脅しの理論 はじめに

 あなたは、いま、重要な商談で取引先と、膝をつきあわせて交渉しているとする。虚々実々の駆け引きもやり、先方にお世辞の一つも言ってみて、何とか自分の方に有利に話を進めようとしている。しかし、したたかな相手の術中にはまってしまって、当初予定した何分の一かの条件で契約してしまった。
 また、あなたが社内で、これこそはと思う企画案を練り、あとは直属の部長、課長を説得しさえすればよいと胸の一つもたたいて誇らしげな気持ちでいたとする。しかし、課長のところへ行って、いくら口を酸っぱくして説明してみても、敵は、うんとは言わない。それどころか精魂こめて作成した企画案に対し、「こんなことではダメだ。」と逆に文句の一つも言われてしまう。
 右のようなことは、じつによくあることだ。自分の思いどおりにことが運ばず、いつも相手のペースに巻き込まれて敗退してしまう。夜の酒場で、うじうじグチもこぼしたくなる。どうしてこんな破目になるのか。それは、あなたが、「脅しの理論」を知らないからだ。「脅しの理論」こそは、相手に譲歩を迫り、自分に有利な結果を生み出すための切り札であり、同時に自らの体質を強化して「脅し」に対する抵抗力をつけるための有効な方法なのである。
「脅しの理論」は、アメリカで生まれた。エリート養成校であるハーバード大学で経営学理論として、教えられている。むずかしく言えば、意思決定理論の最新の成果の一つである。これは、決定分析とも言われるが、この本では、決断という言葉を使っている。シェリングの『対立の戦略』は、ハーバードの大学、大学院生の必読書である。かつてウォール・ストリート・ジャーナル紙は、「ハーバードでは、"はったり"を教えている。」と批判したことがある。しかし、「はったり」「脅し」は、ウソとは根本的に違う。ともあれアメリカの政治・経済エリートの頭のなかには、「脅しの理論」がセットされていることは事実である。
「脅しの理論」の提唱者の一人であるリンガーは、「交渉当事者間の取り分は、脅された量に反比例する。」というテーゼを述べている。つまり、交渉は、脅されたほうが、そのぶん譲歩するというきわめて簡潔な原理である。先程の例でも、取引先や上司の思う壷にはめられるのは、相手に脅されているからである。相手の機嫌をそこねれば、今まであった契約額までが失われてしまう。だから相手の強硬な申し入れにたいしてなすすべがない。また上司は、あなたに命令できるから、あなたの頭を押さえつけることができる。すべてあなたにある種の「脅し」がかけられている。このように「脅し」は身近なところでいくらでも使われている。
●この物件は、お買得です。今買わなければ、他の人に買われてしまいますよ●キミ、この宣伝案で、新製品の売り出しはだいじょうぶだろうね●駅前のマーケットの方が、お肉が安いわ●出血大安売り! ×日まで●もう少し一生懸命に働いてもらわないと、ボーナスの査定を考えざるを得ないなあ●これが、流行の最先端を行くファッション……。
 これらは、すべて直接、間接の「脅し」である。なんだ、こんなことならと言う人もいるかもしれない。しかし、「脅し」をうまく使える人は、仕事ができる人である。
 この本は、たんなるハウツー物ではない。「決断」にかかわるいろんな研究を利用している。「脅し」に勝ち抜いていく方法も述べた。
 第1章では、「脅しの理論」の前提になる意思決定論の簡単な概要を、日本の企業の多くの事例をとりながら解説した。
 第2章が、この本の中心部であり、「脅し」にまつわる心理的な側面を分析し、人間には、「仮面」が必要であることを説いた。また、上司や部下をたくみに動かす技術も述べた。つまり「脅し」に対する「あやし」である。
 第3章は、日本人の意思決定の弱点を取り上げた。とくに、企業倒産における戦略と決断の「遅れ」を安宅産業などを例にひいて説明した。
 この本で、私は企業で働く人、職場の人間関係に悩む人にもっとたくましくなってもらいたいと望んでいる。日本人のこれまでの傾向として、あまりにひよわで受け身である。日本人よ、「脅しの理論」で、もっと”したたか”になれ、と私は言いたい。
 昭和五十五年九月二日             藤田 忠(ふじた ただし)