プロローグ - すばやく決断し、たくみに人を動かす

*トラブルが起きたときに見せた二人の責任者の決断*

 スイスのホテルで、私の大学の同僚が、ある感動的な体験をした。彼は、所用で出かけていたスイスのホテルを引き払うために、フロントに預けてあった貴重品を受け取ろうとした。しかし、担当の係が、金庫の鍵っを持ったまま家に帰っていた。彼は、飛行機の出発の時間が迫っていることをホテルの支配人に告げ、「トゥー・バッド(まずいなあ)」と嘆息をもらした。
 そのとき、ホテルの支配人は、ただちに電気ドリルを持ってこさせ、金庫の鍵をぶち破り、貴重品を取り出した。スイスのホテルのサービスのよさは、よく知られているが、私の同僚は、このときばかりはいたく感心させられたと語っていた。お客へのサービスを第一に考えるこの支配人の決断に満ちた行動に、彼はスイスの国全体に、あるさわやかさを感じたという。
 ホテルでのエピソードをもう一つ。私がハーバード大学にいたときのことである。ニューヨークに学会があり、あるホテルに宿を取った。学会が終わって、チェック・アウトしようとした。ところが、私の請求明細書がコンピュータにインプットされていないという。そこで滞在期間を説明し、ホテル代を計算してもらい勘定をすませた。そのとき、ある危惧の念がわいたので、「二重請求はないだろうね。」と確認した。フロントはだいじょうぶだと言った。
 しかし、ハーバード大学に帰って間もなく、きびしい請求の手紙がホテルから舞い込んできた。領収書のコピーを送付して説明しても、当方の言い分を聞こうとしない。コンピュータの方を信じているのである。
 再三のやり取りがあり、そのホテルはどうしても支払わないなら、裁判所に訴えると言ってきた。そこで私は、大学当局に相談した。大学は、ハーバードの名誉に賭けて、断固糾弾するという強烈な抗議文をホテルにぶつけた。ホテル側は沈黙した。一件落着である。
 スイスとアメリカの二つのホテルでの事件に、私はいろいろ考えさせられた。スイスのホテル支配人の決断は、ビジネスに従事するものなら、かくありたいと思わせるほどみごとなものであった。この本の読者であるあなたが、同じ立場に置かれていたなら、はたして電気ドリルで金庫をこわすような荒技をしただろうか。あなたは、いそいで従業員の家に電話して鍵を持ってこさせたかもしれない。また、航空料金をホテル側で弁償することを考えるかもしれない。
 わたしと同僚が感心したのは、支配人の決断に満ちた行動に対してであった。事情が事情であるから、飛行機に乗り遅れるのはやむを得ないと客の方でも思うかもしれないのに、支配人は、自分たちのミスを認めたうえで、そのミスをカバーする最適の行動を選択した。この態度が立派なのである。責任ある地位にいる人間であれば、つねに仕事の上での決断を迫られている。大学の先生であろうが、会社に勤務するサラリーマンであろうが、このことは等しく言える。スイスのホテルの支配人のごとくありたい。
 反対に、アメリカのホテルの対応は言語道断である。自分たちのミスを客に押し付け、そのあげく、裁判に欠けて黒白を争うぞと平気で「脅し」をかけてくる。そしてこの紛争の決着も、当方の強い「脅し」にホテル側が屈服したことによってついた。ハーバード大学という強い権威がなければ、どうなっていたかわからない。日本人なら、しかたなしに二重の代金を支払ってでももめごとをなくそうとするかもしれない。これでは、これからの時代を生きていけない。
 日本人は対立を好まない。欧米にみる、対立は発展の原動力であるとの発想がない。「和をもって貴し。」とする日本人には、対立抗争は悪である。しかし、人生は基本的にはその環境との戦いである。先のアメリカのホテルでの経験は戦いであった。今後の日本人は日本的平和な情緒にひたってばかりはいられない。国の内外はきびしい環境になっている。

