ペリーの砲艦外交に見る日米交渉のいま

 悲願の太平洋航路
 1853年7月8日、ペリーは4隻の黒船とともに浦賀沖に来航した。前年11月にアメリカ東海岸ノーフォークを出港した彼は、大西洋とインド洋を渡って来日した。西海岸から太平洋を渡ってきたのではない。太平洋航路はまだ確立されていなかったのである。
 当時、大西洋、インド洋を経てアジアへ行く西回り航路はイギリスの支配下にあった。ケープタウン、シンガポール、香港などの要衝をおさえていたからだ。よってイギリスとの関係悪化は、アジアで経済的権益を持つ国にとっては致命的事態となる。
 アメリカはアジアにおいて国家予算の16%に相当する貿易高をあげていた。当時、例えば、上海に寄港中のペリーがNY郊外産のミネラルウォーターを飲みたいと言えば、翌日にはその希望がかなえられたというが、それほどの権益を保護、拡大するにあたり、イギリスを常に考慮にいれて行動するのは非常に不都合だ。そこでアメリカはペリーを日本へ派遣し、アジアへの独自の航路を確立しようとした。つまり、太平洋航路の補給地を日本に求めたのである。
 ペリーは失敗した場合の事も考慮に入れていた。彼は日本への航海途上、沖縄にも訪れ詳細な調査をしている。沖縄を占領する事で補給地の確保を達成するつもりだったのだ。沖縄にBATNAの役割を見出したのである。BATNAとは「妥協にいたらないときに代るべき最良の手」のことである。

 アングロサクソンの原理
 周知の通り、交渉はペリーの勝利に終わった。この時の日米交渉のパターンは現代にも受け継がれている。アメリカの強硬な姿勢に日本が屈するという図式である。
 ペリーは当初から「開国は日本のためになる」という信念を持っていたといわれる。日本という国を鎖国から解き放ち、国際社会に参加させなければならないとの義務感を抱いていたのだ。イギリスの作家バーナード・ショウは、こうしたアングロ・サクソンに特有の考え方を次のように述べている。少し長くなるが引用する。
「彼等は何か欲しいものがあっても、それが欲しいとは自分自身にさえ言わない。辛抱強く待つ。そうするうちに、彼らが欲するものの持ち主を征服することが自分の<道徳的宗教的義務>であるという確信が心の中に生じてくる。そうなると、彼らの行動は大胆不敵なものとなる。」
「例えばイギリス人は世界の半分を植民地にした。自由と独立の概念を振りかざして、である。自国製品のための新しい市場が欲しくなると、まず宣教師を送り出し、原住民にキリスト教を布教する。やがて原住民が宣教師を殺害する。イギリス人はキリスト教防衛のために武器を取る。それが彼らの宗教的義務なのだ。」
 つまり、アングロ・サクソンは自分の行動を何らかの原理に基づいたものと考えるのである。その原理を盾に自分の行動を正当化、義務化するのである。そして原理に従わない者は悪とし、どんなことをしてでも懲らしめる。自分の原理を強制するのである。

 神から与えられた使命
 では、ペリーの義務感はどんな原理に基づいていたのだろうか。ペリーが行動原理としていたのはマニフェスト・デスティニーという考え方である。これは「明白な運命」と訳されるが、アメリカの西部への拡大を正当化するために民主党議員たちによって発明されたものである。
 アメリカ人の大陸西部への拡大は神から与えられた使命であるという考え方で、実にアングロ・サクソン的な考え方といえる。後に、これに商業活動の自由、自由と平等の普遍化といった題目が加わる。これによって鎖国日本への進出も正当化された。日本を開国させ、その国民に自由と平等の恩恵を与える事が、神の意志に従う事だからである。ペリーの義務感はここから生まれた。
 そして、それがペリーをして、日本に対して強い態度を取らせたのである。砲艦外交である。大統領から武力行使の許可を得ていた彼は、存分にその使用をほのめかし日本に脅しをかけた。交渉が決裂していたら躊躇なく武力行使をしたであろう。悪者の日本を懲らしめる事で義務を果たそうとしたであろう。
 これに対し日本は彼らのようなしっかりした原理を持ち合わせていなかった。自分の原理を持っていないと、強い態度に出る相手には弱い。
 当初、徳川幕府は開国は絶対に認められないとの態度であった。それがペリーの武力行使をもいとわない強い姿勢に圧倒される。武力衝突だけは避けたい幕府は自ら屈し、通商条約以外は全面的に彼らの要求をのんだのである。原理に基づいた強い態度に敗北したのだ。

 原理原則がない日本
 現在でも日米交渉で見られるパターンの原形がここにある。
 日本は絶対に譲らないと明言する。ある程度は頑張る。しかし土壇場に来ると一気に崩れてしまう。カタストロフィーが起きるのである。譲歩するつもりはないといいながら、いざとなったときには一挙に壊滅的な譲歩をしてしまうのだ。
 かつて、イギリス首相サッチャーは「日本には原理原則がない」と言った。原理がないとは、行動の基準がころころ変わり一貫していないということである。このことは、逆にいえば、日本には様々な事柄に対応できる柔軟性があるともとれる。つまり相手がどんな原理を持っていようと、日本人はその原理に順応して対応するのだ。
 これに対しアングロ・サクソンは、先にも述べた様に自らの明確な原理がある。彼らは利益を手に入れるために相手の原理に順応したりしない。彼らは相手の原理を変えてしまう事で利益を手に入れるのである。
 例えれば、ゲームに勝つために、日本人は自分の技能を磨き、アングロ・サクソンはゲームのルールを変える。何か問題があるとき、前者は応急措置で対応し、後者は問題の根本からの解決をはかるのである。この両者が交渉すれば、日本側が原理を持たず柔軟性があるために、最終的には譲歩する事になるのである。
 最近の日米交渉もこのパターンの繰り返しであった。コメ問題ではアメリカ側の市場原理に基づく再三にわたる市場開放要求に日本は屈してしまっている。食糧安保という原理から見ればコメは守るべき最終ラインであったにも関わらずである。原理変更の要求に対して応急的な対応しかできず、ついには耐え切れなくなりカタストロフィーを起こしたのである。
 交渉において必要なのは、表面の利益だけでなくそれを生み出す原理まで見据え、その原理を自分のものに近い、自分に有利なものとするよう心がける事である。
 その場その場で自分の原理を変え、表面的な見栄えの良い結果を求めるような態度では有利な交渉は出来ない。少なくとも相手の姿勢がアングロ・サクソン型なのか日本型なのかをつかんで対応する事が必要だ。そうすれば、交渉の相手が前者であるときにはカタストロフィーを起こさぬよう意識する事が出来るし、逆に相手が後者であればカタストロフィーを起こさせる事で大きな利益が獲得できる。
 幕末におけるペリーの対日交渉は、こうした日本がもっとも考えねばならない弱点を浮き彫りにした好例といえよう。

(早稲田交渉学会会員田中晋輔)

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