古代日本とヘブライ一掃政策


五番目の移住「秦氏」−その2

王名からの地名
富山県下新川郡入善町には「下山(にざやま)」がありますが、イザヤの二音節「ザヤ」を入れたニザヤマは、「イザヤ」から作られたと見られます。また「ザヤ」を入れたと考えられる地名に「道祖土(さやど)」(栃木)があり、サヤは清音化された形と見られます。ここから刀の鞘(さや)の語彙が生れた。イザヤは「イサヤフ」とも置き換えられるのですが、イッサカルの二音節イサと区別する意味でも「イザヤ」が採用されたと見られます。
「イザヤ書」の中で、若きイザヤが神殿で神の霊の光に触れ、最初の啓示が与えられた年に亡くなったと記されているのが「ウジヤ王」です。
京都府の「宇治(うじ)市」が挙げられますが、栃木県には「氏家(うじいえ)町」があります。氏家町のある「塩谷(しおや)郡」の「シオ」は「シオン」の二音節を入れたものと見られます。
つまり、シオンから「塩(しお)」の語彙が作られ、シオン(エルサレム)は塩が豊富に採れる谷(死海)の近くにあったことから、「塩」や「塩谷郡」の名が作られたと考えられます。
また埼玉県所沢市には「糀谷(こうじや)」がありますが、二音節の「ジヤ」を入れた地名で、前に付く「う」は発音上「お」ですので、抵触すれすれの線を行っているようです。
他に「ジヤ」を入れたと考えられる地名に「小千谷(おぢや)市」(新潟)があります。
そして、ウジヤから、日本語彙「氏(うじ)」が作られたと見られます。
川守田英二氏解読のヘブル詩歌には、ウジヤ王の名が出てくると氏も述べているので、この符合も偶然ではないでしょう。
後に語彙「蛆(うじ)」が作られたと見えます。ウジヤ王は52年の治世中、晩年をむかえた頃にらい病に罹っており、その死まで離れ殿に住んでいたと、『歴代志下』26章にあります。王の隔離殿には世話をする者がなく、蛆が湧いていたのでしょうか。
幾つかの南ユダ王の名が地名に込められていると見られますが、それと判別出来るのは、ウジヤの他、アハズ、ヒゼキヤがあります。どの王もイザヤ存命時代の王で、王自身は渡っては来なかったものの親族の多くが移住してきていたことから、地名に込めたとも考えられます。
ウジヤの次の王は「ヨタム」ですが、この王名は地名には見出せない代わりに日本語彙の中に見ることが出来ます。
「ヨタ」「タム」と分けられますが、「ヨタ」は「ヨタもの(与太者)」、動詞では「与太(よた)る」。「タム」は「手向(たむ)く」があります。また「屯(たむろ)」が作られたと見られます。
ダマスコのスリヤ(シリヤ)王レヂンと北イスラエルのペカ王がエルサレムに攻め上った時の王が、次のアハズでした。
南ユダを落として、新たな王を据えようとしたこの企ては失敗したのでしたが、この時、イザヤはアハズ王と会い、ヤーウェ神から発せられた言葉を伝えたのでした。
静かにして恐れるな、スリヤらの企ては失敗する、といった内容から、処女受胎によるインマヌエル(後のイエス)生誕の預言までが含まれていました。この頃に、イザヤは神の側の計画であるイーシェ・モシア生誕の予言を神から預かっていたわけで、これは「イザヤ書」7章にあります。この預言の時から七百数十年後に、イエス生誕が実現したのでした。
しかし、アハズ王は、神の良しと見られることを行なわなかったと「列王記下」「歴代志下」にあります。カナンのバアルの為に鋳像を造ったり、戒めから離れたことをよくした王であったらしい。スリヤらに攻め入られたにも関らず、ダマスコの神々に犠牲を捧げれば、スリヤは自分を助けるだろうと思い込み、それを行ったのでしたが、逆に彼らは、アハズと全イスラエルを倒す者となったと「歴代志下」にはあります。
このダマスコから日本語動詞「騙(だま)す」が生れたと見えます。アハズの判断の誤りであったとしても、アハズの側からすれば、ダマスコの神々はアハズを騙したとなるわけで、「騙す」の造語はアハズの立場に立って作られたと云えます。
アハズは、レヂンとペカに攻め入られたことに悩み、アッスリア(アッシリア)王テグラテピレセルに使者を送り、助けを請うのです。アッスリア王は了承し、まずダマスコを征圧し王レヂンを殺した後、ペカの北イスラエルに侵入し、多くの領土を奪い、大勢の民を捕囚として連れ去りました。
北イスラエルが終焉を迎えたのは、このアハズ王の治世でしたが、その時の王はホセアでした。
前王ペカは、ユダ王の首をすげ替えようと、スリヤの王レヂンと共に攻め上って失敗、その後、悪企みのすきを突かれたかのように、テグラテピレセルのアッシリアに侵入され、幾ばくかの領土と、民を捕囚として奪われる。日本語「ペケ」の元は、マレー語の「pergi(あっちへ行けの意味)」からきているとされていますが、「ペケ」はこの時の王「ペカ」から生れたと筆者は考えます。「ペケ」は、だめ、いけない、の意味で使われています。
大倭では、ペカとアハズのこの一件から教訓を学んでいたと見られます。
ペカ自身は前王ペカヒアを殺して王となっていたのでしたが、アッスリアの収奪以後、ペカ王は徒党を組んだホセアに殺され、ホセアが王となるのです。が、骨抜きにされていた北イスラエルは復旧されることなく再び、シャルマネセルのアッスリアに侵入され、三年攻め囲まれた後、アッスリアの手に落ちるのです。
南ユダ王国では、シャルマネセルが北イスラエルに介入し始めた頃、イザヤの次男としてスサノヲが生れ、王国が終焉をむかえた頃、長女としてヘフジバが生れたと考えられます。
北イスラエル最後の王ホセアは、エフライムの人と見られますが、ホセアの父はエラという名の人でした。また、北イスラエルの歴代王名に、バアシャ王の次の王として、在位2年のエラ王の名前があります。日本の地名には「江良(えら)」(宮崎、大分、山口、岡山)があって、このエラに由来していると見られますが、エフライムから二音節を取ったとも受け取れますので、いずれにしても「江良」はエフライムに由来する地名といえそうです。
アハズは「アハ」「ハズ」に分けられますが、「アハ」二音節を入れた地名として、「吾橋(あはし)」があります。岡山県には、「阿波(あば)」がありますが、岡山の場合「アワ」と読まず、「アバ」と呼んでいます。これは「アハ」を「アバ」としたものと見えます。
次に「ハズ」ですが、愛知県には「幡豆(はず)郡」があります。
他に「矢筈(やはず)」があり、矢筈ケ岳(山口)、矢筈岳(鹿児島、熊本、新潟)、矢筈山(香川、徳島、秋田)、矢筈崎(高知)とあります。
「ハズ」のヴァリとして「ハザ」が想定され、「狭間(はざま)」(愛知)、「廻間(はざま)」(愛知)があります。
また「アハズ」から二音節採った音として「アズ」が出来、作られた地名に「小豆沢(あずさわ)」(東京)と、「小豆餅(あずきもち)」(静岡)が考えられます。
アハズは、異邦人の悪しき習慣に従い、自分の子を火に焼いて神への奉げ物とした王であったので、代わりに小豆餅を奉げれば良かったのに、といった思いが込められて、地名「小豆餅」が作られたのでしょうか。語彙「小豆(あずき)」は、このアズから作られたと見られます。

アハズの次の王、ヒゼキヤは「ヒゼ」「ゼキ」「キヤ」と分けられます。
「ヒゼ」は「ヒジ」とした音がよく見られ、地名では「日出(ひじ)」(大分)「比地(ひじ)」(沖縄)「土方(ひじかた)」(静岡)があります。土方は「どかた」とも読みますが、ヒゼキヤは病気に罹った後、自ら土木作業に打ち込んで病気を回復した人でもありました。
さらに「ヒジ」からは語彙「聖(ひじり)」が作られたと見られます。「聖」は主に、山岳、河川に用いられており、「聖(ひじり)山」(長野)、「聖岳」(長野、神奈川)、「聖川」(長野)、「聖崎」(広島)があります。「ピッシリ山」(北海道)はそのヴァリと見られます。
もう一つの語彙として「菱(ひし)」が作られたと見られますが、地名としては「菱刈(ひしかり)町」(鹿児島)、「菱田(ひしだ)」(鹿児島)があります。
他に「ヒジ」を入れた地名として「肱(ひじ)川」(愛媛)、「比謝(ひじゃ)川」「比謝矼(ひじゃばし)」(沖縄)があります。「米花(はぜ)山」(大分)は「ヒゼ」のヴァリと見えます。
ヒゼの濁点を移して「ビセ」としたと見なせる地名に「備瀬(びせ)」「備瀬(びせ)崎」(沖縄)、「美星(びせい)町」(岡山)があり、他に「平尾瀬(びっせおがん)崎」(沖縄)があります。「ピセナイ山」(北海道)は「ビセ」のヴァリと見られます。
「ゼキ」を入れた地名としては「井関(いぜき)」があります。屋号の「井関屋(いぜきや)」は後世になって名付けられたと見られます。ゼキは、セキと清音化された地名が多く用いられているようで、「関(せき)」が代表的でしょう。「関戸(せきど)」のようなヴァリを含め、全国に見られます。
「キヤ」には「基山(きやま)町」(佐賀)があり、群馬県長野原町に「与喜屋(よきや)」があります。沖縄には、「喜屋武(きゃん)」がありますが、これは「キヤム」から「キャム」→「キャン」に落ち着いたと見られます。
また、ヒゼキヤの子音三音節を入れたと見られる地名に「文違(ひじかい)」(千葉)があり、「枅川(ひじきがわ)」(三重)が。同音二音節には「日崎(ひざき)山」(群馬)があります。
さらに、清音化され、母音を変えられた子音四音節が同音で構成されている「平敷屋(へしきや)」(沖縄)があります。「ヘシ」は「ヒゼ」の母音「イエ」を「エイ」に入れ替えた音です。
そして、この「ヒゼ」の母音「イエ」から「家(いえ)」が作られたと見られます。
次は地名ではなく、ヒゼキヤから作られたと見られる一般語彙に「肘木(ヒジキ)」があります。
「肘木」とは建築用語で、組み物を作る際の荷重を支える横木を肘木と呼んでいるのですが、ヒゼキヤは、ヘフジバの列島ユダ王国再建を陰から支えた王でもありました。
当て字には「肘木」の他、「肱木」「臂木」「?」「承衡木」があります。
組み物を支える横木の意味としては「承衡木」がぴたりではあるものの、横木への最初の発想はヒゼキヤでありましょう。その名からヒジキの音が考えられた後、「肘(ヒジ)」「肱(ヒジ)」「臂(ヒジ)」の語彙が作られ、「木(キ)」が充てられて「肘木」「肱木」「臂木」が出来たと考えられます。「肘(ヒジ)」とほぼ同時期に「膝(ヒザ)」が作られたと見られます。
ヒジキにはもう一つ、ホンダワラ科の海藻「鹿尾菜(ヒジキ)」「羊栖菜(ヒジキ)」があります。ヒゼキヤの名を込めて、ヒジキの豊漁を願ったのではないでしょうか。
そして、ヒジキの濁点を移した音として「拉(ヒシギ)」があります。ここからは「拉(ひし)ぐ」という動詞が生まれたと見られますが、拉ぐとはおしつぶすという意味で、拉竹(ひしぎだけ)は、丸い竹を押し潰した竹のことです。
拉楯(ひしぎたて)は、数枚の楯を竹竿に結び付けて一連の楯としたものです。敵からの矢を避けつつ少しずつ前進するのに用いられたのでしたが、ここでは拉竹ではなく、竹竿が用いられることから、ヒゼキヤに肖(あやか)る意味で、拉楯と呼ばれたのではないでしょうか。
ヴァリとしての「ヒズ」からは「歪(ひず)む」が作られ、「拉ぐ」とは意味上の理解を補い合ったのではないでしょうか。
他に目をつぶるという意味の「瞑(ひし)ぐ」がありますが、ここには最早ヒゼキヤの影響はないかも知れません。
ヒゼキヤの王妃となったヘフジバは、後継マナセを産んで間もなくして列島へと旅立ったのでした。マナセの母の名はヘフジバである、と「列王紀下」21章にあります。
ヘフジバ(ヘフヂバとも)は「ヘフ」「フジ」「ジバ」と分けられます。
「ヘフ」はそのまま用いられている例がなく、「ハフ」「ハホ」と母音を変えた形が用いられています。「破風(はふ)山」(埼玉、山梨)、「羽保屋(はほや)山」(秋田)がそれです。富士山同様、ヘフジバの名は山に込められている場合が多いようです。
「フジ」からは富士山の命名が生まれたことは前述しましたが、さらに「フジ」からは「藤袴(ふじばかま)」「藤(ふじ)」が生まれたと見られます。
「ジバ、ヂバ」からは、音節を重複させて「ヂヂババ」が作られ、「爺(ぢい)」、「婆(ばあ)」が造語されたと考えられます。「ぢぢい」→「お爺さん」、「ばばあ」→「お婆さん」が生まれるに至った。そして、ヂヂババの濁点を除いたチチハハから、「父(ちち)」と「母(はは)」が生まれたと考えられます。
「ぢぢばば」「ちちはは」即ち「爺婆」「父母」は同時に誕生したのでした。日本語彙「母(はは)」が生まれた後の島の名として「母(はは)島」(東京)、「母子(ははこ)島」(長崎)があります。
「フヂバ」三音節からは、「ウイ」の母音を「イウ」に変え、「ヒヅバ」のヅを清音化し「櫃挾(ひつば)」(千葉)が出来たと見られます。さらに「千葉(ちば)」は「ヂバ」のヂを清音化した形と見られます。古い地名は「下総国千葉郡」でした。(2011.12.24.修正更新25.)
太子は造語に際しては、先祖の名を最も重視し、地名に限らず一般語彙の中にもその名を込めたのでした。例えば、イザヤの父の名は「アモツ」でしたが、その二音節同音を込めて「天神(あまつかみ)」を作り、「国神(くにつかみ)」を造語したのでした。
アブラハムの父の名は「テラ」でしたが、この人名を「寺(ジ)」に充てて「寺(てら)」という一般名詞を造語し、さらに「テラ」からは「照(て)る」という動詞を作りました。
ヘブライ語動詞の基本形は、二音節動詞であれ三音節動詞であれu音で終る(厳密には無母音だが)と見なした上で、太子はそのあり方を日本語動詞に取り入れ、基本形はu音で終るように決めたのです。従って、テラからはテルという音は容易に生まれ、そこに漢字の「照」を充てて、「照る」が出来たのでした。ヘブライ語動詞の能動と受動のあり方から、「照る」の能動形「照らす」を考え出したと見られます。そして、「天(あま)照(てらす)」が生まれたと考えられます。(12.31.)

アブラハムからは「油(あぶら)」の語彙が生まれたとしましたが、妻の「サラ」からは「皿(ベイ)」を充てて「皿(さら)」が生まれたと見られます。「皿(さら)」は音読みではなく訓読みなのです。
皿には他に「盤(さら)」「盒(さら)」「?(さら)」と三種類ほどあって、盤は秤の皿、盒は皿の蓋、?は南京皿として造語されたようでしたが、一般に普及されるようになったのは「皿」のみで、あとは殆ど使われなくなったようです。
そして、飲み物の入れ物として底の浅い甕(かめ)「浅甕(さらけ)」が作られ、道具としては「?(さらえ)」「杷(さらい)」が作られたと見られます。
動詞としては「浚(さら)う」「渫(さら)う」「攫(さら)う」が作られ、「晒(さら)す」「曝(さら)す」「?(さら)す」が作られたと考えられます。
四種の皿。甕。井戸を浚って水をきれいに保つ。衣類や寝具を日に晒して干す。杷で落ち葉やゴミを一所に集め、攫って棄てる。
こうして見ますと、造語されたその語彙は、家事に関連する内容が殆どであることが判ります。
関連した事柄を連想ゲームのように造語していったことが窺われます。
古文のように文章が作られるようになって、造語も並行して行なわれるようになると、「さら」からは「新たに」の意味を含む「更(さら)に」の接続詞が造語されたと見られます。
そして、「今更(いまさら)」「尚更(なおさら)」などの語が作られるようになる。
古語で、それならばを意味する「然(さ)らば」や、避けられないのでの意味「避(さ)らず」などが作られていく。子供の学習「お復習(さら)い」は後世の造語。この頃には、サラのことは忘れられていたでしょう。
地名としては「皿山郷(さらやまごう)」(長崎)、「皿山(さらやま)町」(福岡、山口)、「皿(さら)」(岡山)、があります。そして、「皿ヶ嶺(さらがみね)」(愛媛)、「更級(さらしな)郡」(長野)、「更別(さらべつ)村」(北海道)が。
「有から有が生じ、無から有は生じない」という古人の諺通りになっていることが判ります。サラという(人の名)有から、皿(さら)という有が生まれたのです。無からは、「皿(さら)」の語彙は生じ得なかったでしょう。
例えば、何でもよい、思いつきの音を皿に充てて造語したとしても、人々がそれを良しとして使うかどうかはまた別の問題になります。人々が喜んで使うようになるには、常日頃から馴染みのある、人々がよく聞き知った人の名がよいと、太子は考えたと思われます。その点で、皿にサラは当時としてはベストネーミングではなかったでしょうか。
平安時代、古文として知られる文章が作られるようになってからも、人名、支族名、地名などが込められて造語されるということがよく行なわれたようです。それらの造語は人々の共感を呼ぶものが生き残り、そうでないものは消えていったと見られます。
古代イスラエルがカナンに建国される以前の預言者にサムエルという名の人があります。このサムエルに「よ」を加え、母音を少し変えて「彷徨(さまよ)える」が生まれたと見られます。神の予言を預かったサムエルはそれを伝えようと、十二支族の間をあちらこちらと彷徨った人であったのでしょう、これが造語されたと思われるのです。
また、アリマタヤのヨセフから、「ありがたや」が生まれ「有り難い」ができる。これは「有る」と「難(がた)い」が生まれた時に作られたと思われます。十字架から降ろされたイーシェの遺骸を包む亜麻布を、ヨセフが用意していてくれたことは、人々にとっては非常に有り難いことであった。そして、サムエルやアリマタヤのヨセフの名は後世、きれいに忘れられ、「彷徨える」と「有り難い」の日本語彙のみが残ったと考えられます。

アブラハムよりもっと古い人で、ヤーウェ神の霊媒の中でも最古に数えられる「エブラ」があります。
エブラは「エブ」「ブラ」に分けられ、「エブ」を込めた地名として「?(えぶり)」(福岡)、「?差(えぶりさし)岳」(新潟)があります。
「ブラ」を込めた地名では「円池(つぶらいけ)」(富山)があり、「円らな瞳」の「円(つぶ)ら」はここから生まれたと見えます。そして、「つぶら」から「(目を)瞑(つぶ)る」「潰(つぶ)る」の動詞が生まれ「潰れる」が出来た。エブラの名を冠したエブラ王国は敵の侵入によって滅んだことから「潰る」が生まれたとも考えられます。
エブラの「エ」「ラ」を込めた地名として「箙瀬(えびらせ)」(熊本)がありますが、ここで語彙「箙(えびら)」が作られたと見られます。
エブラの二音節目と三音節目を置き替えたと思われる地名に「永良部(えらぶ)」(鹿児島)があります。ここで動詞「選(えら)ぶ」が作られたと見られます。
もう一つ、エブラの母音をすべて替えて出来たと見られる地名に「朧気(おぼろけ)」(山形)がありますが、エブラがあまりにも古い人(紀元前3000年頃)であるために知られた知識も曖昧であることを表現する意味で「朧気」としたのではないでしょうか。ここで「朧気」の語彙が生まれたと考えられます。旧約聖書には、エブラの名は「翼」「羽」の意味のエブラがあるのみで、人名としては載っていません。
似た音として「荏原(えばら)」(武蔵国)がありますが、こちらはエフライムから作られた地名と思われます。

南北分裂前のイスラエルの王はソロモンです。
「ソロ」「ロモ」「モン」に分けられます。
「ソロ」には「十六(そろ)町」(愛知)があります。
「そろ」からは三音節動詞「揃(そろ)う」が生まれたと見られます。基本形を作るために「ろ」を「る」に替え、二音節動詞「剃る」「反る」「免る」が作られ、「反れる」「免れる」が出来たと考えられます。
ソロモン王は、ソロモンの箴言で知られるようにヤーウェ神によって、至れり尽せりの多大な恩恵を蒙った人でしたが、晩年に至って、ヤーウェ神を拒んだ人でした。その結果、王の死後、イスラエルは南北に分裂したのでしたが、ここから「反れる」「免れる」が作られることになったと見られます。地名としては「返吉(そりよし)」(山形)があります。
ヴァリとしての「ソリ」には、漢字「橇(ケウ)」が充てられ「橇(そり)」が出来たと見られます。地名に「雪車町(そりまち)」(秋田)があります。
「ロモ」からは「衣(ころも)」が作られたと見られます。地名としては「衣(ころも)川」(岩手、秋田)、「羽衣(はごろも)町」(東京)があります。
「モン」は「主水新田(もんとしんでん)」(千葉)、「紋別(もんべつ)」(北海道)があります。
「ソロ」の母音を替えた「ソレ」からは、指示代名詞の「其(それ)」が生まれ、その後「某(それがし)」が生まれたと見られます。

初代サウル王は30歳で王となり在位は2年、ペリシテ人との戦闘で劣勢となった後、恥を懼れ自害した人でした。地名としては「佐布里(そうり)」(愛知)があります。「そう」と発音する古語は大概「サフ」ですので、佐布里の当初は「サフリ」であったでしょう。サウはソウと読む方が発音し易いことから、ソウと呼ぶ傾向が強まったのではないでしょうか。
サウルの「ウ」のヘブライ文字は「ワウ(w)」ですので、サウルからはサワラが出来たと見られます。
当て字をして「早良(さわら)区」(福岡)、「佐原(さわら)市」(千葉)、「砂原(さわら)町」(北海道)が生まれたと見えます。
ヴァリとして「佐織(さをり)町」(愛知)、「聖籠(せいろう)町」(新潟)、「相楽(そうらく)郡」(京都)が挙げられます。語彙としては「鰆(さわら)」、「椹(さわら)」、竹と藁縄で作られたタワシ「さわら」と。
サウル王はイスラエルの王座に最初に就いた人であることから動詞として「座る(すわる)」「坐る(すわる)」が考えられたと見られます。さらには地名「市浦(しうら)村」(青森)が考えられた頃、サヲリと合わせて「栞(しをり)」が生まれたと思われます。
サウルは、「サウ」「ウル」に分けられますが、地名では「サ」と「ウル」、そして「サル」が見られます。「佐(さ)島」(愛媛)、「蛇(さ)島」(山口)があり、「双(そう)島」(和歌山)の古語表記は「さう」であったと見ます。
「ウル」は「潤井(うるい)川」(静岡)、「売木(うるき)川」(長野)、「漆(うるし)山」(岐阜)があり、「サル」には「沙流(さる)郡」「沙流(さる)川」(北海道)があります。
サウルからは、後に「爽やか」に転じた「爽(さわ)らか」が作られ、「障(さは)らふ」が作られる。これが「障(さわ)る」となる。そして「触(さわ)る」が生まれたと見られます。(2012.1.13.)
後に「そうろう」と読まれるようになった「候」の古語は「さうらふ」で、文末にサウル王の名前を入れて、文を引き締めるという習慣が生まれたのが「候文」のそもそもの始まりのようです。これは他の王についても、言えることですが。

サウルの次の王ダビデは、「ダビ」「ビデ」「ダデ」と三つに分けられています。
「ダビ」からは「荼毘(だび)」が作られたと見られますが、「タビ」と清音化された音がよく用いられたようです。「旅(たび)」「度(たび)」の語彙が作られたと見られ、「旅出(たびで)」「旅苞(たびづと)」がそれを思わせるような造語となっています。
手袋を「てぶくろ」と呼ぶのに対し、足のそれを「足袋(たび)」と呼ぶのは、その造語が「旅(たび)」とほぼ同時に作られたことによると見られます。
「タビ」を入れたと思える地名に「田平(たびら)」(長崎)があります。そのヴァリと見える地名には「田光(たっぴ)沼」(青森)と「竜飛(たっぴ)崎」(青森)があります。
「ビデ」は「ヒデ」と清音化した音が用いられているようです。
「日出(ひで)ヶ岳」(三重、奈良)、「日出(ひで)島」(岩手)、「火出(ひでが)崎」(鹿児島)、「日照(ひでり)岳」(岐阜)があります。
この造語時に「日照り」と合わせて作られたと思われるのが「旱(ひでり)」で、魃も「魃(ひでり)」と呼ばれ、古代では「魃」は旱魃を起こす神と考えられたようです。
「ダデ」は長野方言にも見られますが、最も多いのが「ダテ」「タテ」と清音化された形です。
「ダテ」は「伊達(だて)郡」(福島)が良く知られた地名で、他に「館(だて、たて)」「立(たて)」「建(たて)」に充てられており、「大館(おおだて)市」(秋田)、「館山(たてやま)市」(千葉)、「立山(たてやま)」(富山)、「国立(くにたて)」(大分)があります。
他に当て字の異なる「建石(たていし)山」(岩手)、「楯ヶ崎(たてがさき)」(三重)、「竜良(たてら)山」(長崎)、「立岩(たていわ)山」(広島)、「立俣(たてまた)山」(長野)、「立科(たてしな)町」(長野)、「蓼科(たてしな)高原」(長野)があります。
宮城県には「ダテ」を入れた地名として「左足(こえだて)」があります。この場合の「ダテ」は、ダビデ王のことではなく、双子の神としてのダビデを入れた地名と見られます。ヤーウェ神が「右手の神」であったのに対して、ダビデは「左手」の役割を持った神であったことによると見られます。「左足」となっているのは「足袋」と関連付けられたからでしょうか。(1.16.)
「ダデ」からは主に清音化した形が用いられ、「蓼(たで)」が作られ、ダビデ王の生涯のその殆どは戦闘の歴史ですから「楯(たて)」「盾(たて)」が作られ、ダビデは琴を弾いたので竪琴の「竪(たて)」が作られたと見られます。そして、動詞「建てる」「立てる」が作られ、ヤコブからは「横(よこ)」が作られたのに対して「縦(たて)」が生まれたと考えられます。

