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日本女性初、冬季五輪出場の稲田悦子とベルリン日本人会の夫人 


昨日(2013年2月7日)、ソチ冬季オリンピックの開会式が行われた。
筆者が冬季五輪と言うとまず思い浮かべるのが、1936年2月6日から16日まで南ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヒェンで開催された大会である。早速気づいたことだが、80年近く前のと今回の五輪の開催日が1日しか違わないのは、さすが歴史あるオリンピックと言うべきか。

この冬季オリンピックが同じ年に行われた夏のベルリンオリンピックに比べて、人々の記憶にないのは、当時は冬季オリンピックの人気が低かったためであろうか。もしくは夏の方はレニ・リーフェンシュタール監督の記録映画「民族の祭典、美の祭典」が日本を含め各国で上映されたためであろうか。

そしてこの大会には12歳の日本人少女 稲田悦子が参加した。ウィキペディアによれば彼女は

昭和11年(1936年)1月にベルリンで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権に出場し、その際にはドイツの総統アドルフ・ヒトラーと握手している。 1936年2月、ドイツで行われたガルミッシュ・パルテンキルヒェンオリンピックに12歳で出場。

これは2010年現在に於けるオリンピック日本人最年少出場記録(夏・冬を通して)であるのみならず、第二次世界大戦前の冬季オリンピックに参加した唯一の日本女子選手であるなど歴史的な出場であったため、日本の女子フィギュアスケートの先駆けの選手として有名である。

このオリンピック大会では
白い服に赤いカーネーションを付けた衣装を着て、ドイツのミリタリーマーチで演技し人気を呼んだ。成績は26人中10位であったが、この大会で優勝し3連覇を飾ったソニア・ヘニーは「近い将来必ず稲田の時代が来る」と断言した。


ここに紹介された稲田の白い服は当時斬新なものであったためか、今も秩父宮スポーツ博物館に展示されている。(こちらのページの「注目の展示品」参照。)

その時ベルリンに暮らした加藤綾子さんはその稲田悦子のサインを持っている。先述のベルリンのフィギュアスケート選手権に参加した際にもらったものだという。付け加えると3連覇を飾ったソニア・ヘニーにもサインしてもらった。ソニアの人気はベルリンでも大変なものであったと綾子さんは記憶している。

加藤さんのサイン帳より。縦に書かれた稲田のサインは鉛筆書きで少し薄い。上がソニア・ヘニー

そして綾子さんはもう一つ、興味深い話をしてくれた。稲田の競技に着たユニフォームは、綾子さんのお母さんらが贈ったものだという。それは次のような話だ。

当時日本の洋服のデザインの水準は欧米に比べて、格段に劣った。よってベルリンに駐在することになったご婦人は、船でマルセーユに上陸し、パリに寄り洋服を入手したり、支店長クラスのご婦人は懇意の仕立て屋の家に呼んで、自分のドレスなどを作らせた。

ベルリンに着いた稲田の競技会のユニフォームは、駐在員の奥様達が見て、あまり見栄えの良いものではなかったらしい。それは審査の点数にも影響するであろうと考えた。

そこで日本大使館の井上康次郎参事官が中心となり、三菱商事支店長婦人渡辺徳子さん、同じく三井物産支店長婦人綾井章子さん、そして加藤さんの母親である大倉商事支店長の加藤節子さんが協力して彼女の競技会用のユニフォームを作ってあげたのであった。この三名はベルリンの婦人会の中心メンバーであった。そして仕立てた白いユニフォームの裏地は日の丸を意識して赤であったという。

当時日本からの海外駐在員は、現地で恥ずかしくない生活を送るにふさわしい給料をもらっていた。それは日本の生活費に比べると格段の金額となった。こうした環境であったこともあり、ベルリンの三人の夫人も日本からの少女を支援したのであろう。そして稲田が10位に入ることが出来た一助となったのかもしれない。


ベルリン日本人学校前にて。中央が加藤節子さん。右端が渡辺徳子さん。左端が綾井章子さん。右から二人目は小島海軍武官夫人。加藤節子さんは写真ではいつも中央に収まったという。

日本オリンピック協会のホームページにも「稲田悦子のコスチューム」という記事がありますが、このことは出ていません。またその後この記事は削除されたようです。(同協会にも依然リンクは張られていますが)(2016年7月13日)

彼女の活躍を写真入りで紹介するオーストリアの新聞記事を見つけました。"Das interessante Blatt"1938年4月7日、日本でのエキシビジョン演技の様子がこちらからご覧になれます。



筆者は当時の欧州の日本食レストランについても調べていますが、稲田悦子も語っていました。
1936年2月2日の朝日新聞からです。

タイトルは「日本食で元気百倍」
「いよいよガルミッシュに到着しました。美しいところです。私等の宿舎はシェーネックという家です。
ご飯はわざわざベルリンから日本人のコックを雇って、日本食が食べられるので、元気が出ました。」

ガルミッシュ・パルテンキルヒェンと日本の間に、特別に電話回線が設置されていました。今なら会場にWi-Fiの設備があるようなものでしょう。そして稲田悦子が、日本に向かってしゃべったのが、上の言葉です。

当時ベルリンには3軒ほどの日本食レストランがありましたが、そのうちどこから派遣されたかは不明です。彼女の活躍の一因は日本食であったかもしれません。
(この項 2016年7月12日 追加)


 
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