*「脅し」は、相手から譲歩を引き出すための武器*

「いささかでも自信のある者は脅しをかける。」-これはスイスの人間医学の提唱者ポール・トゥルニエ博士の言葉である。
 昭和五十二年五月、彼は来日した。国際基督教大学で、かつてあれほど多数の聴衆が集まったことがなかった。その大聴衆に彼は人間医学の話をした。心身の病に悩む者のための救いの福音であった。
 しかし彼の現実認識はきびしい。彼の著書のほとんどは日本語に翻訳されている。先の引用もそうであるが、彼の『人間・仮面と現実』はさらにつぎのようにもいう。
「人は誰でも他人の仮面をひっぱがし、自分の手の内は隠そうとしている。」
「誰も切り札を駆使して、みずからの目的を追求している。」
「人はみんな一度に一〇〇のゲームをやっている。女性を手に入れたい、金をもうけたい、快楽も欲しい。名誉も尊敬も……。」
 人はみな、紳士の顔をしながら「脅し」をかけて仕事をし、商売の話を進めている。「脅し」を使えない人は弱者である。これが本音である。これでないと仕事も進まない。「脅し」が言葉として悪ければ権力である。権力の争奪をしているのが人間の姿である。しかし、それもただ素面(しらふ)で争闘しているのではない、大義の大旆(たいはい)をかざし、紳士の仮面をかぶりながらの戦いである。
 日米の経済摩擦問題を見てもこのことはわかる。アメリカ人たちは、自分たちのくるしい状態をなんとか打開しようとして、あの手この手の「脅し」をかけてくる。そして日本はそれにけっきょくは従う。「脅し」は現代社会では、有力な武器なのである。相手にこちらに有利な決断を迫ることができるのだ。
 組織内でも同じである。人事異動による勤勉の奨励。生産性、あるいは業績向上への叱咤(しった)。上司の部下への命令。これはすべてうしろに「脅し」が隠されている。従わなければ、降格や左遷、給料の低下へとはねかえってくる。逆に言えば、「脅し」をうまく使うことができれば、部下の心を掌握することもできる。これが現代の”生きざま”である。

*どんな場所、どんな時にも「脅し」は使われている*

 社会が、善意だけで運営されているわけではない。意識するしないにかかわらず、おたがいに自分の「脅しの理論」をふりかざした戦いを行っている。封建時代のように、気にさわった部下に死罰を与えるような時代ではない。
 このような原始的な「脅しの理論」の働く時代ではない。しかし、まったくムチの使われない時代でもない。自分の胸に手を当て、内なる声に耳を傾けてみてほしい。あなたは「このようにしないとムチを与えますよ。」という「脅し」をなにくわぬ顔で日常的に行っているはずだ。
●この中古住宅はお買得です。今買わなければ、ほかの人に買われてしまいますよ。
●ご主人に”もしも”のことがあればどうしますか。ぜひ保険にお入りください。
●仕入れ値段をもう少し下げないと、よそから買うよ。
●駅前のマーケットの方が、お肉が安いわ。
●もう少し一生懸命に働いてもらわないと、ボーナスの査定を考えざるを得ないなあ。
●キミ、この宣伝案で、新製品の売り出しはだいじょうぶだろうね。
●この映画を観なければ、あなたは時代に取り残される。
●これが、流行の最先端をいくファッション。
●出血大安売り! ×日まで!
●『脅しの理論』を読まなければ、80年代を生き抜けない。
 これらは、すべて「脅し」である。「脅し」は、どんな場所、どんな時にも平気で使われている。ただ自覚する人としない人がいるだけである。自覚している人は、商売がうまく、仕事が有能だと評価を受けているはずだ。有効な武器として使っているかいないかの違いである。
「脅し(threat)」とは、「私はある条件下では、ある行動を決断しますよ。」という暗示的あるいは明示的表明のことである。たとえば「駅前のマーケットの方が肉が安い。」と肉屋に言ったとする。その言葉の裏には、「値下げしなければ、駅前のマーケットで肉を買う。」ことを告げている。これが「脅し」である。
「脅し」の目的は、相手の行動を変更させることにある。「脅し」がなければ、「いやだ。」と言ってやろうとしない相手を、「脅し」をかけることによって、不承不承でもやらせることができる。しかし、できそうもないことをやるぞと表明しても、それは「脅し」にならない。
「×月×日までにしないとこうしますよ。」と脅しをかける。その日が過ぎても何もできない。こんなことをしたのでは馬鹿にされ、『イソップ物語』の「おおかみと少年」の話になってしまう。脅しをかけるほうにもコストは生じるのである。