ダビデ王でよく知られた逸話に、ペリシテ人の巨人ゴリアテとの一騎打ちがあります。このゴリアテも、日本語彙の中に入れられたと見られます。
羊飼いの青年ダビデは、かつて石投げによって、ししや熊を撃ち殺し、羊を救ったことがあったので、生ける神の軍勢に戦いを挑んだのだからゴリアテも同様なことになると、自信を持っていたのでした。
そして、味方の誰もが尻込みしたゴリアテに向かっていき、石投げによる一撃でゴリアテを倒したのでした。
「ゴリ」「アテ」「ゴテ」と分けられ、「ゴテ」から「後手(ごて)」が生まれたと見えます。
ゴリアテは、ダビデの石投げの技術に関しての情報は何も持ち合わせてなく、青銅の鎧冑で身を固めていたものの、適切な準備もしていなかったので、戦いの始まりにおいて既に後手となっていたのでした。
「ゴリ」は、「ゴリ押し」のように俗語に入っているのもありますが、造語の際「驕(おご)り」「奢(おご)り」「凝(こご)り」「濁(にご)り」「名残(なご)り」に入れられたと見られます。地名としては清音化された形「古里(こり)」(埼玉)があります。
「アテ」からは、「当(あ)てる」「当たる」が作られたと見られます。ダビデは、石をゴリアテの額に当てたのでした。後に「宛(あて)」が作られたと思われます。
そして、「アテ」にはもう一つ「父(あて)」「貴(あて)」がありますが、これは「アテ」がゴリアテから採られたことを知ったペリシテの子孫達が改新後、自ら造語したものと見られます。ゴリアテは自分達の先祖であるという認識から、前出の語彙が作られたと考えられるからです。
この「あて」から「父(てて)親」が生まれたと見られます。
「自分でも、どうにもならない」ということを関西弁では、「わてかて、どうにもならん」と言う言い方をしています。
この「わてかて」についてですが、父の意味とした「アテ」の「ア」を「ワ」に替えて「ワテ」とし、「私」の意味としたと見られます。「カテ」は「ガテ」を清音化した音で、ゴリアテはペリシテの都市ガテの出身者でした。
従って、「アテガテ」は「ガテの父」の意で、清音化したカテを入れた「ワテカテ」は「ガテの私」の意味になることが判ります。これが方言として使われることによって、次第に「自分でも」の意味に落ち着いていったと見られます。
「ワテカテ」の起源がペリシテの子孫の日本人の発意に拠る方言であっても、人気を博すようになって、忘れられた十二支族子孫の間でも用いられるようになったと見られます。
「ガテ」は清音化された「カテ」が用いられ「糧(かて)」「粮(かて)」が作られ、「かてめし」の「糅(かて)」が出来たと見られます。
糧、粮は、本来、行軍などの時に携えた糒(ほしい)、長い戦に備えた食糧のことですから、ペリシテ人達は、戦に備え十分な糒を準備して、サウル王のイスラエル国境まで、ガテや他の都市からやって来たのでしょうか。
そして、ペリシテ人の軍は、ユダの領地内といわれる「ソコ」という所に集結したのでした。
この「ソコ」から、日本語彙「塞(そこ)」「底(そこ)」「其処(そこ)」「其所(そこ)」が生まれたと見られます。
ソコは、イスラエル、ペリシテの両軍が集結することによって、要塞の砦のような趣を呈した。両軍は、谷を挟んだ二つの山の上にそれぞれ戦列を敷いたので、両軍からは谷底が見えた。これらが想定された上で、「塞(そこ)」「底(そこ)」が造語され、指示代名詞として「其処(そこ)」「其所(そこ)」が生まれたと思われます。地名として「底戸(そこど)湾」(東京八丈島)があります。
この両軍の対峙の後、ダビデとゴリアテの決戦となるわけですが、この時には既に、サウル王は神によって、王位を取り消されており、次の王をダビデと決めておられた神の霊はサウルからダビデへと移っていたのでした。
サウルはその後も王を続け、神の霊が宿ったダビデは神による王位を得たまま、サウルの家来となって武勲を上げ続けていったのです。サウルは、神の命令に従わなかったとして神の怒りを買い、神によって王位を剥奪されたのでしたが、在位二年とは神によって認められていた期間のことです。これらは「サムエル記上」にあります。
サウルは自分の将来について、ヤーウェ神に依らず、口寄せ(街の霊媒)に頼り、死者の霊を呼び出そうとしたことが、神に対して大きな罪を犯したと見なされ、サウルの大きな失点と考えられたようです。
この口寄せに関しては、大倭王室においても厳しく戒められたことでしょう。
死者の霊を呼ぶといっても、霊媒がどんなものを引き寄せ、何を喋るかまったく判らないのと、それがそうだと立証しようがないからです。神の側で決めた預言者や霊媒しか用いられることはなかったのでした。
サウルは何度もダビデの命を狙い、亡き者にしようと図って失敗を繰り返しており、ダビデの支援を得ることもなく、ペリシテの軍勢に子ら共々滅ぼされる結果となったのでした。
ダビデが王となった後、ペリシテのガテはダビデに征圧され、イスラエルの領土となったのでしたが、この「ガテ」から「難(がた)い」が生まれたと思われます。ガテの征圧は難事であったか。
ガテからは対立語として「ゲテ」が出来、「ゲテモノ(下手物)」の俗語が生まれたと見えます。
ヨサブが率いていたエブス人の中で、幾ばくかのペリシテ人が同道し列島に住み着いたと見られますが、彼らはペリシテの偶像神ダゴンからは決別し、エブシ同様ヤーウェ神に信仰を替えたのでした。
改新後、ダゴンは音節の順を「ダンゴ」に替え、供え物の「団子(だんご)」の語彙が作られたと見られます。
信仰を替えたことにより、それまで敵対していたユダやベンヤミンの支族達とは、カナンに暮らしていた頃に比べると、遥かに仲良くすることが出来たことでしょう。
ところで、「ガッテン」は「ガテ」に似ていますが、いつどこで生まれたのでしょうか?
ガテに誓って承知したという意思表明を表した言葉であるのなら、ペリシテ系の人々によって発せられた方言と考えられなくもありません。後に「合点(がてん)」が作られる。
ところで、サウル王の父はベンヤミンの「キシ」という名でした。
日本の地名には「貴志(きし)湖」「貴志(きし)川」(和歌山)、「喜志鹿(きしか)崎」(鹿児島)が見られ、ここから語彙「岸(きし)」が生まれたと見えます。「岸田川」(兵庫)、「岸本町」(鳥取)、「岸和田」(大阪)があります。
サウル王亡き後、イシボセテ(イシュボシェテとも)がサウル王家を継いだのでしたが、二年程で暴漢に襲われ命を奪われます。ダビデ王家が隆盛してゆくにつれて、サウル王家は衰えていったと伝えられています。このイシボセテからは「シボ」二音節が採られ、「萎(しぼ)む」「凋(しぼ)む」、そして「絞(しぼ)る」「搾(しぼ)る」の動詞が作られたと見られます。
ダビデの父、エッサイの祖母は「ナオミ」という名でした。男女問わず、日本人の名前によく取り入れられています。
旧約聖書の中で、日本人の名に似た人名は他に、イワ「お岩(いわ)」、トラ「お寅(とら)」がありますが、これはヘブライ一掃に際して、捨てるものは捨て、採るものは取ったということでしょうか。(1.23.)

語尾に付けられた王名
候文の始まりは、サウル王の名を「候(コウ)」に「候(さうらふ)」として充て、一つの意味を作り出そうとしたことから始まっていると見られます。
後に仕える者の「侍」と懸けられて、「さもらふ」「さぶらふ」とも読みが用いられるようになったらしいのですが、後に「そうろう」へと落ち着いた。
「候」は漢字としては窺う、探る、望む、待つ、の意味が含まれていますから、古語としても「伺う」「仕える」の意味で用いられたようです。が、後に使い分けられ、「さうらふ」の本来の意味は、「あります」「おります」「ございます」にあると見えます。
古代ヘブライ語には、英語の「am」「is」に該当する動詞がないので、「候」が「〜である」の意味で用いられ始めたとすれば、その造語の意義はよく理解出来ます。
語の末尾に王の名を充てて意味を作り出したり、強調したりしている例は方言にも見られますが、これは作る側に「言霊(ことだま)」の観念、概念があって、言葉に古代の王の音名を込めることで、王の名に肖り、文章なり、発せられる言葉に力強さを込める意図があったことによると見られます。「候」のすぐ後にアハズの音「はず」が入れられた例も見られます。ハズからは「筈(はず)」が生まれたのでした。
立派な言葉にしたいという古人の強い願いが力強い優美な文章の発展へと繋がっていったと思われます。
この項では、「候文」が文章造語の為の「文語」としますと、話し言葉としての方言造語を「口語」とし、区別しておきます。

方言に王名が用いられた例として、ダビデ王の二音節「ダビ」がありますが、これは「荼毘」に通じるとして忌まれ、音が「ダベ」に変えられたと見られます。関東から東北、北海道へと至る地方の方言として「ダベ」はよく聞かれます。王名二音節が末尾に付される例は、主に、何かをする、何かをやる、といった意志を表明する際に用いられているのが印象的です。
「あれをやるだべ」がよく聞かれる例ですが、語尾に付く抑揚の上げ下げによって、「やるのではないのか」または「やるのだろう」の意味に変わります。或いは「あれをやるだ」で留まる。
この「やるだべ」「するだべ」は、群馬では「やるんだんべ」「するんだんべ」となり、「ん」の多用が目立ちます。抑揚の上げ下げによって意味が変わる点は他の地方と同じ。群馬では「やろう」という時に「やるべー」と言い、「だ(ん)べ」と「べ」が使い分けられているのです。
これが千葉の或る地方では「やるんだっぺ」「するんだっぺ」になっています。
群馬の「八ッ場(やんば)」は、八ッ場と書いて「やんば」と呼んでいるのはどうしてなのか。
「がぶり四つ」の「がぶり」は「がっぷり」とは言っても「がっぶり」とは言わない。
発音上、ヤッバは発音しにくく、むしろヤッパの方が発音し易い、しかし「場」は「パ」ではない、従って、ヤンバと「ン」を入れて読むことにし、表記上は「八ッ場」を通すことになったのだと見られます。「八ん場」と「ん」を入れて表記する例が他にないのと「ン」を入れると「はんば」と読むことになりかねません。「ヤツバ」はどうなのかと思えなくもありませんが、元の音が「ヤバ」であることから「ヤンバ」となったと見られます。
群馬では「ん」の多用に対して、長野では「ダベ」の代わりに、ダビデの「ダデ」「デ」が用いられていて、「ダデ」と「デ」は使い分けられていました。
「あれをやるだべ」の代わりに「あれをやるだで」と表現するのです。或いは「あれをやるで」に留まり、こちらの方が多く用いられたようです。
この「だで」については、四十数年前の松本で、御老人がそう発音しているのを筆者がこの耳で直に聞いた例ですが、近年では周辺に住む長野県人でさえも、聞いた事がないと言われていました。当時、筆者はダビデ王については何の関心もありませんでしたが、強烈な印象として今も記憶に残っています。どうして「だべ」ではなく「だで」なのかと。
長野には「立科町」「蓼科山」があり、どうも、この「たて」と関連がありそうです。(後述)
長野では「やるだべ」がない代りに、「やるで」が主流のようです。
この「やるで」には時々「やるでねえ」と「ネエ」が付く事があり、トーンが少し柔らかくなるのでしたが、この「やるでねえ」は鳥取では「やるでなあ」と発音していました。
ヘブライ語の「ナア」は「どうか」と懇願する意味の語でしたが、この鳥取の「ナア」にはその意味は失われています。ですが、このヘブライ語の意味の「ナア」は「なあ、頼むよ」と言ったように、今日も使われています。
この「やるでねえ」は「やるでへー」と変わることもあって、この「へー」は「はい」の意味であろうと見られます。
東京の一部では「これをやるんだわ」「あれをするんだわ」がありますが、「ダワ」はダビデの「ビ」が「wi」であることから「だわ」としたと見られますが、この「ンダ」を除いた形の「やるわ」「するわ」が「私はこれをやるわ」「私はあれをするわ」のように用いられる、主に東京周辺の女性言葉となったと見られます。
今日も、「やるのだ」「やるので」と、日本語の助動詞として使われる「だ」「で」は、日本語文が発達した結果の、ダビデの音節を末尾に加えて発音したことの名残りであろうと見られます。
ダビデ以外では、口語として発達した言葉に、母親が我が子(女の子)に教え継いでいた「これをやるんだもん」「あれをするんだもん」があります。この「もん」はソロモンの「モン」二音節を入れた音と見られます。楽しさに満ち溢れ、感極まると「もーん」と音が延びたりします。ソロモン王のような栄華を極めた男性と良い縁が出来るようにと願いが込められた音でしょうか。また「やるわ」「するわ」の女性言葉に対応するかのように男性言葉「やるぜ」「するぜ」がありますが、この「ぜ」はヒゼキヤの「ゼ」を入れた音と思われます。
群馬の倉賀野(くらがの)では、「そうか」と言う時に「そうきや」と言い、「やるのか?」を「やるんきや?」と発音し、いずれも抑揚は下がります。この「きや」はヒゼキヤの「キヤ」を入れた音であることは直ぐに察せられます。今から49年前に聞いた方言でしたが、今も鮮烈な印象として残っています。この「キヤ」はいつ頃、方言として語られるようになったのでしょうか。
倉賀野から、45km程離れた長野原に「与喜屋(よキヤ)」という地名があるので、この地名が長野原に割り振られた時とほぼ同時期に、この方言は倉賀野で一斉に発せられたと思われます。
つまり、「キヤ」を入れた地名が決められ、或る地域の人々の間で「キヤ」を語尾に入れて方言とするという取り決めの下に実行に移されたわけですが、これが方言の「キヤ」と地名の「キヤ」とが一致している理由です。この二つの地域の人々は当時親戚の関係にあったのでしょう。
朝廷からの指示などによって、「キヤ」にするか「ダ(ン)ベ」にするか、首長同士の話し合いなどが行なわれ、倉賀野では「キヤ」を入れて地域の方言とすることが義務付けられたのだと考えられます。(倉賀野は、キヤ、ダンベ併用)
では与喜屋のある長野原では「やるんきや」の方言を用いているのかと思いきや、「やるんだんべ」で、この地域では「だんべ」を採用したようなのです。(「思いきや」とは「思いのほか」の意味)
ですが、長野原で与喜屋の地名が残り、倉賀野で「キヤ」を入れた方言が語り継がれたことによって、大倭の人々の目的は達成されているのです。
このことは、前出長野県松本の方言「やるだで」と、約40km離れた「蓼科山」の「たて」についても、同様なことが言えるでしょう。
主に関東の方言で「これをやるのさ」「あれをするのさ」があって、女性言葉では「これをやるの」「あれをするの」で「さ」を除くのもありますが、この「さ」はサウル王の「サ」と見えます。
さらに「の」が「ん」に変わって「これをやるんさ」「あれをするんさ」があって、「さ」が除かれるときは「これをやるん?」「あれをするん?」で切れる。これは群馬でよく聞かれた方言でした。
これは主に関西?でご老人が口にする言葉「これをやるのじゃ」「これをやるんじゃ」「あれをするのじゃ」「あれをするんじゃ」、またドラマなどのセリフでよく使われ、戦国の武将が「それをせねばならぬのじゃ」などと言ったりする、この「じゃ」ですが、古くはウジヤ王の「じや」を入れた音と見えます。
「やるんだっぺ」と合わせて用いられるのが千葉県館山の「やるずら」です。「そうだ」というときにも「そうずら」と用いられ、抑揚の上げ下げによって、「そうだろう?」「そうだ」の両方の意味に使われています。
この「ずら」は、北イスラエルの指導者エズラの二音節「ズラ」を入れた音であることが見てとれます。館山市は「那古」(ガド)の地名がある土地柄、エズラを入れた理由は成る程と思わせます。
相づちを打つ時の語「そうだ」の古語表記は「さうだ」ですが、サウルの「さう」にダビデの「だ」を合わせた語と見られます。
同様にサウルの「さう」にウジヤの「じや」を合わせて「そうじゃ」。
「さう」にエズラの「ずら」を合わせて「そうずら」。
「さう」にサウルの「さ」を合わせて「そうさ」(関東方言)。或いは「さうさう(そうそう)」。
そして、これらには「そうだよ」「そうじゃよ」といったように「よ」が加わることがあります。
この「よ」とは一体何でしょうか。「嘆かわしき世の中よ」といった、筆者の分ける文語的表現とは区別される「よ」です。
川守田氏のヘブル詩歌研究によれば、日本古代における神名ヤーウェは、「ヤーウ」と「ヨーウ」、「やー」「よー」の二通りに大別されるというのです。これはナギャドヤラに限らず、日本語方言の中でも区別されて用いられています。
例えば、関西では「やるんや」と言うところを関東では「やるんよ」と言います。また関東では「やるのだよ」「やるんだよ」「やるのよ」「やるわよ」「やるよ」が用いられます。「やるんだや」「やるわや」とは言わない。この点関西では「やるんや」「やんのや」に絞られているように見えます。
この「やー」「よー」は、「やー、久しぶり」「よー、久しぶり」などに用いられ、名指ししない相手に呼びかける機能を果たしているかのように見えます。
例えば群馬では相手の名を呼ばないで、こちらへ振り向かせるのに「よー、よー、よー」を連発して、相手をこちらへ呼び止めようとする習慣があります。
ただ、関西は「や」、関東は「よ」と一既にはいえません。全国的に行なわれている手打ちがその例です。
一本締めを行なう際、集団の唱導者が「ヨーウ」と唱えた後、一斉に手打ちをします。
「ヨーウ」は用意の意味にもなりますが、本来はヤ−ウェの神名を唱えたことに始まり、神をその場に呼び出して、集団が揃って一斉に拍手することによって、その力を集団に込めて、結束力を図ろうということなのです。
これはヤーウェ神ご自身を呼び出すということではなく、言霊の響きによって神の霊のちからを呼び寄せ、会衆のちからと混ぜ合わせた後、全員の手打ちで会衆へ封じ、各人の力の蓄えとするということでしょう。
一本締めの「締め」が最初の唱導者に由来する造語であるのなら、それはシメオンということになりそうです。動詞の「締(し)める」はここから生まれたのでしょうか。
統治する側とされる側、仕事を委託する側と請け負う側との間で、最初に最も重要視されたのが、やる、やらない、する、しない、の意志表示であったでしょう。それらに必要な造語はかなり早い時期に行なわれたと考えられます。
やると意思決定された言葉の語尾には必ず王名二音節が加えられ、委託する側には即了承の意志が伝わったのでしたが、やらないと否定された意志表示には王名が付くことはなかったようです。
否定詞は、文語では「やらぬ」「せぬ」、口語では「やらない」「しない」ですが、文語の「ぬ」は、ヘブライ語の「拒む、禁じる」の意味である「ヌー」をそのまま充てた音と見えます。
一方、口語の「ない」は、「揺らぐ、迷う」の意味である「ヌア」に「〜でない」の意味である「ヰ」を加え、揺るがない、迷わないの意味となった「ヌアヰ」を、「ナイ」または「ネエ」に縮めた音と思われます。「ねえ」は訛りでしょう。
「やらない」の前が「やるない」であったとしても、意味は通じます。ところが「やらねえ」の前が「やるねえ」であったとすれば、今日的な目からすれば意味は変わってしまいますが、当初、曖昧さから来る混乱は生じたであろうにしても、末尾に付けられる王名が意志表示の決め手となったと見られます。
さらに言えば、末尾に付けられる王名は天皇名であるのが理想的であったのでしたが、当時の事情、情況を考えた場合、やはり無理であったと言うべきでしょう。当時の人々がよく聞き知った名を充てるのがせいぜいだったのではなかったでしょうか。王名を二音節に絞った結果、誰に知られることもなく今日まで来てしまったというのが実状でしょう。(2.7.)

先住カナン人とヨサブ(月読尊)
ヨサブは『イザヤ書』48章の中で、「ヤコブの家よ、これを聞け。あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、ユダの腰から出、主[ヤーウェ]の名によって誓い、イスラエルの神をとなえるけれども、真実をもってせず、正義をもってしない。」と、暗黙の批判をおこなっていますが、これが先住カナン族を連れて行こうとした動機のひとつでもあったことでしょう。
イザヤは、早い時期に南北合わせたイスラエルを他の地へ移すことを神から知らされており、既に表明していたことが、14章から知ることが出来ます。
《主[ヤーウェ]はヤコブをあわれみ、イスラエルを再び選んで、これをおのれの地[東の地の列島]に置かれる。》
神の側では既に、全イスラエルを列島へ移すことを決めており、ここでは「おのれの地」とあるだけで、その場所、東の地の列島については伏せられています。
《異邦人[カナン人ら]はこれに加わって、ヤコブの家[列島イスラエルを目ざす者]に結びつらなり、もろもろの民は彼らを連れてその所[列島]に導いて来る。そしてイスラエルの家は、主の地[列島]で彼らを男女の奴隷とし、さきに自分たち[イスラエル]を捕虜にした者を捕虜にし、自分たちをしえたげた者を治める。》(『イザヤ書』14章1.2節)
やはり、この時代の趨勢では奴隷を置くのは避けられなかったようです。改新日本の後も奴婢が使われていたことは知られています。
イザヤはヤーウェ神から啓示を受けた時に、イスラエルによって蹴散らされた先住民をどうにかするよう求められたと見られます。自分達が追い立てた民をそのままにしていて良いのかと。
イザヤは、かつてのイスラエルの冒した過ちに対して、その責めのすべてを代表する者の如く、一挙に負うことになったのでした。それはヨサブにおよび、さらにはヒゼキヤ、ヘフジバへと重く圧し掛かったことでしょう。
そして、敵対する先住民を連れて行くなどということが果して可能かどうか、イザヤも相当に逡巡したのではなかったでしょうか。そこで、ヤーウェ神は次のような予言を出したと見られます。
《4.見よ、わたし[ヤーウェ]は彼[ヨサブ]を立てて、[先住民を含む]もろもろの民への証人とし、また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
5.見よ、あなた[ヨサブ]は知らない国民[先住諸支族]を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。これはあなたの神、主、イスラエルの聖者のゆえであり、主[ヤーウェ]があなた[ヨサブ]に光栄を与えられたからである。》
(『同上』55章4.5節)
ヨサブは、列島におけるユダ王国再建の証人となった人でした。
指導者に任じられたヨサブはエブス人や他のカナン先住諸支族に移住を呼びかけたのでした。その結果、神の予言の通りになって、ヨサブの知らない先住民がヨサブの許に集って来たのです。
《9.わたし[ヤーウェ]は捕えられた人[先住民]に『出よ』と言い、暗きにおる者[先住民]に『あらわれよ』と言う。―略―
11.わたし[ヤーウェ]は、わがもろもろの山を道とし、わが大路を高くする。
12.見よ、人々は遠くから来る。見よ、人々は北から西から、またスエネの地から来る。》
(『同上』49章9.11.12節)
この節は、神が先住民に働きかけることを伝え、人々が遠方からヨサブのところへやって来ることを伝えており、この予言の通りにエジプトのスエネからも人々がやって来たのでしょう。
何故、先住カナン人と言えるのでしょうか。ヨサブが率いて列島へ向かう際に戒めた言葉が56章3節にあるからです。
《3.主[ヤーウェ]に連なっている異邦人[先住カナン諸支族]は言ってはならない、「主は必ずわたし[カナン人]をその民[南ユダ]から分かたれる」と。
宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。》
(『同上』56章3節)
ヨサブ率いる南ユダの民と同道することになったカナン諸民達の脳裏は、自分達は神によって、いずれはこのユダの民達からは引き離され、放られるのではないかという思いに絶えず駈られており、呟いたりもした。それがヨサブの耳に入り、ヨサブはカナン人達を窘め、戒めたと見られます。列島到着後、「分かたれる」は杞憂に過ぎなかったことが判明するのです。
カナン人達は土着の神からは離れ、生ける神ヤーウェ神を信奉する者となったので、「主に連なっている異邦人」という表記になったのであります。
記述からするとヨサブは、戦争捕虜などによって宦官(睾丸を切除された人)にされた人々をも、列島へ連れて行ったようです。神が「捕われた人に出よと言い」とあることからも、戦争で捕虜となり、宦官として仕えた人々のことと見られます。
では、ヨサブに率いられて大陸を横断し列島までやって来た民達のその道中は如何なものだったのでしょうか。大陸横断の最中に起こった出来事について触れたと見られる記述が次の章にあります。
《21.主[ヤーウェ]が彼ら[ユダやカナンの民達]を導いて、さばくを通らせられたとき、彼らは、かわいたことがなかった。主は彼らのために岩から水を流れさせ、また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。》(『同上』48章21節)
ヨサブが記したと見られますが、大陸横断の旅は比較的幸運に見舞われたことを伝えたかったのではないでしょうか。彼らは生ける神を信じていたからこそ、むしろ暴挙とも言えるような大陸横断という賭けに出られたのですから。
《そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。》(『同上』35章8節)
8.9節は、ヨサブらが通り過ぎた大路、後世にシルクロードと呼ばれるようになった大通りの一角を記したものと見えます。
《そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。》(『同上』35章9節)
「その道にのぼる」とは前出49章11節、神の言葉による「わが大路を高くする」に対応させた記述と見られます。
ヨサブが、列島からカナンのユダ本国へ帰還したことを伝えた記述が次の10節です。
《主[ヤーウェ]にあがなわれた者[ヨサブ]は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。》(『同上』35章10節)
ヨサブは民らを、東の地の果ての列島にまで連れて行き、一つの使命を終えたという達成感が、ヨサブの帰途の足取りを軽くしたとも思われます。

ヨサブの地名としては「ヨ」と「サブ」に分けられます。ヨサとしますとヨセフの「与謝(よさ)」と重複することになりますので、「ヨ」一音節にしたと見られます。該当する地名には「与(よ)島」(香川)、「余(よ)島」(香川)があります。
「ヨサ」からは、「任(よさし)」が作られ「寄(よ)さす」が生まれたと見られます。
「任」「寄さす」とは統治の委任を意味している言葉なので、列島へ移住して来た民達を最初に一括統治していたヨサブはその統治をヘフジバに委任して、列島を離れたと思われます。
さらに「ヨサ」から「ヨソ」とした音からは「余所(よそ)」「他所(よそ)」「外(よそ)」が生まれ、ヨサブはカナンへ帰ったことにより、他所に居る人となったのです。
「余所余所(よそよそ)」は、別れ別れ、別々なことを意味しますので、列島の人々とは別れ別れになった人であったことを示した言葉でしょう。
そして「装(よそひ)」が生まれ「装(よそ)ふ」が出来たのは、ヨサブは長旅に備え、取り揃える物はすべて揃え、準備万端、支度を整えて旅立った人であった。
またヨサの「ヨス」からは「ゆかり」「たより」「よるべ」を意味する「縁・因・便(よすが)」が生まれたとみえます。ヨサブはヘフジバやスサノヲの便りを託されたのでした。
さらに「ヨス」からは「寄(よ)す」「寄(よ)せ」が生まれた。「寄す」には使い方によって、呼び集める、一箇所に集める、という意味があり、ヨサブはカナンにおいて、ユダの民やカナン先住民達を呼び集めた人でした。「寄せ」には、人が望みを託するという意味があり、ヨサブは列島ユダの人々の望みを託されて船出したのでした。(2.9.)
「ヨ」は既に触れたので「サブ」には「寒狭(さぶさ)山」(愛知)、「寒長根(さぶながね)山」(岩手)、があり、この山の名が作られたとき「寒(さぶ)い」が生まれ、後に「寒(さむ)い」とされたと思われます。
ヨサブは列島に住み始めた時、生まれて初めての冬に非常に寒がった人であった?。
他に「佐分利(さぶり)川」(福井)、「佐武流(さぶりゅう)山」(新潟、長野)があり、この時に「侍(さぶらひ)」が生まれ、後に「さむらい」となったと思われます。そして、「侍(さぶろ)ふ」、「候(さぶろ)ふ」が作られたと見られますが、「候(さぶろ)ふ」と「候(さうらふ)」は本来は別の成り立ちであったものが後世に混同されたと見られます。
サブを「サビ」とした語彙に「錆・銹・?(さび)」が出来、後に「荒(さび)」「寂(さび)」が出来たと思われます。
語彙は「身から出たさび」とも使われています。
日本神話では、天照大神が、保食神を剣で撃ち殺した月読尊を大いに怒り、もう会いたくないと月読尊とは、昼と夜とに分れて、交代に住まわれたとあります。(『古事記』では須佐之男命になっている)
これは実際にあったことを元にして編まれた神話であるように思われます。
恥を懼れたヨサブはエドム人の一人を手にかけたのでした。これがヘフジバを怒らせ、エドム族の顰蹙を買う事になり、ヨサブは半ば周囲からは浮いた存在となったのでした。
『イザヤ書』にあるイザヤの長子としてのヨサブの名は「シャル・ヤシュブ」で「残りの者は帰る」の意味です。ヨサブが列島からカナンへ帰還した人であることが、ここからは知られます。
ヨサブがヘフジバらの書簡をカナンへ持ち帰り、イザヤの許で文書をまとめ、また列島へ戻って来ようと思えば出来た筈でした。が、列島におけるエドム人との上記の一件が、ヨサブに列島へ戻ることを断念させた理由であろうと考えられます。(2.11.)

