7/31  つい最近、壊れたストーブをやっと捨てた。電気製品が壊れても、面倒くさいともったいないが入り混じり、どうしても捨てるのが遅れる。死んだ父親は電気が専門だったが、電気製品の裏に貼り付けられた配線図を元に(昔は必ず貼ってあった)、壊れた箇所を点検していたのを思い出す。  父親は捨てる目安を大体十年にしていた。しかしwin98がサポートを打ち切られたように、現在では十年という目安は役に立たないようだ。文章を書くだけなら、win95はおろか、win3.1でも間に合ってしまうのだが、実際はなかなか難しい。山本義隆はwin3.1で「磁力と重力の発見」を書いたと、あとがきに記している。なかなか真似の出来ることではない。  私もwin3.1で動くノートパソコンを持っているが、今は長い冬眠に入っている。本体は異常ないのだが、電源アダプターがいかれている。規格の合う電源アダプターを探さないといけないのだが、なかなか無い。あっても高い。  以前の勤務校でも同じような経験がある。職場のサーバーとなっているコンピューターの電源アダプターだったのでちょっと深刻だった(私の経験によると、コンピューターの故障の多くが、電源アダプターやトランスなど、電気的には一番簡単な部品から発生する)。日本橋のジャンクショップを回って似たような規格の物を探し、コネクターの部分は壊れた電源アダプターからちょん切ってハンダ付けした。勤務校があと半年で廃校になるところだったからやっつけ仕事で間に合わせたが、あまり人に勧められる方法ではない。  コンピュータに限らず、電気製品を長持ちさせようとするのは今の時代では困難なようだ。 7/30  昨日今日とクラブ活動につきあった。夏の体育館はなかなかつらい。まだ明日からの一週間は、出勤する予定。  籠球や補欠は汗の床を拭き 7/29  あまりに暑いので、せめて雲の形だけでも涼しくしよう。  以前に、「卵の発生において、卵は異なる複数の物質が繰り返し反応して「波」の情報を作り、個々の細胞に卵内での位置を知らせるという」チューリングの説を書いた。これ以上の詳しい内容を知らないが、説明を読む限り、波の情報を作る反応は、リーゼガングリングに似た反応ではないだろうか。  リーゼガングリングは、物質が拡散する途中で他の反応物質に出会い、沈殿現象が繰り返し起こることで縞模様をなす現象だが、その説明に使われる代表的なものというと、瑪瑙があげられる。筋雲なども成因は同じだろう。  とにもかくにも、そうした波の情報で魚の縞模様が説明できるらしいが、鯖雲などと魚の縞模様にちなんだ名称などはそうしたことを踏まえてみると意義深く感じる。鰯雲はちょっと違いますが。 7/28  気温が高くなってきたせいで、輪ゴムの勢いがよい。普通の物体は温度が高くなると伸び、温度が低くなると縮むが、ゴムは逆で、温度が高いと縮み、温度が低いと伸びる。  冷凍庫に物を片付けるときに輪ゴムで止めると、輪ゴムがまったく役に立っていないことがよくある。低温で輪ゴムがゆるむのである。昨今のように気温が高くなると、ゴムは縮むので伸ばしたときの縮む力も強くなる。  詳細は省くが、この現象は風の強いときに幟がはためいて結果的に幟の長さが縮むことを使って説明できる。屋上に近い職場の部屋で、強い潮風を受けながら抽出にあるものを探しているときにふと思い出した。  耳かきの梵天揺れる南風 7/27  俳句を初めた頃に、飛行機雲を詠んだ句にろくな句はない、その原因は視線が上方に固定されやすいから、というようなことを読んだ記憶がある。そんなものかな、と思って今に至るが、雲を見るのは好きである。  昨日今日と入道雲をよく見た。太陽の光が当たり真っ白に光る部分と、その奥の陰影に富む部分とがなす凹凸を魅入られるように見ていることも多くなった。また、見ているうちにどんどん変化して行くので飽きることがない。これで夕立さえなければもっといいのにと、身勝手なことも考えてしまう。  とは言っても、延々と見ているといつかは人の顔に見えてきたり、何かの物に見えてきてしまう。こうなると雲を見ているのではなく雲の眺めながら別の考え事が始まる。その辺が雲を見る潮時だろう。時間にすれば2.3分のことだが。  