世界遺産:アンコール遺跡を訪ねる 
























 
           Angkor Wat & Thom Siem Reap Cambodia
トップページに戻る。
◎サムネイルをクリックすると画像を大きく表示します。
(拡大画像の左右下方部分で拡大画像の上にマウスポインターを当てると
「<」(一つ前を表示)、「>」(次を表示)のタグが現れます。
趣 味 の 写 真③ 風景浪漫
2015/06/28
  「アンコールワット 戦火に耐えた遺跡」・・・・・近藤紘一著「目撃者 近藤紘一全軌跡1971~1986」より引用

 世界七番目の不思議、クメール民族興亡の軌跡を示唆するナゾの遺跡。
第一期の盛時(十世紀)には十三平方キロにわたって広がっていた大都城で、住民十万人を数えたそうだ。
案内人によると「赤いクメール」は1970年早々から、ここに司令部を置いていたという。
遺跡は観音菩薩の巨石四面像の有名なバイヨンの神殿を”本体”に一辺が三キロの正方形の城壁の中にある。ジャングルに埋も
れていた遺跡は十九世紀なかば(当時、一帯はシャム領)、フランス人によって世界に紹介された。踏査に乗り込んだ仏海軍少尉
、ドラボルトは高さ五十メートルの中央塔を取りまいて林立する奇怪な四面像の迫力に圧倒され「おそらく、これはクメール族が残
したすべての建物のうち、もっとも奇異なものであろう」(「アンコール踏査行」三宅一郎訳)と記している。ついで彼は、計五十四
の四面像がまだ金泥に覆われていた建立当時を想像、夢中になるのだが、彼が訪れたとき、遺跡の荒廃は既に甚だしかった。
自 然破壊、密林の侵食、そして何よりもシャム軍による略奪・・・・・・。
「建物の周辺、内部塔、腰石など石材の破片や丸天井の崩壊物、その他あらゆる種類の断片で埋まり・・・・・・、頭上のものはとも
かく眼下のものは決定的に破壊している」(同)
実際にトムを見て、こうした描写は正確であり、また一部誇張されているように思えた。内戦以降、今日に至るまでトムの保存作業
は放置されているが、境内はそれ以前にフランスの考古学者らによって、かなり整理されていた。ついでに彼らは内部の仏像、彫
刻など値打ものの多くを失敬してパリのギメ博物館(東洋博物館)に運び込んでいたのである。

