冷戦外交の立役者キッシンジャーの戦略

 第37代米国大統領リチャード・ニクソンは「現代は交渉の時代である」との名言を吐いた。彼の交渉を交えたのがヘンリー・キッシンジャー博士である。1960年代末から80年代ごろまでの国際政治の舞台で最も活躍したとされる人物だ。ニクソン、フォード両大統領の右腕として、冷戦時代の外交史を築き上げた。

ナチを逃れて米国移住
 キッシンジャーは1923年5月27日、南ドイツの小さな田舎町ヒュルトのユダヤ系の家庭に長男として生まれた。彼の父親は高等学校の教師であり、知的な環境に育ったといえる。だが、ナチズムの影が忍び寄るドイツでは、その平穏な家庭も社会的な拷問を受けざるを得なかった。父は学校を半ば強制的にやめさせられ、やがて一家は米国に移住することになる。このときキッシンジャーは15歳だった。ドイツに残った親戚等はナチによって虐殺された。
 この体験からか、彼はドイツの動きに対して非常に警戒的である。ドイツと同盟を結んで戦った日本に対しても同様で、親日的とは言い難い。彼は日本が国として強くなることを望んではいなかったようである。
 これらのことを念頭において、彼の言動を評価していくことが肝要であろう。
 話を彼の生い立ちに戻そう。
 アメリカ移住後、キッシンジャーは軍隊に入る。ここで彼は、彼自身の人生を大きく変える人物に出会う。F・クラエマーという上官で、兵隊たちにナチスとの戦争の意義を説明するクラエマーの話に、キッシンジャーは感銘を受ける。彼はこの出会いを契機として学問および知的活動に目覚めていくことになるのだ。
 その後、キッシンジャーはハーバード大学に入学し1950年に最優秀の成績で卒業、69年まで同大学教授、外交問題評議会の研究指導者等をつとめる。そして69年1月、ニクソン大統領の国家安全保障担当補佐官となり、73年には国務長官を兼任する。

『リンケージ理論』
 ニクソン=キッシンジャーの対ソ戦略理論が『リンケージ理論』(連結理論)である。冷戦とは2つの超大国、米国とソ連との敵対関係そのものであった。ニクソンは次のようにいっている。
 「私はある場所では対決があり、別の場所では協力関係が存在することが理解できない」「今日直面している米ソ間の重大問題は、少なくとも政治及び軍事の相互連関において捉えて対処しなければならない」
 リンケージ理論は、こうした考えに立っての戦略理論であった。
 ニクソン=キッシンジャーによる対日交渉の、最大の課題のひとつは沖縄返還問題にあったが、これもリンケージ理論に立った対日戦略であった。一枚岩とみなされてきた中ソ間に楔を打ち込むために、中国の目と鼻の先にある沖縄を日本に返還する  。米国の、中国との和解政策である。
 一方でニクソン大統領は、選挙戦中のサウスカロライナ州とノースカロライナ州の繊維業者との公約を果たす必要があった。そこで日本の対米繊維輸出を押さえさせたのである。この交渉は繊維と沖縄が関係することから〈糸と縄の交渉〉と呼ばれた。
 その結果、日本の繊維業界は衰退を余儀なくされ、アメリカの繊維業界は繁栄を維持することになる。
 一方、沖縄の米軍基地は今日なお大きな影を落としている。県をあげての反対運動は周知の通りである。

米中共存  中ソ対立
 ニクソンは1969年、ベトナム戦争の名誉ある解決を最大の使命として政権についた。そして数度にわたってベトナム派遣のアメリカ軍を削減、また「ニクソン・ドクトリン」の名の下にアジア各国からの駐留米軍の削減を実行した。
 これにともなって起こるアメリカの世界に対する安全保障力の低下をカバーするため、ニクソンとキッシンジャーは米中関係の改善、それによる中ソ対立の温存化という、非常に巧みな戦略を展開するのである。
 アメリカは自国の軍事力の優位が相対的に低下し、軍事力を行使する意志力もまた低下を余儀なくされていたにもかかわらず、米ソ協調、米中共存、中ソ対立という構造のおかげで国際政治上の主導権を再び取り戻したのである。
 米中首脳会談が終わってまもない72年3月末、北ベトナム軍が南ベトナムに大挙して侵攻してきた。その際、アメリカは北爆と機雷封鎖という強圧を北ベトナムに加えることができたが、それも前述のような構造がすでに築き上げられていたから可能だったのである。もしこの構造が存在しなかったならば、同年7月に予定されていた米ソ首脳会談の流産だけでなく、米中戦争勃発の危険性さえはらんでいたのである。
 しかし、このような米国の巧みな戦略にもかかわらず、米軍は73年3月29日、ベトナムから撤退した。飛行場を飛び立つ最後のヘリコプターにしがみつくベトナム人を振り落として逃げ去る米軍であった。
 キッシンジャーのユダヤ的な変わり身の早さといっていいだろう。
 ユダヤ資本は現地に固定投資はせず、いつでも逃げられる体制をしいているといわれるが、キッシンジャーの外交姿勢もそのひとつと考えられていいのではないか。

田中元首相失脚の原因
 ソ連が崩壊し、冷戦が終結して米国のひとり勝ちとなった。
 だが東洋哲学の「易学」は次のようにいう。「8が4に、4が2になる。そして2が1になった瞬間、1だけでは存在し得ず、多になる」と。
 キッシンジャーもまた、米国が世界を平和裡に支配することは不可能と見ている。米国を中核としながらも、諸国間のバランスをとる以外にないという。
 ドイツの強大化を警戒しながらも、米国はヨーロッパとは価値観を共にしている。キッシンジャーは、この両者はバランスを取れるとみている。南北アメリカも問題はない。ただ、問題があるとすればアジアである。とくに彼は、日中連合を極度に恐れている。最近の彼の著書『外交』に、そのことが詳述されている。
 田中元首相は日中国交正常化を実現した。交渉相手は“談判先生”の異名をとった故周恩来であった。田中元首相の失脚の原因は、この日中国交正常化にあるともいわれている。彼はニクソン=キッシンジャーの虎の尾を踏んだのかもしれない。
 コーチャンなる米国人が何をいっても偽証罪にならない保証の下で発言し、それが有罪の根拠となったのだ。一国の総理大臣がである。
 最後に、キッシンジャーの思想の核心を覗いてみる。
 「平和のために真の責任を持つ人は、サイドラインに立っている人たちとは違って、純粋な理想主義を持ってはいられない。曖昧さや妥協もあえて取り入れる勇気を持たねばならない。偉大なゴールは不完全な一歩一歩を積み重ねて初めて到達できることを知らねばならない」
 彼は前述の著書『外交』を次の言葉で締めくくっている。

--旅人よ、道はない。道は歩くことによってできてくるのだ。

(田部和生)

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