スサノヲ(須佐之男命)のイザヤ書名
その名は、第8章にあります。
《わたし[イザヤ]が預言者の妻に近づくと、彼女はみごもって男の子を産んだ。その時、主[ヤーウェ]はわたしに言われた、「その名をマヘル・シャラル・ハシ・バズと呼びなさい。それはこの子がまだ『おとうさん、おかあさん』と呼ぶことを知らないうちに、ダマスコの富と、サマリヤのぶんどり品とが、アッスリア王の前に奪い去られるからである」。》(『イザヤ書』8章3〜4節)
この記述は、スサノヲが北イスラエルとアッシリアの戦乱の最中に生まれた人であることを伝え表しています。
「マヘル・シャラル・ハシ・バズ」は「分捕り物は速やかに、戦利品は急いで」の意味で、このヘブライ語彙は日本語の中に取り入れられています。
この四つの語から造語された語彙は、主に列島内で生じた移住者仲間の反乱におけるスサノヲらの行動と結び付けられて解釈造語されたようです。
「マヘル(「急ぐ」の意)」そのものはなく、主に「まほる」と母音が替えられ、濁点が加えられて「守(まぼ)る」が作られ、後に「守(まも)る」となる。彼らはひたすら守るために闘った。
「マハラ」と替えられた音に濁点を加えて「疎(まばら)」が出来た。反乱者との争いで、メンバーは大幅減となり、人数は疎らとなったことから連想造語された語でしょう。
「マフル」からは「塗(まぶ)る」「塗(まぶ)す」が生まれ、後に「塗(まみ)れる」となった。戦闘でみな泥塗れになった。
「まほる」は貪り食うという意味ですが、戦闘後、空腹となった人々は貪るように食べた。(2.14.)
敢えてもう一つ「マヘル」から挙げるとすれば、動詞「負(ま)ける」があります。
「ヘ」の「ヘー(h)」を「コフ(kh)」と見なし、マヘルをマケルと呼んで「負ける」に充てたと見られます。
どうしてそうしたのかと言うと、動詞を語尾変化させて連用する場合に、マケルはマヘルの不都合を解決することが出来たことによると思われます。他に「蒔ける」「捲ける」「播ける」が生まれ、後に「蒔く」「捲く」「播く」となった。(2.24.)
「シャラル(「戦利品」の意)」に似た音は「セ・ラル」ですが、古文では「せ」と「らる」は、それぞれ助動詞として使い分けられています。
「しゃらる」から作られたと思われる音に「さらり」「ざらり」があります。
「シャ」が「サ」とも「ザ」とも表記出来る音であることから、「さらり」「ざらり」は、シャラルから作られたことが窺われます。「さ」「ざ」の違いのみで音から受ける印象は変わりますが、音の元は同じ語から発したもの。さっぱりした、とどこおりのない、あとを残さない、といった意味に集約される語となったようです。
当時の人々は、どのような語であれ、自分たちが使い慣れていた語を形、意味を変えてでも、日本語の中に取り入れて、二音節の原則を踏まえながら、使かい継ごうとしたようです。
「ハシ(「ハシュ」とも、「速やか」の意)」からは、訳の意味に最も近い「疾(は)し」がありますが、スサノヲは愛すべき人であったか「愛(は)し」が作られた。他に「橋(はし)」「端(はし)」「梯(はし)」「階(はし)」「嘴(はし)」「箸(はし)」が造語されたと見られます。
地名としては「橋本(はしもと)市」(和歌山)、「橋本(はしもと)川」(山口)、「階上(はしかみ)町・岳」(青森)、「端島(はしま)」(長崎)、「端(はしわ)島」(山口)、等。
さらに「走(はし)る」「奔(はし)る」が作られたと見られます。速須佐之男と表記されているようにスサノヲは速くよく走った。地名に「走(はしり)島」(広島)があります。
そして、「柱(はしら)」が出来た。頼りになる人を柱とも言うので、ヨサブが列島を離れた後は、スサノヲが民の柱となったことを示した造語と見られます。地名に「柱(はしら)島」(山口)、「柱(はしら)岳」(熊本)、「柱ヶ森(はしらがもり)」(愛媛)がありますが、「はし」の付く地名で山口県が目立つのは、スサノヲの子孫が「須佐氏」として住み着いていたことによるのでしょう。
「艀(はしけ)」も「ハシ」から作られた語の一つと思われます。
「バズ(「分捕物」の意)」には、馬の爪を鼈甲の代用にした「馬爪(ばず)」があります。
古文で「ば・ず」は、「及ばず」「選ばず」「遊ばず」「転ばず」「運ばず」のように未然形助動詞の否定に用いられ「ず」は分けられています。
「触る」の場合には「触らず」となって「ばず」とはならないので、文法上の「ば」「ず」は「及ぶ」「選ぶ」などの限定された動詞に「ばず」が入り形成されるよう、工夫されたものと考えられます。
地名としては「不忍池(しのばずのいけ)」(東京・上野)があります。(2.14.)

祈りの家の王家
56章7節は、列島で再建されるユダ王国の王家について述べたものと見られます。
ヨサブがこれを記述していた頃には王国はまだ形にはなっていませんでしたが、神の予言として告げられていることから、この王家に関する予言は実現したと見ることが出来ます。
《7.「わたし[ヤーウェ]はこれ[契約を結んだユダやカナンの民達]をわが聖なる山[東の地の果ての列島]にこさせ、わが祈(いのり)の家[列島ユダ王家]のうちで楽しませる、彼ら[王家]の燔祭(はんさい)と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。
わが家[列島ユダ王家]はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。》
(『イザヤ書56章7節』)
列島で再建されたユダ王家ではその建国の年から、祈りと、そして燔祭と犠牲が奉げられたと見られます。これはカナンの南ユダ王国からの伝統を引き継いだ形で、紀元前660年(皇紀元年)から始められたと見なせます。当時、まだ日本とは呼ばれていませんでしたが、この年が「日本書紀」の記す日本の始まりです。神武天皇即位の年とされていますが、神武天皇が生まれるのはこの八百数十年後です。
列島のユダ王家は「祈りの家」と呼ばれ、その伝統は大倭王家に継承され、さらに改新日本国となってからは天皇家に引き継がれたのでした。「燔祭と犠牲」は日本国以後、「祭祀(さいし)」と呼ばれるようになり、天皇家の祈りと祭祀の伝統は継続され、今日にまで至っています。
ヤーウェ神の祭壇はヘブライ一掃によって、或るものは受け継がれ、或るものは廃止され、その祭祀の形式は様々に改められていったことでしょう。
ヤーウェ神は、古代イスラエルから南ユダへと脈々と連なる神の国の流れを、ヘフジバの列島ユダ王国へと、その伝統を移し替えたのです。神の国の流れは、列島へと大きく向きを変え、それは巨大な潮流となったのでした。
さらにこの後、次の予言が加わります。
《イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたし[ヤーウェ]はさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。》(『同上』56章8節)
さらに集められる人とは、この時既にアッシリアの捕囚となっていた北イスラエルの人々を指すことは言うまでもないことでしょう。この予言が語られたことにより、列島移住のユダとベンヤミンの民は、北イスラエルが移住して来ない前に、列島イスラエルの定位置、宮崎、大分にと住み着くことが即座に優先出来たのでした。
祭壇を置いて「燔祭と犠牲」が行なわれることが決定していたのであれば、ヨサブは移住前に祭司族であるレビ人とも接触していて、列島での再建計画に加わるよう誘ったであろうことが推察されます。しかし、このレビ人は不発に終ったようです。
『古事記』ではイザナギ・イザナミ二神が水蛭子を葦船で流し棄てた後、淡島(あわしま)を生んだが御子の数には入れなかったとあります。『日本書紀』では、淡路洲(あわじしま)を生んだが不満足な出来であったので、吾恥島(あはじしま)とも呼んだ。
ヨサブが呼びかけてやって来たレビ人には人々が期待したような協力が得られなかったということでしょうか。(2.15.)

ヨサブが連れて行こうとしたカナン先住諸支族
ヨサブが列島へ連れて来たカナンの先住民はエブス人に限らず、ペリシテ人も加わっていたとしましたが、ではイザヤやヨサブが神から連れて行けと命じられた異邦人にはどのような種族がいたのでしょうか。
その主な対象となったのは、アブラハムとの契約に基づいて、イスラエルから追い立てられることになった諸支族であろうことは疑いのないところでしょう。
それを知るにはまず、神とアブラハムの契約について知る必要があるようです。その内容は次のようにあります。
《その日、主[ヤーウェ]はアブラム[アブラハムの前の名前]と契約を結んで言われた、「わたし[ヤーウェ]はこの地をあなた[アブラム]の子孫に与える。
エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。すなわちケニびと、ケニジびと、カドモニびと、ヘテびと、ペリジびと、レパイムびと、アモリびと、カナンびと、ギルガシびと、エブスびとの地を与える」。》
(『創世記』15章18〜21節)
この契約書には、子孫の民に強奪させてでも土地を与えるとは書いていないので、ヨサブはここに述べられ、追い立てられた民について留意し、恐らく、イスラエルによって強奪された民を連れて行こうと考えたのではなかったでしょうか。
そして、エブス人と折衝し、同意を得た。が、エブス人にはそれぞれ別の種族から得た三人の妻があり、その妻方の親族も同道することになった。その結果、ヨサブはエブス族一つで、都合四つの支族を連れて行くことになったのです。
「古事記」には、イザナギ・イザナミ二神国生み神話で、四国を「身体は一つで顔が四つある島」としています。九州もこれに数えられています。これは国生み神話としての話であって、その基となるのは一つの家族で四つの支族を言ったものと思われます。
この時代のカナンでは他の支族から三人の妻を娶ることはごく一般的に行なわれていたようなのです。
例えば、エドムの祖といわれるエサウは、イシマエル族、ヘテ族、ヒビ族、とそれぞれの支族から、つまり十二支族以外から妻を娶っているのです。これが、エドム族がイスラエル十二支族とは距離を置くことになった最初の原因なのでしたが。この慣習は三人の妃を娶る上古天皇(大王)の時代へと受け継がれていき、太子もこの慣習に則って、妃を娶ったのでした。
ヨサブは、この神とアブラハムの契約に名前のある支族に折衝していくに及んで、一つの支族から三つ、さらに三つと増えていき、結果として契約に名前のない支族をも、連れて行くことになったのです。これは日本の地名や、造語された語彙から、それらを窺い知ることが出来ます。

大八洲国とユダ王国圏
イザナギ・イザナミ二神の国生み神話によって、大八洲国(おおやしまのくに)が誕生したのでしたが、この大八洲国は当時のユダ王国民の生活圏、王国の統治の及ぶ範囲を示したものと捉えられます。
大八洲国は通常、淡路州(淡路島)、大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま)(大和)、伊予二名洲(四国)、筑紫州(九州)、億岐洲と佐渡洲の双児(隠岐島と佐渡島)、越洲(北陸道)、大洲(周防の大島)、吉備子洲(備前の児島半島)の八洲を指しているとされています。
「古事記」のイザナギ神話には「越洲」がないので、この場合の越洲(新潟)は佐渡島が流刑された囚人の矯正労働の島として早くから用いられていたことや、また越洲には既に、エドムが住み着いていたので、監視の衛兵を置いたに留まっていたと見ます。
従って、入殖し統治されていた大八洲国の最北は、大日本豊秋津洲(「古事記」では「大倭豊秋津島」となっている)とされた大和地方ということになります。この大和地方以北の土地が国民で占められるようになるのは北イスラエルの民の移住後であろうことが容易に推察されます。
そして、この八洲の中には、山陰地方が含まれていません。これは当時の山陰がエドム(出雲)によって統治されていたことにより、大八洲国には加えられなかったからと考えられます。
ヨサブらが連れて来た民は、ユダ、ベンヤミンのほか、北イスラエルからは、若干のレビとナフタリが含まれていたと見られますが、恐らく10を超えるカナン諸支族が加わるという大所帯であったでしょう。このレビとナフタリは、アッシリアの捕囚からは免れた人々です。
北九州へ到着後、南へ、そして北東へと住み着いて行き、四国、淡路島、大和地方へと至ったのではないでしょうか。山陽地方には、当初エドムを刺激しないよう、遠慮したこともあって、四国から瀬戸内海を越えて、山口県の大島、岡山の児島半島に入殖するのがせいぜいだったのではないかと思われます。
大八洲とは、ユダとエドムが統一併合される以前のユダ王国の勢力図といえます。
九州には主にユダ、ベンヤミンとカナン諸支族、四国にはカナン諸支族とナフタリ、淡路島にはレビが住み着いたと思われます。吉備子洲にはベンヤミンが入殖し、大和地方にはカナン支族が定住して、秋津洲の司であったユダの秋津日子の下、土地の開拓、開墾が進められたと考えられます。(2.23.)
越(こし)はエドムですから、大八洲国の中に「越洲」(北陸道)が載っているということは、ユダ王国が形成され始めたこの時代に、エドムは山陰地方から、福井、富山、新潟にかけて、既に入殖していたことになりましょう。(3.10.)

カナン諸支族の列島来住
アブラハムの契約の中にあるカナン諸支族のその多くはイスラエル建国前に関わりを持った支族で、建国後はその名はあまり出てきません。
その来住の可能性について、地名、語彙などにその痕跡が見られると思われるものを追ってみることにします。
まず、ケニ人。
カナンの子孫の一支族で、『士師記』には「モーセのしゅうとであるケニびとの子孫」とあり、十二支族との付き合いは古いらしく、ヨシュア死後、ケニ人はユダの民と共にカナン南部のネゲブにやって来て、アマレク人と共に住んだのでした。
サウル王は、アマレクを攻略する時に、ケニ人をアマレク人から離れさせておき、アマレクを滅ぼしたのでした。ケニ人は、出エジプト後のイスラエルに親切してくれたというのがその理由だったようです。
王となる前のダビデは、戦利品としての分捕り物を、ケニ人の町々にいる人々に贈ったとあります。それ以前に、ケニ人のネゲブを襲ったこともあったらしい。これらは『サムエル記上』にあります。
『民数記』24章には、ヤーウェ神の託宣を行なったペトルの占い者バラムの言葉として、ケニ人に向けて「お前のすみかは堅固だ、岩に、お前は巣をつくっている」の語句があります。
ここから、太子は蟹を思い浮かべ、「ケニ」の音を「カニ」と替えて「蟹(かに)」の語彙を作ったと見られます。
地名には「蟹江(かにえ)町」(愛知)、「蟹田(かにた)町」(青森)、「可児(かに)郡」「可児(かに)市」(岐阜)があります。
「ケニ」を古文に用いている例として「異(け)に」があります。音がどうあれ、漢字が意味を伝えています。
そして、ケニの子孫にハマテがありますが、この名はアブラハムの契約の中には出てきません。
ケニ人がカナン南部に住み着いたのに対して、ハマテ族はそれより古くから北部に住んでおり、シリアの一都市の名として知られていました。
ケニがヨサブと共に移動するのに伴って、一部のハマテが加わったと見られます。
ハマテからは「浜(はま)」が作られ、ハマの地名では「浜名(はまな)湖」「浜石(はまいしが)岳」(静岡)、「浜玉(はまたま)町」(佐賀)、「浜瀬(はまのせ)川」(宮崎)、「浜益(はまます)岳」(北海道)、「浜比嘉(はまひが)島」(沖縄)他、があります。
マテに充てた地名としては「蟶(まて)山」(青森)があります。
「蟶(まて)」とは、蟶貝(まてがい)のことで、蚌貝(からすがい)や蛤(はまぐり)とは親戚らしく、当て字には「馬蛤貝(まてがい)」として蛤を入れたものと「馬刀貝」と書くものとがあります。和名は「末天乃加比」。「蟶」は蛤のハマと関連付けられて造語されているのが判ります。
ケニとハマテの親族同士で、「蟹」と「浜」「蟶」が生まれたわけです。
ケニとハマテが共にやって来たとすれば、まず佐賀県と宮崎県のあたりに住み着いたと見られます。

次に、ケニジがありますが、ケニジはケナズ人(ケニズとも)の意味です。
ケニジの祖がケナズという人で、ケナズはエサウの子孫、つまりエドムの人です。ケナズは十数族あったエドムの族長の一人でありました。
ケニジからは「ニジ」が採られ「虹(にじ)」が作られました。地名としては「虹(にじ)ノ松原」(佐賀)があります。
ケニジで最も知られた人に、ケニズ人エフンネの子カレブがあります。
出エジプトからカナンの地にいよいよ入ろうとした時期に、ユダ部族の司を任され、神の声を伝えるモーセによって、ヨシュアと共に神に祝福された人でした。
ケニジ族であるにも関らず、ユダ族の司としてカナンに入植する事になったカレブに対して、太子は大いに関心を抱いたことでしょう。何故、カレブは神に祝福されユダの司とされたのか。
カレブからは、代名詞の日本語彙「彼(かれ)」が作られたと見られます。
ケニジの名は、イスラエル建国以後は殆ど、聖書には出てきません。虹のように現われ、消えていった民を象徴していたのがケニジやカレブであったのでしたが、『民数記』には次のようにあります。
《モーセはガドの子孫とルベンの子孫とに言った、「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主[ヤーウェ]が彼らに与えられる[カナンの]地に渡ることができないようにするのか。―略―
そこでその時、主は怒りを発し、誓って言われた、『エジプトから出てきた人々で二十歳以上の者はひとりもわたし[ヤーウェ]がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従わなかったからである。ただケニズびとエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアとはそうではない。このふたりは全く主に従ったからである』。」》
(『民数記』32章6〜7、10〜12節)
このことが起る以前にモーセは、十二支族それぞれに代表を出させてカナンの地を探りに行かせたのでした。シナイ半島に待機していたイスラエルの人々は、カナンの様子を悪く言う彼らから聞くに及んで、意気消沈していき、これならエジプトにいた方がましだった、エジプトへ戻ろうと言い出す者が出た。このことから、前出、神の怒りの声が発せられたのです。
探りにいった代表者達は屈強そうな先住民を見て、みな意気阻喪して帰ってきたものの、カレブとヨシュアとはそうではなく、カナンへ向かうことを望み、土地の良いことを人々に説いたのでした。
カレブのケニズ族は、かつてのエブス族同様、神の義務を蹴った人々の子孫でした。
カレブはヤーウェ神の言うことに聞き従ったとは、つまり、これが神の側にしても、イスラエルの側にしても、特筆すべき、もう一つの喜ぶべき事柄であったのです。
ケニジには知られたもう一人、カレブの弟ケナズ(祖と同名)の子、オテニエルがいました。
イスラエルの民がカナンへ住み着いた後、ヤーウェ神を等閑にして先住民の偶像神に傾いたことがあって、その後、メソポタミヤ王、クシャン・リシャタイムの支配下に入ってしまいました。
ヤーウェ神は怒り、ケニジのオテニエルを立てて、イスラエルの民を呼び、オテニエルを通して、イスラエルを裁いたのでした。
神が入ってその守護下にあったオテニエルは、メソポタミヤとの戦闘に出ると王はオテニエルの手に落ち、イスラエルをクシャン・リシャタイムの手から奪い返しました。
オテニエルは、まだ王がいなかったイスラエルの王の代理を果たしたのでした。つまり、カレブもオテニエルも、ユダ族やイスラエルの民にとって恩人だったわけです。
オテニエルは「オテ」「ニエ」と分けられ、地名としては「小手(おて)島」(香川)、「小豊(おで)島」(香川)があり、「大天井(おてんじょう)ヶ岳」(奈良)があります。
「ニエ」には「贄(にえ)湾」(三重)があり、オテニエルからは「贄・牲(にえ)」の語彙が作られたと見られます。
「ニエル」からは「煮(に)える」が作られ「煮る」が出来た。さらに「似(に)る」が作られる。(3.9.)
また、後にニエからは日本刀の「沸・錵(にえ)」が作られ、「匂(におい)」「匂(にお)ふ」「臭(にお)う」が作られたと見られます。
「ニエ」には「贄波(にえなみ)」(宮崎)、「仁江(にえ)」(愛媛)、「贄川(にえかわ)」(長野)があります。
ニエを「ニオ」とした地名には「二王座(におうざ)」(大分)があり、「二名(にみょう)」(愛媛)と同様、二王とはカレブとオテニエルを指したものと思えます。
他に「仁尾(にお)町」(香川)、「仁王丸(におうまる)」(福岡)があります。ニオを「ニョウ」とした地名に「饒(にょう)」(愛媛)があります。
「ニイ」で始まる地名は全国で見られますが、まず「仁位(にい)」(長崎)、「新居(にい)」(高知)(香川)、「新治(にいはる)」(福岡)、「新木場(にいこば)」(佐賀)、「仁井田(にいだ)」(高知)があります。
「ニウ」には「ニュウ」とした音とがあります。「丹生宮(にうのみや)」(熊本)、「仁宇(にう)」(徳島)、「丹生(にゅう)」(大分)、「入下(にゅうした)」(宮崎)、「新田(にゅうた)」(宮崎)、「入田(にゅうた)」(高知)、「入田(にゅうだ)」(大分)、「入覚(にゅうがく)」(福岡)、「入野山(にゅうのやま)」(香川)と。

カレブの「カレ」からは「彼(かれ)」のほかに「枯(か)れる」「涸(か)れる」が生まれ、レブはレフと清音化され、「う」音が加えられて「憂(うれ)ふ」「愁(うれ)ふ」となったと思われます。
「憂ふ」の相対する語として「嬉(うれ)し」が生まれたと見られます。
地名に「干飯(かれい)崎」(福井)、「鹿嶺(かれい)高原」(長野)、「枯木(かれき)山」(福島、栃木)、「枯松(かれまつ)山」(山形、新潟)、「嬉野(うれしの)町」(佐賀、三重)、があります。
また、カレブの音順を入れ替え、カブレとして「被(かぶ)れ」が出来、「気触(かぶれ)」が作られて「気触(かぶ)れる」となり、ウレシから音を変え「漆(うるし)」が作られたと見られます。「漆の木に触って気触れる」と言われるようになった。
ケニジの祖、ケナズは清音化され「貶(けな)す」が作られ、さらに使いこなす、などに使われる「熟(こな)す」が作られたと見られます。
地名としては「毛無(けなし)」(徳島)、「毛無(けなし)山」(広島、長野、青森、北海道)があり、「毛無(けなし)森」は岩手に三ヶ所あります。
ケニジから二音節入れた地名に「見地(けんじ)」(大分)があり、「現王島(げんのうじま)」(宮崎)もその一つでしょう。
ケニジからは「虹(にじ)」が作られ、地名に「虹ヶ丘町」(佐賀)、「虹が丘町」(長崎)が出来た。「廿代町(にじゅうだいまち)」(高知)は、前出『民数記」の中の「二十歳以上の者」云々の話と、カレブのケニジとを掛けて作られた地名とも思われます。ここから「二十人町」(宮城)のような地名が生まれていったのでしょう。
ニジを発展させた動詞として「滲(にじ)む」「躙(にじ)る」が作られたと見られます。そして、ニジムから「馴染(なじ)む」が生まれ、ニジルから「捻(ねじ)る」「捩(ねじ)る」が生まれる。
一方、ケナズの「ナズ」からは「薺(なずな)」が生まれ、「懐(なず)く」が出来て、後に「懐(なつ)く」となった。また古文では「泥(なず)む」が作られ用いられた。
ナゼと母音を替えて「何故(なぜ)」が生まれ、地名「名瀬(なぜ)」(鹿児島)が出来た。ナゼからはさらに「撫(な)ぜる」が生まれ、後に「撫でる」となった。
さらにナズはナゾとして「謎(なぞ)」が生まれ、地名「奈曾(なそ)川」(秋田)が出来た。古文で「ナゾ」は「何(な)そ」「何(な)ぞ」等に用いられ、助詞の「等(なぞ)」は後に「等(など)」となった。ナゾからは「なぞる」が生まれた。
ここで、「詰(なじ)る」が作られたであろう「ナジル」が出てこないのはどうしてか、と言われる読者もあるかも知れません。実は「士師記」の時代には、ナジルびとと呼ばれる存在がありました。誓願を立てて神に献身した人をナジルびとと呼んだのです。(大概は神の側が選んだ)
サムソンとデリラの話で知られたダン族出身の怪力サムソンは、そのナジルびとの一人に数えられていました。ナジルは「聖別する、専念する、身を委ねる」の意味がこもった動詞「ナザル」から作られた語で、生まれた時から神に捧げられたナジルびとサムソンとして「士師記」には記されています。
王がまだいなかったサムソンの時代のイスラエルは、ペリシテの支配下にありました。ヤーウェ神はサムソンに力を与え続け、サムソンを通してイスラエルを裁きました。サムソンは20年間イスラエルを裁いたと「士師記」にはあります。サムソンはイスラエルへの批判を通して、イスラエルをペリシテの呪縛から救ったのでした。物語では、ナジルびとサムソンは、自己の身を犠牲にしてペリシテを滅ぼし、イスラエルを救った形になっています。
サムソンの「サム」からは「冷(さ)む」「醒(さ)む」「覚(さ)む」「褪(さ)む」が出来、後に「冷める」「醒める」「覚める」「褪める」となった。
また「寒(さむ)し」が作られた。そして、「寂(さむ)しい」「淋(さむ)しい」が作られ、後に「さみしい」となったことにより、「寒(さぶ)い」と「寒(さむ)い」、「寂(さび)しい」と「寂(さみ)しい」の二通りの読み方が出来るようになったと見られます。
ヨサブとサムソンからは合せて、二種類の読み方が作られることになったのです。(3.17.)
ケニジ族は、ユダ、エドム統一前の大八洲国時代、既に九州から四国に住み着いていたのではなかったでしょうか。

カドモニ(カデモニとも)人(びと)の名前は、『創世記』のアブラハムの契約の中に一箇所あるのみで、聖書の他のどの部分にも出てきません。そもそもカドモニとは、特定の支族を指した名前ではなく、「東方人」といった意味しかなく、「カドモニ」とは通常カナン東部の人々と考えられているようです。
「カドモニ」は地名としてのそれらしきものはまだ見出していませんが、日本語彙の中には組み込まれています。
カドモニの従母音「アオオイ」(カデモニなら「アエオイ」)を「ウアオオ」と替えた音が「クダモノ」で「果物(くだもの)」となったと見られます。さらに「エアオオ」として「獣(けだもの)」が生まれたと見えます。
発音の似た語彙として「門守(かどもり)」がありますが、こちらは成立経緯が異なるものの、或る意味で真実を突いているようにも見えます。
このカドモニの地とは、本来日本列島を指したものであろうと筆者は推測するわけです。
このアブラハムの約700年後、イスラエルの民はカナンへ住み着いており、いよいよ王を戴くという時にヤーウェ神はヨブを興してエドム族を列島へ渡らせ、その400年後に南ユダとカナン人の移動という運びになったのでした。
アブラハムの時代の日本列島は、野生の果物に満ち、先住民達は獣のような生活をしていても、山の幸、海の幸に恵まれ、温泉にも入り、比較的満ち足りた生活をしていたのでしょう。
それよりも、大事なことは、神の国の大王を恒常的、安定的に置く上で、大陸極東の日本列島は好条件を備えていたという点です。カナンの地に大王を置くことは、非常に不安定な情況に絶えず晒されることになります。それが証拠に、古代イスラエルは、サウル、ダビデ、ソロモンと三代続いた後、分裂し、不安定な状態を続けた後、消滅したことは周知の事柄です。
列島ユダ王国の再建とは、生ける神と繋りある大王を恒常的、安定的に置くための建国であったと言えます。カナンの地よりも、日本列島の方が、大王を置く立地条件としては遥かに優れていたのです。神の側では早くから、アブラハムの頃からその心づもりがあったと考えられます。
後に、北イスラエルの民の移住によって、古代イスラエルと構成支族が同じ大倭イスラエルが誕生となったのでしたが、それは大化改新までの間、約1000年続く。カドモニを思わせる「門守」とは、本来、その列島イスラエルが天国への門衛を意味している言葉として、造語されたのではなかったでしょうか。としますと大倭の朝廷では、アブラハムの契約に記されたカドモニの地とは大倭列島のことであると認識していたことになるでしょう。(3.20.)

