日露戦争を終結に導く外相・小村の鬼才

 今回は、明治末期に活躍した外交官、小村寿太郎の交渉をもとに<バランス理論>の重要性を論じてみたい。1対1の交渉において行き詰まりを迎えたときに頼りになる。

臆することなく生きる
 小村は小藩である飫肥藩(現宮崎県)に生まれた。藩閥政治全盛の中で小村のような小藩出身者が外務大臣になるのは、非常にまれなことだった。揺るぎない藩閥を背景に要職につく政治家や軍人達のなかで、彼が頼れるのは自分の能力しかなかった。臆することなく生きる、これこそが彼の最大の武器だった。
 日本史に巨大な足跡をのこした小村の素顔は、一般にはあまり知られていない。彼には明治の元勲達が殆ど持っていた私欲というものが全くなかった。彼の財産といえるものは、役所通いに必要なフロックコート一着ぐらいで、駐米大使として渡米したおりにも、彼が携行した私物は粗末な衣類少々と、洗面道具などの安物の日常品ばかりであった。
 自己の保身にも無頓着であった彼は、実力者であったにもかかわらず自分の派閥を作らなかった。また派閥に与したということも聞いたことがない。彼が最高の価値を置いていたのは日本という国家そのもので、自分の命さえ二の次だった。それゆえ日露戦争という国家の危機に、彼は全身全霊で立ち向かって行くことになる--。
 1901年、清国が北清事変で列国に敗れ、北京議定書を列国と結ぶと、ロシアはそれを機に満州を事実上占領した。韓国と陸続きの満州がロシアの手に落ちることは、日本の韓国における権益を脅かすものであった。
 「一度、戦争に訴えなければロシアは動かない」- 小村は外交交渉だけでロシアを屈服させ られないと感じていた。しかし、日本の軍事力ではロシアを完全に負かすことはできない。そこで、彼は開戦に向け周到な準備を行う。国内を開戦支持に統一し、イギリスと日英同盟(1902年)を結んだのだ。さらに、欧米で沸き起こった黄禍論を鎮めるために、金子堅太郎をアメリカに、末松謙澄をヨーロッパに派遣した。

明治政府が迎えた最大の危機
 ロシアは日英同盟の成立にも動ぜず満州に駐兵を続けた。そのため日本政府は対露交渉を続けながら開戦準備を進める。そして1904年初頭、交渉は決裂し同年2月、両国の宣戦布告で日露戦争が始まった。誰もが日本が圧倒的に不利だと思っていたなかで、イギリス人ジャーナリストのH.W.ウィルソンは日本の勝利を予言、「必ず日本は勝利する。日本の勝利は国家の自由独立のために死を覚悟したものの勝利である」と書いている。彼が開戦半年後に出版した『自由のための日本の戦い』の序文である。
ウィルソンの予言通り、日本は陸では旅順、奉天の戦いに辛勝し、海では日本海海戦で当時世界最強といわれたバルチック艦隊を殲滅した。しかし日本が払った犠牲は膨大で、経済的にも軍事的にもそれ以上の戦争継続は不可能だった。
 小村の対応は素早かった。日本軍が奉天の会戦に勝利すると、すぐに当時の合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼した。交渉決裂から交渉再開までの時間稼ぎ--。日露戦争という歴史的対戦も、彼の目にはその程度にしか移らなかったのだろう。結局、紛争を回避するためには交渉に頼らざるを得ない。このことを彼は証明したのである。

仲介者の重要性
 小村らが金子をアメリカに送った本当の狙いは、彼をルーズベルトに接触させ講和斡旋を頼むことだった。小村と金子はハーバード大学で学んだ仲であり、大統領と金子は個人的にも親しかった。ルーズベルトもハーバード出身で、金子の後輩に当たった。ルーズベルトが入学したとき金子は卒業していたので在学中には直接の交流はなかったが、同窓会で知りあい意気投合した二人は、個人的な交流を続けていたのである。
 ルーズベルトは日本に好意的だった。キリスト教徒でもない黄色人種になぜ彼は力を貸したのだろうか。武士道の伝統を持つ日本人を尊敬していたのに加え、根っからの民主主義者だった彼はロシア皇帝の独裁政治に強い不満を持っていたからであった。それは彼が、忠臣蔵の英訳本"The Loyal Ronins"の影響を受けていたことと無縁ではないだろう。
 ここで交渉学の登場である。相手との関係がうまくいかない場合、人や者を触媒に利用することで関係を改善できるものだ。交渉学ではこれをバランス理論という。触媒には共通の話題、共同の利益を使ってもいい。ゴルフ接待も、それが共通の趣味であれば効果的である。スケープゴートを利用するのも手だし、コネだって立派な触媒である。
 日本にとって、ルーズベルトは格好の触媒であった。小村はためらわずにルーズベルトと金子の関係を利用した。大国としてのプライドが邪魔して、自分から講和を言い出せないロシアにとってもそれは同じだった。日本とロシアはアメリカを利用して戦争状態にあった関係を改善し、戦後には日露協約(1907年)を結ぶまでになる。
 交渉は相手に連帯を求める行為である。だから相手との関係が非常に大切になってくる。このバランス理論で相手との関係を深めることは、交渉を成功に導く第一歩なのである。

弱気の日本政府首脳
 元老や当時の首相であった桂太郎らは即時講和が絶対条件と考えていたことから、賠償金と樺太割譲の要求に関しては重要視していなかった。それゆえ、交渉が長引くことを恐れ「即時講和をするように」と小村に伝えた。だが、それを生ぬるいと思った小村は、交渉によって賠償金と樺太を得ようと考えたのである。
「即決はよい交渉結果をもたらさない。」と交渉学ではいう。小村はロシア側代表ウイッテを相手にねばりにねばった。にもかかわらず、ウイッテは頑固だった。ロシア皇帝ニコライ二世は、それに輪をかけて頑固だった。小村はその弁舌でウイッテを納得させたが、それもニコライ二世にまでは届かなかった。

足元をすくわれた露帝
 ニコライ二世は戦争を続けたかった。だが情勢は深刻だった。陸軍大佐・明石元治郎の先導工作が功を奏し始めたのである。併合化のフィンランドでは独立闘争が激化し、黒海では第一字ロシア革命の引きがねとなる戦艦ポチョムキン号が反乱を起こった。ロシア国内ではストが続発し、徴兵拒否の運動をしていたら自分の身が危うくなってしまうことに、ようやく気づき始めた。
 しかし小村自身は、明石工作には反対だった。欧米の列強の繁栄にあずかりたい時刻が、革命勢力の後押しをしていれば、列強諸国に誤解をされる危険があったからである。軍事力の齢日本にとって、孤立は最も避けなければならない。彼の懸念も当然といえよう。
 だが、小村の案じていた明石工作が、逆に土壇場になって交渉に大きな影響を及ぼす。革命を恐れるニコライ二世の譲歩により、日本はあきらめかけていた樺太を南半分だけ得ることになる。交渉は下駄を履くまであきらめてはいけない。

 (早稲田交渉学会・小池恒徳)

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