない漢字が並ぶ確率が思ったよりも多いため、私の予想を遙かに超えた異様な漢字の連鎖となった。ためしに、部屋の中にある本の背文字から取った字を組み合わせて作ると、「植淵」、「寺頻」、「季育」などとできるが、それとは全く異なった印象を受ける。  日記を書いている途中で気づいたのだが、実験を別のコンピューターで行ったため、その結果をすぐには例示できない。続きは次回に。 6/11  昨日、俳人のT氏がテレビに出ていた。高校生の頃からテレビに登場するのを見ているから、長い年月である。歳を取った、との印象は否めないが、その大常識人ぶりは高校生だった頃に見た印象と変わらない。  十年ほど前に俳句をやり始めたが、古くからの複数の友人から君も日本回帰かと言われた。思うに、俳句を始める事が即日本回帰と直結する思考回路は、テレビに出てくるT氏の大常識人ぶりからも多少の影響を受けているかもしれない。常識を蓄えると、俳句を始める、といった思考法である。常識人とはとても思えないK氏も、長年テレビには出ているのだが。 6/10  日記のコメントが書けない。何かのトラブルのようだ。とりあえず今日の日記を書いておく。  睡眠時間の短い日が続いたせいか、昨日は早々と寝た。昨日のうちに送って置かねばならないメールは寝ながら打っていたようなものだ。夢は見たのだろうが、覚えていない。  以前に、暁に夢を見るというような句を句会に提出したときに、夢を見るのは真夜中で明け方に夢を見ることはないと断言されて、吃驚したことがある。  夢を見るメカニズムについての研究はかなり進んでおり、REM睡眠についての話は常識に属してきたが、思いこみの深いのもまた夢の世界である。この手の話は、現在の科学ではここまで解明されていますと、詳しく議論しだすと相手が白けた顔をする場合がある。先に述べた句会の折りも、たぶん相手が白けるだろうと予測して黙っていた。  夢についての思いこみが、間違っていても何か大事なもののような気がするのも事実である。 6/9  寺田寅彦に、週末が雨だと次の週末も雨になりやすい、と述べたエッセイがある。その原因について、おそらく空気が地球を一周する周期に関係があるのだろうと、推測しているが、断定には至っていない。  車椅子の物理学者S.ホーキングは、そうであると断定している。気象学の専門家と非専門家の違い、かつ時代の違いはあろうが、『歳時記は日本人の感覚のインデックス(索引)である』と述べる寺田寅彦の繊細さが、この件に関しては災いしている気がする。 6/8  中指の治りが遅いようだ。  両手に力をかけて、物を運んだりするのが良くないのかもしれない。医者に行くための早退もけっこう鬱陶しい。 黒南風や取っ手に怠け中指も 6/7  先週の土曜日は勤務の後、知人の個展を見に行った。帰宅は九時近くだった。着替えもせず風呂も入らず、そのまま摂津幸彦論に向かった。書き上げたのが次の日の四時。すぐに眠った。六時起床で日曜出勤。  二日ぶりの風呂に入ったのは、日曜の夕刻だった。思い切りシャンプーしたのだが、剛毛の頭髪で左手の中指を傷つけたようだ。昨日は、中指が二倍近くに膨れていた。今、切開して膿を出し、中指は包帯でぐるぐる巻きになっている。  上述のたったこれだけの文章が、非常に打ちにくい。中指が使えないためだ。摂津幸彦を恨むべきか? 6/6  浮いてこいは、またの名を、浮き人形、浮沈子、デカルトの潜水夫、カルテシヤの水くぐり。明治18年(1885年)に後藤牧太・三宅米吉著『簡易器械理化学試験法』で、「カルテシヤの水くぐり」として紹介されたのが、最初らしい。明治の後半か大正の初めに三越百貨店で「浮いてこい」という名で売り出して、ポピュラーになった模様。虚子が歳時記に取り入れたのは、子どもと遊んだ経験からか?  昔は自作するのが難しかった。ガラス瓶、ゴム栓、注射器の空アンプルと用意し、アンプルの中に入れる水の量をうまく調節した後に、ガラス瓶の上部にゴム栓をしっかりと張らねばばならなかった。ゴム栓の替わりりにペットボトルを使用するようになってから作成は格段に簡単になった。アンプルの替わりは、弁当用の醤油入れ、曲がるストロー、緩衝材のいわゆるプチプチなど多彩なものが工作に使われている。  個人的には、カルテシヤの水くぐりのネーミングが気に入っている。 6/5  感心して読んだ本でも、一週間ほど経つと何に感心したのか覚えていないときがある。私の経験では、橋本治や荒俣宏などがそうしたことが多い。つい最近、荒俣宏の「プロレタリア文学はすごい」という本を読み、面白いと思ったのだが、もう覚えていない。  