神鳥谷と蜂…ヘテ=ヒッタイト
福島県に「額取(ひたいとり)山」という名の山がありますが、読者はこの山の名前から何を連想されるでしょうか。
額を取る、つまり、ダビデによって石を額に命中させられたゴリアテか、或いは、剣道の試合中、竹刀で額を一本取られた剣士か、人それぞれと思われます。そのどれかからイメージされ「額取山」の命名が生まれたと考えるのではないでしょうか。
では、この「ひたいとり」という音自体はどこから出て来たのでしょうか。
「ひたいと」までは「ヒッタイト」から取った音です。「ひったいと」から「額(ひたい)」の語彙が生まれたということです。
ヒッタイトとは、古代オリエントの歴史から忽然と姿を消したといわれたあのヒッタイト帝国のことです。
三角錐の帽子と爪先が上に大きく曲がった長靴で知られたヒッタイト人は、聖書では「ヘテ」と表記され、カナンの子孫とされています。アブラハムの契約には「カドモニ」の次にこの「ヘテ」が出てきます。
アブラハムは、カルデアのウルから北メソポタミヤのハランへ移動した際にヒッタイトから土地を買ったといわれ、亡き後、骨を埋めたのもヒッタイトの土地でした。
その興りは、紀元前2000年頃に遡り、大帝国を築いた後、前1200頃、終焉を迎えたとされています。その後、その遺風を継ぐ人々が現われ、これは新ヒッタイトと呼ばれたのでしたが、シリアに都市国家を築いていたものの、前709年にアッシリアの支配下に入ったのが最期で、その後、その言語や文化は衰退し、消滅してしまったと伝えられています。
アッシリアは北イスラエルを収奪したその直後、ヒッタイトを支配下に置いていったのでしたが、その頃のヒッタイト人には独立しようという気概は失われていたといわれています。
一方『民数記』には、イスラエルの民がカナンへ入植する直前のヘテ人は、ネゲブ(死海西側の中南部)の山地に住んでいたとあります。これはエドムと隣接した土地で、ヘテとエドムの付き合いはアブラハムとその子イサク、ヤコブの頃からですから、エドムと共に南へ移動してきた親族とも思えます。
そして、『出エジプト記』には、モーセに言われた神の言葉として「わたし[ヤーウェ]はひとりの使(つかい)をつかわしてあなたに先立たせ、カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを追い払うであろう。」があり、他の箇所にもこの言葉は何度か出てきます。ここでヘテ人は、改めて追い払われる民の中に加えられています。
ところが、ソロモン王の時代のイスラエルではこの民は追い出されることなく、イスラエルの子孫が滅ぼし尽くさなかった民として、ヘテ人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の名が挙げられ、ソロモン王によって工事のための強制徴募が行なわれていたと伝えています。
ヒッタイト帝国が隆盛へ向かい攻防を続けている間に、ネゲブへ移動して来たヘテの子孫達としても、シリアのヘテがアッシリアの支配下に入ったことは、大きな打撃であったことでしょう。
この時から、ヘテは国無き民として、北イスラエルとは同様の境遇となったのでした。
この時期にヨサブはヘテ人に移住を呼びかけたのではなかったでしょうか。
ただ、ヨサブが列島へ連れて来た民は、『エズラ記』にもその記載があるように、すべてのカナン人というわけにはいかなかったようです。
同書では、南ユダの民がバビロニアに連れ去られた際に、一部の高位聖職者達が異邦人と婚姻を結んだことが批判の対象となっており、そこには、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモリ人、アンモン人、モアブ人、エジプト人の名が挙げられていることからもそれが覗えます。
ペルシャによって捕囚民達が解放され、一緒にエルサレムへ帰還することになったカナン人のすべては、ユダヤ教の戒律に従って離縁させられたのでした。
カナン人達が南ユダのバビロン捕囚の巻き添えを食って、一緒にバビロンへ行く破目になったことからしても、それ以前の列島移住のカナン人達は幸運に恵まれていたと言えましょうか。
ただ、その幸運の前には大陸横断という高いハードルを越えなければなりませんでしたが。
アナトリアにあったヒッタイト人の国は「ハッティ」と呼ばれていました。
太子は、列島へ渡来したヘテから得ていた様々な情報から、このハッティを「蜂」に充てることにしたのです。五十音に直した「はっち」から「蜂(はち)」が生まれたのです。
出土した粘土板文書の解読から知られるヒッタイト神話では、「蜂」は重要な役割を果たしており、またヒッタイト人達の女祭司の下で行なわれた清めの儀式の際には、蜂蜜と香料が使われたとされています。
ヒッタイト神話の中の「テリピヌ神話」では、猛烈に怒り狂い、出奔して姿を消し、居場所の判らなくなったテリピヌ神を、「蜜蜂」が草原で見つけ出し、寝ていたテリピヌ神の眠りを覚まそうと手と足を刺し、テリピヌ神を飛び上がらせた、という場面があります。
その前には、「鷲」がすべての高い山、深い谷、水の底を探したのでしたが見つけ出せなかったのでした。遂には「女神カムルセパ」の説得によって、家に帰ることを承知したテリピヌ神が家に戻ると、荒れるままに打ち捨てられていた国土は蘇えったのでした。
この神話から作られたと想定される地名が「神鳥谷(ひととのや)」(栃木)です。
「ひとと」はヒッタイトから一部母音を替え短縮した音です。神話から見て足りないのが「蜂」で、ハッティを「蜂(はち)」に造語したことで補われたと見られます。地名に「神鳥谷」と同じ栃木県に「蜂巣(はちす)」が、そして「蜂屋(はちや)」(岐阜)があります。
さらに加えられたと思われるのが「日鷲谷(ひわしだに)」(香川)ですが、「日田(ひた)」(大分)同様に、「ヘテ」は改新日本を一早く支持表明した氏族の一つではなかったでしょうか。
「日田」には他に「日田(ひだ)」(鳥取)がありますが、「ヒダ(肥田)(飛田)(飛騨)」は「ヒエダ」の中間音を除いた形なので、ヒッタイトのヒタを入れた地名ではないでしょう。
「ヒタ」には他に「肥田(ひた)」(静岡)、「比田勝(ひたかつ)」(長崎)、「日滝(ひたき)」(長野)、「火焚(ひたき)崎」(長崎)があります。
「神鳥谷(ひととのや)」と同じ頃作られたと見られる地名に「小鳥原(ひととばら)」(広島)があります。
ヒッタイトの強い音のみを取ると「ヒタト」となるので、ここから「ヒトト」や「ヒタチ」「常陸(ひたち)」「日立(ひたち)」(茨城)が出来たと見られます。
さらに「ヒト」のみを入れた地名として「人見(ひとみ)」(群馬、埼玉)がありますが、この時にこの「ヒトミ」に漢字「瞳(ドウ)」を充て、日本語彙「瞳(ひとみ)」が生まれたと見られます。
人を見るのは瞳であるわけですが、恐らくその意味よりも、瞳そのものに重点が置かれた造語ではなかったでしょうか。それは列島へ渡って来たヘテ族の瞳の色が、他の支族とは異なっていたことによるでしょう。通常、ヒッタイト人は南西ロシアからアナトリア(トルコ)に移動して来たインド・ヨーロッパ語族といわれていますから、瞳の色が異なっていたとしても不思議ではありません。
大和地方では、聖徳太子は紫色の瞳をしていた、という伝説がまことしやかに伝えられていましたが、それが事実を伝えたものではないにしても、上古日本には、瞳の色の異なる人々が住んでいたことを口伝えにした伝承があったことは確かでしょう。それを非公式に民間伝承として、聖徳太子に充てて伝えようとしたのがこの話ではなかったかとも思えます。
これは、秦河勝が伝えたとも言われていますが、太子の頃には既に、ヘテ族の瞳の色は失われていたことでしょう。それでこの伝承が生じたとも考えられます。
朝廷としては一掃の原則に外れる内容である以上は、公式のこととするにはやはり、憚られたことでしょう。ヘテもヘブライ一掃の対象に含まれていたのです。
それぞれの支族が列島に定住を始めた当初に人々が宿していた遺伝子は、新たな自然環境に適応するべく、子孫達の混血も続き、生活が1000年、2000年と経過する内に、相当数失われていったことでしょう。
もう一つ、ヒッタイトの「額取(ひたいとり)」に似た地名に「八対野(はったいの)」(三重)があります。「タイ」二音節を入れた形。ヒをハ、トをノにすると「ヒッタイト」が「ハッタイノ」になるのが判ります。(4.5.) 似た地名に「払体(ほったい)」(秋田)
発音についてですが、朝廷ではヘテから得ていた音を五十音表記に直したところ、今日の西洋から渡来した発音の表記と同じ表記「ひたいと」「ヒッタイト」となったということです。
「ヒタ」は語彙としては「直(ひた)」が作られ「ひたすら」や「ひた隠し」のように用いられています。ヘテの率直、直情的な性質を表したのでしょうか。
聖書のヘテ人は「ヒッティ」ですが、五十音表記では「ヒチ」となり、作られた地名が「七呂(ひちろ)」(鹿児島)です。「七」を「しち」と読まず「ひち」と読むところがこの地名のポイントです。他に「七宗(ひちそう)町」(岐阜)、「小童(ひち)」(広島)、「火散布(ひちりっぷ)沼」(北海道)があります。
語彙としての「ひち」は、「ひちめんどう」「ひちくどい」などのように用いられ、「甚だしく」「ひどく」の意味がこもるようになったようです。粘り強い、しつこい性質?
「ヘテ」の発音そのものについては該当する語彙がなく、せいぜい「経(へ)て」があるのみですので、最初から発音は「ヘタ」とされ、その音が好まれたと見られます。
ヘタに充てた語彙には、茄子や柿の「蔕(へた)」、巻貝の「?(へた)」、波打ち際の「端・辺(へた)」があり、地名には「辺田(へた)」(佐賀、熊本、鹿児島、茨城)、「戸田(へた)」(山口)、「部田(へた)」(千葉)、があります。
「下手」は当初ヘテに充てられた漢字とも受け止められますが、後に「下手(へた)」と読む事にしたと思われます。ヘテは、或る事柄に対しては他の支族と比べ優れていたが、別の或る事柄に対しては目立って「下手」であったか。
ハッティ国の首都は「ハットゥシャ」と言い、万里の長城を思わせるような長い堅固な石造りの城壁に囲まれた城塞都市であったと言われています。
このハットゥシャから、ハットゥを「蜂」、シャを「巣」として地名「蜂巣(はちす)」が生まれたと見られます。城塞都市からは「蜂の巣」が連想されたのでした。
ハットゥシャから作られたと見られる地名には、他に「八斗沢(はっとざわ)」(青森)、「八塔寺(はっとうじ)山」(岡山)、「八斗木(はっとぎ)」(長崎)、「八洞(はっとう)」(兵庫)、「八東(はっとう)」(鳥取)、「服部(はっとり)」(大阪、三重、石川)があります。ヒタチに似た地名に「波立(はったち)」(栃木)があり、他に「八田(はった)」(福岡、京都、三重、愛知、福井、石川、山梨、千葉)、「八多(はった)」(徳島)があります。
「蜂巣(はちす)」からは「蓮(はちす)」が生まれ、後に中間音が除かれ「蓮(はす)」となったと見られます。地名に「蓮(はちす)」(長野)、「蓮(はちす)川」(三重)があります。
さらに蜂巣からは「鉢(はち)」が生まれたと見えます。地名に「鉢(はち)」(徳島、富山)、「鉢(はち)山」(長野、群馬)、「鉢巻(はちまき)山」(長崎)があり、蜂と鉢の共通した地名に「波知(はち)」(岡山)があります。
上向けにした蜂の巣、蓮の花、と鉢の形が似ていることから、ハチの音で共通した語彙としたのでありましょう。
小学校の運動会でよく使われるハチマキは、漢字で「鉢巻」と書きます。
頭に巻く布帛をどうして鉢巻というのでしょうか。頭を鉢に喩えて説明を試みることも出来そうですが、頭巻きと言えば早いのに、そう言わないのでまわりくどい説明になります。鉢とは額のことでもありました。
鉢巻は、基本的には「ハッティ巻き」を意図したものでしょう。太子の何故だろうと考えさせる含みを残した造語の巧みさには驚きますが、そこから前出の地名「鉢巻(はちまき)山」が作られたと見られます。
ヒッタイト人も日本の烏帽子と同様、丈長の三角錐の帽子を被る際に、鉢巻様の物を額に巻いて帽子がずり落ちないよう固定したのです。日本の場合も、烏帽子を被る時に鉢巻したのでしたが、顎に紐で結んで固定するようになってからはしなくなり、鉢巻は心身を引き締めるので、烏帽子とは関わりなく、単独で頭に巻くようになったのでした。ヒッタイト人の場合、顎紐らしき物は岸壁のレリーフに描かれていないので用いられなかったようです。
大倭の冠(かぶり)物、朝廷の官人のそれはヒッタイトの儀式的習慣の被り物を採用したものではなかったでしょうか。それがハッティ巻きの由来でしょう。大倭から改新日本国以後も、創造性豊かな多くのデザインの冠物が作られたのでした。(4.14.)
ヒッタイトの民間人は、頭をすっぽり包む半球上の帽子を被っていたとされ、その縁には帯上の物が縁取りするかのように巻かれていたようです。この半球状の帽子を鉢と見立て、帯をその鉢巻と見た場合、そう見られなくもありません。
ハットゥシャからは、他に語彙「鳩(はと)」が生まれたと見られます。地名に「鳩谷(はとがや)」(岐阜)、「鳩峰(はとみね)」(長野)、「鳩間(はとま)」(沖縄)他、があります。
「ハト」は語彙では他に「波戸(はと)」「波止(はと)」が出来、地名として「波戸(はど)」(佐賀)、「波止場(はとば)町」(兵庫)、「波渡(はと)崎」(山形)があります。
地名に「蜂」と「波知」、「鳩」と「波戸」、「蟹」と「可児」というように、二種類あるのは片方が発音を示していることによるでしょう。
さらに、ハッティからは「ハテ」が取られ「果(はて)」の語彙が作られ、地名に「果無(はてなし)山脈」(奈良、和歌山)、「ハテ島」(沖縄)があります。語彙「果(は)てる」が作られることによって地名「波照間(はてるま)」(沖縄)も作られたと見られます。
尚、ハッティからは地名「発地」が作られたと見られますが、これは「発地(ほっち)」(長野)と読まれています。他に「発知(ほっち)川」「発知(ほっち)新田」「東発知」「西発知」(群馬)があり、同じ群馬には「東蜂須川」「西蜂須川」があります。基本は二音節なので「ハッチ」と読むのが避けられ、促音を除いて「ハチ(蜂)」とし、促音を入れた音を「ホッチ」としたのではなかったでしょうか。「ホッチ」には他に「帆槌(ほっち)ノ鼻」(香川)があります。
「帆槌ノ鼻」は、ヘテ族の人々の鼻が他の支族と比べて、大きく特徴的な鼻をしていたことから付けられた名前ではないでしょうか。
「ホッチ」は「ホッティ」ですが、この音から促音を除いた形「ホテイ」に漢字の布袋が充てられ「布袋(ほてい)」が作られたと見られます。「ぬのぶくろ」とも「フタイ」とも読まず、「ほてい」と読むのはそれが理由です。地名として「布袋(ほてい)」(富山)、「布袋(ほてい)」(鳥取)、「布袋(ほてい)町」(愛知)、「布袋野」「布袋屋町」(京都)があります。
そうしますと、七福神の中の布袋和尚(ほていおしょう)は、中国大陸に定住したヒッタイトの子孫であることを伝えたものでありましょう。
布袋和尚は、唐末期から後梁の時代にかけて、四明山に住んでいた契此(かいし)という名の禅僧であったと伝えられています。
名前に「契り」が入っていますが、ヘテは他の支族と契りを結ぶのを好んだようです。
ヘテは、ヨサブらと同道したナフタリと何らかの契りを交わし、それを表わした地名に「発足(はったり)」(北海道)があります。ハッティの「ハッ(発)」とナフタリの「タリ(足)」です。
このナフタリは、この後に移住して来るナフタリと別けて、先ナフタリと呼ぶことにしますが、アッシリアに国を奪われたという点で、ヘテとは同じ境遇にありました。
両者の間では、互いに助け合おう、というような言葉が、道中、交わされたのではなかったでしょうか。そして、この契りは、他の支族からは大げさというか、その印象が今日的な意味でのハッタリと受け取られたのでしょう。ですが、二つの支族の契りは何かの生業を「発足(ほっそく)」させたのでしょうか。
ヘテは、この300年後に移住して来た北イスラエルの支族の中では、ヨセフと契りを結んだようです。それを示した地名が「人吉(ひとよし)」(熊本)と「鉢伏(はちぶせ)山」(兵庫、長野、石川、富山)でしょう。他にヘテとガドの「鉢形(はちがた)」(埼玉)、ヘテとマナセの「丸亀(まるがめ)」(香川)、ヘテとイッサカルの「一倉(ひとくら)」(鹿児島)、「一庫(ひとくら)」(兵庫)があります。
さらに、この四百数十年後にザブダイが移住してくると、ザブダイとも提携を結んだようです。
これは当初、孤立しがちであったザブダイを勇気付けたとも、考えられます。
ヘテとザブダイを示した地名に「鉢森(はちもり)山」(青森、岩手、宮城、山形)、「鉢盛(はちもり)山」(長野、北海道)、「八森(はちもり)」(秋田、青森)がありますが、「丸森(まるもり)」(宮城)もその一つと見えます。「モリ」は「物部守屋」から採った音でした。
契り、提携といっても、最初はそれぞれの小集団が住み着いた所で、決めた相手と互いに助け合って共同体を営もう、といった意味しかなかったと見られます。後に至ってからは、外敵が生じた場合に備える軍事同盟的な色彩をも帯びるようになっていった、とも考えられます。
支族間で互いに妻を娶りあい、混血が続けられていくことによって、ヘテ人の青い瞳の色は失われたのでしょう。(4.30.)
「払体(ほったい)」「払田(ほった)」(秋田)は共に、「カナンの地で追い払われた民」の意味を込めた地名と思われます。「払田(はらいだ)」(大分)は、読み直し命名でしょう。

ヒッタイト民族にとって、最も主要な神は「クマルビ」であったと見られます。
クマルビ神の舌の上に載っている種子から神々が生まれ出たとして、神々の神話が始まります。
種子の一つから生れ出たのは、嵐の神ティシュブ、二つ目はティグリス、三つ目はタシュミシュで、タシュミシュはティシュブの子分とされています。
察するに、クマルビはヒッタイトの草創期における指導者の一人で、後世にヘフジバから日本の天照大神のように、神格化された人と見られます。
また、出エジプトの指導者モーセのような存在で、存命中は霊媒の役割りを果たし、神の声やその意志をヒッタイトの民に伝えた人であったでしょう。
霊媒としてのクマルビの舌から出た神、即ちメッセージを出した霊としての神は、ティシュブ(ヤーウェ)、ティグリス(ダビデ)、タシュミシュ(ミカエル)で、主神ティシュブとティグリスは、ヤーウェ神とダビデの仮名で、双子の神です。ティグリスは、後世ティグリス河の名前となったのでした。
嵐の神の子分とは、主神の御使いのことで、タシュミシュは聖霊ミカエルの仮名です。タシュミシュは主神ティシュブの使いの聖霊でした。
他に、嵐の神、ティシュブの聖牛の名として、シェリ(サリエル)とフルリ(ガブリエル)の名が見出されています。シェリとフルリは、やはりティシュブ神の御使いであり、聖霊サリエルと聖霊ガブリエルの仮名であります。
また、天と地を高く支えている神ウベルリ(ウリエル)があります。この神はギリシャ神話のアトラスの影響を受けた存在と考えられているようですが、ウベルリとは初期ヒッタイト王国における一人の王の名前でありましょう。聖霊ウリエルの仮名ウベルリを、主神から王へ名として与えられ、後世神格化された人と見られます。存命中の何らかの事情によって、神話では天と地を支える神とされたのでありましょう。
ヒッタイトの人々の間では、双子の神についての認識は初期の頃には充分あって、双子神を模した置物が出土しています。前2000年頃の石灰岩に刻まれた双子の神像で豊作を願う儀式などに用いられたようです。
ヒッタイト美術では、粘土で作った双頭のアヒルや、石に彫り刻まれた双頭の鷲などが見られ、双頭は作品のモチーフとしてはよく用いられたといわれています。
古代ローマから、後代のヨーロッパ諸国に見られる双頭の鷲の紋章は、ヒッタイトが最も古い起源のようです。
前出のテリピヌ神話は、双子の神との関わり合いを伝えています。
テリピヌ神のもともとはウベルリ神同様に、初期の頃のヒッタイト王であった人が神格化され、神話の登場神とされたものであります。
神話で、テリピヌ神は怒りのあまり、右足に履く靴を左足に履き、左足の靴を右足に履いて出奔したと粘土板文書は伝えているのですが、これが何を意味しているかと申しますと、テリピヌ王の怒りは、双子の神からの指示を混同したことによる、ということを表しているのです。
恐らくは、王がダビデ(ティグリス)をヤーウェ神(ティシュブ)と思い誤ったままでいたことによる混乱、指示された事柄に対する対応を誤ったことによる混乱が、テリピヌ王をして神の指示に対する怒りとなり、その反動として職場放棄、王宮を飛び出すことになった。さらに放浪する間に、泣き面に蜂と思しき出来事が生じ、さらに怒るも、使いに宥められて王宮に帰る。王は職場に復帰して、国には平穏が戻った、といったところだろうと思われます。
双子の神は意志を同じくしているものの、出す指示は全く異なり、互いに正反対の指示を出すこともある。王がそれを知らない間は、振り回されることも生じたのでありましょう。

クマルビ神の名もやはり、他の例に洩れず日本語彙と地名の中に込められています。
クマルビを二音節毎に分けますと「クマ」「マル」「ルビ」となるのが判ります。
「クマ」からは語彙として「熊(くま)」「隈(くま)」が作られたと見られます。地名としては「隈(くま)」(福岡)、「熊(くま)」(静岡)があり、その音を表した地名として「久間(くま)」(佐賀)、「球磨(くま)」(熊本)、「久万(くま)町」(愛媛)があります。
有名な地名としては「熊野(くまの)」(大分、宮崎、鹿児島、島根、広島、京都、三重、石川)があり、「熊野川」(三重、和歌山、岩手)があります。
クマのヴァリとして、「久見(くみ)」(島根)があり、語彙として動詞「汲(く)む」「酌(く)む」「組(く)む」があります。「汲上(くみあげ)」(茨城)、「久見崎(ぐみざき)」(鹿児島)、「汲沢(ぐみざわ)」(神奈川)がありますが、この時に語彙「茱萸(ぐみ)」が作られたと見られます。
「組(くみ)」が充てられたことからして、ヘテはよく契りを結んだ相手とは、組として人々を組織化することに長けていたか。
さらに地名として「久目(くめ)」(富山)、「久米(くめ)」(熊本、沖縄、山口、岡山、愛知、埼玉、茨城)、語彙として「雲(くも)」「蜘蛛(くも)」が作られたようです。
「雲取(くもとり)山」(福岡、山梨、東京、埼玉)、「雲出(くもづ)」(三重)があります。「雲出」は「出雲(いづも)」とは別。
「マル」からは語彙「丸(まる)」「円(まる)」が作られ、地名としては「丸市尾浦(まるいちびうら)」(大分)があり、この地名はクマルビから「マルビ」三音節を入れています。恐らくは当初「丸尾(まるび)」としたものの、音が三音節続くことになるので、間に市、後に浦を入れて、マルからビを離してマル二音節にした造名と見られます。
他に「丸山(まるやま)」「円山(まるやま)」等、「マル」を入れた地名は全国に見られます。
日本には、丸い円の中に蜂を描きこんだ家紋がありますが、ハチ(蜂)とマル(円)、ヒッタイトに由来した家紋と見えます。
マリを入れた地名に「丸子(まりこ)」(静岡)、「丸子(まりこ)川」(秋田)がありますが、マリの場合、聖母マリヤからの二音節「マリ」を採って「鞠、毬(まり)」「椀、鋺(まり)」が作られたと見られます。「丸子(まりこ)」は読み直しか?
次に「ルビ」ですが、通常、雷鳴(らいめい)のようにラ行音で始まる音は、漢音をそのまま充てた音読みに採用されていますが、日本古来の音、即ち、訓読みにおいてラ行音で始まる音は「楽(らく)」のみであるといわれます。これはラ行音で始まる造語はしないという決まりがあったことによると見られます。
従って、「ルビ」で始まる語彙は作られることはなく、冠頭に「は」音を加えた語彙になったと見られます。
「腹帯(はるび)」「春日(はるび)」が該当していますが、腹帯は後に「はらおび」と読まれるようになったようです。
クマルビからは、さらに「クル」と「クビ」が採られ、「来(く)る」「繰(く)る」「刳(く)る」が生まれ、「首(くび)」が作られたと見られます。クビからは「頸木、衡、軛(くびき)」「踵(くびす)」が作られ、踵は後に「踵(きびす)」と呼ばれる。さらに「?(くびち)」「縊(くび)る」「括(くび)る」が出来た。
地名としては「久比(くび)」(広島)があり、首を入れた地名に「人首(ひとかべ)」(岩手)がありますが、これは読み直しと見られます。さらに「頸城(くびき)」(新潟)と。
「クル」からは「狂(くる)う」「苦(くる)しい」が作られ、さらに「車(くるま)」「胡桃(くるみ)」、動詞「包(くる)む」、地名「久留米(くるめ)」(福岡)、が作られたと見られます。
他、地名に「来(くる)島」(広島)、「栗栖(くるす)」(大阪)、「久留間(くるま)」(佐賀)、「久留麻(くるま)」(兵庫)、「車(くるま)」(兵庫)、「来見(くるみ)」(愛媛)、「久留美(くるみ)」(兵庫)があります。(5.15.)
ヒッタイトの軍隊は戦車を用いていたので、列島移住のヘテ族は、軛を使った車を作ったのでしょう。
次に双子の神、主神ティシュブは、五十音表記では「ちすぶ」となり、「チス」「スブ」に別けられます。「チス」はまず「治(ち)す」と仮設され、「スブ」からは「統(す)ぶ」「総(す)ぶ」が生まれた。「統ぶ」は後に「統(す)べる」となり、「治す」と合わせて「統治」となるので、「統ぶ」は「治す」の仮設によって作られたと考えられます。後に「統(す)べる」は「統(す)める」とも読まれています。語彙「滑(すべ)る」が作られることにより、「統べる」は「統める」に交代したのではなかったでしょうか。ただ、「統べる」はそのまま残されたと見られます。
左手の神ティグリスを、五十音で清音化すると「ちくりす」となり、ここから三音節が採られ「チクリと蜂が刺した」といった表現が生まれたと見えます。「リス」からは「栗鼠(りす)」が作られた。「栗栖(くりす)」という地名がありますが、これは別の由来と見ます。
チグからは「ちぐはぐ」が生まれたと見られますが、これは左右の靴を違えて履いたテリピヌ神の靴を言ったものでしょう。前出の地名「左足(こえだて)」はこれに関連した造語でしょう。
タシュミシュからは、語彙「足(た)す」と「見(み)す」「魅(み)す」が生まれたと思われます。「見(み)す」が出来た後、ミカエルから「ミ」「ル」を採って動詞「見(み)る」が出来たと見られます。
聖霊の仮名では、シェリから「芹(せり)」が生まれたでしょう。さらに舞台道具の「迫(せり)」、競売などの「競(せり)」が出来たと見られます。
前にフルリとウベルリから、「ルリ」が採られ、「瑠璃(るり)」が生まれたとしましたが、仏典の七宝の一つ「瑠璃(るり)」が先です。ただ、瑠璃は梵語の音訳で、むしろ「瑠耶(ルヤ)」に近いので、日本語彙として、「ルリ」と明瞭に発音する元となったのは、このフルリからの「ルリ」であると見ます。
「鉢(はち)」についても、漢音はハツ、ハチで、音読みですので、前出の説明はハッティに引っ掛けられた「鉢(ハチ)」ということになりそうです。
前述の「照らす」にしても、『創世記』にヤペテの子孫に「テラス」という人の名前があり、また「照り輝く」の「テリ」には「テリピヌ」の「テリ」が該当しますが、これはどういうことでしょうか。これは意図しなくとも、多くの神名や人名の音が、語の中に幾重にも重なって込められるのを最良の造語と考えられたのではないかということです。(5.17.18.)
私達日本人にとって、日本語は自分達が生まれる前から存在し、あまりにも身近かにあり過ぎるために、それまでまったく無かったという状態は想像し難いものです。
太子は「天照(あまてらす)」を作る際に、「照」にヤペテのテラスを充てた、それが後に「照らす」という「照る」の能動の形に落ち着く事になったのでしょうか。
双子の神には、ブラフマナス・パティとブリハス・パティのように冠頭音を揃えている場合と、ラティアーリスとヨウィアーリスのように冠頭音を揃えない代わりに後の部分を揃えている場合とがあります。
ヒッタイトの双子の神は、通常テシュブとチグリスというように解説書には書かれていますが、神名が出された当初は冠頭音を揃えた形、ティシュブとティグリスであったと思われます。
北イスラエルの預言者エリヤの出身地の住民は、テシベ(ティシベとも)と呼ばれていましたが、このテシベ族がヒッタイトの主神の名を冠したヘテ族であったとすれば、カナンのヘテはネゲブに限らず、ギレアデ(カナン北東部)にも居住していたことになります。
ヨサブが連れて来たヘテの中にはこのギレアデのテシベ族も含まれていたことでしょう。
ヘブル文字の原音を母音記号通りに読めば、ティシュビ(ティシュブ人)と読めますので、1000年以上経過するうちに幾分転訛して、テシベと呼ばれるようになったのでしょう。
としますと、北海道の地名「留辺蕊(るべしべ)」の「しべ」はこのテシベの「シベ」ということになりそうです。
シベはゼブルンではない、となって、「ルベシベ」はルベンとヘテということになります。筆者の以前の仮設は外れたということですが、これはカナン人を予測に入れていなかったことによります。
そうしますと、日本語彙「雄蕊(おしべ)」「雌蕊(めしべ)」が出来た元の音が判ります。
『列王紀』にある「テシベびとエリヤ」の記述通りなら、エリヤはヘテ人で、ヤーウェ神の預言者となった人でした。
エリヤの二音節「エリ」が採られ、語彙「襟(えり)」、「衿(えり)」、「彫(えり)」、定置漁具の「?(えり)」が作られたと見られます。地名としては「江里(えり)町」(長崎)、「恵利原(えりはら)」(三重)、「襟裳(えりも)岬」(北海道)があります。
エリヤの後継預言者は「エリシャ」という名の人でしたが、「シャ」はハットゥシャのシャを入れた音と見えますので、エリシャもやはり、ヘテ人であったでしょう。
ニギハヤヒ率いるザブダイらが北九州に上陸した時に、伊都王と一悶着あって衛兵らと衝突し、自ら築いた砦にこもって戦闘を続けたのでしたが、その間、ヘテ族と出会ったのでした。そこでザブダイはヘテと何らかの提携を結んだのでした。恐らくはヘテの方から接近していったのでしょう。藁をも掴む(すがる)心境であったか、ザブダイらは、よりによって、当時反体制へとシフトしていたヘテと契りを結んだのです。ヘテ主導のこの契りは後々まで続き、この集団は「熊襲(くまそ)」として、日本の歴史には記されることになったのでした。
「立ち向かう者」を意味する「qm」に、クマ(熊)を引っ掛けて「熊襲」としたのでした。
「ソ」(襲)は、「八十(やそ)神」の「そ」を採った音で、八十神はザブダイを意味しています。つまり、熊襲とは、反体制ヘテとザブダイが提携した組織を表したものです。
景行天皇の治世には、反体制のエドムが加わっていたようです。「記紀」では、倭建命(やまとたけるのみこと)や、仲哀天皇の熊襲征伐が知られています。
勿論、すべてのヘテが反体制であったわけもなく、ザブダイらも、大ユダ(列島イスラエル)王国を打倒するためにやって来たのではないわけです。
ヘテが反体制へと傾くに至った背景には、前400年頃の北イスラエルの大挙移住がまずあって、大ユダ王国のヘテに対する風向きが少しずつ変わっていったことが原因としてあると考えられます。北イスラエル来住によって、ヘテのカナン時代の悪夢が再び蘇えったか?
ニギハヤヒは、反体制ヘテとの契りはそのままにして、日向のユダ王と接見したのであろうと思われますが、その接見は紀元後57年か、その少し前と見られます。北イスラエルの移住によって大世帯となり、さらにザブダイがやって来た。首都が日向では最早立ち行かないと悟ったユダ王は、首都をザブダイ(大和)へと移すことに決め、シメオン人の使者を後漢へ遣わしたのでした。遷都はその約200年後に日向から大和へ、大王即位のための狭野尊の東遷によって実現したのでした。
熊襲に近い存在として、「隼人(はやと)」がありますが、こちらもザブダイとヘテが提携した氏族で、ニギハヤヒの「ハヤ」と、ヒッタイトの「ヒト」を合わせて「隼人」とし、ヒを除いて「ハヤト」とした造語と見られます。
大化改新は、ザブダイとヘテとの契りに微妙なヒビを入れることになったと見ます。
隼人のザブダイがひたすら大倭イスラエル存続に固執し、改新反対を表明し反乱を起したのに対し、反体制ヘテからすれば、大倭イスラエルが消滅するとしても、殊更それに反対する理由もない。ヘブライ一掃により、改新日本となることによって、イスラエル人とカナン人、いにしえの国民と異邦人の区別も消え、自分達にとっては夢のような時代になると考えたとしても不思議はないでしょう。
そして、改新後、人々は方言を含む日本語を喋るようになり、漢字、平仮名、片仮名で文字を書くようになり、単一日本民族となった。
カナン諸支族にとって、改新日本はなべて、歓迎されたことでしょう。
大化改新はカナン人にとって、誠に神の救い、と映じていたのではなかったでしょうか。(5.22.)
「瑠璃(るり)」の話に戻りますが、「ルリ」はその音の響きが綺麗なので良く好まれたのではなかったでしょうか。
例えば、ルリの前に、ウ、ク、ス、ツ、ヌ、フ、ム、ユ、ル、を加えてみますと、「ウルリ」「クルリ」「スルリ」「ツルリ」「ヌルリ」「フルリ」「ムルリ」「ユルリ」「ルルリ」となり、日本語彙の中には「フルリ」「ムルリ」「ルルリ」は無く、「フルリ」は前出ヒッタイトの聖霊の名でした。
従って造語され使われているのは六語になりますが、「ウルリ」と「ユルリ」はあまり一般的でなく、よく用いられるのはこのうち四語のみです。
用いる表現として「クルリと廻った」「スルリとかわした」「ツルリと滑(すべ)った」「ヌルリと滑(ぬめ)った」等。
先頭音がみな、ウ行音で始まるのは、それが最も響きが良いと思われたからではないでしょうか。
最初の「ウルリ」ですが、日本語彙には「ウルリ」そのものは無く、細魚を「うるりこ」と呼んだことが『和名抄』に記されているのみです。
「ウルリコ」はヒッタイト神話の「閃緑岩から作られた怪物ウルリクンミ」から「ウルリク」まで採られ「ウルリコ」としたものと見えます。(「くみ」はこの「クンミ」から採られたか)
「ユルリ」は訛って「イロリ」となったとされる音ですが、「囲炉裏(いろり)」は最初の造語時「ゆるり」であったものが、後に「いろり」となり、漢字「囲炉裏」が充てられたと見えます。
「ヌルリ」は「クルリ」と合わせて「ヌラリクラリ」とも変えて表現されるようになった。