思い出す乱歩短編雲の峰 7/26  一日休みを取ったので、実家から帰っての半日をウォーキングに費やした。炎天下でもあり、アップダウンがあるときついので、自宅から西に足を伸ばしたところの田園地帯を歩いた。  驚いたのは、押しつぶされた亀の死体を二つも見たことだ。どうも、農道のアスファルトに出たところを車に轢かれてしまうらしい。近道になるらしく、私がいるときにも車が何台も通った。  一匹だけならともかく、二匹も、と思ったのだが、さらに道すがらアスファルトの上に生きた亀がのうのうといるのを見た。歩道上だから、轢かれることはなさそうだが、同じような具合の亀には運の悪いのもいたのだろう。  日盛りの舗装道路に亀甲紋亀も歩けばタイヤに当たる 7/25  本日は実家泊まりとなるため、PCにしばらくさわれない。たまにはよいものである。  まだPCの能力がそれほどでもない頃、新しいPCか古いPCかで処理能力が大幅に違った。その頃は、古いPCをわざと使用して仕事をペースダウンさせることをストレス解消術としていた。とろとろと動くPCにあわせて仕事をしていると、肩の力が抜けたものである。  機械に最適な時間が、人間の時間に合わないというのは「モダン・タイムス」以来の問題だが、機械がこれほど発達してしまうと、人間が不要になる面がある。労働から労働者がいらなくなるのだ。しかし、人間は労働からなにがしかの金を得ねばならない。  そんなこととは関係なく、愚息は好きなように絵を描いている。それが労働になってくれという思いと、労働にならないでくれという思いと、親としては複雑である。 7/24  愚息の誕生日ということで、外食をした。年一回必ず行くステーキハウスである。もっとも、配偶者の方はランチタイムに時々行くらしいが。  愚息が興奮してうるさい。  「わあ、こんにゃく。」  「わあ、おとうふ」  「わあ、きゅうり(ズッキーニの間違い)。」  「わあ、お肉。」  「おにいさん、りょうりじょうずだねえ。」  鉄板を前にして料理する人の一挙手一投足に声をかける。料理する人もうるさかったろうが、「りょうりじょうず」にはにっこりした。  出かける前に、彼は日記をすでに書いていたようだ。昨年の記憶に基づいて、「…を食べました。」と書いたようだが、「きゅうり」以外は全部あたっていた。自閉症特有の記憶力である。  彼も17歳になった。  まだ目にしているわけではないが、そろそろ朝顔の咲く頃だろうか。短日植物で、夏至を過ぎないと花芽が形成されない、というようなことを生物を教えていた時期に覚えた。秋の季語となっているのは、そうしたことも理由だろう。しかし、私が朝顔を秋と確認したのは別のわけがある。  以前の勤務地の近所にゴミ捨て場があった。だだっ広いところでまわりに雑草が生い茂っていた。その雑草に混じって朝顔が自生していたが、花は延々と11月中頃まで咲いていた。色は紺の一色のみ。支柱を立てる人などいないから、地面に近いところをただ這いまわっていた。確かに朝顔は秋の花だと実感したことだった。 7/23  愚息の個展案内の葉書に貼る宛名ラベルの印刷と、ラベル貼りを行った。約六百枚を貼り終わったが、切手貼りは宿題にした。ラベルを貼る前には水平に積まれていた葉書が、貼り終わってから積んでいくとどんどん傾いていく。  今の紙幣は、目の不自由な人のために紙幣の隅をやや厚くしてある部分がある。はっきりと確認するためには、その部分の厚みをしっかりと作った方がよいのだが、札束にしたときに傾かないようにするため、あまり分厚くは作れないらしい。  物を水平に積むということは、けっこう難しい問題を含んでいる。   紙束を積めば傾く雲の峰 7/22  石橋湛山という人はよく知らないが、「小さな日本」は政治理念として最も正しいものだろうと感じている。しかし、現実はどんどん違う方向に行くようだ。  明治の文豪は「普請中」と言ったが、「米百俵」と言いつつ教育に金をかけない予算を通してしまうような言説がまかり通るのは、まだ何かが足りないのかもしれない。とりあえず、「絶望の虚妄なること、希望の虚妄なるに等しい」ことを念頭において日々送るのみ。  石油なき邦にたっぷり合歓の花 7/21  とある詩誌に毎回詩を送っている。