勝海舟 - 無血開城の極意

  今回は、幕末に活躍した勝海舟の交渉術から、交渉決裂時における大体選択肢の重要さについてふれてみたい。これは交渉学ではBATNA(Best Alternative To No Agreement)と呼ばれており、交渉には不可欠な要素である。

  大局をみつめる
 勝海舟は貧乏旗本の長男として1823年(文政6年)、江戸に生まれた。幼いころから剣術修行に励み、永井青崖のもとで蘭学をも学ぶ。高野長英、佐久間象山らとも交流があり、外国からの侵略、日本の運命などについて意見を戦わせていた。また勝は禅の修行をも積み、いかなる修羅場においても冷静さを失わない精神力を会得した。
 ペリー来航から7年後の1860年(安政7年)には、感臨丸に乗り込み渡米。日本とは全く異なる世界を目の当たりにし、幕藩体制による封建統治のもとでは世界の荒波の中を生き抜くことはできない、と幕閣のなかでもきわだって進歩的な考えを持っていた。
 勝が生まれたころには、鎖国下にもかかわらず無数の外国船が日本近海に出没していた。幕府はその都度異国船を追い払い、諸藩に海防を厳重にするよう命じていた。しかし勝は、徳川封建社会の欠陥をすでに見抜いており、感臨丸から見たアメリカのように、能力ある人材を積極的に登用していかなければ、これからの日本の発展は望めないと考えていた。常に大局をみつめ、どうすれば日本の政治がよくなるか、外国に追いつくには何をすればよいか、という視点に立って、彼はものを考えていた。

  彼をもって彼を制す
 勝は多くの外交交渉に携わったが、その交渉術のひとつに「彼をもって彼を制す」をいうのがある。これにまつわる逸話があるので紹介したい。
 文久の時代、ロシアの軍艦が対馬に現われて、海岸を測量したり、地図を作ったりと勝手なまねばかりするので、土地の役人が小舟に乗って談判に行ったが相手は一向に取り合わない。その後も別のロシア軍艦が現われ、また同様のまねをする。何度も掛け合ったが取りつく島もなかった。
 事実上、対馬はそのときロシアに占領されたも同然の状態にあったが、ここで勝が手腕を発揮する。日本が国力弱体な国だと思って知らぬ顔を決め込んでいるのであろうと、一計を案じたのである。
 当時、勝は外国との交渉にいつも引っ張り出されていたこともあり、親交を深めている外国人が少なくなかった。そこで彼は在長崎のイギリス公使に内密に頼み込む。すると、イギリス公使はすぐさまロシア公使とに連絡をとり、軍艦を引き揚げさせたのである。
 もし日本が独力でロシアとの交渉を進めていたならば、このような結果は得られていなかったであろう。場合によっては、それを契機として日本の独立がじゅうりんされるような事態になっていたかもしれない。
 交渉には均衡が不可欠な要素である。いくらこちら側が準備に時間をかけ、抜群の交渉力があったとしても、決裂する場合がある。そのような場合、第三者に交渉を任せるのもひとつの方法なのである。
 勝はロシアとの交渉をイギリスに一任した。国力からいって、明らかに当時の日本はロシアに劣っていた。そこでロシアと同等、もしくはそれ以上の力を持つイギリスを見い出したのである。まさに、彼をもって彼を制すの論理である。
 交渉において第三者たるためには、さまざまな条件が考えられる。こちら側も相手も、双方が好意を持っている人間でもいい。またにんげんに限らず、互いの共通の趣味や話題でもいいわけだ。

 

  西郷隆盛との談判
 江戸末期の日本の世論は尊皇ジョウイに傾いていた。日本各地で天誅と称された血みどろの暗殺劇が繰り返され、大政奉還、そして一連の戊辰の戦いへと、エスカレートしていく。薩長土肥の4藩を中心とする倒幕軍(官軍)と旧幕府軍との戦いである。時代は急速に明治へと移行していった。
 江戸において勝海舟と西郷隆盛との交渉が行われたのは1868年(慶応4年)である。1月には鳥羽・伏見の戦いがあり、倒幕軍の勢いが江戸の間近にまで迫っていた。そんななか、勝はわりあい悠然と構え、やがて訪れるであろう倒幕軍との交渉のときに備えていた。 勝の考えは和戦両様の構えである。つまり、こちら側が平和的な態度で筋道をたてて応対すれば、敵もまた論理的に応じてくるであろう。しかし相手がもし武力行使も辞さないというのであれば、こちらも武力で応じなければならない。徳川260年の恩顧を受けてきた家臣たちの一致団結があれば、戦っても負けはすまい。そのための綿密な戦術も考えたゆえの自信である。
 また、もし攻め入られた場合のことも考え、3つの対策を練っている。
 1.官軍はまず江戸に火を放つことで旧幕府側を撹乱させようとしていた。それなら先手   をうってこちらからと、火消しの親分、新門辰五郎に頼み、もし官軍が火をつけたな   ら、すかさず江戸を焼き払ってほしいむねを告げた。これはロシア軍がナポレオンに   とった焦土作戦を模倣したものである。
 2.大規模な火災になったときに江戸市民を無事に逃がすため、漁船をかき集めて隅田川   河口に集結させた。さらに木更津付近に米、味噌などを買いつけさせた。疎開に備え   てである。    
 3.官軍の江戸城攻撃に備え、徳川慶喜を江戸から逃しロンドンに亡命させる手はずをつ   けた。このためイギリス公使パークスに頼み、軍艦を横浜から品川の海に移動させ待   機させる。
 これら3つの代替選択肢をもって西郷との交渉に臨んだ。交渉決裂に際しての用意である。
 勝には戦争を何としても回避したい理由があった。もし日本人同士が戦をすれば、当然諸外国はそれにつけこんでくる。経済的、軍事的に植民地化されてしまうかもしれない。当時の日本がおかれていた国際的立場を、彼は強く認識していた。
 そのころの江戸は120万といわれる人工を抱え、ロンドン、パリ、ベルリン、などと並ぶ世界有数の大都市であった。江戸の文化は西洋人に高く評価され、優れたものを多く生み出していた。そうした江戸の文化、市民の生命、財産を守ることは、自分の政治家としての役割であると感じていたに違いない。
 結局、西郷は勝が示した7つの条件を、若干の修正はあったもののすべてのんだ。勝の視野の広さと誠心誠意の人柄にうたれたのである。その結果、1968年4月1日、血を流さずして江戸城は官軍に明け渡された。
 相互に利益を分配し合う、まさに理想的な交渉であった。もし戦争が回避できなかったならば、両軍はもとより江戸市民もまた甚大な損害を被っていたであろう。
 勝がここまで交渉をうまく運べたのは、西郷との信頼関係も含め、BATNAの大切さをよく理解していたからであろう。
 江戸城における談判に先立って勝は、山岡鉄太郎を西郷のもとに走らせる。山岡は、日本の将来についての勝の考えを伝えたのだ。今は国を二分して戦などしている場合ではない、それこそ外国がつけ込んでくる絶好の口実を与えてしまう---と、戦争回避の論理をすでに臭わせていたのである。
 西郷もこの考えに大いに賛成し、理解したうえで勝との談判に臨むことができた。また慶喜にも同様の意見を述べ、身の安全を約束し、いざというときの心の準備までさせておいた。巧みな心配りである。勝は先を見ることに特に秀でた人物であった。若いころから多くの交渉をこなしてきた勝はさまざまなことを学んだ。交渉という戦場において、最後に勝利するのは、BATNAを考えていた側であろう。

 (早稲田交渉学会員 秋田博康)

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