ところで、南ユダの民と共に上陸後、衛兵としてのヘテはどうであったでしょうか。
呼子町の西側に位置する半島の先端に「波戸(はど)岬」(佐賀)がありますが、その半島内の「波戸」に拠点として、ヘテの一部が住み着いたと見られます。波戸はユダらが滞留した淀野の北北西に位置しています。
対馬列島での拠点としては「比田勝(ひたかつ)」「一重(ひとえ)」(長崎)が挙げられます。
尚、呼子町の北側には、加部島があってその北端を「ツイタ鼻」と呼んでいます。これは「着(つ)く」の過去形「着(つ)いた」を試験的に作った音を充てたものとも見られます。
南ユダの民による最初の船が、この加部島のツイタ鼻に着いたことを地名として伝えようとしたのでしょう。太子は、日本語の未来像を既に予測し、動詞の過去形を作っていたとも考えられるわけです。
としますと、前出「テラス」か「照らす」かですが、やはり太子は「着く」の過去形同様、「照る」の能動形「照らす」を作っていたということになりそうです。
ヤペテの「テラス」をそのまま入れますと、三音節続くことになり、原則から外れることになりますので、やはり「テラス」は入れなかったでしょう。
ただ、例外的に三音節を採る語彙もあります。アブラハムの「油」と、ダマスコの「騙す」ですが、後の「ハム」と「コ」の音を除くことで、良しとしたのではなかったでしょうか。
ところで、ヒッタイトは古代に最も早くから鉄を用いていたことで有名ですが、列島到着後はいつ頃から、鉄の道具を作り始めたでしょうか。鉄の技術者そのものがやって来なくても、初歩的な知識があれば、彼らは始めたのではないでしょうか。鉄を含む鉄鉱石や、川の中の砂鉄、それらを高温度で溶かす為には、高熱を生み出す炭が必要になる。日本で品質の良い炭として知られるのは備長炭ですが、「備(びん)」はベンヤミンですから、ベンヤミンは古い時期から、炭窯を作って、炭焼きを行なっていたのではないでしょうか。
ヒッタイト人の国法への服従は、すべての義務のなかで最も重く、特に兵士の不服従には厳しい刑罰の規定が定められていたようです。目をつぶす、耳をつぶす、といった規定から、兵士にとって最も屈辱的と思える罰則に、女性に変える、女性の姿に変えよ、というのがあります。
群馬の或る地方では、男性が女装の姿で、村や町を練り歩くという祭りがありますが、これが古い由来に基づく祭事であるなら、男性の女装姿は、法への不服従から罰則を与えられたヘテの兵士の姿を表現したものではないでしょうか。
沼田周辺には、「発知」のようにヘテに因んだ地名が多いので、或る時期に相当数のヘテが移動し、住み着いていたことから、ヘテに由来したその祭りが始まったと思われるわけです。
男性の女装は、現代では珍しくはないとしても、古代ではかなり奇異な祭りであったのではないでしょうか。
改新日本後の地域の祭りは、その民族のアイデンティティーというか、固有性を表現する唯一の機会であったのだろうと思われます。朝廷も、自分達民族のことは将来すべて忘れられるであろう、まだ記憶が残っているその時期に祭りに託すことを諸民族に許したのだと見えます。それだからこそ、祭りに人々は、自分達民族の持てるありとあらゆる知恵と力を出し切って、祀られた神に奉げたのでしょう。ヘテもまたイスラエル同様、自分達を忘れることが求められたのでした。
1000年以上にも及ぶ、歴史の古い祭りはそう多くはなく、神社側の古い記憶から祭事が催されるにしても、どうしてその祭事なのか古い祭りほど、理由が分からないことが多いのです。
それでも最近は、日ユ同祖論を主張する研究者らの間で研究が進み、日本の祭りと古代イスラエルとの関りについて深く追求されていて、説得力のある記述も見られます。相変わらずの謎を抱えたままであるにしても、古代日本にヘブライ一掃が行なわれた、その概念を当てはめてみると氷解していく謎も含まれているようです。(5.31.)
ヘテに因んだ地名「帆槌ノ鼻」「波止場」からして、ヘテは帆船の造船を生業の一つとして選んでいたのでしょうか。関連した地名に「帆上(ほあげ)ノ瀬」(長崎)、「帆足(ほあし)」(大分)がありますが、この造名の際「帆(ハン)」が充てられ、語彙「帆(ほ)」が作られたと見られます。

エジプト=ミツライム
前出『イザヤ書』の記述に関連して、エジプトのスエネ(現アスワン)から、ヨサブの許に集まって来た人々とは、やはりエジプト人でしょう。現代へ至るイスラム化が生じる以前のエジプト、墳墓から出土した木彫像を見ると、日本人とよく似て見える像もままある、あの古代エジプト人です。
エジプトを『旧約聖書』では「ミツライム」と呼んでおり、ミツライムは『創世記』ではハムの子孫です。
ミツライム人はミツリと呼ばれています。
古代エジプトは、前3000年頃から古王朝、中王朝、新王朝と隆盛を誇っていたものの、前1000年を過ぎると衰退の一途を辿ったといわれ、前671年にはアッシリアの支配下に入ってしまいます。
アブラハムの契約の中にはミツリ(エジプト人)の名はありませんが、スエネのエジプト人にはそのアッシリアの侵入直前に、ヨサブからの誘いがあったと見られます。列島へ到着後、活動を始めていた頃、エジプト王国はアッシリアの支配下に入り、その約11年後に列島ユダ王国の再建が成ったことになります。
ミツライム人は、大八洲国の建設に大きく貢献し、「紀記」にその名を留めるにまで至りました。
ミツリの指導者の名は神格化され『古事記』には「頬那芸神(つらなぎのかみ)」「頬那美神(つらなみのかみ)」とする一対の神格を生み出し記録されるに至ったのでした。
「頬(つら)」は、ミツライムから「ツラ」二音節を入れた音で、「ツラナギ」「ツラナミ」は「イザナギ」「イザナミ」と同じ形を採った命名と見られます。
『古事記』には他に「ツラナギ」と並んで、「沫那芸神(あわなぎのかみ)」「沫那美神(あわなみのかみ)」の名がありますが、こちらはレビの指導者を神格化した命名でありましょう。
「ナギ」は指導者の意味である「ナギイド」からの二音節。「ナミ」はダビデ王の曾祖母「ナオミ」の中間音を除いた形でしょう。尚、「ナオミ」からは「尚(なお)」「直(なお)」「猶(なお)」が生まれ、「臣(おみ)」が出来たと見えます。そして、「波(なみ)」「浪(なみ)」「涛(なみ)」「並(なみ)」と。
「ツラナギ」は、『日本書紀』では「天吉葛(あまのよさつら)」となっており、「ツラナミ」では水神「罔象女(みつはのめ)」となって、「ツラ」ではなく「ミツ」二音節を込めています。
これらは、ミツライムから「ミツ」「ツラ」それぞれ二音節を採って名前に込めた例ですが、「ミツ」からは日本語動詞「満(み)つ」「充(み)つ」が出来た。さらに相撲の前褌の「褌(みつ)」、後に「みづ」となった「瑞(みつ)」、「才(みつ)」が挙げられ、地名としては「三津(みつ)」(佐賀、愛媛、広島、島根、京都)、「御津(みつ)」(岡山、島根、兵庫)があり、「ミツライ」の「ラ」を母音化した形の「三津合(みつあい)」(福島)があります。さらに「ミツライ」のラを除いた形「三津井(みつい)」(福島)、「三ツ井(みつい)」(愛知)、「三井(みつい)」(北海道)があります。
また、「水神」罔象女(みつはのめ)の造名からして「水(みづ)」の造語は「ミツ」から生まれたようです。
また、「ツラ」からは、「頬(つら)」「面(つら)」の他、後に「蔓(つる)」と呼ぶようになる「蔓(つら)」、動詞「連(つら)ぬ」「列(つら)ぬ」「貫(つらぬ)く」が出来、「辛(つら)し」が作られると「辛(つら)い」が出来た。
地名としては「連島(つらじま)」(岡山)、「人面(ひとづら)」(新潟)があります。
さらに、ミツリの二音節「ツリ」から、「釣(つり)」「吊(つり)」が作られ、動詞「釣る」「吊る」が出来た。
地名に「釣(つり)川」(福岡)、「釣鐘(つりがね)山」(宮崎)、「釣掛(つりかけ)埼」(鹿児島)があります。
語彙「鶴(つる)」もこの時作られたのか、地名「鶴(つる)」(佐賀、熊本)、「津留(つる)」(福岡、熊本)、「都留(つる)」(大分、山梨)、があります。さらに語彙「剣(つるき)」が出来、「つるぎ」と発音されるようになったと見られます。(6.1.)

古代エジプトの神名も、やはり他の例に洩れることなく、日本語彙に加えられています。
まず、マク(ミカエル)とゲブ(ガブリエル)。(神名については『神名の仮名群一覧』参照)
「マク」からはそのまま、「幕(まく)」「膜(まく)」が作られ、動詞「巻く」「捲く」「蒔く」「撒く」「播く」が生まれたと見えます。地名としては「幕(まく)山」(神奈川)、「幕張(まくはり)」(千葉)、「幕別(まくべつ)」(北海道)があります。
「ゲブ」は清音化され「ケフ」として用いられたようです。「いろは歌」で、「うゐのおくやま」と続いて「けふこえて」とあるこの「けふ」が「ケフ」です。「けふ」は「今日(きょう)」と読まれているので、ケフから「今日(きょう)」の語彙が生まれたと見えます。
「京(きょう)」は音読みなので「ケフ」を充てた造語には該当しないでしょう。
「ケフ」は「ケヒ」のように、音を変えて地名が作られたと見られます。「気比(けひ)」(兵庫)、「気比(けひ)神宮」(福井)、「柤岡(けびおか)」(兵庫)、「毛保(けぼ)川」(広島)があります。
次に、アトゥム(ミカエル)とケプリ(ガブリエル)。アトゥムは、改めてアトムの名称でギリシャ語に入り、原子の意味になりましたが、もとは古代エジプトの一神名から採った音でしょう。
五十音では「あつむ」となって、語彙「頭(つむり)」が生まれたと見えます。そこから「お頭(つむ)」が生まれ「おつむてんてん」が出来た。この「てん」は、エジプトの太陽神アテン(ヤーウェ)の「テン」を入れた音と見えます。音読みの「天(テン)」と重複しますので、「おつむてんてん」の「てん」はやはり「アテン」から採られた音とするのが妥当でしょう。「頭山(つむりやま)」(新潟)があります。
「あつ」からは「暑(あつ)い」「熱(あつ)い」「厚(あつ)い」「篤(あつ)い」が生まれ、また「あつむ」からは「あむ」が採られ、「編(あ)む」が出来たと見られます。
アトゥムは「あとむ」とも捉えられ、「あと」二音節からは「後(あと)」「跡(あと)」「痕(あと)」「址(あと)」が作られ、「とむ」からは「富(と)む」「止(と)む」「留(と)む」が出来たと見られます。
「アテン」からは、「天」と重複しているので「アテ」のみが採られたと見えますが、ゴリアテのアテが「当てる」に充てられたのに対し、アテンの方は「あてにする」、頼みにするという意味の「アテ」として日本語に入ったと見られます。こちらも漢字の「当」を充てているようですが。
「ケプリ」は「ケブリ」と音を変え「煙(けぶり)」が作られたと見られます。後に「煙(けむり)」とも発音されるようになった。地名としては「毛(け)島」(京都)、「鯨(け)島」(長崎)、「振草(ふりくさ)川」(愛知)。母音をやや変え「毛原宮(けばらみや)」「毛原中(けばらなか)」(和歌山)、「花原市(けばらいち)」(岩手)があります。
「ブリ」二音節は「ガブリ」の「ブリ」でもありますが、この音からは「鰤(ぶり)」が生まれたと見られます。
日本語彙造語の上で重きを要するのが、トト(ラファエル)とカア(サリエル)です。
トトから「お魚(とと)」が作られたのでしたが、その理由はどこにあるのでしょうか。
「旧約外典」の『トビト書』の中で、アザリアという若者に宿った天使ラファエルが、トビトの息子トビヤに、魚を捕るよう命じ、捕った魚から胆汁と肝臓と腎臓を取るよう指示します。
トビヤが雀の糞で失明していた父トビトの目に、捕った魚の胆汁を塗ることによって、トビトの目が見えるようになるのですが、この天使ラファエルの古代エジプトでの神名がトトであったのでした。ここから「お魚(とと)」が生まれたのです。
トビヤ少年と大天使ラファエルは、絵画の題材として用いられ、イタリア・ルネッサンスの画家ボッティチェルリによって描かれた作品が有名です。
トビトとトビヤ(ヘブル表記は二人共「トビイ」で、トビトは息子に自分と同じ名前を付けたとされている)からは「トビ」二音節が採られ「鳶・鴟・鵄(とび)」が生まれたと見えます。そして、動詞「飛(と)ぶ」が生まれ、さらに「扉(とびら)」が出来た。
トビトの妻アンナからは、冠頭音の「ア」が「オ」に変えられ「女(おんな)」が出来たと見られます。この母音転換はハッティをホッティに変えたのと同様の形です。「アン」は漢音と重複するので「ンナ」二音節が採られたのだと見られます。
『トビト書』によれば、アンナは機織りの仕事をしていたのでした。
トビトはナフタリの子孫で、アッシリア王シャルマネセルによる北イスラエルの捕囚時、テスベからアッシリアのニネベに移された人でした。テスベはエリヤが出たヘテの町と見られます。
父祖とされている人がアナニエルで、二音節「アナ」からは「穴・孔(あな)」が生まれ、「ナニ」二音節からは「何(なに)」が生まれたと見えます。トビトはアッシリアによって殺害され放置されていた仲間の遺骸をひっそりと埋葬していて、土中に埋めるために、よく穴を掘ったのでした。
アナニエルの母がデボラで、「ボラ」二音節からは「鯔・鰡(ぼら)」と鹿児島軽石の「ぼら」が作られ、清音化した「ホラ」からは「洞(ほら)」が作られる。「穴」と合わせて「洞穴(ほらあな)」が造語された。またホラ貝の「法螺(ほら)」が出来た。
恐らくデボラはドゥボラの発音に近く、五十音表記では「ヅボラ」と読まれたと見られます。そうしますと、ヅボの頭の音を清音化した形の「ツボ」が出来、「壷(つぼ)」「坪(つぼ)」を作ることが出来ます。
ヅボラは、アカン、ドエグ同様、朝廷の指導によっても修正が行なわれず、民間のなかに定着してしまった語と見られます。どれも、定着によって使用不可とすることが困難になった、もともとは方針に抵触する人名であったからです。
これまで述べて来たように太子や朝廷の人々によって造語された語を朝廷造語、方言などのように民間で造語された語を民間造語と呼ぶことにしますと、ヅボラ、アカン、ドエグは厳密には造語ではありませんが、民間造語のなかにそれまでの習慣の延長上にあって、会話のなかに組み込まれ定着した語と言えます。ペケも同様と見られます。元は人名であったものが忘れられ日常語となったのでした。
朝廷造語が規則立てられ、きちんと手順を踏んで造語されているのに対して、郡の司や豪族主導によると見られる民間造語には大雑把な造語が含まれており、ヘブル語やアラム語の古代言語で解読出来ない語には、一地域のなかのみで作られ、その地域のみ通じれば良いといったものも含まれているので、その地方の人にしか意味は理解出来ない、ということになったようです。
古代エジプト神名「トト」と「カア」から話が大分反れましたが、カアをトトに習って音節を重ね、「カカ」とすることによって、「トト・カカ」が生まれ、トトをカアに習ってトウとすることによって「トウ・カア」、「お父(とう)さん」「お母(かあ)さん」が生まれたと見られます。
太子が、ヘフヂバの「ヂバ」の音節をそれぞれ重ね、ヂヂババ、チチハハとし、「父母」を生み出したのは、このトトから着想を得たと見られます。
太子は、「父(ちち)」と「母(はは)」、「お父さん」「お母さん」と、語彙を二組作ったのです。(6.13.)
メディアに住んでいたトビトの親戚であるラグエルの妻はエドナという名前でした。「エド」はエドムと重複しますので、エドナからは「ドナ」が採られたと見えます。
「トナ」と清音化され「唱(とな)う」「称(とな)う」が作られた後、その音に「トト」が加えられ、「トトナウ」から「整(ととの)う」「調(ととの)う」が出来たと見られます。
「トビト書」によれば、ラグエルとエドナの間にはサラという名の娘がおり、トビトの息子トビヤとの間で縁談が調ったので結婚し、トビヤはメディアにずっと住みそこで骨を埋めたのでした。
またエドナからは「エナ」二音節が採られ、地名「恵那(えな)」(岐阜)、「江名(えな)」(福島)、「江奈(えな)」(静岡)、「衣奈(えな)」(和歌山)が出来たと見られます。尚、ドナからは「怒鳴(どな)る」が作られ、地名に「土成(どなり)」(徳島)があります。

次に、マアト(ミカエル)とコンス(ガブリエル)。
マアトは「マト」二音節に短縮され、「的(まと)」が作られ、「待(ま)つ」が生まれたと見えます。そして、「松(まつ)」が作られ、「末・沫・抹・茉(まつ)」が出来た。
コンスは、古代イタリアの農業豊穣の神コーンススと同じ神で、「ア」音を加え「コナス」とした後、「粉(こな)」が作られ「熟(こな)す」が生まれた。マアトの「まつ」と合わせ「粉末」が出来たのでした。
クヌム(ラファエル)は、音順を替え「クムヌ」とし、ヤーウェ神の日本名「豊斟渟(とよくむぬ)尊」の神名に入りました。「古事記」では「豊雲野(とよくもの)神」となっています。
プタハ(ヤーウェ)は、フタと清音化され、「蓋(ふた)」が作られたと見られます。
双子の神としてのプタハのもう一方の神はタテネン(ダビデ)ですが、ネンは音読みとして、タテは既に入っています。
フタからは「再(ふた)」が作られ、ダビデのタビと合わせて「再度(ふたたび)」が造語され、「再度」で双子の神が成立しています。地名は「再度谷(ふたたびだに)」「再度筋(ふたたびすじ)町」(兵庫)他。
さらに「双(ふた)」が生まれ、「双子、双児(ふたご)」が造語されたと見られます。そして、プタをブタと音を替え「豚(ぶた)」が生まれたと見えます。
フタはナフタリのフタでもあるので、地名では併用される場合が多いようです。
双子の神、ホル(ヤーウェ)とセト(ダビデ)からは、「掘(ほ)る」「彫(ほ)る」と、「狭門(せと)」「瀬戸(せと)」が作られたと見えます。瀬戸の地名は全国に見られます。
アメンは古代エジプトの神官で、霊媒として神の声を伝えた人であったのが、後世神格化された存在と見られます。二音節「アメ」からは「天(あめ)」「雨(あめ)」「飴(あめ)」が作られたと見られます。地名に「天底(あめそこ)」(沖縄)、「雨田(あめだ)」(福島)、他多数。

古代エジプトと言えばパピルス、紙の発明ですが、ヨサブらは列島へ移住時、紙を運んで来たでしょうか。勿論、筆記用具と共に何も記していない白紙を充分準備し、濡らさないよう注意を払いながら持って来たでしょう。或いは慎重に羊皮紙を用意したか。そして、列島内であったことを記し、ヘフジバとスサノヲの証言の記録とを合わせ、カナンへ持ち帰ったのでした。
で、列島へ残った人々はどうしたでしょうか。勿論、紙に適した樹皮が取れる樹木を探し、皮を剥いで細かくし、煮詰めて紙に漉くことを始めたと思えます。
「紙(かみ)」は「神(かみ)」と同音で造語されたように、当時としても非常に重要な物と考えられていたでしょう。生ける神と関わる者からすれば、紙は無くてはならない必需品でした。
神の言葉を紙に記すことによって、ただの紙であっても、その記録は神の言葉による力を宿したのです。人々はそれを書き留めることによって、その力を紙に留めたのです。その力は一字一句過つことなく何度転写を重ねても、衰えることはなく、効力を得ていたのです。
その力は読む人々の心を癒し、人々の励ましとなったのです。それがあったことにより、人々は忍耐強く、あらゆる困難にも打ち勝つ事が出来たのです。
「倭文」は「しどり」または「しづり」と読み、そう呼んでいます。「しど」は「シドン」から二音節採った音で、「り」は「記録する」の意味である「rshm」の頭文字を充てた音です。
シドンとは言うまでもなくフェニキヤの主要な都市の名前です。即ち、「倭文(しどり)」とは、シドンの文字で記録されたものという意味です。シドンの文字とはフェニキヤ文字のことです。
「小食土(やさしど)」という地名がありましたが、これはヨサブとシドンからそれぞれ二音節を取って合わせた音でした。つまり、ヨサブやヘフジバ、スサノヲはフェニキヤ文字で文章を書き記していたのです。フェニキヤ文字は古ヘブライ文字とも呼ばれ、古代イスラエルでは古ヘブライ文字が使用されていたことは知られています。今日、角文字と呼ばれるヘブライ文字はエズラの頃辺りから使われ始めたらしく、列島へは紀元後ザブダイらが伝えたと見られます。
「rshm」に母音を加えて「らしむ」「らしめ」を作り、「知(し)」に繋ぐと「知らしむ」「知らしめす」「知らしめる」が出来ます。「rshm」は日本語の中に音として加えられているのです。記録するとは、それを知らしめることでもあります。(6.22.)