今日の24時までが、今回の締め切りだった。とにかく、五七五、五七五七七を頭から追い出して、22時から考え始めた。今回は無理かもしれない、と思いながら。  三〇分経過、何も思い浮かばない。手近のまどみちおをパラパラ。だめ。天野忠をパラパラ。これもだめ。谷川だめ。やっぱり駄目だ。  眠くなってきたし、もう限界というところで手に触れたのが高校参考書「チャート式物理」、『例題1 次の…を…せよ。』。これだ!これで行こう!なんとか書いた。  詩を書く場合、どうも型を発見するところから出発するようだ。 7/20  帰りの上り坂。雨の中をどうなっているかなと、思いながら捩花のある場所を見てみた。ほとんど枯れていた。これから種になり、来年の花になるまでの気の長い時間が始まるわけだ。  おうこれが雨に打たるる文字摺草 7/19  サンクトペテルブルグのパラドックスと呼ばれる話がある。ウィキペディアでは聖ペテルスブルグのパラドックスとなっている。英語風にセントピータースバーグのパラドックスと言われることもある。  一枚のコインを投げる。表が出たら勝ちで終了。裏が出たら負けで賭は続行。一回目に勝つと一円。二回目に勝つと二円。三回目に勝つと四円。四回目に勝つと八円。以下、後になって勝つほど、儲けは倍々で増えていく。仮に、十九回裏が続いて、二十回目に表が出ると儲けは52万4288円になる。この賭の参加費はいくらにするのが適当か?  単純に期待値を計算すると、無限大になる。ということは、この賭にはどんなにお金を積んでも参加すべきだと言うことになる。なんだか、おかしい。  そこで、この期待値をどう計算し直すかが、問題になる。一八世紀のダニエル・ベルヌーイは、今日の経済学で言うところの限界効用逓減の法則を提唱した。大きな金額になればなるほどその金額の本当の価値は減少してくる、としたのである。これで計算すると期待値は1.4円ほどになり、常識的な数字になる。  無限を相手にすると、いろいろとおかしなことが出てくるが、くりこみの話とどこか似ている気がする。こちらはお金が絡んでくる分、人間生活と密接に絡んでいるのだが。  丁半の勝ち負け知るや夏の鳶 7/18  前回、愚息の個展を開いたのが二年前になる。その時の芳名録の住所・氏名をPCに入力した。約四百人を一気にやったので肩がこった。この手の作業は、毎日少しずつがコツなのだが、そうも言ってられないほどさぼっていた。とりあえず入力は完了。  このあと、他の住所録と合わせて重複するところを除く作業が待っている。町村合併で住所変更したところがあっても、そこまでは手が回らない。前回も、かなりの枚数が戻ってきたが、今回はどれくらい戻ってくるだろうか? 7/17  前夜眠気と戦いながら書いた文章がなくなっている。アップの操作を失敗したのだろう。何を書いたか、思い出せない。少し惜しい気もする。  手を振ってから話し出す戻り梅雨 7/15  休日出勤。午後勤務終了後、遅刻してとある句会へ、 前夜、十句をFAXにて投句したが、推敲が十分ではない。とは言え、分刻みのスケジュールを縫ってにしてはうまくいった方か?  まあ句作への意欲と、暇さ加減が反比例する人間としては、余裕たっぷりの時に作るとろくな句にならないからしょうがない。沈思黙考にほど遠く、いつも走りながら考えていないといけないようだ。  本日の出句から、  かたつむり朝の表情まだ作らず 7/12 合歓の花高速道路料金所 合歓の花エンジンブレーキかけ続け 頼らざる矯正視力合歓の花 あちこちに合歓の花が咲いている。すべてに判断停止をせまるように。 7/11  科学というものは、一木一草すらも論理の枠組みの中にはめ込んでしまおうとする衝動を持っている。ある意味、暴力的な破壊活動に似ている。その歴史的な起こりは神学論争に由来するのではないか?と、漠然と考えている人間にとって、神学論争を扱う佐藤賢一の小説は魅力的である。  おそらくそうした主題を扱う西洋発の作家はいることだろう。しかし、年々翻訳小説を読むことに億劫さを感じようになっている身としては、日本語でそうした話を読めるのはありがたい。「カルチェ・ラタン」、「オクシタニア」などには、へえそうだったのかという驚きがたっぷりと詰め込まれている。