マキャヴェリが教える運命に対抗する道
手段を選ばぬ行動様式
マキャヴェリ(Nicollo
Mahciavelli)は1469年5月3日、イタリア・フィレンツェに生まれ、1527年5月16日、失意のうちに死す。
一般にマキャヴェリはマキャヴェリズムで知られている。これは権謀術数、つまり、目的のためには手段を選ばない行動様式である。事実彼も「たとえその行為が非難されても、その結果さえ良ければ、それでよいのである」と言っている。
このことは、仕事の鬼になって、目的のために全力投球することである。
ある営業で、どうしてもこの交渉を成功させたい。この時、人はマキャヴェリズムに立たざるを得ない。人は様々な欲望を持っている。人は自分の欲望を満たしてくれる人のために動くのである。その点、人も動物であり、動物とかわりない。この考えにたって考える人間学は行動科学と言われる。
さて、人間の欲望は何か。経営学ではマズローの欲望階層説が利用される。それを筆者なりに、次のように解説する。
最重要欲望は生理欲望である。食欲・性欲である。その次に強い欲望は安全・安定・恐怖のないことを望む欲望である。
以上、二つの欲望を基本欲望とまとめる。
この基本欲望が満たされたら、人間は次の欲望の充足を求めて動く。人と仲良くしたい、グループに所属したい所属欲望である。村八分にされ、無視されるのが人はいやなのである。
次の欲望は自尊心を満たし、他から尊敬してもらいたいという欲望である。先生!先生!と言ってもらいたいのである。即ち尊敬欲望である。最後の欲望は自分を成長させたい欲望である。これを自己実現欲望という。以上、三つの欲望をまとめて、人から認めてもらいたい承認欲望という。
全力を尽くして攻略する
ある老練の市会議員が教えてくれた。「人は金と女で動く」と。激しい住民運動が突如として静かになった。「これを説明するには金と女という変数を使わないと説明できない」と彼は言う。人は基本欲望にのみに立っているという理論を、経営学ではX理論という。この市会議員の理論はX理論である。
マキャヴェリは次のように言う。 「人に愛されるよりは恐れられるほうが安全である」「人間は自分が恐れているものよりも愛されているものを害することをためらわない。人間の根性は悪であるから、自分の都合で、自分を愛するものを容易に裏切る。しかし、処罰する権力のあるものを恐れ、裏切らない」
社長の辞任前後で、人がこの社長に接する態度は全く異なる。この点を主張するマキャヴェリの理論もX理論である。これに対し、承認欲望の充足に力点を置く理論をY理論という。戦前からの世界的なベストセラー、カーネギーの『人を動かす』(創元社)はY理論に立った書物である。人は誰でも認めてもらいたい。人は認めてくれる人のために動く。相手の名を覚えよ。相手を讃めよと言うのである。
現代のマキャヴェリズムはX理論とY理論の両方に立ち、全力を尽くして相手を攻略すべきである。教養が邪魔をするようでは現代のマキャヴェリズムではない。
マキャヴェリの部下の見方
彼は「すべての人間は利己的な利益だけを追及する点で共通である」という。それゆえ人間行動は予測可能であるという。 この点は本誌8月号の『韓非子』の人間観と同じである。韓非は東洋のマキャヴェリと呼ばれている。
さて、マキャヴェリは『君主論』の中で興味あることを言っている。「君主の如何を見る第一のことはその側近にいる人間を見ることだ。部下が有能でかつ忠実であるならば、君主は彼らの才能を知ったうえで忠勤を守らせているのであるから、世間は彼を賢明な君主だと考える」「君主が部下を識別するにはただ一つ誤らない方法がある。その部下が君主のことよりも自分のことを先にして考え、あらゆる行動で自分の利益を求めるものであったら、そんなものを信用することはできない」
読者にも思い当たる節があると思う。特に自分の力に影がさしてくると、この点が顕著になる。赤穂の四十七士、あるいは会津の白虎隊のようにはいかなくとも、忠誠の部下を持つものは強い。
しかし、人事は非常である。かつて三越の岡田社長が失脚したとき、彼は「なぜだ」と絶句した。社長、あるいはどのような組織でも頂点は一人であり、孤独である。上述の点、大いに心しなければならない。
運命に対抗する道
マキャヴェリは次のように言う。 「世の中のことはすべて運命と神によって支配され、人知をもってしてはとうてい律することが出来ないと信じている人が多い。万事は天にまかすべきと考えている。しかし、われわれに自由意志(他から束縛されないで自由に決定できる意志)がある限り、私はこう考える。
運命は、人事の一半についての裁定者であるが、残りの一半は、あるいはそれより少ないかもしれないが、それは我々の意思決定にまかされている。
氾濫する河川も、堤防を築くことによっておさえられる。運命もこれと同じく、防御力の弱いところで暴力をふるう。革命の中心であるイタリアを見ると、それは護岸のない平原のようなものである。ドイツやスペイン、フランスを見ると自力による防衛がある。運命に頼りすぎる君主は運命とともに自分も滅びる」
ある案件を通したい。A氏と交渉し、内諾を得る。B氏と交渉をし、内諾を得る。C氏と交渉をし、内諾を得る。いわゆる「根回し」である。根回しなしに提案したら氾濫する河川に溺死する。
根回しは堤防を築くことである。これにより、運命に翻弄されることがない。自分の意志を通そうと思ったら、恥も外聞も気にすることなく、しこしこと交渉するのである。運命の神は女神なのだから。
まずは行動せよ
マキャヴェリは面白い分析をしている。 「運命の神は女神である。だから、これを支配するためには殴ったり、突いたりする必要がある。冷静にことを処理する人よりも、どうもこうしたひとによく従うものであるらしい。運命は、女と同じく、常に若者の友である。青年は思慮が浅く乱暴で、しかもよく大胆に彼女を支配するからである」
マキャヴェリは思い煩うことなく先ずは行動せよと言っている。彼の近代性は政治と倫理を分離した。同様に我々も経営と倫理を分離したい。私悪に立ち、交渉が妥結したその結果、会社が盛んになり、社会が繁栄する。この私悪を誰が責められようか。
一生懸命努力するものの姿は、こうでなくてはならない。あるクリーンな前市長の市の下水道は日本最悪。悪も食う現市長の市は、活況を呈している。私悪が公益を生み出す。
(秋山幸弘)