福岡県うきは市(旧浮羽郡吉井町)の珍敷塚古墳には、古代エジプトの壁画と酷似した図柄の絵が描かれていることが知られています。この壁画の図柄を見る度に、どうしてこの絵が九州にあるのか不思議な気持ちにさせられる一つでもあります。
壁画の下方には地平線のような太い線が二本横に平行して描かれており、その上にはビルのような建物が三つ並んで描かれています。二本の線が大型船の縁を表したものであるとするなら、三つの建物は、大きな帆が三本並んだ形と見えなくもありません。帆が三本の大型帆船を描いたものを表していると。
ところが、この建物の形はそれぞれ烏帽子形をしていて、四角い窓のようなものが中に描きこまれています。その一番上の窓からは湯気のようなものが描かれているのと、帆柱らしきものは見当たりません。
烏帽子形からしても、石造りの民家ではなさそうですし、どっしりと大地に建てられた建造物のようです。下方は台形のように広がっているので、烏帽子形に見えるというのは二等辺三角形の一辺を曲げて描いたことによって、烏帽子形に見えているということです。
元は二等辺三角形の建造物を描き手はデフォルメして描いたものらしい、つまり、壁画の描き手は、エジプトのギザにある三大ピラミッドを描いたのであると思えるわけです。そう思えるもう一つの理由は、壁画の右下隅に小さくシュロらしきものが描き込まれていることもあります。
恐らく、壁画の描き手はミツライム系の子孫で、先祖代々、伝えられて来た伝承に従って描いた作品だと考えられます。
描き手はピラミッドそのものを実際に見ているわけではないので、石造りのような建造物を描いてはいても、巨石を積んで造られたという認識が抜け落ちていること。描き手のイメージの内にあるものをそのまま描いたので、写実性には欠けるものの絵は幾つかの真実を伝えています。
烏帽子形ピラミッドの内側に描かれた窓のような四角いデザインは、ピラミッドの外側からは窺い知れない内部に存在する玄室を描き表したものでしょう。列島ミツリの子孫達にはピラミッド内部には幾つかの秘められた部屋があることが知られていたのでした。
三つのピラミッドは、エジプトでも最も大きなクフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドを描いたものであろうと思われますが、そのピラミッドの頭上には、巨大な渦巻きが描かれ、三つのピラミッドの最上部からは湯気を思わせるかのような数本の直線が描かれているのは何故なのでしょうか。
その理由は、描き手の頭の中にはピラミッドは王の墓であるという認識がなく、ピラミッド全体がエネルギー機関であると見ていたらしいということです。大倭ミツリの間では、ピラミッドのもともとは、王の墓として造られたものではないということが知られていたことによると見られます。玄室内部は空のままで、埋葬者の棺らしきものは描かれていないのです。
三つの建造物が帆ではないとしますと、下方に描かれた二本の線は船体を表したものではなく、河を一本隔てた大地に建てられた建造物を描いたということになります。河はナイル河を指すでしょうか。

先に、古代エジプトの壁画と酷似した絵と申し上げましたが、それはこの烏帽子形ピラミッドのことではなく、実はこの壁画の左側上部に描かれているゴンドラ風の船を言っています。
この葦舟のようなゴンドラ船を取りまく周辺の構図が、エジプトのテーベで見つかったセン・ネジェム墳墓の壁画に描かれたそれと非常によく似ていることから、かつて珍敷塚壁画の原画は、このセン・ネジェムの壁画だとも言われたのです。
テーベは、スエネの約190km北のナイル河沿いにあり、ルクソールの近くです。
構図が同一と見えるのは、両者に共通点が多いからですが、その共通点として、まずゴンドラ船に人(神?)が乗っていて頭上には太陽が描かれていること。
船は向かって右側が船首で、両者とも船首の上には、黒い鳥が描かれていること。
船の後部には、右から左斜めに掛けて櫂が置かれているのが描かれており、珍敷塚のそれは船上の人が櫂を持っている。
船上には、二本の棒状のもので作られた衝立のような物が、珍敷塚のそれは船首側に、セン・ネジェムでは船尾側に立てられており、セン・ネジェムのそれには文字らしきものが描かれている。
船上の人の頭上に描かれた太陽には、セン・ネジェムでは、縁取りするかのように一匹の蛇が周囲を取り巻いているので、これは太陽神アテンを表現したものでありましょう。
蛇はプレイアデス星団を表しているので、アテン神は霊の神であることを示したものです。アテン神とは、太陽と引っ掛けた神であるのです。
珍敷塚のそれでは純粋に太陽を描いたものと見られます。ミツリの間では、もうアテン神をアテにしないという心がけ?が生まれたからでしょうか。
当然のことながら、エジプト・ミツライムも、ヘブライ一掃の対象内でしたから、それを求められたことでしょう。言うまでもなく、壁画に描かれた内容は、すべて一掃の方針に触れるものばかりです。
ですが、珍敷塚古墳の成立は6世紀後半とされていますので、大化改新の直前、ぎりぎり滑り込みセーフといったところかも知れません。(6.26.)

箸墓古墳の埋葬者は「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」とされておりますが、これは「日本書紀」に録された卑弥呼の日本名です。
名前に入っている「迹迹(とと)」とは何を意味するでしょうか。言うまでも無く、前出のエジプト神トトのことで、卑弥呼の母方を意味するでしょう。
この場合の「倭(やまと)」はザブダイを表しているので、卑弥呼の父方はザブダイ、母方はミツライムの人であることを示しています。
ザブダイらは列島へ上陸する際、三つに分かれたグループのうちの一つは福井の敦賀から上陸したのでしたが、敦賀(つるが)にはその名が示すようにミツライムが住んでいました。ザブダイはこのミツライムによって助けられ、列島の内奥へと入り、定住場所まで辿りつくことが出来たのでした。つまり、ザブダイとミツライムの縁はこの時始まったのでした。この縁が、邪馬台国をして、卑弥呼を生むことになったのでしょう。

太子が斑鳩寺に篭もって、大量のシドン文字(倭文)文書を前にして、シドン文を漢字文に造名造語を兼ねた翻訳変換を進めていた時に、蘇我馬子は絶えず太子の許を訪れ、その進捗状況を覗っていたのでした。
与えられた仕事を着実にこなし、成果をあげていく太子を見て馬子は、改新日本への動きを止めるにはまず太子を抹殺する以外ないと考えたのです。そして、最後の手段に打って出たのでした。
暗殺に成功した後、馬子ら蘇我氏は、太子の許に保管されていた大倭のすべてを記録してあったであろうシドン文字文書の悉くを太子の許から盗み去ったのでした。
朝廷の人々が気が付いた時には、文書は行方不明となっており、誰の手に渡ったのか、大方の察知はつきました。
蘇我蝦夷の許にあり、文書は大臣によって管理されている。これは今日的な目からすれば、大事な文書を大臣が管理することになったのだとすれば、特にこれといった問題はありません。
しかし、当時の情況を考えた時に、将来の国の在り方を決定する重要な節目に文書が大王(天皇)側の管理になく、朝廷の方針に背いていた蘇我大臣の手許にあるということが異常な事態でした。この事は、太子の死と合わせ、多くの改新推進派の人々の士気を削ぐことになったでしょう。
これらは史書には述べられてはいませんが、中大兄皇子は、蘇我蝦夷に対し、文書を大王(天皇)の側に戻すよう再三に渉って、求めたことでしょう。しかし、蘇我蝦夷はその要求に対して、一切応じることはなかったのです。このことは、中大兄皇子の側からすれば、蘇我蝦夷は自分達蘇我氏の側から大王を出して、大倭イスラエルの維持温存を計るつもりである、と捉えたとしても無理のない話でした。そして、蝦夷がどうしても返すつもりがないのであれば、力づくで奪い返すしかないとなったのです。その後、中大兄皇子によって実力行使に移され、蘇我氏滅亡、大化改新となったのでした。このシドン文字(倭文)文書が後の「古事記」や「日本書紀」を生み出す原典となったのです。(7.4.)

古くは、青森、岩手、宮城、福島を含む東北は、陸奥(むつ)の国と呼ばれていました。
ムツは、ミツの第一音節をウ音に替えた音で、「陸奥国」とは最初に住み着いた民がミツライムであったことを示した命名でありましょう。まだ、北イスラエルが移住して来る前、ナフタリもイッサカルも住み着く以前の定住であることによるでしょう。
東北の下北半島を最北端(むつ市がある)に、太平洋側に点在して住み着いたと見られます。
津軽富士と呼ばれる岩木山で、毎年夏に行なわれている行事に、山かけと呼ばれる祭りの行列があり、村々を練り歩くその先頭に立つ大型御幣はムサと呼ばれています。
古代エジプトにもこのムサに似た祭り物があって、棹を持って王の行列の先頭に立って歩く人の姿が、ナルメル王のパレットに刻まれています。長い棹の天頂に鳥を模した像が括りつけられ、その下に幅広の長い布が垂れ下がっている。この青森の大型御幣ムサは、古代エジプト時代からの習慣伝統を受け継いだものだと言うわけです。
祭りは何らかの事情によって、開催が長期間中断されることがありますが、再開される時は大概、古い資料を基に幾分形は改良され異なるところがあっても、以前の形が模倣され継続されるものです。

ところで、列島へ移住して来たミツリ達は、定住後、伝統のミイラを作ったでしょうか。
エジプト伝統のミイラ作りが、渡来のエジプト人達によって、列島内で行なわれたと断定するには物証に欠けます。古い時代のミイラが列島内では発見されていない。恐らくは列島へ定住したミツリ達は、ミイラ作りをしなくなったのだと思われます。何故でしょうか。
通常ミイラ作りには霊魂不滅の思想が根底にあって、人の死後、霊魂は肉体から離れるが霊魂は死することがなく、また元の死者の肉体に戻って来るという信仰が根強くあることによるといわれています。
ところが、列島移住のミツリは、たとえ霊魂が不滅であっても、如何に立派なミイラを作ろうとも、朽ち果てた遺骸に霊魂が再び戻ることはないと悟ったのです。これがミツリをしてミイラ作りをしなくなった理由でしょう。
異邦人が生ける神ヤーウェを信じ、結び連なるということは、その民の持つ迷信から解き放たれることです。生ける神とは人々を迷信から解き放つ力を持っているのです。
ミイラを作らないミツリが主流になり、それでも、国造りに忙しく励んできた人々も、一旦落ち着き、余裕が出来てくると、古い時代にミイラを作っていた故国を思い出し、自分達もミイラを作りたいと考えるようになった、そうした人々はさらに北へと移動していったのではないでしょうか。樺太アイヌはミイラ作りをしていたと伝えられていますので、樺太へ移動したか?(7.9.)

山口県に「むつみ村」。神奈川県に「睦(むつみ)町」がありますが、「ムツミ」は「ミツライム」から「ミツ」と「ム」を採って「ミツム」とした後、音順を入れ替えて「ムツミ」とした音と見えます。ここから「ミ」が除かれた形「陸奥(むつ)」が作られたのでしょう。この時に「睦(むつ)まじい」の語彙が生まれたと見えます。
「ミツラ」に音の似た地名として、「六連(むつれ)」(愛知)、「六連(むつれ)島」(山口)があります。他に「睦合(むつあい)」(京都、三重、福島、山形、秋田)があります。
「ムツ」からは「憤(むつ)く」「憤(むつか)る」「難(むつか)しい」が生まれ、魚の「?(むつ)」、産着の「(造字?)むつき」、東北の「むつ地」が出来たと見られます。(7.10.)

日本の歴史の中で、最も知られていて人の手が加えられている古いミイラは12世紀のもので、平泉中尊寺金色堂に安置されている陸奥の藤原氏の遺骸とされている四体のミイラがそれであると言われています。
昭和25年に朝日新聞社主催の学術調査団によってミイラ調査が行われたそのきっかけは、東北人の人種的起源について巡る論争、蝦夷=アイヌ説、もう一つは、蝦夷とは人類学的意味の差をいうものではなく、文化の劣っている意味で使った、とする対立意見があって、調査によって、蝦夷=アイヌか否かも、明らかになるであろうという推論の下で実施されたというものです。
それは、藤原清衡(きよひら)による中尊寺供養願文のなかで、自ら「俘囚の上頭」「東夷の遠酋」と書いていることから、そのミイラを調べれば判明するであろうと。
そして、調査の結果、骨相からしてもアイヌ的所見はなく、日本人であることが判明したというのです。で、清衡が供養願文に記していることは、人類学的な意味ではなく、文化的な意味、つまり自らを卑下している意味にしか解釈しようがないということになったらしいのです。(『土偶の謎』川崎真治著から)
調査によるミイラ四体の没年、享年、死因については、
藤原清衡(1128)73、脳溢血
藤原基衡(1158?)54、脳溢血
藤原秀衡(1187)66、脊髄炎
藤原泰衡(1189)35、斬殺
で、どのようにしてミイラが作られたか詳細までは明らかにされなかったようです。
ただ、四体とも、後頭部には穴があけられていて脳漿はなく、腹部は湾曲に切られ、内蔵はまったくなかった。エジプト、ファラオのミイラのような縫帯は巻かれていなかったのと、香油を塗った形跡もなかったとのこと。この記事を紹介した川崎氏は、ミイラは樺太アイヌ的だと述べています。
ここで見るべきは、縫帯や香油は使われなかったものの、脳漿や内蔵が抜き取られていたという点で、古代エジプトで王や貴族の遺体に採られたミイラ製法の幾つかが採用されていたことです。
中国でも古くからミイラは作られていたものの、製法が日本へ伝わったとは考え難いのであれば、その製法についての知識を伝えたのはやはり、列島へやって来たミツライムの人々でしょう。
列島ではミイラは作られなくなったものの、その知識はミツライムの人々の間では語り伝えられていて、大倭ミツリの間でも、作る人こそいないものの知識自体は知られていたでしょう。
ところが改新時、ヘブライ一掃には当然このミイラに関することもその対象となり、作ることはおろか、知識も封じられることになったと考えられます。
その視点から捉えますと、奥州の藤原氏が四代、遺体をミイラにしたということは実はこの禁を破ったことになるのですが、大化改新からは500年を経過しているので、ヘブライ一掃は既に風化していたとは言え、朝廷からは問題視されたのではないかと思われます。
当時、藤原清衡は奥州の平泉に本拠を置き、大きな勢力を張っていて、中央の朝廷側からは、北辺の独立国の如しとまで言わしめたのでした。清衡は何故、自身の遺骸をミイラとして残そうとしたのでしょうか。
樺太アイヌが、自分達の酋長が亡くなるとミイラにして遺骸を残すという習慣は、古代エジプトで王が亡くなるとミイラにする伝統を伝えたミツライムの影響を強く受けたものと思えます。
陸奥国というミツライムの土地柄もあって、清衡はその影響を強く受けたのではないでしょうか。
突然それを始めるようになった動機は何でしょうか。
供養願文に書いた「俘囚の上頭」「東夷の遠酋」から、藤原清衡は、心情的に親蝦夷の人で、先祖に対して限りない憧憬を抱いていた人ではなかったでしょうか。勿論、この場合の蝦夷とはアイヌのことではなく、反改新派の蝦夷のことです。
朝廷による蝦夷討伐が850年頃に終焉を迎える頃には、多くの蝦夷派が帰順したのでしたが、帰順はしたものの多くは心情親蝦夷派で、なかなかその心情を払拭することが出来ずにいたのではなかったでしょうか。古いことは忘れろと言われても、情緒豊かな人々にとってはそう簡単には割り切れない。藤原清衡もその流れの人であったと見えます。古代への回帰とも思えるミイラ作りは、親蝦夷への意思表明のようにさえ見えます。
四人目のミイラとなっている藤原泰衡は、奥州へ匿われていた源義経を襲い自害させたことがきっかけで、1189年、源頼朝率いる軍に討ち入られ、蝦夷地へ逃れる途中で斬首されたといわれます。
奥州の藤原氏は、朝廷にとっては言わば親蝦夷派の残り火のような存在であったと見えます。源頼朝はその勢いを消したのでしょう。そのことで、後にも先にも例がない奥州藤原氏のミイラ作りは四代で途絶えたのでした。
1192年に源頼朝が征夷大将軍の号を賜わったことは歴史が記すところの事柄ですが、蝦夷討伐が終焉したといっても、東北の人々の親蝦夷への心情は止み難く、奥州の藤原氏が多くの人々の信望を集めた理由ではなかったでしょうか。筆者はこのように考えます。

スエネ(アスワン)のミツライム人達が移動に際して辿った経路を推察してみますに、彼らは最初、船を使ってナイル河を下流の北へ向かって、下ったのではないかと見られます。そして、あのゴンドラ船と太陽神が壁画に描かれているテーベを通り過ぎ、三大ピラミッドの見えるメンフィスからギゼーの辺りに差し掛かった頃、左手遠方に見える大ピラミッドを眺め、しばし故国への別れを惜しんだ。
この時の記憶を壁画に刻んだのが、前出珍敷塚古墳の壁画であったと筆者は考えるわけです。この壁画の図柄は、当時の大倭ミツリ達の間では日常的に好んで描かれていた題材であったと思われます。自分達祖先の記憶を形にして伝えるものであったからです。それが朝廷によるヘブライ一掃の発令が出されるに及んで、それらの絵画は処分しなければならなくなったのでしょう。それで彼らは、古墳の壁画として残そうと考えたのだと思われるわけです。
ギゼーの三大ピラミッドを後にしたミツライム移住団はそのまま、船を下流へと進めたことでしょう。そして地中海へ出た後、船を陸沿いに東へ向け、沿岸カナン南部にあるペリシテの土地に上陸したと思われます。そこで、ヨサブと交流のあるペリシテ人達と合流し、ヨサブらと共に東へ向かったのではなかったでしょうか。そして、ユダの国を抜け、ユーフラテス河の辺に差し掛かった頃、待機していたバビロニア人と合流したと見られます。(7.13.)

衛兵として、対馬に住み着いたミツリの拠点は「美津島(みつしま)」(長崎)がそれに該当するであろうと見られます。

ケダル人とセラの民
一行が南ユダの国を出て東へ向かい、カルデヤ(バビロニア)へ向かう途中、ケダルという民の住む所を通り抜けるのですが、このケダルから語彙「気怠(けだる)い」が出来たと見られます。ここからさらに「怠(だる)い」が生まれた。
炎天下の荒野、旅立ちの始まり、あとどれだけ歩いたら、地の果てに辿り着くのだろうかという気分が人々の間に蔓延し、人々は気だるい気分に襲われた。ケダルは『歴代志上』でイシマエルの子孫で、アラビア荒野の民とされており、一般的にイシマエルはアラビア人の祖といわれています。
このケダルの民について、『イザヤ書』は次のように記しています。
《10.主[ヤーウェ]にむかって新しい歌をうたえ、地の果て[日本列島]から主をほめたたえよ。−略―
11.荒野とその中のもろもろの町と、ケダルびとの住むもろもろの村里は声をあげよ。
セラの民は喜びうたえ。山の頂から呼ばわり叫べ。
12.栄光を主[ヤーウェ]に帰し、その誉(ほまれ)を海沿いの国々[島々]で語り告げよ。》
(『イザヤ書』42章10〜12節)
この節はヨサブによって、ケダルとセラの民が、南ユダの民と同道する移住民としてキープされた上で、記された事柄であるということです。ですから、この二つの民も列島へ移住して来た民に加わっていたのでした。そして、列島に到着したらそこで、ヤーウェ神をほめたたえ、語り告げなさいと、この節は伝えているのです。
11節の「山の頂から呼ばわり叫べ」についてですが、人々は山頂から「ヤーハウェ」と叫んだのでしょうか。しかし、この習慣はヘブライ一掃の大化改新後には「ヤーッホー」に変えるよう改められたと見られます。高い山の頂きに登ると「ヤーッホー」と叫びたくなる日本人の習慣はここから生まれたと筆者は考えます。
セラはエドムの首都ペトラに、またはその近くに住み着いていたと考えられている民で、エドムの一支族でありましょう。
セラの民については、南ユダ王アマジヤが、カナンのエドム王国を襲い、死海で殺戮を行なわしめた際、セラをも攻め取り、ヨクテルと名付けたことが「列王紀下」に録されています。ここから、ではセラの民も連れて行けということになったのでしょう。ケダルもセラも、アブラハムの契約にはその名はありません。
地名に「世羅(せら)郡」(広島)、「也良(せら)岬」(福岡)、「瀬良垣(せらかき)」(沖縄)、「世良田(せらだ)」(群馬)があります。古文では連語形「せらる」があり、「せ」は「す」の未然形とされています。
ケダルは、最初の二音節を清音化した「けた」が用いられ、「気田(けた)」(静岡)、「毛田(けた)」(徳島)、「気多(けた)神社」(石川)があり、さらに「気高(けたか)」(鳥取)、「桁倉(けたくら)沼」(秋田)があって、この時に語彙「桁(けた)」が作られたと見られます。
「ケダ」のヴァリとして「毛津(けづ)」(島根)、「祁答院(けどういん)」(鹿児島)、「毛頭沢(けどうのさわ)」(岩手)、「花徳(けどく)」(鹿児島)、「夏油(げとう)」(岩手)が作られ、「ケタ」のヴァリとして、「?知(けち)」(長崎)、が出来たと見られます。さらに「ケチ」の冠頭に「ア」音が加えられ「明智(あけち)」(岐阜)が出来たと見られます。
「明地峠(あけちだわ)」(鳥取、岡山)には「ケ」「ダ」が入れられています。他に「明戸(あけと)」(岩手)があります。(7.20.)
イシマエルからは、「イシ」「シマ」「マエ」と二音節づつ採られ、「石(いし)」「美(い)し」「島、嶋(しま)」「縞(しま)」「前(まえ)」が造語されたと見られます。
代表的な地名としては、「石(いし)」(長野)、「島(しま)」(長崎、高知、兵庫、京都、滋賀、岐阜、長野、山形)、「志摩(しま)」(福岡、三重)、「四万(しま)」(群馬)、「万江(まえ)」(熊本)があり、この音が入れられた地名は全国多数あります。
また「マエ」の「エ」の音は文字にして「アインーアレフ(無子音)」と続いていることから、「マエ」からは「髷(まげ)」が作られたと考えられます。さらに「マエル」、即ち「マゲル」からは「枉(ま)げる」「曲(ま)げる」が作られたと見られます。つまり「曲がる」より先に、まず「曲げる」が作られたということです。
地名に「馬毛(まげ)島」(鹿児島)、「万吉(まげち)」(埼玉)、「曲師(まげし)町」(栃木)があります。
「イシマ」からは、器物に歪み、疵のあること、またはその物を意味する「?・窪(いしま)」が作られたと見られます。

南ユダ王アマジヤからは「マジ」二音節のみが採られ、「呪(まじない)」が作られ、関連する最初の語彙は、まじないの意味である「蠱(まじ)」で、災いに遭うの意味「蠱(まじこ)る」、まじないで災いにかからせる「蠱(まじく)る」が出来たと見られます。
他に関連造語として、呪いをかけた釣り針「貧鉤(まじち)」がありますが、ここから「貧(まず)しい」が生まれたと見られます。
『列王紀下』によれば、アマジヤ王はエドムを撃ったことで災いを引き起こしたと見られたのでしたが、後に北イスラエル王ヨアシによって、南ユダはエルサレムを攻略され城壁を破壊されてしまいます。アマジヤは北イスラエルによって捕われの身となって、災いを蒙ったのでした。
「アマジヤは主の目にかなう事をおこなったが、先祖ダビデのようではなかった。」とあるように、アマジヤはダビデ王のようではなかったが、神ヤーウェの目にかなうことを行ない父ヨアシ(北イスラエルのヨアシと同名)が行なったように行なった。ここから「真面目(まじめ)」が作られたと見られます。「まじめ」には他に静穏を表す「朝まじめ」「夕まじめ」等があります。
「マジ」からは後に「交わる」となった「交(まじ)ふ」「雑(まじ)ふ」が出来、「混(まじ)る」が作られたと見られます。そして、「まじまじ」「まじくじ」「まじくら」というように作られ、使われるようになったと見られます。
五十音にぴたり収まらない音は、二種類の音を用意した上で、造語したことはたびたび述べましたが、アマジヤもまた同様でした。
「ジ」に該当する文字は「サーデ(ts)」なので、アマジヤは「アマツィヤ」とも読め、ここからは「マツィ」「ツィヤ」が採られたと見られます。
前者からは「町、街(まち)」、後者からは「艶(つや)」が出来たと見られます。
ヨアシのヨは「ヨサブ」「ヨセフ」の「ヨ」でもありますが、「ヨ」からは「世(よ)」「代(よ)」が作られ、「アシ」からは「足(あし)」「脚(あし)」「葦(あし)」「芦(あし)」「止(あし)」「悪(あし)」「凶(あし)」、その他の語彙が作られたと見られます。
「ヨアシュ」と読む場合は「あす」となりますが、この音からは「明日(あす)」が出来たと見えます。(7.23.)

