軍部の専横に敗れた若槻礼次郎の遠謀

今回は経済官僚出身の宰相、若槻礼次郎をとりあげる。彼は1930(昭和5年)ロンドン海軍軍縮会議の首席全権をつとめた。本来、この軍縮会議は戦争回避のためのものであったが、日本はこれを契機に太平洋戦争へと突き進んでいくことになる。このロンドン軍縮会議を通じて、日本人の交渉に潜む危険性について検討してみる。

  経済の専門家
 若槻礼次郎は1866(慶応2)年、島根県松江市に生まれた。苦学して東京帝国大学仏法学科を首席で卒業し、大蔵省に入省。主税局長などを経た後、第3次桂内閣で大蔵大臣として入閣した。第2次大隈内閣でも蔵相として入閣し1926(大正15)年、加藤高明首相の後を継いで内閣総理大臣、憲政会総裁に就任している。
 このように彼は大蔵省庁舎の中で過ごした時間が長く、大蔵畑で育った経済の専門家であった。
 また若槻は生来の素直な性格の人物として知られている。まだ大蔵次官だった頃、当時の寺内陸相と陸軍の経費節減で交渉したことがあった。寺内は一銭一厘といえども減ずることはできないと突っぱねたが、彼の粘り強さ、素直な意見に根負けし、ついに減額を認めたという話がある。

 ロンドン軍縮会議への道
 日本はイギリスと日英同盟を結び極東に進出するロシアと戦った。自由と独立を求める日本は、決死の覚悟で戦いこれに勝利した。これによって太平洋における強国日本が世界的に認識されるようになった。時代はそれまでの大西洋覇権争いのじだいから、太平洋の時代へと移っていく。その主たる理由は、太平洋地域の発展による。
 大西洋の覇権争いは西洋諸国間の紛争だったが、太平洋時代は国際間の競争意がいに人種的な競争をも含み、いっそう複雑になる。
 19世紀半ばのイギリスのさっかであり首相でもあったデズレリーは「人種問題を無視した歴史家には歴史が見えない」と言っているほどだ。
 1910年代になるとアメリカのカリフォルニア州、カナダ、オーストラリアなどの環太平洋の白人支配国では東洋人、とりわけ日本人の排斥運動が激しくなっていく。日本が太平洋における3大強国のひとつになったためだ。ほかの2国はアメリカとイギリスである。これらいずれの2国が提携しても、他の1国は危機感を深める。日英同盟はあったが、日本とアメリカが戦争になってもイギリスが日本に味方する規定はない。しかしアメリカはこれを嫌ったのである。
 そしてワシントン軍縮会議が行われた1921(大正10)年、アメリカは日英同盟を破棄させることに成功する。米英協調路線の形成である。このワシントン条約で、3国の主力艦比率は10:10:6に決まった。
 軍事科学にはランチェスターの法則というのがある。最近これがマーケティングの領域にも応用されている。この法則の基本的な考え方は、軍事力の相手に対する破壊力は二乗に比例するというものだ。
 この法則でワシントン条約を考える。米英が協調すると、両者を合わせた軍事力は10+10=20になる。これに対し日本は6だ。すなわち両陣営の軍事力の比率は20:6である。しかし、破壊力の比率となると400:36=100:9になる。これでは日本の勝ち目は絶対にない。
 この頃の政治状況を尾崎行雄は、大正10年出版の浅野利三郎著『太平洋外交史』の序文で次のように述べている。
 「第一次世界大戦は世界改造の第一歩である。露独二大軍事国は崩壊し国際連盟が成立した。軍事制限が提唱されている。世界の外交思想は一新し、軍国主義を夢見るのは世の笑い者になる。ここに国民一般の国際交渉力訓練が重視されなければならない。小生は軍事制限の必要を痛感し、それを提唱し、席の温まる事がない」
 こうした状況はワシントン会議からロンドン会議まで続く。それを拝啓に米英は、日本に対してワシントン条約同様の枠を 補助艦にも課そうとした。それがロンドン軍縮会議であった。
 後に若槻が述懐しているが、ロンドン会議の前に米英はすでにある程度の合意に達していたようだ。それは東洋において勢力を伸ばしつつある、日本の軍備を叩くことであったという。

 

  軍縮歓迎の世論
 なぜ若槻は首席全権に選ばれたのであろうか。すでに述べたように彼はもともとが大蔵官僚であり、軍事の専門家ではない。外国語はもとより、外国人との交渉も苦手であった。
 イギリスの代表はマクドナルド首相、アメリカはスチムソン国務長官であった。当時、スチムソンはアメリカきっての辣腕交渉家として知られており、後に広島 ・長崎の原爆投下を命令した、対日強硬論者のひとりでもある。彼はハーバード大学の勇気ある個人主義に育てられた(藤田忠編著『交渉力』所載〈スチムソン〉参照)。このようなスチムソンとの交渉は、若槻にとっても辛かったであろう。
 だが浜口雄幸首相の下、幣原喜重郎外相と軌を一にした若槻の交渉も、親米英の平和外交であった。その路線に立って若槻は粘り強く交渉に当たった。結局、日本の補助艦の対米英比率は6.97割、大型巡洋艦が6割、潜水艦は日米均等で5万2000トンの線で落ち着く気配であった。
 若槻はこれ以上、アメリカからの譲歩は得られないと判断し、本国政府の最終的な判断を待った。そして折からの軍縮を歓迎する世論を背景に、選挙で大勝した政府は受諾した。

 

  「統帥権干犯問題」
 だが天皇の統帥権に属する国防計画を、政府が軍の反対を押し切って調印したのは不当であるととの批判が集中。いわゆる統帥権干犯問題を引き起こした。その結果、浜口首相は東京駅頭で右翼の凶弾をあびて重傷を負い、幣原が首相代理をつとめる。さらに浜口が辞職した後は若槻が首相を引き継ぐことになった。第2次若槻内閣である。
 この事件の後、やがて政党政治は窒息してゆき。軍部主導のもと太平洋戦争に突入していくことになる。
 1941(昭和16)年12月8日、日本は真珠湾を攻撃。イギリスの首相チャーチルはアメリカの大統領ルーズベルトに「これは天の与えた最大の恵みである」と打電。米国からの送電は、「これでおまえと一緒の船に乗れる」であった。
 当時、アメリカは国内の反戦運動のため、ヨーロッパ戦線に参加できないでいた。だが、日本の攻撃によって事態は急転したのだ。
 戦後、外交官の加瀬俊一氏がチャーチルに会った。その際、チャーチルは日本の真珠湾攻撃に対して「日本人の国際感覚のなさに驚いた」と評している。
 戦後50年、軍事力のない日本は経済的に大きく成長した。若槻の妥結したロンドン条約でも日本は十分豊かに生きていけたのだ。彼の平和外交には現実性があったのである。
 軍部は交渉のテーブル外から天皇制を利用することで、戦争による問題解決を実行に移した。だが国家を戦争へと駆り立ててしまった日本ファシズムの行動は、BATNAとはとてもいえない。この欄でも再三述べてきたように、BATNAとは「妥結にいたらないときに代わるべき最良の手」のことである。
 しかも結局、日本は戦争に負けてしまったわけだが、負ける戦はするなというのは次回取り上げることになる孫子の兵法である。

     (早稲田交渉学会・若槻陽介)               

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