※中略
たしかに、トムはワットに比べると荒廃ぶりが激しい。四面像にしても、多くは顔の見分けもつかぬ、ただの尖った岩山と化している
。何体かは分厚いくちびるをした巨大な菩薩面が歴史に凍りついたような微笑みをたたえて健在だがその顔面には建材の継ぎ目
が縦横に刻み込まれ、既に美と神秘の効果は甚だしく損なわれている。複雑、かつ精密を極めた遺跡内を歩きながら、権力の誇
示にとりつかれて、国の疲弊、没落も顧みず、この途方もない大都城の建造に打ち込み続けたクメールの王の”執念”に不気味さ
すら覚えた。
アンコールとは「首都」を意味するサンスクリット(梵語)がカンボジア語になまったものだそうだ。
一部では遺跡群が散在するこの一帯を「アンコール平野」と地名化している。
クメールの王がこの地を都城と定めたのは十世紀のこと。
以来、この地は”輝ける世紀”である十二世紀の繁栄を頂点に五世紀半にわたってカンボジアの首都となる。
王たちはいずれも精密、複雑な様式の巨大な石造建築物を造営するマニアであったらしい。
バッタンバン州にある、遺跡数は約二百七十にのぼる。最も有名なアンコールワットの寺院は宿敵チャンバ(ベトナム沿岸からイン
ドシナ半島南部に隆盛していた帝国)を制圧したスリヤバルマン二世(1113~1145年頃)によって建立された。シバ教、ビシュヌ教
、仏教が混交した宗教建造物を中心とした王の城であり、臣下や人民が居住する城壁都市である。その規模は約二平方キロ。
建材にはインドシナ特有のラテライトや硬質の巨石が使用されている。現在は暗灰色の材質がむき出しだが、建立時には伽藍の
多くは金泥で覆われ、無数のレリーフ(壁の浮き彫り)美しく彩られていたらしい(レリーフは部分的にまだ色彩が残っている)。
アンコール期を通じ、クメール帝国とチャンバ帝国の攻防は一進一退を続け、激烈を極めた。一般にビルマ、シャム(タイ)を含めた
インドシナ諸王の戦いがいまようにいえばジェノサイド(全員虐殺)に近い規模で繰り広げられたことは、時代はずっと下がるが、ビ
ルマ軍に徹底的に破壊されたシャムのアユタヤ王朝の廃墟を見れば、おおよその見当がつく。
十六、七世紀にインドシナにまぎれ込んだポルトガルの船乗りの記録に「勝者の王は許しを乞う敗者の王とその妃をたっぷり時間
をかけて鞭打ちで殺し、貴族は全員を串刺しにして炎天下にさらし、捕虜、住民の幼児を切り刻み、飼いばに混ぜて軍象に食わせ
・・・・・・」と有る。
巨大建造物の造営には奴隷となった敗軍の兵士や住民らが使役された。ワットにしろトムにしろ共通していることは、莫大な国富
と人命を注ぎ込んでこれらを建立したあおりで、王朝自身も消耗し、没落していったことだ。加えて、新興シャム帝国の間断ない攻
撃にさらされ、一四三四年、クメールの王はプノンペン方面に敗走する。
十七世紀前半、日本の貿易商、天竺徳兵衛がアンコールに詣で「祇園精舎」と思ったという逸話があるが、当時、一帯は既に遺跡
化への道を歩んでいたのだろう。
アンコールワットは真西を正面に建てられている。夕映えの効果をねらってか、午後も遅くなって現場を案内された。境内に入り、
前庭に広がる巨大な人造湖の橋上から遺跡を一見しての印象はーーー。
「アンコールワット健在なり」だった。
※中略
写真でなじみの端整に配置された五塔を持つ寺院の内部には建立時、六千体の仏像があったという。それが現在は百数十体、う
ち、首と五体が満足に残っているのはわずかに三十七体だそうだ。多くは二百年、三百年の歳月の間に持ち去られたり、破損した
りした。
 内戦中、ここに陣取っていた「赤いクメール」(ポル・ポト政権)の兵士らもおびただしい数の仏像を前庭の河に投げ捨てた。

 私がアンコールを訪れたのは今回が初めてだ。その保存度にせよ、あるいは逆に傷み具合にせよ、それらを測定する基準を持
ち合わせていない。ただ、専門的にはよくわからないが、境内を一巡したところでは建造物自体の破損度は軽微だ、との印象を受
けた。
寺院、仏像の破壊は宗教とうたを図るポル・ポト氏の政策であった。しかし、ワットの建物自体はクメール民族の優秀さの象徴とみ
なしていたようである。
 ガイドに頼み、とくに内戦以降およびヘン・サムリン政権樹立後に破損したり彫刻を持ち去られたところを案内してもらった。本殿
を取り巻き、層を異にする三重の回廊がある。全長一キロの回廊の壁には戦闘、宗教儀式、往時の日常生活のさまを伝える精巧
な浮き彫りが施され、そこに描かれた人物はおそらく万余にのぼる。
 かねて耳にしていた通り、第一回廊東側の破損が最も目についた。内戦中、シェムリアプの町に布陣していたロン・ノル軍からの
銃砲撃による破損だという。だが、そげ落ちた部分はそれほど広範囲ではない。むしろ、それよりやや離れたところに描かれた「天
国と地獄」絵図に衝撃を受け、私は足をとめた。
 人々の長い行列が、牛に乗ったシバ神の裁きを受けて二つに分かれる。一方は天国に上り、他方は地獄に落ちていく。地獄に
落ちたものは逆さづりにされ、刀や棒で打ちすえられ、野獣に投げ与えられ・・・・・・。地獄だから当然の光景だが、私が目を見張っ
たのは、この地獄絵図とプノンペン郊外の元トルスレン刑務所に陳列されている「赤いクメール」による囚人らの拷問光景の酷似
ぶりだった。
 後手に縛られた裸の受刑者を獄吏たちが横抱えにして処刑場あるいは仕置き台に運んでいく。
 その縛り方、抱え方、拷問器具、獄吏らの陰惨な喜びの表情、どれをとってみてもトルスレンの再現である。遺跡にこもった「赤
いクメール」の兵士らは、この浮き彫りを毎日眺めながら「敵」への復しゅうの方法を学んだのか。とてつもない権力を象徴する諸
塔を改めて仰いだ私の頭の隅に「先祖がえり」という言葉が浮かんで消えた。