ヘフジバと異邦人
『イザヤ書』第60章は全節、ヘフジバへ宛てられたヤーウェ神による祝福と予言の言葉です。
その言葉のすべては「あなた」に向けられており、「あなた」が誰か具体的に明らかにされておりません。
神の祝福の言葉が、ソロモン王やほかのユダの王に宛てられた内容であるのなら、名前を伏せる必要がありません。名前が伏せられたのは、伏せなければならない事情にあった人であったことが、その理由でしょう。
ヤーウェ神が降り、神の定めた地で国が興される件は、イスラエル十二支族以外の異邦人の間でも知るところの事となり、ヘフジバは生ける神を知り求める異邦人達からも祝福されたのでした。
次が、「あなた」がヘフジバを指していることを表していることの一部です。
15.あなた[ヘフジバ]は捨てられ、憎まれて、その中を過ぎる者もなかったが、わたし[ヤーウェ]はあなたを、とこしえの誇、世々の喜びとする。》(『イザヤ書』60章15節)
ヘフジバが、ヒゼキヤの許に居られたのは僅かな期間しかなく、王妃となった後、周囲の反対を押し切って旅立ったことが、憎まれ、過ぎる者もないという表現になったのだと見られます。
異邦人から祝福されたヘフジバを表した節の一部として。
10.異邦人はあなた[ヘフジバ]の城壁を築き、彼らの王たちはあなたに仕える。》(『同上』60章10節)
これは予言の言葉で、この予言はこの通りになったのであります。ミツライムの王(指導者)は、頬那芸神(つらなぎのかみ)と「古事記」に録されたのがその一例で、予言成就の証となっています。
ヘブライ隠蔽の為の施策とは、当時の人々による悪意ある隠蔽工作などではなく、神の名において充分正当化でき得るものでありました。事実と異なる事柄を書かざるを得ない場合、それは善意の嘘として、神によって許されたのです。当時の人々としてはそれがあからさまな嘘とならないよう、記述に際しても、慎重には慎重を期したことでしょう。そして、神話を編み加えた創作は許されたのでした。
日本は、日本神話から生まれたとする古来からの伝承に鑑み、それが無から有が生じる為の科学的手段が講じられた結果であると考えるとよく理解出来ます。ヘブライ隠蔽一掃対策とは、無から有を生じさせる為の対策です。
改新の始まる当初、書かれた書物は生ける神の霊による厳しい監視の下で記され、霊による力が込められた書物です。ですから、「古事記」や「日本書紀」を悪意で改竄された文書と呼ぶのは適切でないのです。
神の命令には絶対服従の大倭イスラエルは、大化改新を境に閉じたのでしたが、最期のとどめとも言うべき言葉が「古語拾遺」(807)や「新撰姓氏録」(814)にある「本邦の太古に文字はなかった」でありましょう。
これも、隠蔽一掃の一環として出された言葉と見えます。これがその後のヘブライ隠蔽一掃を完璧なものにしたのです。シドン文字は使われていなかったことになったのです。
太子は隋へ宛てた書簡(600)の中で、「倭」について「無文字」と記し、文字は使われていなかったと、対外的な隋に対して、最初から釘を刺したのでした。続けて、百済の仏経を得て「始有文字」と記したものの、この場合の文字とは漢字のことです。太子のこうと決まったからには後戻りはしないという、並々ならぬ決意が覗えます。
改新によって、「イザヤ書」の中の神の予言が列島で成就されていたことが、明瞭な形で子孫に示すことが出来なくなった、ということは大倭当時の人々からすれば、痛恨の極みであったであろうことは想像に難くないところです。未来に「イザヤ書」やその他の文書が知られるようになれば、子孫はきっと気付いてくれるであろう、という読みから、文書や地名などに工夫を凝らし、子孫に気付いてもらおうとした意図も読み取れるのであります。イスラエルが蘇える為には、未来に「聖書」が知られるようにならなければなりません。大倭には、未来にはきっと知られるようになるという読みがあったのであります。
次も『イザヤ書』60章から、再建に向けて、異邦人に祝福されるヘフジバについての予言の一部。[ ]内は筆者。
4.あなた[ヘフジバ]の目をあげて見まわせ、彼ら[異邦人]はみな集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、[神の]かいなにいだかれて来る。
5.その時あなた[ヘフジバ]は見て、喜びに輝き、あなたの心はどよめき、かつ喜ぶ。海の富が移ってあなたに来、もろもろの国の宝が、あなたに来るからである。
6.多くのらくだ、ミデアンおよびエパの若きらくだはあなたをおおい、シバの人々はみな黄金、乳香を携えてきて、主[ヤーウェ]の誉を宣べ伝える。
7.ケダルの羊の群れはみなあなた[ヘフジバ]に集まって来、ネバヨテの雄羊はあなたに仕え、わが祭壇の上にのぼって受けいれられる。こうして、わたし[ヤーウェ]はわが栄光の家[列島ユダ王国]を輝かす。》(『同上』60章4〜7節)
そして、この予言はこの通りに実現し、異邦人の諸支族の王はヘフジバの旅立ちに際して大いに祝福し、ミデアンとエパの民はラクダを、ケダルとネバヨテは羊の群を、シバの民は黄金と乳香を献納したのでありましょう。従って、羊やラクダを世話する人々や、神の栄誉に預かりたいと欲する人々の同道は必定でした。幾ばくかの民が旅程を伴にしたと見られます。
ヘフジバはラクダに乗せられて、長旅をこなしたのかも知れません。必要な物が足りなくなると通りがかりの村々と物々交換によって、不足の物を満たしたでしょう。シバから献納された黄金は充分役目を果たしていたと思われます。穀物の大量入手なども可能であったことでしょう。
南アラビヤのシバはソロモン王の時代から、その土地でよく採れる黄金を献納していました。
羊の群が、長い旅の間、人々の食用に消えていったとしても、列島からラクダの骨の化石が出土したという話は聞かないので、一隊に随伴していたラクダは列島に到着する以前に、力尽きたのでしょうか。
この章に名前のあるネバヨテはイシマエルの長子とされています。
イシマエルは、アブラハムとエジプト人ハガルとの子でしたが、アブラハムのもう一人の妻ケトラとの子がミデアンで、エパ、シバは、ケトラとの間から生まれた子孫とされています。

ハガルからは「ハガ」「ガル」が採られ、子音「hg」から、動詞「剥(は)ぐ」「矧(は)ぐ」「接(は)ぐ」「禿(は)ぐ」「逸(はぐ)る」「励(はげ)む」「烈(はげ)し」「激(はげ)し」「劇(はげ)し」が生まれたと見えます。
名詞では「脛(はぎ)」「萩(はぎ)」「榛(はぎ)」「爬具(はぐ)」「筴・黐筴(はが、はご)」(筴は正確には手偏が入っている)が、地名には、「波賀(はが)」(兵庫)、「芳賀(はが)」(栃木)、「萩(はぎ)」(山口、愛知、静岡、長野)、「葉木(はぎ)」(熊本)、「半家(はげ)」(高知)、「波介(はげ)」(高知)、「兀(はげ)岳」(長野)、「剥(はげ)岳」(鹿児島)、「兀(はげ)山」(京都)、「羽毛山(はげやま)」(長野)、「羽衣(はごろも)」(広島、神奈川、北海道)があります。
「ガル」は、「何々をしたがる」等の「がる」に用いられるようになったと見られます。例えば「威張りたがる」「強がる」「粋がる」「自分を高みに置きたがる」といったように。ハガルは自分が先に子を孕み、みごもったことで、女主人のサラを見下すようになった、と『創世記』にはあります。
ケトラからは「ケト」「トラ」となりますが、「ケト」からはこれと言った語彙は見られず、「言葉(ことば)」の訛りとも言われ、上代東国方言とも言われる「言葉(けとば)」がせいぜいでしょうか。蹴飛ばすは、蹴ると飛ばすを繋いだ音。「トラ」からは「捕(とら)う」「捉(とら)う」の動詞、名詞では「虎(とら)」「寅(とら)」が作られたと見られます。地名では「毛登別(けとべつ)」(北海道)でしょうか。(7.31.)
「けとば」から「ことば」へと成ったとしますと、「ケト」から「コト」が生まれ、「言(こと)」「事(こと)」「異(こと)」「殊(こと)」「琴・筝(こと)」が出来たと見られます。
地名では「琴平(ことひら)」(熊本、香川)、「金刀比羅(ことひら)」(香川、岡山)他、があります。
ネバヨテは、「ネバ」「ヨテ」で、「粘(ねば)」が作られ、「粘(ねば)い」「粘(ねば)し」が作られ、動詞「粘(ねば)る」、名詞「粘(ねば)り」が出来たと見られます。
「ねばねばする」等に使われ、古文では「ねばならぬ」等に用いられています。
地名では「根羽(ねば)」(長野)、「根原(ねばら)」(静岡)があります。
「ヨテ」からは、「拠(よ)って」などの促音が表記されない形の「因(よ)て」「仍(よ)て」が生まれたと見えます。

通称名ミデアンのヘブル表記は「ミデヤン」で、「ミドヤン」とも読め、大倭では主にこの「ミドヤン」の音を採用したと見られます。二音節づつ「ミデ」「ミド」「ドヤ」「ヤン」に分けられます。
ミデの清音化した形「ミテ」からは、「見手(みて)」「見(み)て」が作られ、「幣・幣帛・御幣(みてくら)」が作られたと見られます。地名には「御幣島(みてじま)」(大阪)があります。
また「ミデヤン」からは「ミ」「ヤ」が採られ「宮(みや)」が作られたと見られます。地名に「宮(みや)」(鹿児島、兵庫、京都、岐阜、新潟、福島、宮城)、「三谷(みや)」(愛知)があります。
御幣(みてぐら)の意味は「神に捧げる物」なので、列島到着後、飼養するラクダを失ったミデヤン人達は、神への捧げ物の調達や確保など、神の宮に仕える人となったのではないでしょうか。
「ミヤ」からはさらに語彙「都(みやこ)」が作られ、地名に「都(みやこ)」(北海道)、「京都(みやこ)」(福岡)、「宮古(みやこ)」(鹿児島、沖縄、奈良、三重、福島、岩手)があります。
「ミド」からは語彙「緑(みどり)」が作られたと見られます。地名には「緑(みどり)区、町、川、ガ丘、山、岳」(ほぼ全国に)、「翠(みどり)」(広島)、「美土里(みどり)」(広島)、「美登里(みどり)」(熊本)、「味取(みどり)」(兵庫)があります。
さらに語彙「塗(みどろ)」が作られ、地名に「真泥(みどろ)」(三重)、「深泥(みどろ)池」(京都、「味泥(みどろ)」(兵庫)があります。
「ミドヤ」を清音化した地名として「三刀屋(みとや)」(島根)があります。さらに母音「ア」音を「オ」音に替え、「ヤ」を「ヨ」にして、「三豊(みとよ)」(香川、北海道)、「実豊(みとよ)」(北海道)が出来、この時に「豊(とよ)」が作られ「豊斟渟(とよくむぬ)尊」の「豊」として、地名に多く取り入れられるようになったと見られます。
また、「ミド」の清音化した音から動詞「認(みと)む」、名詞「水門、水戸(みと)」が作られ、地名の「美都(みと)」(島根、北海道)、「三戸(みと)」(岐阜)、「御津(みと)」(愛知)、「三津(みと)」(静岡)、「水戸(みと)」(茨城)、が出来たと見えます。
「デヤ」に該当する地名には「出屋敷(でやしき)峠」がありますが、これは別の支族に由来する地名と見られます。富山県にある「手屋」は「デヤ」と読めなくもありませんが、これは「たや」と呼ばれています。
「ドヤ」から作られたと見られる地名に「土山(どやま)」(富山)がありますが、これが清音化され「富山(とやま)」「戸山(とやま)」(東京、青森)、「外山(とやま)」(高知、岐阜、愛知)が出来たと見られます。「ドヤ」には他に「戸屋森(どやもり)」(青森)があります。
「ドヤ」は「ドヤドヤと人が入って来た」などとして使われるようになったのでしたが、「ドヤ街」の「ドヤ」は「宿(やど)」の倒語とされていますので、後世の民間造語。
清音化された形「トヤ」からは、鳥小屋の「鳥屋(とや)」が作られたと見られますが、「とや」と呼んで「とりや」とは読みません。石川県に「鳥屋(とりや)町」がありますが、地名に「鳥屋(とや)」(神奈川)、「鳥屋市(とやいち)」(岐阜)、「鳥屋野(とやの)」(新潟)、「鳥屋尾(とやのお)」(石川)、「鳥屋(とや)岳」(大分、「鳥屋ヶ丸(とやがまる)山」(島根)と、「トヤ」に「鳥屋」を充てた地名が多いのは、ミデアン人の生業に関るものであったことによると考えます。ラクダを失ったミデアン達は、鳥類の飼育を始めたのでしょう。
野生の鳥を捕獲し、飼い懐かせることに長けていたので、多くの鳥類を鳥小屋に入れて飼育し、知り得た知識は、後の養鶏や食用鴨、鷹や鳩、小鳥の飼育に繋がっていったと思われます。
神社の祭りの露店などで、木造りの小さな宮の参道をピョンピョン跳ねて、おみくじを取ってくる小鳥。こうした鳥の飼い慣らしは、古くはミデアン人に始まったのではなかったでしょうか。勿論、エドムにもそうした人々がいたとすれば、必ずしもミデアンばかりとは限りませんが。
彼らは、伝書鳩の利用については、考えていたでしょうか。
「ヤン」が込められた地名に「山間(やんま)」(鹿児島)、「八ッ場(やんば)」(群馬)、「矢野竹(やんたけ)」(福岡)、「止別(やんべつ)」(北海道)、「ヤンペタップ川」(北海道)があります。
以前に、ヤバからヤンバが出来たとしたのは誤りでした。
語彙としては「止(や)む」「病(や)む」が作られたと見られます。
「止んだ」「病んだ」と過去形から作られたことによって「ヤン」が加わり、「ヤム」という基本の定形に落ち着いたと見られます。二音節動詞という点で、古代ヘブライ語の二字根動詞の定形と同じ形を採ったのです。
関西では、愛称として「ヤン」が用いられ、例えば「山田さん」と呼ぶところを、最初の二音節にヤンを付けて「やまヤン」と呼んだりしています。丁寧語で「(そう)さいでヤンす」と使う。また、くすねるを意味する「やんつ」、トンボの異称「やんま」があります。
日常語としては「やんちゃ」があり、「止む」が作られた後の古文では「やんごとなし」「やんぬるかな」があります。

エパ」は「エバ」と濁音化され、地名には「江波(えば)」(広島)があります。
エサを古くは「餌(え)ば」と呼び、「餌食(えばみ)」が作られたのでしたが、「えばみ」は「えば」と「はみ」を合わせて「えばはみ」とするところを、「ばは」を「ば」一音節に縮め、「えばみ」としたのでした。「はみ」は、アブラハムのハムから作られた「食(は)む」を、名詞化した音です。
重複する音節を一音節に縮める作り方は、地名では多く用いられています。例えば、「土山(どやま)」は「ドヤ」と「ヤマ」を繋ぐときに「ヤ」を一音節にして「ドヤマ」とした。「敦賀(つるが)」も同様に「ツル」と「ルガ」を「ツルガ」としたのでした。
「エバラ」も「エバハラ」を一音縮めた地名と見られます。「江原(えばら)」(兵庫)、「榎原(えばら)」(京都)、「荏原(えばら)」(東京)。「エバ」に「ハタ」が「江端(えばた)」(福井)。「エバ」に「ハナ」が「江花(えばな)」(福島)、「江花(えはな)」(北海道)があります。
「原(はら)」は、アブラハムの早くに亡くなった兄の「ハラン」から二音節採って付けられたと見られます。ハランはアブラハムの移動先である北メソポタミヤの地に付けられた名です。
一方「原(ばる)」は、沿岸カナン人の主神「バアル(ヤーウェ)」から二音節採った音でしょう。
話が外れましたが、エパの民は、ラクダの餌の確保と餌やりを専らとして随行して来たのではなかったでしょうか。矢鱈と「威張(えば)る」ところが少々気になる点でもあったが、つつがなく任務を遂行した。「威張(えば)る」は後に「威張(いば)る」と発音されるようになった。

「えば」は「たとえば」のように仮定の用法として使われています。
「〜すれば」は「〜する+えば」として「る」と「え」を「れ」一音節にした。
「鳴けば」は「鳴く+えば」で、「く」と「え」を「け」一音とした。
「足せば」は「足す+えば」で、「す」と「え」を「せ」とした。
「勝てば」は「勝つ+えば」で、「つ」と「え」を「て」とした。
「死ねば」は「死ぬ+えば」で、「ぬ」と「え」を「ね」とした。
「混めば」は「混む+えば」で、「む」と「え」を「め」とした。
「漕げば」は「漕ぐ+えば」で、「ぐ」と「え」を「げ」とした。
「会えば」は「会う+えば」で、「う」を除いて「え」を入れた。
つまり、動詞語尾の「う」音の伴う子音を、無母音として捉えることによって、「え」音を加えた形で、「れ」「け」「せ」「て」「ね」「め」「げ」「え」となったのです。これはヘブライ語動詞の基本形が意識されています。(8.20.)

「餌食(えばみ)」は、主に鳥に用いられるので、エパもミドヤン同様、ラクダから鳥の飼育へと転向したことを意味しているでしょうか。
若いラクダのことを「ベケル」というのですが、東北方言で「牛」を「ベコ」と呼ぶのは、ベケルを「ベコ」として、牛をラクダ代わりにそう呼んだことによると見られます。
ベケルをそのまま人名に充てる例もありますが、同じ子音を用いた人名に、ベンヤミンの子孫に「ボケル」という人の名前が「歴代志上」に出ています。どのような人であったのかまでは記されていないのですが、このボケが清音化され、「呆(ほ)け」「惚(ほ)ける」が作られ、民間の側で「呆(ぼ)ける」と発音するようになったと思えます。

西南アラビヤにあった「シバ」は、ソロモン王時代の女王でよく知られています。
ソロモン王の名声を聞いたシバの女王は、金、宝石、香料などをラクダに積んで、はるばるエルサレムまでやって来たのでした。神の霊が宿った王であるのなら、その王は賢い筈であると考えたからです。ヤーウェ神を主として、心から崇め信奉していた女性であったのでした。
ソロモン王は、女王の質問にすべて答え、彼女はソロモン王が、真実の神が宿っている人であることを確信したのでした。ソロモンの箴言は、すべてヤーウェ神や他の聖霊による霊示を纏めたものです。
その生ける神が再建のためにヘフジバを旅立たせることを知ったシバの国民は、ソロモン王の時と同様、出来るだけ多くの祝福と献納を心掛けようとしたのではなかったでしょうか。そして、黄金財宝と香料とを、それを積んだラクダごと献納したのでありましょう。ラクダを世話する付け人も当然付けられ、長い道中を伴にし、はるばる地の果ての島々までやって来たのでした。
「シバ」からは「芝(しば)」「柴(しば)」が作られ、「縛(しば)る」が出来たと見られます。
シバ人は、宝物をラクダに結わえ、縛って運んで来た。
さらに「屡(しば)」が作られた後、「?々(しばしば)」が出来た。また、しきりにまばたきする「瞬(しばた)く」が出来、「瞬(しばたた)く」が出来たのは、「繁叩(しばたた)く」が作られたことによるでしょう。シバ人は、しばしば叩いてラクダを誘導したので「繁叩く」が作られたと思えます。(「繁く」と「しばしば」は別の意)
造語時には既に漢語で「駱駝(ラクダ)」がありましたから、シバとラクダを合わせて「シバラクダ」とし、「ダ」を除いて「シバラク」として「暫(しば)らく」が出来たと見られます。
シバはソロモン王の時以来、暫くぶりに黄金をラクダに積んでやって来た?
地名には、「芝(しば)」(鹿児島、鳥取、和歌山、東京、埼玉)、「柴(しば)」(長野、千葉)があり、「芝田(しばた)」(大阪)、「柴田(しばた)」(宮城)、「新発田(しばた)」(新潟)と、他「芝」「柴」の付く地名は全国にあります。(8.29.)

タルシシ=タラコネンシス
さらに、ヘフジバらに随伴したと考えられる民として、「タルシシ」が挙げられます。
《8.雲のように飛び、はとがその小屋に 飛び帰るようにして来る者はだれか。
9.海沿いの国々はわたし[ヤーウェ]を待ち望み、タルシシの船はいや先に あなた[ヘフジバ]の子らを遠くから載せて来、また彼らの金銀を共に載せて来て、あなたの神、主[ヤーウェ]の名にささげ、イスラエルの聖者にささげる。主があなたを輝かされたからである。》
(『イザヤ書』60章7.8節)
8節のみは、ヨサブによる記述で、ヤーウェ神を物理的に表現したのであります。生ける神を、空を移動する雲や、飛び廻る鳩に擬え、その来る者は誰かとして、霊の神が自由に空間を移動し、人々の間を移り巡ることを表現したものです。
ところで、この記述から、ヨサブは鳩の帰巣本能を知っていたのでしょうか。
ヘフジバを祝福する人々を乗せた船は、金銀を携えタルシシからもやって来た。タルシシは、ソロモン王の時代にも、やはり金銀を奉納していました。
『列王紀上』4章には「ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた」とありますので、ソロモン王はヤーウェ神によって大きく力を注がれたイスラエルという神の国の大王であったのです。
また、『歴代志下』9章には「このようにソロモン王は富と知恵において、地のすべての王にまさっていたので、地のすべての王は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。人々はおのおの贈り物を携えてきた。すなわち銀の器、金の器、衣服、没薬、香料、馬、騾馬、など年々定まっていた」とあり、この謁見を求めた王の中に、シバの女王や、タルシシの人々が居たわけです。この時代は、神とは生ける神のことであるという認識が当時の人々にとってはごく当たり前のことでありました。人々にとって神を求めるとは、生ける神を求めることであったのです。生ける神に仕える人に仕え、奉納し捧げることは自分達の国の発展に繋がると誰しもがそう信じていたからに他なりません。
これは大王であった大倭王に、年々貢ぎ物を納めていた百済や新羅との関わりと、その間の事情は似て、同様であったと見られます。『日本書紀』には、「新羅が貢をして来なかった」という記述がしばしば見られます。列島内においては、各々の郡国は大倭王への貢は欠かさなかったことでしょう。
現代においては、生ける神について解き説明する所は皆無となりましたが、これは数千年の経過の後、聖書には神の言葉が録されているにも関らず、生ける神という存在やその認識自体が忘れ去られたことによるでしょう。
『歴代志下』には、諸国の王達は、金をふんだんに貢ぎ物としたので、ソロモン王の所には一年で666タラント、約20トン以上もの純金が捧げられたことにより、象牙の玉座は純金でおおわれ、ソロモンの器はすべて純金であったと伝えています。
そこでタルシシについてこうあります。「これは王の船がヒラムのしもべたちを乗せてタルシシへ行き、三年ごとに一度、そのタルシシの船が金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せて来たからである。」と。
ヘブライ人ヨナがタルシシへの移住を決行しようとした『ヨナ記』の記述からしても、カナンの人々とタルシシとは交流があったらしいのですが、通常タルシシは、スペイン東南部にあったとしてしか、詳しいことは知られていません。
恐らくタルシシは、地中海の島々や沿岸カナン人と交易していて、スペイン東南部にあったのはその交易の拠点でしょう。本国は、当時のイベリア半島の北西部から東南部にかけて存在していたタラコネンシスという名の国であったと見えます。
その国が名前からしてガリア人、早い時期から定住していたケルト人によって興された国であろうことは、その民族の主神の名ターラン(ヤーウェ神のケルト民族における主神名)を冠していることからも察せられます。カナン人は、このタラコネンシスの名をタラシスと四音節に縮めた後、タルシシと呼ぶようになったと考えられます。
『創世記』でタルシシはヤペテの子、ヤワンの子孫とされていますが、ベンヤミンにもタルシシという名前の人がありますので、或る時期からタラシスとタルシシは混同されるようになったと見えます。ヤペテ、ヤワンの子孫のタルシシはケルトのタラシスの方でありましょう。
ケルトにおける宗教とは、その当初は一種の霊魂崇拝であって、どんな形象的な表現もしなかったと言われており、つまり、ケルト人達はターランを生ける霊魂の神として崇めていたのです。これはヘブライ人が生ける神ヤーウェを崇めていたのと理屈は一緒です。ですから、タルシシは当然のことのようにヤーウェ神を受け入れることが出来たのです。
前700年頃、ユダ王国の王妃ヘフジバが、再建のために東の地へ向かうことを知らされたタルシシでは、金銀や様々な物資を、そして移住を希望する人々を乗せた船をヘフジバの許へ祝福すべく、送り出したと見られます。タルシシがソロモン王の時に多くの贈り物をしたように。
大陸のケルト人が移動を始めたのは前900年頃とも言われていますので、タラコネンシスはそれより少し前にイベリア半島に定住した民で、早い時期にソロモン王を知り、謁見を求めた人々であったと思われます。
タルシシの船がカナンへ到着後、物資はラクダへ積み替えられ、幾ばくかのタルシシ人は東の地への同道者(ヘフジバの子ら)となったことでしょう。
大陸のケルト人がイングランドに最初に住み着いたのが前8世紀といわれるので、列島への移動はその直後のことであったことになります。
イベリア半島定住のケルト人が北へ海を越えて、アイルランドへ移住したのが前600年頃、ブリテン諸島への移住が前500年頃、とされるので、タラコネンシスでは極東の列島移住の後も、北の島々への移動が続いたようです。
紀元後2世紀以後頃から、タラコネンシスは地図から消えているので、イベリア半島に残ったタルシシ人はイスパニア人、スペイン系ケルト人、となったのであります。
ケルト人の主神ターランからは、アイルランドにおけるケルトの旧都「タラ」に冠せられたのと同様、タルシシによって列島へ伝えられたターランの名もやはり「タラ」として日本語に加わったのであります。

タルシシもやはり他の例に漏れることなく、ヘブライ隠蔽一掃の対象となったのであります。
語彙として「鱈(たら)」(国字)、たらの木の「?(たら)」、助詞の「たら」。
さらに「盥(たらい)」、「盤(たらい)」「槃(たらい)」が作られ、地名として「太良(たら)町」(佐賀)、「多良(たら)岳」(佐賀、長崎)、「手洗(たらい)」(山口)、「田来原(たらいばる)」(大分)、「田良尾(たらお)」(福島)、「多羅尾(たらお)」(滋賀)、「田楽(たらが)」(愛知)、「多楽(たらく)島」(北海道)、「多良木(たらぎ)町」(熊本)、「足田(たらだ)」(秋田)、「多良見(たらみ)」(長崎)、「多良間(たらま)」(沖縄)があります。
「タルシシ」は「タル」「ルシ」「シシ」と分けられ、「タル」からは「樽(たる)」「足(た)る」「垂(た)る」が作られたと見られます。
地名として、「足(たる)」(岡山)、「足沢(たるさわ)」(岩手)、「足見(たるみ)」(岡山)
「垂井(たるい)町」(岐阜)、「垂坂(たるさか)町」(三重)、「垂玉(たるたま)」(熊本)、「垂穂(たるほ)」(兵庫)、「垂水(たるみ)」(福岡、香川、広島、岡山、兵庫、大阪)、「垂水(たるみず)市」(鹿児島)
「樽(たる)峠」(山梨、静岡)、「樽井(たるい)」(大阪)、「樽石(たるいし)」(山形)、「樽岸(たるきし)」(北海道)、「樽口(たるぐち)」(山形)、「樽沢(たるさわ)」(青森)、「樽沢(たるざわ)」(秋田)、「樽床(たるとこ)」(広島)、「樽原(たるはら)」(岩手)、「樽前(たるまえ)」(北海道)、「樽水(たるみ)」(愛知)、「樽見(たるみ)」(岐阜、兵庫)、「樽味(たるみ)」(愛媛)、「樽水(たるみ)」(宮城)、「小樽(おたる)」(北海道)。その他、「柞磨(たるま)」(広島)、「亀水(たるみ)」(香川)、「滴水(たるみず)」(熊本)があります。
タルシシに似た地名、樽石、樽岸は、当初好まれた地名ではなかったでしょうか。
「ルシ」は、ラ行音から始まるので、冠頭に「ア」音が加えられ、「シ」が濁音化され「アルジ」が作られ、「主、主人(あるじ)」が出来たと見られます。
「シシ」からは「肉、宍(しし)」「獣、猪、鹿(しし)」が作られ、「猪(いのしし)」「鹿(かのしし)」が出来た。音読みによる「獅子(しし)」も作られた。
地名として、「宍人(ししうど)」(京都)、「宍喰(ししくい)町」(徳島)、「宍倉(ししくら)」(茨城)、「宍原(ししはら)」(静岡)
「鹿(しし)ヶ谷」(京都)、「鹿折(ししおり)川」(宮城)、「鹿須(ししず)」(石川)、「鹿留(ししどめ)」(山梨)、「鹿部(ししぶ)」(福岡)、「鹿骨(ししぼね)」(東京)、「鹿見(ししみ)」(長崎)、「猪(しし)の湯」(静岡)。音の似た地名に「志染(しじみ)」がありますが、由来は別です。
さらに「獅子(しし)」(長崎、島根、京都)、「獅子(しし)岩」(北海道)、「獅子(しし)島」(鹿児島)、「獅子島(ししじま)」(熊本)、「獅子(しし)岳」(富山)、「獅子(しし)浜」(静岡)、「獅子(しし)ヶ崎」(福井)、「獅子(しし)ヶ岳」(三重)、「獅子(しし)ヶ鼻」(岩手)、「獅子(しし)ヶ鼻岳」(岩手)、「獅子吼(ししく)高原」(石川)、「獅子(しし)の口」(鹿児島)
その他、「子々川(ししがわ)」(長崎)、「志々島(ししじま)」(香川)、「神々廻(ししば)」(千葉)、と、当て字の異なる地名もあります。(9.30.)
タルには、樽の他に酒樽の「?(たる)」があります。
タルシシはヘブル音から「たるしす」と置き換えられなくもありませんが、そうしますと「死(シ)す」が出来てしまうのでこれは避けられたと見られます。「死」は、漢音読みの「死(シ)」がそのまま日本語に採用されたからです。

ところで『聖書』でタルシシは、宝石の代名詞としてよく用いられています。
『出エジプト記』では「黄碧玉」、『ダニエル書』では「緑柱石」、『エゼキエル書』では「貴かんらん石」、『雅歌』では「宝石」と、どれもみなヘブル文字でタルシシとして表記しています。
恐らく、これらはタルシシの交易品の中に含まれていた品物で、それらの鉱石を交易国の名前で呼んでいたと見られます。
タルシシが、ヘブライ人の出エジプトの頃、或いはそれ以前から、エジプトと交易していたとしますと、前1400年頃には、イベリア半島に住み着いていたことになります。
タルシシの先祖「ヤワン」からは「ヤワ」二音節が採られ、「柔(やわ)」「和(やわ)」が作られ、「柔(やわ)い」、「柔(やわら)か」、「和(やわ)らぐ」が出来たと見られます。
『記紀』には「言向和平(ことむけやわ〔は〕し)」があり、東征の最中、神武天皇は人々に言葉で説明して和平へ向けたとしています。地名には「矢合(やわせ)」(愛知)、「谷和原(やわら)」(茨城)、「和(やわら)」(北海道)があります。
現在のウェールズ地方でも見られるケルト模様と呼ばれる図柄に、日本の「三つ巴(どもえ)」の家紋に良く似た紋様が知られています。古い遺跡や出土品の中に、この紋様が見られるので古くから存在した紋様であることは確かで、この紋様はタルシシによって、神名と共に列島へ伝えられたと見られます。
ケルト民族の主神格として、ターランの他にもう一神、「ヌアーダ・アルゲトラムヌァザ・アーガトラムとも)」があります。ケルトにおけるヤーウェ神のもう一つの神名です。
この「ヌアーダ」を「ナダ」二音節にし、海流の渦巻きを三つ巴に表現したと見えるこのケルト模様と関連付けされ、日本語彙「灘(なだ)」が生まれたと見えます。
地名として「玄界灘(げんかいなだ)」(福岡、佐賀、長崎)がよく知られ、他に「灘(なだ)」(兵庫)、「奈多(なだ)」(大分)、「名田(なだ)」(和歌山)、「灘町(なだまち)」(島根)、「灘崎(なださき)」(岡山)他、があります。
日本の三つ巴の紋様は、このケルト模様をデザインし直したものと筆者は考えます。
造語彙の「灘」の他に「涙(なだ)」がありますが、後にナオミのナミを加え「涙(なみだ)」としたと見えます。そして「ナダ」からは「宥(なだ)む」が出来て「宥める」へ。さらに「傾(なだ)れ」から「雪崩(なだれ)」が作られたと見られます。
ヴァリとしては「撫(なで)」「等(など)」が作られ、前出の「撫(なぜ)」「等(なぞ)」と合わせ、「寒(さぶ)い」「寒(さむ)い」同様、二組の語彙が作られたことになります。これは造語者が、二人以上であったことによるのでしょう。太子以後も、造語作業は続けられていました。
ヌアーダは、ヌァザでも表記上、誤りではなく、これは北欧神話の中の、無口の神ヴィーダルも、ヴィーザルと表記されるのと発音上の理由は同じです。
「ダ」とも「ザ」とも表記できるので、「撫(なで)る」と「撫(なぜ)る」や、「等(など)(なぞ)」も同様、両方共にこの神名のケルト音を写し、作られたと考えることも出来ますが、ヘブル音では「ダ」と「ザ」は区別されます。さらに、「なだ(灘)」は作られても、「なざ」に該当する語彙が存在しないので、「撫(なぜ)る」「等(なぞ)」は、ヘブル音であるケナズのナズ二音節のヴァリとして作られたとするのが妥当です。
「名指(なざ)し」はもっと後世の造語で、そこには最早、神名は意識されていないでしょう。「名」「指す」は共に、既に独立していた語と見られるからです。
「アルゲトラム」については、「アルゲ」を清音化し「歩け」、「ゲト」の母音を替え「下駄」、「トラム」は「取る」と助詞の「らむ」と、取りあえずそう仮設しておきましょう。

