史上屈指! 大隈重信の交渉力
「交渉学講座」、おや、と思った人は多いのではないか。まず初めに断っておきたいが「トップのための交渉学講座」は、いわゆる交渉のための小手先の術を述べる講座ではない。あくまで交渉学の講座である。よりマネジメントとしての側面を持つ「交渉」そのものの構造を扱っていきたいと考えている。
いま、交渉はマネジメントの側面を持つと述べたが、実際、交渉はビジネスであり、マネジメントでもある。
例えばこの「交渉」という言葉、英語ではnegotiationである。その語源はラテン語のnegotiumで、意味はneg(否定)とotium(楽であること)、つまり「楽ではないこと」を指す。ではない、ということは忙しい(busy)わけで、businessという言葉はここから来たと言われる。
また交渉というのは、契約に至るプロセスを指す。欧米では、ほとんどの決まりごとが契約で結ばれる。だから、交渉ができない人は、管理能力がないとされる。つまり、交渉のできる人が経営者になり、交渉で培った能力で経営を行うのだ。その意味からすれば、交渉はまさにマネジメントそのものといってもいいのである。
交渉のカギを握る7つの要素
ところで、この交渉を行うに当たって最も重要なのは「準備」である。米国のハーバード大で交渉学を教えるライファ教授も、次のようなことを言ってる。「交渉学の教育は、その準備がいかに大切かが教育できたらその目的の大半は達成したといえる」
それでは、その準備は、どのようにすればよいのだろうか。その際に考えなければならないのが、次の7つの要素である。それは、�人�益(交渉によって得る利益)、�瀬�プション(交渉の選択肢)、�塑芭票〜浦�(BATNAと呼ばれる、交渉決裂の時の代替案)、�太掬�性(合法性とも、自らの主張を裏付けてくれるもの、錦の御旗)、�奪灰潺絅縫院璽轡腑�(交渉相手との話し合いの手段の確立方法)、�朕祐峇愀�(交渉相手との良い関係をどのように築くか)、�斗遒圭�(交渉の最終目標)の7つだ。
どんな場合にも、この7つの要素を準備してから臨めば、交渉が楽になるはずである。
前置きが長くなったが、この連載では古今の歴史上の人物達がそうした交渉力を実際にどのように発揮したかについて述べながら、交渉学を講じていきたいと考えている。
第1回の今号は明治の重鎮・大隈重信である。
治に居って亂を忘れず…
大隈重信が早稲田大学の創始者であることは広く知られているが、彼が日本史上屈指のネゴシエーターであったことは余り知られていない。実は大隈は、近代日本の政治家の中で初めて西欧と対等に交渉をした人物なのである。
大隈重信(当時は八太郎といった)の名を世に広めることになったのは、駐日英国公使パークスとの交渉であった。
この事件は、明治元年に起きている。当時、日本政府は幕府時代からのキリスト教禁圧政策を受け継ぎ、<邪教>を信ずるものは死罪にする、という布告をしていた。これに対し英国を始めとするキリスト教国は「欧米人の信仰するキリスト教を邪悪な宗教をするとは言語道断。「邪」の文字を削除するか布告を撤回すべし」と、圧力をかけてきたのである。(その背後にはいうまでもなく、宗教問題を理由に日本を制圧しようというもくろみがあった)
新政府は、パークスの威圧戦術にそれまでも悩まされており、はじめから弱腰だった。しかも政府の主だった要人は、この問題について十分な知識を持ちあわせていなかった。そこで当時、長崎で判事をつとめていた、キリスト教に詳しい大隈を急遽大阪へ呼び、パークスとの交渉に当らせたのである。
結論を先に言えば、交渉は大隈が勝利した。彼は国際法を盾に取り、パークスらの圧力を内政干渉として受け付けず、譲らなかったのだ。そればかりか20歳も年長のパークスに対して、キリスト教の受難の歴史について講釈している。いわば、この一件で、大隈は日本を外圧の脅威から守ったのである。
さすがのパークスも、文明国の代表として大隈の意見をのまざるを得ず、交渉は<邪>の文字の削除と信徒の死罪の廃止だけで落着した。それ以降の信徒の監視については、パークスもこれを黙認するほかはなかったのである。
大隈の勝因は、次の2点に見て取れる。第1は、先にあげた7つの要素のひとつ「正当性」を彼の訴えの中に持っていたことだ。第2は、交渉における彼の毅然とした態度である。相手の脅しや威圧を前にしても決して自らの主張を曲げない態度が、パークスをして妥協せしめたのである。
時は経て、明治21年。政府は、外国の領事裁判権の条約改正に当っていた。この頃には日本の地位も列国並となり、アメリカ、ドイツ、メキシコは条約改正に応じた。ところが、そこ水を差したのが英国だった。首相ソルスベリーが、安政条約の最恵国条款を盾に条約改正に応じなかったのである。
ときの外相大隈は、英国公使フレーザーに対し次のように言った。「日本は東洋における英国である。6万の陸軍、30余隻の軍艦をもつわが国を敵にするのは、イギリスにとって不利ではないか」「日本と手を結ぶのは貴国にとって有利であり、いま条約改正に応じないことは将来に禍根を残すことになるであろう」
大隈は、大国のイギリスに対し脅しをかけたのである。パークスの時もそうだが、大隈は脅しを上手に使う。それもブラフ(はったり)ではなくて、根拠のある脅し(threat)を用いた。
そこには、交渉者たるものはつねに最悪の事態を想定して動かねばならないという、大隈一流の哲学があったように思われる。
<治に居って亂を忘れず、茲に、一層努力して、禍の來たるを豫め制すべきである>-これは大隈が、荒廃の指導者達に堪えず繰り返していた言葉だ。
経営にも通じる5つの戒め
いうまでもなく大隈は、現代においても超一流で通用するタフ・ネゴシエーターだ。だが彼自身、自らの性格に交渉者にはとうてい向かないような欠点があることを自覚していたようで、常に次のような自戒の言葉を携えて交渉に臨んでいたという。
一、愚説愚論を聞くのに堪える(たとえ自分が一を聞いて十を知っても、人の話は聞いてあげる)
二、自分より地位の低いものが自分と同じ意見なら、その人の意見として採用する(人を褒めて自分の徳を取る)
三、怒気怒声を発しない(自分の知識才能に及ばないことに対して怒ってもなんの利益もない)
四、事務上の決断は、部下の話が煮詰まってからすること(自分が先を読めても、立案した部下が理解しているとは限らない)
五、自分が嫌っている人にも勉めて交際を広める(好き嫌いを言ってはいつ自分を危険に追い込むかわからない。常に人と懇意になりよい関係を保つようにする)
以上は、大隈の親友であった五代友厚が大隈に宛てた手紙に記されていたものだが、これらの戒めは単に交渉の場においてだけではなく、すべての経営者に通じる教訓でも有るようだ。
近藤 献(こんどうささぐ)