そうした本で面白いと思った論点を一年ほどたってひょいと思い出すことがある。たいていは酒を飲んでいるときだ。そうなると、酒の場の話が耳に入らず。ひたすら、そのことを考えている。酒を一緒に飲んでいる相手には迷惑だろうが、そうした時間がやってくると、非常に楽しい。  思い出したい作者に福田定良がいるのだが、何を書いてあったのかなかなか思い出せない。思い出せれば非常に楽しいのだが…。 6/4  本日は、バスケットボール大会会場校として会場に待機。昨日の試合のビデオテープをダビングするためにセットしてしまえば、特にやることはない。ひたすら眠い。  もう一つの顧問である放送部は、今頃コンクールの真っ最中。結果はどうなるか? 6/3  以前に、放送部顧問としての話を書いたが、本日はもう一つの顧問、バスケットボール部顧問として出勤。今、試合が終わったところ。昨日、サヨナラの話をしたところだが、今日もサヨナラを見てしまった。これで三年生は引退である。  記録を残すために、ビデオカメラのモニターを通して試合の成り行きを見つめていたが、不思議な気分だ。体育館の床からの照り返しで、モニターはいつもどこかがハレーションを起こしている。カメラは青春のドラマともいうべき時間を写し取ろうとしているのに、1つ1つのカットには初夏の光の照り返しがそれとは無関係な時間として忍び込んでいる。  人間が歴史として刻む時間と、自然や大きくいえば宇宙の中に漂う時間と、無関係なようで切り離せない。だからこそ、サヨナラもあるのだろう。 6/2  何日か前に書いた、仏蘭西料理店が店を閉めて今日が二日目、帰りに通りかかるとその店のイルミネーションが点いていた。窓から中の様子を見てみると、店のスタッフ全員がそろって記念写真を撮っているところだった。シェフのお孫さんだろうか、小さな女の子までがコック帽をかぶり、全員が白い衣装でカメラをみつめている。  「サヨナラだけが人生だ」と、好きな詩なのでよく口をついて出るのだが、「サヨナラ」も悪くない、と思った。 6/1  時代が1980年にさしかかろうとする頃、日本という国が一番威勢が良かったかもしれない。どこを見渡しても、元気な人や物が多かった気がする。  その頃、私は富士正晴にひかれていた。彼のこんな文章を書き写したノートが未だに手元にある。  「…もしも『死霊』を手がける前に「生霊」の方に首をつっこんでいたら、いきなり屋根裏や宇宙の果ての方へ考えがとばないで、もう少し、田畑や大地、地球、地球人、ものを作りだす人々の、平凡でくだらないが、根強く充満する考え方が、黒一色の画面に豊かな色彩を加えることが出来たであろうに。(略)」と書いていたのに、私はびっくりするとともに、死のまぎわでだけこんなはっきりしたことをいわないで、もっとそれまでに縷々こういうふうにいろいろ書かなかったのか、それこそ「私は気がかりで」あった。残念であったという気さえする。  さきに死んだ花田清輝にせよ、今度死んだ武田泰淳にしても、何もかも喋りちらし、書きちらしているようであって、しかもこうしたぞっとするほど痛烈なことばは内に蔵していながら外には突出ささないでいたという気がしてならない。  (略)  それにしても、武田泰淳は死の前についに痛烈をチラリと露呈してしまい、やっぱりそう考えていたのかと思わせてくれたが、花田の方にはそのようなものがなかったような気がする。熟読し、推理し、明察すれば随所に痛烈が見えるではないかと死んだ二人はいうかもしれないが、魯迅は韜晦にこれ努めつつ、痛烈が随所に露呈していたみたいだぜといってもはじまらない。魯迅の中国とわれわれの日本とは全く大分ちがって、泰淳みたいに「なるほど、日本と中国とでは文学のやり方もちがっているわい、と発言したくなってくる。」というわけだが、そこらあたりの痛烈がひょっとしたら彼らの日記にあるかな、ないかな?  だがしかし、彼らの日記があるかな、ないかな?あればそれこそ実に読みたい。                 (「極楽人ノート」富士正晴)  「桂春団治」の作者として、若き漫才師にものもうすというスタンスを制作サイドはねらったのだろう、富士正晴がテレビに出てきたことがある。若い漫才さんにひとことと水を向けられたが、いや、しろうとがなにもいうことありません、みなさんすきにやったらよろしいというように喋っていたのがいまだに印象にのこっている。  当時、私は物理専攻の大学院生だった。あらためて、これを読んで思ったことは、そらこんなの書きうつしてたら物理の論文なんかでけへんわな、ということだけだ。