 ヘン・サムリン政権登場後のアンコールワットの破損ぶりについては、これまで様々な風評を聞いた。
ベトナム軍による破壊や略奪、難民による仏像、彫刻の持ち出し。
 これらの、”盗品”はタイ側の難民キャンプで待ち受ける古美術商の手をへて欧米に流出していくとか。実際にバンコクの古美術
商で、それとおぼしき品を扱うものがいないわけではない。
 しかし、ワットから古美術の流出が大量かつ継続的に行われている形跡は見当たらなかった。
数世紀にわたって放置されていた遺跡には、難民達が行きがけの駄賃に持ち出せるような”小物”はほとんど残っていない。

 ガイドは「兵士らが面白半分に撃ってレリーフを傷つけた」と嘆いた。たしかに、第二回廊のアプサラ(往時の神殿の踊り子。
上半身裸で腰には優雅な帯をたらした衣をまとっている)のレリーフ四、五体の胸の隆起や腕の一部が欠けていた。弾痕から見て
明らかに最近の破壊だ。
 境内を守っているのは、主としてベトナム軍だから、どうやら彼らの仕業らしい、しかし、ヘン・サムリン当局は国策としてベトナム
に対する批判をいっさい禁じており、ガイドも“犯人”の断定を慎重に避けた。
 私個人の目には、これらの新破損は全体から見れば微々たるものに見えた。境内のレリーフには万余の人物像が描かれている
。ベトナム兵が退屈しのぎに数人の裸女の胸を狙ったとしても、
その被害は”九牛の一毛”ていどである。
 発熱と下痢腹をかかえて第三回廊への階段を四つんばいではい上がる羽目になった。そう高くはないが完全に人間工学を無視
した険阻な石段である。わきには手すりが取り付けられており、普通なら歩いて登れるようになっている。「かつては王だけが、れ
ん台に乗って階段を上り下りした。臣下はあんたのように四つんばいだった」とガイドに冷やかされた。”臣下”の屈辱を味わった恨
みを返すつもりはないが、私のアンコール観はかなり冷淡だ。境内を歩きながら頭に去来しつづけたのは、クメールの王たちを巨
大な建築にかりたてた”人間の欲望”に対する不気味さであり、ばからしさであり、そしてある種のいじらしさである。
 たまたま、遺跡内で保存修理の下調査に訪れたインド考古学者のグループに出会った。そのうちの一人、グプタ博士は破損が最
も目立つ第一回廊東側の部分について修理の必要を認めるとともに、そこだけで百万ドル単位のカネがかかるのではないか、と
言った。
 「しかし、全体として建物はしっかりしている。それにアンコールはもともと何百年にわたって盗人たちの宝の山だった。それにくら
べたら、最近のコソ泥や破損の害はものの数ではない」
 グプタ博士も最近、一部に伝えられるアンコール危機説をあっさり否定した。
 シェムリアプ町内の荒れ果てた「アンコール保存館」の床は、どうやら命ながらえた仏像やその断片で一杯だった。一部は「赤い
クメール」(ポル・ポト政権)の兵士らが池に投げ込んだのを拾い集めたものだと言う。ポト政権下での重労働を生き延びた少壮の
考古学者、ぺク・ケオ館長がほこりだらけの古巣にやっと戻り、ザラ紙を使って一人で保存計画の作成に取り組んでいる。
 「アンコールは私の生命です。でも、今は何もない。人手、機械はおろか復元図を書く文房具すらないのです」
 遺跡そのものに対する個人的思いはともかく、彼のひたむきな生き方に敬意を表し、私は少なからぬ額の紙幣を館内の募金箱
に押し込んだ。(サンケイ新聞 82.4.14~21)ーーー以上引用