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ネーヤ・ゾールカヤさんのこと
扇 千恵
 ネーヤ・ゾールカヤさんが10月16日にお亡くなりになった。「とうとうその日が来てしまった」というのが、知らせを受けた瞬間の私の想いだった。
 今年の6月、私は何故かとても彼女に会いたくなって、同じならばモスクワ映画祭の開催中にご一緒していろいろ教えていただこうと思い、映画祭の招待状も取ってモスクワを訪れた。すぐにお電話すると、「病気で寝ているので、家にいらっしゃい」とのお返事。私を出迎えるためにドアのところに立っている彼女を見て、私は一瞬息が止まりそうになった。本当にネーヤさんなのか、と疑ったほどに痩せておられた。ガーリャさんという若い女性が掃除と料理に通っていて、その日も私のためにご馳走を用意して下さっていた。ネーヤさんはベッドに横になったままで、しかし、話し方は以前と変わらず、私にいろいろと気を遣って下さる。何度もワインで乾杯した。私が「ワインを飲んでもいいのですか?」と尋ねると「どうして悪いのだ?」とこわい顔。しかし、殆どお食べにはならなかった。一体、何があったのか。私の頭の中はこの問いで一杯になったが、彼女の態度はこの質問をすることを許してくれなかった。
 帰路、車で駅まで送ってくれた娘のマーシャさんは、「昨年の秋から重い病いに罹っているが、母が自分から病名を言わない限り、私も言えない」とおっしゃった。
 他日、電話をすると<高等脚本家・監督クラス>(タルコフスキイもこのクラスの出身者である)で授業があるので聴きにいらっしゃい、と言われた。彼女は自宅ではベッドから起き上がることすらが困難であっても、大学の授業には運転手つきで通っているとマーシャさんから聞いていたので、「もちろん行きます」と約束したが、「疲れていませんか」と尋ね、「私は決して疲れていない!!」と叱られてしまった。
 6月27日、私は数年前にネーヤさんにお世話していただき、日本から映画好きの友人たち15名とともに訪れた<高等脚本家・監督コース>にやっとのことでたどり着いた。受付の女性は私が来ることをネーヤさんから知らされていて、講義中の教室に案内して下さった。『鶴は翔んでいく』が上映されていた。彼女のそばに座ると、手を握って下さった。映画の大切な箇所になると、ネーヤさんが大きな声で学生たちの注意を促し、説明をされる。しかし、時々目を閉じて、うつむいておられる姿は私には痛ましかった。映画が終わると、学生たちに持参のケーキを勧めながら私を皆に紹介して下さった。私は彼女をとても尊敬している、と彼らに伝えた。
 ネーヤさんがいつもとてもおしゃれなのは定評のあるところだが、この日もグレーのパンツに赤いバラの花模様が散りばめられた上着をお召しになり、私がプレゼントに持参したパールのブローチが胸元を飾っていた。しかし、さすがにお疲れになったであろう。運転手が迎えに来ると、私を途中の駅まで送って、そのまま帰宅された。おそらく、これが彼女の最後の講義であったと思われる。
 帰国前にもう一度彼女の家にお邪魔した。途中の花屋で真紅のバラを求めたのだが、そのとき店員から2本贈るのはロシアでは亡くなった場合だと聞き、あわてて3本にした。ネーヤさんから映画祭の感想など質問されたが、今回、あまり映画を観なかった私にはまともな答えが出来なかった。彼女はベッドの中でもネックレスをはずさなかった。これは彼女にとっては私を迎えるためのエチケットなのだ。6年前、日本にご招待したときも彼女は常に身だしなみに気を配られた。それは相手に対するエチケットだとおっしゃったのが、忘れられない。この日も一緒にワインをいただいた。11年も前に遡るが、初めて彼女の自宅に招待されたとき、「ワインなんて水のようなものよ」と杯を重ねたことが大きな印象として残ったのを思い出す。ご病気のことを尋ねようとすると「私の病気のことなんか面白くもない。話したくもないわ」と一蹴された。私はいまだに彼女の病名を知らない。
 今日発つという日の朝、お別れの電話をかけた。「もう一度日本に行きたいわ」と言われたので、私はとっさに「いつでもご招待します」と答えたのだけれど、彼女も私もその日が来ることはないと、分っていた。帰国して2週間後の7月12日は彼女の82歳の誕生日だった。お祝いの電話をかけたところ、愛情にあふれた彼女の暖かい声が返ってきた。翌日から別荘に行き、執筆をする予定だとおっしゃった。そのあと、私は一度も電話をかけなかった。恐ろしかったのだ。そして、とうとうその日が来てしまった。
 今年の3月、ロシア映画界のアカデミーであるニッカの授賞式でネーヤさんに「映画学および映画教育における貢献」を称える賞が贈られた。当時、「ロシア映画芸術の守護天使」と題された記事を書いたワレリイ・フォミンは彼女のことを「ロシアの映画文化という最も大切な聖地、最も貴重な試みの聖なる炎を守る使命を帯びて、天からこの世に送られてきた人」と名づけている。この使命は重く、時には危険に満ちたものだった。60年代、彼女は自由を求める文学者たちを擁護する署名をおこない、出版の権利を剥奪された。彼女は映画界でタブー視されていた問題にも挑戦し、ドグマや紋切り型に対しても闘った。彼女が現れると、議論がますます火をつがれたように燃え上がるため、「炎の女」と呼ばれていた、とかつて私も聞いたことがある。
 ワレリイは彼女の仕事の大きさを次のように紹介している。まずは革命前のロシア映画を復権させたこと、次に党委員会の決定とは異なる、綺羅星の一群として一般的な社会主義リアリズムの隊列からこぼれおちた優れたソヴェート映画作品を紹介、評価したことである。しかも彼女はタルコフスキーやパラジャーノフら、作家映画の熱烈な弁護人でもあった。また、ペレストロイカ以降、あらゆるソヴェート的なものに唾をかけられたとき、彼女はふたたび、批判にさらされる価値の擁護に立ち上がった。
 彼女のこの力は何に由来するのか、とワレリイは自問する。「それは愛である。祖国の映画に対する尽きることのない愛につき動かされて、彼女は仕事を続けた」と。
 彼女の著書『ソヴェート映画史――七つの時代』を翻訳しながら私が強く感じたのもやはり、この祖国の映画に対する彼女の尽きることのない愛だった。しかし、それよりも何よりも、私がこの記事の中で最も感動したのは「彼女はどのような苦境にあっても決して愚痴をこぼさなかった、不平を言わなかった、他人を当てにはしなかった、しかしながら誰に対しても援助の手を差し伸べた、呼びかけに対しては必ず応えた、いかなる仕事も拒否しなかった、それが彼女の主義だった」という一文を読んだときである。
 12月22日から開かれるモスクワ青少年・児童映画際の審査員として招待されることになった。この機会にネーヤさんのお墓に詣り、彼女に最もふさわしい真紅のバラを供えたいと思う。
-- 2006年10月・記 --
学生時代のネーヤさん 2006年3月にニッカで受賞した時のネーヤさん
6月27日<高等脚本家・監督クラス>での
授業の後で筆者と共に
2人の弟(故ピョートル、故アンドレイ)と共に
ソヴェート映画史−七つの時代
ネーヤ・ゾールカヤ著 / 扇 千恵 訳


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