信念を貫き通した「鉄の女」の交渉力

マーガレット・サッチャー
イギリス初の女性宰相、またの名を「鉄の女」。彼女は過去例を見ない改革によりイギリスを復興させた。最終回の今号ではそのサッチャー女史を取り上げる。

父アルフレッドに学ぶ
 サッチャーは1925年10月13日、イングランドの田舎町グランサムで父アルフレッド、母ベアトリスの間に生まれた。階級制度が色濃く残っていたイギリスに於いて、サッチャーの生まれ育った家庭環境は典型的な中流階級とみなされている。
 父親のアルフレッドは、中流階級を特徴づけるピューリタニズムの精神を身につけた、文字どおりの努力の人であった。後に市会議員になり、四半世紀ほど議員を続けた後には市長にも選ばれている。彼は根っからの勉強好きで、歴史や政治、経済に至るまで多くを独学で学んだ。
 そうした、いわば自主自立の精神の塊のような父のもとで、サッチャーは2つのことを生活信条として守り、実行するよう教えられたという。
 ひとつは「何事も自分の意志で決めよ」――自分で考え、それが最善と判断したら断固実行に移さなければならないということだ。もうひとつは「皆の後についていくような行動をとるな」――他人と自分が違っていることを恐れることなく、自分がしなければならないことは断固としてやらなければならない、ということだった。
 サッチャーはこうした父の自助の精神を崇め尊敬した。彼女は自著の中でこう述べている。
「私の考えは小さな町で確固とした信念を持って生きた父親から学んだものです」
そうした少女時代を経て、サッチャーはオックスフォード大学に進む。そして華やかな学生生活の中で政治に出会い、政治家への道を進むことを決意する。だが卒業後、1949年から51年にわたりと3度にわたって国政選挙に挑戦するが落選。しかし、この経験を生かして59年、彼女はついに永年の夢であった国会議員の地位を自らのものにした。 

不退転の決意
 サッチャー女史は1975年2月、党首選でエドワード・ヒースを破って保守党初の女性党首となる。この時から4年後に彼女は首相に就任するが、後にこの4年間を振り返って「私にとって野に下っていたあの4年間は何事にもかえがたい時間だった」と述べている。
 彼女は4年の間、自分が将来政権を動かしている姿を想定し、常にそのための準備を重ねていたのだ。彼女の鉄のような信念は、この時期に作られたのである。そして1979年5月、保守党が労働党を破り、彼女はイギリス史上初の女性首相となった。この時から“サッチャリズム”と呼ばれる、イギリス大改革が始まったのである。
 敬虔なキリスト教徒である彼女は、この時期、次のように神に祈りをささげたといわれる。
「誤りがあるところには、真理をもたらすことができますように。疑いがあるところには、信頼をもたらすことができますように。そして絶望があるところには、希望をもたらすことができますように」
 保守党に政権をもたらしたサッチャーが最初に取り組んだのが、産業の立て直しであった。彼女は、それまでのイギリスにとっては過激といえるほどの反社会主義(反福祉国家)政策を押し進めた。「小さな政府」を掲げ、通貨供給を重視し、公共支出と政府借り入れを厳しく抑制したのである。
 そして当時のイギリス産業にとって、そのこと以上に求められていたのが、労働組合の行き過ぎた力を削ぐための対抗措置であった。
 戦後、イギリスの社会主義を支えていたのは労働組合であり、その力は国家をも凌ぐ勢いがあった。頻繁にストライキが発生し、それが異常に高い賃金を招き、企業の国際競争力を弱めていたのである。
 そのような状況からイギリスを脱却させるために、彼女は当時最強の勢力といわれた鉄鋼・炭坑両組合との妥協のない政治闘争に突入したのである。
 サッチャーはこの組合との闘争に結果的には勝利をおさめるのだが、その交渉の席に就く際に、「この闘いは断固とした姿勢で望み、負けることは決して許されない。私達には勝利を収める事しか生き残る道がないのだ。確かに組合の力は強く、厳しい道のりかもしれない。しかし光ある未来を追い求めたときには必ず通らなければならない道なのだ」と述べている。
この言葉にこそ、サッチャー女史の交渉における姿勢が端的に表れているといえよう。

「鉄の女」の称号
 1956年の第2時中東戦争敗北以来、イギリスの国際的な立場は低下を続けていた。この敗北を機に、世界におけるイギリスの役割は相対的に縮小していったのである。しかし1982年のフォークランド紛争が国際舞台でのイギリスの地位を一変させた。
 「イギリスの世界における威信にとっても、そして国内の状況を考えても、最も重要な時期だった」と、後にサッチャーがフォークランド紛争を振り返って語っているように、この紛争で世界に力を誇示したことで、イギリスの存在を世界に再認識させることとなったのである。
 アルゼンチンとの紛争において、サッチャーはなぜ勝つことができたのか。それには2つの要因が考えられる。
 第1には「大義名分・錦の御旗を掲げて国際社会と交渉したこと」だ。国際法をたてにすることで、アメリカをはじめとする他の諸国のほぼすべてを味方にして戦うことができたのである。
 第2には「強行姿勢を常に保ち行動したこと」だ。その背景には、国内世論の支持を得ることに成功したことがあり、戦いに迷いが生じることがなかったのである。
 このような姿勢で戦うイギリスに、もう負けはなかった。
 国内改革を進めるサッチャーにとって、この紛争による支持率向上ほど力強いものはなかったであろう。
 このフォークランド紛争での勝利を機に、彼女は「鉄の女」の称号を得たのである。サッチャーの強硬な姿勢は、湾岸戦争においても高く評価されている。この戦争は彼女の辞任直前に起きたものであり、国際舞台での彼女の最後の活躍の場であった。

後戻りしてはならない
 サッチャーの交渉姿勢は「原理立脚型交渉」ということができよう。信念にもとづいて行動し、それによって交渉相手の譲歩を誘い、仲間に対しては信頼を生んだのである。
 これはひとり、サッチャーだけにあてはまるものではない。交渉においては、ときにこのように振る舞うことで大きな効果を発揮するのである。サッチャー女史の交渉で、おわかりいただけたはずである。
 鉄の女、サッチャーはいう。
「私たちは後戻りをしてはならない。立ち止まった姿を世界に晒すことも許されない。そう、前に進んだときにこそ未来が約束されるのだ」

(早稲田交渉学会 生天目 昌彦)

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