「カルチェ・ラタン」の方が後味すっきりとしているが、「オクシタニア」の後味の悪さも、なぜ人間は神を生み出したかにまつわる不快感を残そうとしているのだと取れば納得できないこともない。筋書きを書くと長くなりそうなので、省くが、検索をかければわかるだろう。インターネットの良いところだ。  このような作家が今の日本にいるということが、ある意味奇跡に見える。教養主義は廃れた。いまさら、西洋史に西洋の深い精神を探求しようという気にはなれない。これが一般的な気分だろう。だが、探求に乗り出した作家がいて、その作家は筆一本で食っている。  「傭兵ピエール」は宝塚になったらしいが、何らかの変身をしない限り司馬・藤沢クラスの国民作家には成り得ないだろう。できれば、このまま変身しないでほしい。深い深い神学論争を、下世話な言葉でずっと書き続けてほしい。一読者の勝手な願望である。 7/10  トイレにメルカトル図法の世界地図を貼ってある。地図を見ながらあれこれと思いにふけることがある。だいたい海岸線を眺めていることが多く、シベリアあたりはあまりおもしろくない。  今朝は、南米エクアドルあたりを眺めていた。海岸線の向こうにガラパゴスがある。普通はこのあたりで、ダーウィンの進化論、あるいはエルニーニョあたりに連想が行くのだが、置かれている状況から、このあたりの特産グアノ(糞化石)を思い出した。  「離島の珊瑚礁に、海鳥の死骸・糞・エサの魚・卵の殻などが長期間(数千年〜数万年)堆積して化石化したもの。主要な産地は南米(チリ、ペルー、エクアドル)やオセアニア諸国(ナウル等)である。グアノの語源はエクアドルの島の名前に由来するという」  あとでウィキペディアを調べてみると、上のような文で説明されていた。それに続く文章には、きな臭い歴史の一齣も記されている。  私が記憶しているグアノの名は、カレル・チャペッックの「園芸家12カ月」によるものだ。グアノはすばらしく効き目のよい肥料になると紹介されている。おそらく翻訳が良かったのだろう、園芸などとは縁遠い私にも興味引かれる名文だった。  雪がまったく降らずに気温が極端に下がると、街路樹などがそのまま凍結死することがある。チャペックなどチェコの園芸家にとっては、大変恐ろしい現象らしい。そうした、我々には縁遠い世界の珍しい現象が、読んでいると身近に感じられるから不思議だった。  ところで、どこでチャペックの名を知ったのだろうか?連想は、北杜夫の「どくとるマンボウ昆虫記」に行き着いた。この本には、立石寺の蝉に関する斎藤茂吉のエピソードもあり、連想はまだまだ伸びそうな気配だったが、この辺で打ち切り通勤へと向かった。 7/8  クロマニヨン人とネアンデルタール人のことを書こうかと思ったが気が変わった。珍しく、頭痛なく眠気なく頭がクリアな状態の日なので、理数的な話題を書いておく。  人類の知の発達の歴史は、無限大をどう扱ってきたかを見れば、おおまかな見取り図を描くことが出来る。S.シンの「フェルマーの最終定理」も、そうした見取り図を一部利用していたようだ。「零」、「無理数」の発見から、中世の神学、ルネサンス以降の天文学、微分・積分、群論、集合論、不完全性定理・チューリングマシン、フラクタル・カオスにいたるまで、無限大という取り扱いにくい概念をどう手の内に入れるかという歴史としてとらえることが可能だろう。  私が気にしているのは、「くりこみ」という物理学で生まれた手法のことだ。ある量を計算する途中で、何かの別の量が無限大になってしまったとする。そんなときに、計算をそこで打ち切らずに、その量を実際に測定してみる。無限大になってしまうところをその量に置き換えて計算を続行する。計算結果は確かに出てくる。出てくるだけでなく、もとの量を測定してみると確かに計算結果と合っている。こうしたやり方を「くりこみ」という。朝永振一郎・ファインマン・シュウィンガーのノーベル賞はこの業績に対して贈られている。  人類の知の歴史の中で無限大に対する新しいアプローチであることは確かだろう。気になるのは、この手法が経済学に応用されていることだ。お金と無限大の相性は合うのだろうか?  もっと書こうかと思ったが、早く飯を作れという催促が入ったので、これで終わり。 