*「脅し」を「脅し」にするためには、「仮面」がいる*

 人間は「仮面」をかぶって行動している。会社内のあなたの職務は素面(しらふ)のあなたが遂行しているのではない。あなたは職位の仮面をかぶって勤務している。あなたはそこでの演技力で報酬をいただいているのだ。部下もあなたの人格によって命令を聞いているのではない。部長、課長という「仮面」に対して従っているだけなのである。
 だから、課長は課長らしく、部長は部長らしく、堂々と演技しなければならない。部下を叱るときは十分心をこめて叱る演技をしなければならない。演技をしながら自分の役者ぶりはどうか、迫真力があるかを反省する余裕が必要である。これが能楽の世阿弥(ぜあみ)のいう「離見の見」である。このようにしていけば、あなたは昇進し、昇給していける。いうなれば、ゲームを行っているのだ。
 日本人にはこのゲーム的発想が弱い。同じカード遊びの百人一首はスピード競技である。「天の原ふりさけ……」と読むとほとんど同時に、下の句の「春日なるみかさの山に……」のカードをとる。スピードを競う運動競技である。
 いっぽうポーカーは一筋縄ではいかない。ポーカー・フェイスという語がある。無表情な顔、わけのわからない顔つきをいう。ブラフ(bluff)の単語を英和辞典で引く。その第一義はつぎのようにある。トランプのポーカーで、あいてより弱い手であることを知っていて、思いきり多く賭け、自分の手が非常にまさっているように見せかけること。第二義に、「脅す」とか「はったりをかける」とある。
 欧米人の日常の遊びからして、日本人のそれと違う。ポーカー・フェイスなりブラフをかけるには演技力が必要である。また、ブラフ(脅す)はウソとは違うのだ。ブラフは演技力で、相手に思いこませることである。しかし、ウソは事実でないことである。本質的に違う。
 ゲームには獲物の意味がある。狩猟するのに「銅鑼(ドラ)」を打ち鳴らし、いわば脅しをかけながら獲物を追いこんで行く姿が連想される。ゲームにはルールがある。ルールのないものはゲームでない。交渉などはまさにゲームである。
 IBMの創立者ワトソンは次のように言っている。
「ビジネスは、そのやりかたを知るならば、この世のなかで最高におもしろいゲームである。」
 ビジネスは、ゲームなのである。事業に失敗して自殺するという人は、この感覚がない。切り札がたまたま相手より弱かったと考えればよい。日本人は、あまりに深刻に考えすぎる。ゲーム的発想が貧弱である。欧米人が、「脅し」を有効な武器として交渉事に使っているのも、このゲームの感覚があるからだ。相手より強い札で勝負して、勝ちをとるのはなんら恥でもなんでもない。やりかたがうまかったと、彼らは考えるのだ。
 フィリピン駐在のある大使が、「フィリピン人は、少し強く出ると黙って引き下がる。」と私に言った。このことはなにもフィリピン人だけでない。日本人も同じである。ソ連の原潜が領海を通る。日本は通るなと遠吠えする。威風堂々と通られると何も言えない。私の子供まで日本のふがいなさをくやしがる。
 ある外国の特派員が、日本の新聞記者のなまぬるい報道におどろいていた。「相手の本音に迫るような質問をなぜしないのかふしぎだ。」とも言っていた。日本人は、遠慮深すぎるのだろうか。日本の特派員が、その国のことを悪く書かないのは、取材拒否やその他の妨害を恐れているからだとも言われている。つまり外国当局から心理的にいつも「脅し」を受けているのだ。これでは、真実に迫る報道はできない。
 この根本原因は、自我の確立と関係している。”脅さ”れても、自己を貫く勇気が必要とされる。「日本は、外圧を加えないと動かない。」と外国に思われている。国内でもその通りであろう。ぐずぐずしながら、ついには押されっぱなしになる。決断ができない。もう少しスカッといかないものだろうか。スイスのホテルの支配人のように……。