7/7 捩花や急勾配の無人駅 捩花や轍の泥の貴種流離 捩花の混じる刈草袋透く 捩花や埃溜めたる紙細工 ひとりだけ文字摺草が好きという  通勤経路に何カ所か、捩花の咲くポイントがあった。消火栓を置く畳一枚ほどの芝生だったり、家壁と溝との細長い草地だったりと、造成地になる前はあちこちに自生していただろうと想像できた。  コンクリートで埋められたり、念入りな草刈りで次の年からなくなったりで、今はポイントがだいぶ減った。残るは、公営団地の芝生のみ。今年もまた、十本ほど咲いている。 7/6  古い読書日記を見ていたら、こんなのが出てきた。 森枝卓士「アジアラーメン紀行」より 『日本人の外国文化(この場合は食だが)受け入れのパターンとして、僕が勝手に名付けた「カレーの法則」というものがある。  外国の文化を受け入れるときに、そのままの形でストレートに自分のものにしてしまうのではなく、受け入れやすい形にしてから自分のものにするという第一段階のあと、本物も受け入れるという第二段階が来る。(中略)  小麦粉たっぷりで、ねっとりとした和風カレーが国民食になってから、これぞ本場ものという「インドカりー」』がレストランなどで広まる。(この後、スパゲッティ、豚カツ、ラーメンと出てくるが略)  これは食べ物だけの話ではない。全ての外国文化をこんな具合に抵抗のないように段階を分け、徐々に受け入れてきたから、日本人が短時間にスムーズに「近代化」できたのではないか。食は文化の中でも特に保守的で、なかなか変化しないといわれているが、それさえも数十年の間に一変したのには、こんなところに理由があるのではないか。』  これを読んで、ようやく次の句が腑に落ちた。   ビーフカリーは最も淋しい朱夏である  摂津幸彦 7/4  イメージトレーニングで思い出したが、高熱を出しているときに見る夢は独特の感触がある。大きなワッフル機に押しつぶされそうになる夢とか、その夢の続きでタータンチェック柄の布になってしまったりとか、普段の夢では決して見ないものだ。多分に、寝汗の影響があるかもしれない。不思議と血のイメージはない。また、咳き込んでいるときには夢を見た記憶が失われている。  日野草城の、   高熱の鶴青空に漂へり  これほどの夢はまだ見たことがない。 7/3  ついイメージトレーニングをしてしまう癖がある。たいていは、大事故に遭う想像だ。今日の帰り道では、断崖絶壁から落ちる場面を想像しながら、歩いていた。想像が極まって、つい奇声を上げてしまう。誰も通らない道だからいいが、あまり他人には見せたくない。  そう言えば、有名な断崖絶壁といえば、大歩危・小歩危、親不知。親不知、……。歯医者の予約をすっぽかした!もう一度、奇声を上げてしまった。 7/2  「理系白書」には、様々な研究が紹介されているが、私の知らなかった研究で今後重要になるだろうと思われるものが一つあった。  発端は数学者チューリングが提唱した論文で、卵の発生において、卵は異なる複数の物質が繰り返し反応して「波」の情報を作り、個々の細胞に卵内での位置を知らせるという説だ。四十年以上も放置されていたらしいが、チューリングの説に基づいて、魚の縞模様の変化を計算してみたところ、実際の観察結果とぴったり一致したとのことだ(約十年前の結果)。  DNAが、生物の体の設計図だとしても、その設計図をどのように実現するかの道のりはまったく明らかになっていない。古くからある「環境か?素質か?」の議論は、現在「素質」に大きく傾いているが、「環境」の及ぼす影響をはかりかねているだけかもしれない。高校の生物の教科書を見ても、発生の部分の研究内容は他の部分に比較して古びている。今後この分野にも注目しておこう。 7/1  新作アニメ「カーズ」を見た。  勝つことだけが全てではないというテーマを、サクセスストーリーの中に入れるというなかなか複雑なことを、軽々とやってのけている。その点は感心した。  画面もなかなか素晴らしいが、3Dアニメはどうしても物の表面に光沢があり過ぎて、汚れや埃っぽさを表現しにくいのが難点。表現しようとすると、ソフトウエアの発達が必要なのか?さらにコンピュータの能力が必要なのか?   3Dアニメの中の滝飛沫