ターランの双子の神に該当するもう一神は「ダグデ」ですが、「ダグザ」「ダゴデオス」とも表記されています。「ダグ」「グデ」に分けられます。
「ダグ」を清音化した「タク」の音を持つ音読みの漢字は多く混同し易いので、訓読みの「たく」に注意を払わなければなりません。まず、動詞「長(た)く」「焚(た)く」「炊(た)く」、「度(たく)」、拍子木の「柝(たく)」他、があります。
「炊く」は、ケルト神話の中の「お粥(かゆ)好きの神ダグザ」と関連付けされて造語されたと見られます。「お粥を炊く」のように使われるようになった。タルシシ人は主に野生動物の肉を好んで食べたので「肉(しし)」が作られたとも考えられます。
他に、「蓄(たく)わう」「貯(たく)わう」「積(たく)わう」「儲(たく)わう」が作られたと見られます。
二音節目を清音化した「ダク」からは「抱(だ)く」が出来たと見られますが、「ダ」行音で始まるので、当初は冠頭に母音「い」を加えて「抱(いだ)く」が作られたと思われます。後には「抱(だ)く」「抱(いだ)く」両方が用いられるようになった。
最初の音節を清音化した「タグ」からは、「食(た)ぐ」「類(たぐ)い」「比(たぐ)い」が作られたと見られます。「食ぐ」から「食べる」となった。
地名として、「多久(たく)」(佐賀、福岡、熊本)、「度(たく)島」(長崎)、「駄口(だぐち)」(福井)、「蛸木(たくぎ)」(島根)、「田久日(たくひ)」(兵庫)、「焼火(たくひ)山」(島根)、「多久和(たくわ)」(島根)、他、があります。
「グデ」は通常、音を連続させて「グデグデしている」、「グデングデンに酔っ払った」などに専ら使われています。清音化した語に、特定の湿地を指す「湫(くて)(ぐて)」があり、地名では「久手(くて)」(岐阜、島根)があります。
「ダグザ」は五十音で「だぐざ」と「だぐだ」、両方の音が採用されたと見られます。
何故、そう言えるのかと申しますと、この音から作られたと見られる語「腐(くさ)す」にはもう一つの読み方「腐(くた)す」があるからです。「くさ」「くた」は、「ぐざ」「ぐだ」を清音化した音です。これは北欧語に近いケルト語から採ったからこうなったので、ヘブル語ではこうはなりません。
「グダ」の最初の音を清音化した「クダ」からは、「管(くだ)」「箏(くだ)」が作られ、動詞「砕(くだ)く」「摧(くだ)く」が作られた。二音節を清音化した「クタ」からは、鶏の古名「鶏(くたかけ)」。そして、ごみ、くずの意味「朽(くた)」「腐(くた)」「芥(くた)」が作られ、「あ」音が加えられ「あくた」と呼ばれるようになったと見られます。
「管」で特徴的な語彙は、年の豊凶を占う「くだがゆ」の神事として知られた「管粥(くだがゆ)」です。この「クダ粥」から、「お粥好きの神ダグザ」が込められているのが分ります。後に管にお粥を通す神事が行なわれるようになった時には、既に「ダグザ」のことは忘れられていたかも知れません。
神話で、ダグザは活力と生産の神で豊饒の神でもあったとされていますが、ダグザに振る舞われたおかゆとは、80ガロンの牛乳とバターと穀物が大釜で煮られ、その中に山羊、羊、豚が入れられた、といわれています。(井村君江著『ケルトの神話』筑摩書房刊から)
で、ここからタルシシの「肉(しし)」が容易に想定出来ます。
他に「クダ」からは「下(くだ)る」「降(くだ)る」が出来、「行(くだり)」「件(くだり)」「件(くだん)」が作られていったと見られます。古くは「りんどうの花」を「くだに」「くたに」と呼んでいた。「グダ」「グタ」「クダ」「クタ」は「グダグダいう」「グタグタいうな」「クダクダしい」「クタクタになった」というように表現に勢いを持たせるために音を反複させて用いるようになったと見られます。
地名に「久田(くた)」(長崎)、「久多(くた)」(京都)、「久多(くた)島」(鹿児島)、「久多下原(くたしものはら)」(岡山)、「下谷(くだたに)」(山口)、「管鈍(くだどん)」(鹿児島)、「久田野(くだの)」(福島)、「九谷(くたに)」(石川)、「久谷(くたに)」(兵庫、愛媛)、「久田見(くたみ)」(岐阜)、「来民(くたみ)」(熊本)、他。

「グザ」は「クサ」と清音化され、「草(くさ)」「種(くさ)」「瘡(くさ)」が出来、「臭(くさ)い」「腐(くさ)る」が作られる。猪の古称は「野猪(くさゐなき)」です。タルシシは豚の代わりに猪を食用にしていたのでしょうか。猪の肉に刃物を「グサリ」と突き刺した。
さらに「楔(くさび)」「轄(くさび)」「鎖(くさり)」「?(くさり)」「鏈(くさり)」「嚏(くさみ)(くさめ)」、動詞「鏈(くさ)る」が作られたと見えます。そして、「ひとくさり聞いたあと」などの区切りを指す「?(くさり)」「齣(くさり)」と。
地名に、「久佐(くさ)」(広島)、「久佐(くざ)」(島根)、「草井(くさい)」(愛知)、「鎖川(くさりがわ)」(長野)、「朽網(くさみ)」(福岡)、「草津(くさつ)」(滋賀、広島)、「草津(くさづ)」(群馬)があります。「くさつ」は「くにさつちのみこと」の読みから三音節採った音で、「くにさづちのみこと」の読みによって「くさづ」三音節が採られたのです。
ダグザから「ダザ」を入れた地名に「太宰府(だざいふ)」(福岡)があり、「ダザ」の母音「アア」を「エエ」に替えて「デゼ」として「出瀬(でぜ)」(鹿児島)があります。
ダグザは、武芸に秀でて戦いに強い神とも言われていたので、大宰府の命名にこれが充てられたと考えられます。

次に「ダゴデオス」または「ダゴデウォス」ですが、この神名が列島に伝えられたとすれば「だごでをす」となって「ヲス」二音節から「牡(をす)」「雄(をす)」が造語されたでしょう。
今日、用いられている助詞「です」の古形は「でえす」です。このデエスは、デオスの母音一音を換え「でえす」としたもので、二音節のみは取り決めに違反しないという形を踏んだものといえます。「でえす」は浄瑠璃に入れられ、歌舞伎では「でえんす」と共に使われました。
ここに前出のミドヤンの「やん」を「え」「えん」の代わりに組み入れて「でやんす」とし、今日「そうです」というところを「さいでやんす」と発音して見た。作られた当初は粋な造語と見られ、好まれたものの、暫くは使われることなく眠っていて、浄瑠璃や歌舞伎に用いられることよって、日の目を見るようになったのかも知れません。
タルシシのダビデ王といった風のダゴデヲスから「デエス」「デス」は、長野の「あれをやるダデ」、東北方言の「あれをやるダベ」、関西の「あれをやるのジヤ」、千葉の「あれをやるズラ」、一般に用いられる「と思いキヤ」等の語尾部と基本的には同様の形であり、「キヤ」を別として意味も凡そ同様といえますが、これらが単に語尾に留まったのに対し、「あれをやるデス」とはいわない「です」が、今日、指定の助詞となったのでした。
各地方の豪族の首長主導による造語が様々な方言を生み出していき、地方の方言のままで終っていった中で、この「デエス」から「です」が生き残り、今日の日本語彙として昇格したのではないでしょうか。

ダグザとダグダの発音の関わりから、ダゴデヲスからは「だござをす」と「だごだをす」が想定され、ここからも音が採られ、語彙に組み入れられたと見られます。
「だござうす」の「ござうす」から一音替え、「御座(ござ)んす」が作られ、後に「御(ご)」が「座(ざ)」から離され、「ざんす」が出来た、「そうです」と言うところを「さいでやんす」同様、「さいざんす」と使われるようになったと思われます。
「ござんす」も「でえす」同様、江戸時代から使われるようになったのは、やはり、作られたものの暫くは眠っていたからであろうと見られます。
江戸時代には一種のささやかな文芸復興のような動きが起って、古い時代に作られたものの何らかの理由で眠っていた語彙が、浄瑠璃や歌舞伎の作家らによって再び見直され、作品に取り入れられるようになったことが、それが使われる大きなきっかけとなったと考えられます。作品の上演で熱狂し感激した聴衆が、役者の演じる台詞を好んで用いるようになったのがきっかけでしょう。
『広辞苑』によれば、「ざんす」は江戸吉原丁子屋の遊女に始まる言葉とされていますので、「御座んす」の「御」を除いた「ざんす」は民間造語。
「竄す」「讒す」はいずれも、漢字の音読みに「す」を加えた語であるので、訓読みに繋がった直接的な造語とは関わりなく、語彙の中の日本語として成立した語です。
音読みは、漢字音を五十音節文字音に読み直して、日本語として加わえられた語であります。
歌舞伎は風紀を乱すという理由で、何度も幕府による取り締まりの対象となった歴史を持つものの、世界でも類がないといわれる女形が許されたのは、ヘテに由来する女装の祭りという前例があったからであると考えます。もともとヘテの女装は、女装を強制された兵士の悲哀を表現したものであったのでしたが、祭りの陽気さによって、その悲哀さは何処かへ吹き飛んでしまった。何のための女装なのか判らなくなった祭りに、幕府も庶民も慣れっこになっていたことがその理由と見ます。
「あれをやるでえす」となる筈の「デエス」が作られた当初、何故人々の間に普及していかなかったのか。これはこの語の造語と普及を進めようとしたタルシシ系の豪族、またはタルシシの子孫の衰えにあるのではないかと見ます。
「惨(むご)い」には「タラ」を加えた「惨たらし」がありますが、ヘブル語の「ムグ」は「衰える」「衰弱」「溶ける」の意味を持った動詞で、「ムゴタラシ」とはタルシシが衰えたことを伝えた造語でありましょう。他に「絶える」という動詞がつくられていることからも、それが覗えます。
タルシシの移住者が少数であったことが、永年の間、金髪、碧眼、長身といったタルシシを特徴付ける遺伝子が同時代の同道者ヘテと同様の命運を辿ることになった、それらのことを伝えたものと見ます。

一応、太子に始まる大和朝廷による造語を朝廷造語、民間で造語され普及した語を民間造語としましたが、一連の「ダデ」「ダベ」「キヤ」「ズラ」「ジヤ」「モン」「ダ」「ゼ」を語尾に付けた方言を、豪族の首長主導による豪族造語としておきます。
「デエス」も豪族造語に連なる語で、当初作られたものの直ぐに廃れたか、使われなかった。数百年経過の後、歌舞伎に取り入れられることによって、死語となるのを免れたのではなかったでしょうか。
前述した方言以外の豪族造語と思われる方言には、新潟の「あれをやるラー」があり、これは「やるロー」とも発せられる。また、関西弁に「あれをやるんネン」があります。
東北には「あれをやるガニ」があり、これらは「あれをやるズラ」「あれをやるダベ」「あれをやるのジヤ」同様、作られるようになった動機、経緯は、同じ発意、方針に基づいたものと見られます。
新潟の「ラー」が古代エジプト神「ラー」としますと、主導の豪族はミツライム系の人ということになりましょうか。関西の「ネン」も、双子左手神ダビデの古代エジプトにおける神名「タテネン」の二音節「ネン」を入れた音としますと、こちらの豪族もミツライム系ということになりそうです。
東北の「ガニ」はヘブル語の「我が園」、「ヤーウェ神の園」の意味ですが、こちらは特定の氏族を優先するよりも、列島全イスラエルを包含した語となっています。
ダゴデヲスの「ダゴ」は清音化され「凧(たこ)」「蛸・章魚(たこ)」「胼胝たこ」「?瘡(たこ)」が作られ、地名に「多古(たこ)」(千葉)があります。
「タゴ」からは「担桶(たご)」「田子(たご)」が出来て、動詞に「違(たご)ふ」が作られ、地名では「(旧)多胡(たご)郡」(群馬)があります。
「ゴデ」は清音化され、漆喰を塗る用具「鏝(こて)」、鎧の附属具「篭手(こて)」があります。
地名では「犢橋(こてはし)」(千葉)、「鐺山(こてやま)」(栃木)が該当しています。
「ゴテる」「ゴテゴテしている」などに使われ、清音化した音は「コテンコテンにやられる」「コテンパアだ」に使われています。「パア」はヘブル語で「粉々に割る」という意味で、「彼は花瓶をパアにした」というように用いられるわけですが、日本語では一般的に「台無しにする」「駄目にする」といった意味で用いられているようです。
「デヲス」は「でえす」として、用いられた。
「ゴザ」からは「蓙(ござ)」「茣蓙(ござ)」「御座(ござ)」が作られ「ゴザオス」から「ゴザンス」が出来、「御座んす」と充てられ、「御座い」が出来た後「御座います」となった。「御座(ござ)る」は「居る」「ある」「来る」「行く」の尊敬語としての他、様々な意味で用いられています。地名に「御座(ござ)」(三重)、「御座(ござ)ケ岳」(大分)、「御座(ござ)岳」(沖縄)、があります。
あぐらを意味する「胡座(こざ)」が出来、関連する地名に「古座(こざ)」(和歌山)、があり、「御座い」に関連していると考えられる地名に「小斎(こさい)」(宮城)があります。他に作るを意味する「こさえる」があります(民間造語?)。
「ザオ」を清音化した「サオ」から「棹・竿(さお)」、麻の古名「真麻(さお)」が生まれ、地名に「佐保(さお)」(奈良)があります。
「ゴダ」の清音化した音からは「答(こた)ふ」「応(こた)ふ」「報(こた)ふ」が作られ、後に「答える」となった。同じ音で、忍ぶ、こらえるの意味の「堪(こた)ふ」も生まれ、後に「堪える」となった。
「ゴタ」からは、「ごた煮」が出来、お粥好き神のごた煮。もめごとの「ゴタゴタ」としても用いられるようになった。
「コダ」からは「拘(こだわ)り(る)」が作られた。ゴダヲをコダワとし、名詞化「り」、または動詞化「る」が加えられるようになったとも解せます。
地名に「小田(こだ)」(新潟、岩手)、「小田(こた)」(福岡)、「後台(ごだい)」(茨城)があります。
「ダヲス」は清音化され、いきなり能動形の「倒(たお)す」が出来、後に「倒る」「倒れる」が作られるに至った。
清音化した「タヲ」からは「撓(たを)む」、「タワ」と替えられた音からは「撓(たわ)む」が出来たと見られます。さらに「たをやか」が作られた。他に、たばを意味する「(漢字入力不可)たお」があります。
地名には「田尾(たお)」(長崎)、「垰(たお)」(山口)があります。(10.31.)

タルシシ人は自民族のことを何と呼んでいたでしょうか。やはり、ケルトと呼んでおり、それは「ケルタエ」、または「ケルトイ」という古名で呼んでいたことでしょう。これらも日本語彙に加えられたと見られます。
「ケル」「ルタ」「タエ」と分けられ、後者は「ルト」「トイ」が採られたようです。
まず「ケル」からは動詞「蹴(け)る」が作られた。今日、ウェールズ地方で見られるタップ・ダンスは、ゲール(ケルト)の民族舞踊とも言われていますが、日本風に表現すると、足蹴り踊りとも、足鳴らし踊りとも呼べるこの民族舞踊は、タルシシの時代から存在していたでしょうか。
スペインでは今も、足蹴り踊りにも似た、フラメンコが盛んです。フラメンコは、ゲールのタップ・ダンスとは、ルーツは同じであったが、進化の方向性が異なったダンスでしょうか? 素朴なダンスが、北はクールなタップ・ダンス、南は情熱的なフラメンコへと進化した。
「蹴る」に関連していると思われる地名に「鳬舞(けりまい)」(北海道)がありますが、「鳬舞」とは即ち、「蹴り舞い」のことで、この「足蹴り踊り」を思わせる地名となっています。
「ルタ」は「ら」行音で始まる音なので、冠音に「う」が加えられ、「訴(うった)え」の古形「訴(うるた)ふ」が作られたと見られます。後に「る」は後部に移され「うったえる」となった。その後、「うろたえる」が出来たと見られます。
「訴(うるた)ふ」が出来た後、漢字「狼狽(ろうばい)」を充て、「狼狽(うろた)ふ」が作られた。他に「坩堝(るつぼ)」が考えられ、音読みながら「流謫(るたく)」があります。
タルシシは、列島で自分達が運んで来た金や銀、或いは他の金属を溶かすための坩堝を作ったのでしょうか。「るつぼ」は訓読みで、造語された音です。「ツ」は「t」音に充てられた「ト」音であろうと思われます。
「タエ」からは、「妙(たえ)なる」、動詞「耐(た)える」「堪(た)える」「絶(た)える」が作られたと見られます。他に「栲(たえ)の木(栲は正字入力不可のため)」、があります。
タルシシはよく訴えを起し、よく狼狽した。困難によく耐えた。
「トイ」からは「問(とい)」が作られ、タルシシはよく問いを発した。他に「樋(とい)」が作られたと考えられます。
「ケル」から始まる地名で敢えて挙げるとすれば、「慶留間(げるま)」(沖縄)があります。
ケルト人は、インド・ゲルマン語族ともいわれますが、「げる」はケルトのもう一つの呼び名「ゲール」を充てた音で「間(ま)」は「エミマ」の「マ」、タルシシとエドムの契りに始まった命名と見られます。他に「下呂(げろ)」(岐阜)があります。
タルシシには、来住後、先住エドムや他の支族と婚姻を結ぶ人々とがあって、そうでないタルシシの中には、九州から離れて北海道や樺太へ移動した人々もあったようです。
ケルトの母音を替えたと考えられる地名に「計呂地(けろち)」(北海道)があります。他に「計露(けろ)岳」(北海道)があり、「花露辺(けろべ)」(岩手)は、ゲールとルベンの契りによる地と見えます。
「トイ」から作られたと思える地名に「問(とい)島」(岡山)、「土居(とい)」(福岡)、「都井(とい)」(宮崎)、「土肥(とい)」(静岡)、「戸井(とい)」(北海道)、「問牧(といまき)」(北海道)、「問寒別(といかんべつ)」(北海道)があります。他に、「問屋町(といやまち)」(岐阜)、「問詰(といづめ)」(静岡)、「問御所町(といごしょまち)」(長野)が。
「トイ」から「オイ」の母音は、主に形容語に用いるようになり、形容詞となったと見られます。
例えば、「目敏(めざと)い」「目聡(めざと)し」「あざとい」「疎(うと)い」「太(ふと)い」「酷(ひど)い」「惨(むご)い」「青(あお)い」のように。
「ムグ」に「オイ」が加えられて「惨い」が出来たといったように。

ケルト神話で、海神「リル(ヤーウェ)」の息子、常若(とこわか)の国の王子「マナナン・マクリル(ミカエル)」からは、聖数7と、七人のみ使いの長を表す「七(なな)」が作られたと見られます。
『日本書紀』中、阿倍比羅夫臣の項に見える「海神」は、この海神マナナン・マクリルから採った概念と見られます。
「リル」は、「ら」行音で始まる音なので、冠頭に母音「お」が加えられ、「降(お)りる」「下(お)りる」が作られたと見えます。「やをよろづ(八百萬)」は「ヤーウェは降りて来られた」の意味です。
後世「降りる」「下りる」は、自動詞の上一段活用に位置付けされました。(11.14.)
「降りる」の後「降(お)る」が作られ、「居(お)る」「織(お)る」「折(お)る」「愚(お)る」が出来たと見られます。
「折れる」「捲(まく)れる」「捲(めく)れる」「剥(むく)れる」から、助動詞には「レル」「ラル」が採用されたようです。
オガム文字が作られたのは、5,6世紀頃とされていますので、タルシシは文字を持っておらず、これらの神名は口伝で伝えられた後、大倭ではシドン文字で記録されていたと考えられます。
「ダグザ」「ダグダ」は、両方の音が記録に併記されていたことから、共に用いられることになったのです。
オガム文字の創始者の神といわれる「オグマ」がありますが、これは清音化され「おくま」の神と言われるようになって、この神に供える御洗米を「御?(おくましね)」と言っていたのでした。地名では「尾久(おぐ)」(東京)、「邑久(おく)」(岡山)、「小熊(おぐま)」(岐阜)、「奥(おく)」(愛知、沖縄)、「奥間(おくま)」(沖縄)があります。
「オグマ」からは「拝(おが)む」が作られたと見られますが、オガム文字のオガムと「拝む」とは無関係と見られます。
「おくまの神を拝む」というような意味から始まったと思われますが、おがむの古音は「おろがむ」です。オロは恐らく「愚(お)る」を入れた音で、暗黙の批判を込めた音と見えます。
列島タルシシの間では「オグマ神」が崇められていたのでしょうか。オグマ神を拝む信仰は「オグマ」を「おくま」と音を一つ替えることで、大和朝廷からはヘブライ一掃後も許された信仰の一つでしょう。(2013.1.9.)

列島へ移動された金、銀、青銅、鉄
ヘフジバらが、ヤーウェ神より多大な祝福を受け、列島移住に際して与えられた物資のなかには、金、銀のほかに、青銅、鉄が含まれていたと考えられます。「イザヤ書」には次のようにあります。
《17.わたし[ヤーウェ]は青銅の代りに黄金を携え、くろがねの代りにしろがねを携え、木の代りに青銅を、石の代りに鉄を携えてきて、あなた[ヘフジバ]のまつりごとを平和にし、あなたのつかさびとを正しくする。》(『イザヤ書』60章17節)
ヨサブ率いる移住団は、金銀のほかに、青銅と鉄を列島へ持ち来たらせた。そして、タルシシが坩堝を作り、人々は金属を溶かして、列島での建国に備えて、祭祀や儀式のための用具を作り出した。これが新たに創られた王国でのまつり事を容易にして、それ以後の祭りを平和裡に進めることを可能にしたのであります。
列島ユダ王国で祭り事の儀式等に際して、最も重要な役割を果たしたのは、三種の宝物でありましょう。
モーセ出エジプトの頃から、それを保持している間モーセとアロンの権威を安定させていたと伝えられている古代イスラエルの三種の宝物とは、神による食べ物マナを入れた壷、アロンの杖、十戒を刻んだ石版二枚がそれであると伝えられています。が、ソロモン王の時代には、既に、石版を除いて他の宝物は失われていたと聖書にはあります。
そこでヤーウェ神は、神の食べ物の壷は、その代りに神を表す宝石に、そしてアロンの杖を青銅の剣に、十戒の石版を鉄の鏡に、切り替えられたのであります。17節の「木の代りに青銅を、石の代りに鉄を携え」とあるのがその切り替えを表明した事柄であります。
この切り替えられた宝物は、改新日本国以後は「三種の神器」と命名されることになったでしょう。
マナの壷は、勾玉に切り替えられ、かねてから日ユ同祖研究者によって、勾玉の形は、「神、ヤー」を表すヘブル文字の「ヨッド(y)」を象ったものと言われているように、代々大王は勾玉を胸飾りや首飾りとして用い、ヤーウェ神を敬うことから離れなかったのであります(上古初期天皇の御姿絵には大概、勾玉を胸飾りに用いておられるのが見てとれる)。
タルシシは、祝いの金銀の他に、大量の宝石、鉱石類を列島へ持ち来たらせていて、始めの頃作られた勾玉は、タラコネンシスから運ばれてきた鉱石が用いられたと考えられます。その宝石、鉱石から、大王、女王の首飾りや胸飾りが、主に作られたと見られるわけです。モーセの頃から使われているタルシシの鉱石は専ら重用されていたのであります。
そして、アロンの杖の代りとして、青銅から祭祀に用いる剣が作られた。
更に、石版の代りに鉄の鏡が作られ、その裏面にはモーセの十戒の代りに、ヤーウェ神を表す「私は有りて有る者」を意味する「エヘイェ・エシェル・エヘイェ」が、シドン文字で刻まれたのではなかったでしょうか。
ヘブライ一掃の理念からすれば、シドン文字の刻まれた鏡は改新以後、処分の対象となったはずのものでした。にも関らず、何故、明治以後、八咫鏡の裏面にヘブル文字が刻まれているという噂が立つに至ったのでしょうか。しかし、王権の象徴とされる三種の神器は例外であり、処分の対象外であったか?
大量に運び込まれた青銅からは、後に祭祀用の銅器、銅剣、銅矛、銅鐸等が作られ、専ら祭祀と儀式のために用いられたことでありましょう。(2.28.)

エドム王国への献呈
出雲は島根県荒神谷遺跡からは纏めて埋められた銅剣が大量に出土していますが、これらを作っていた粗金は、ヘフジバ、ユダの民らによって持ち来たらされたものと思われます。
銅剣は、列島総出土数(約300本)を上回る358本が出土し、同遺跡からは他に銅鐸6個、銅矛16本が見つかっています。
運び込まれた青銅の粗金の多く、大半は、ユダのヘフジバからエドムへの献呈品となった物資と推測されます。これが銅剣の出雲出土数が列島総出土数を、上回っている理由でありましょう。
発掘された銅剣、銅矛はみな実用ではない祭祀用の銅器と推定されています。(3.30.)

ところで、大倭では何故、全国規模に至って、実用にならない大量の銅剣、銅矛を作ることになったのでしょうか。
そもそも青銅の粗金の延べ板は、何処から運び込まれたのでしょうか。
大量の銅剣、銅矛も、最初は粗金の塊であったであろうと推測しましたが、これはカナン人によって精製され、カナンの地から運ばれた物であろうと考えます。
紀元前12世紀頃に、カナン沿岸に商業都市を築いていたフェニキア人達は、前10〜7世紀頃には地中海に交易ルートを開拓しており、交易の為の物資として、青銅を手に持ちやすい牛皮形の板にして量産し、外国との交易に用いていました。
銅の産地であったキプロス島とは交易が盛んに行われ、フェニキアの金工職人らが牛皮の形に成形させた青銅鋳塊を作っていたのでしたが、渡来のカナン人達は、彼らから青銅塊を調達したのでしょうか。
牛皮形の青銅鋳塊であったか、或いは銅と錫が別々に運ばれたか、その青銅に精錬する技術を多少受け継いでいた沿岸カナン人(主にペリシテ人達)が列島移動に備え、ヘフジバへの贈り物として、準備したのであろうと思えます。
青年ダビデと一騎打ちしたペリシテのゴリアテは、青銅の鎧冑を身に付けていました。
サウル王の時代のイスラエルには鉄工が一人もおらず、農具の斧や鍬、鎌に刃をつける時には、料金を払ってペリシテに頼んでいたと『サムエル記上』にはあります。(4.15.)
何故、鉄工がいなかったのか、についてこうあります。
《そのころ、イスラエルの地にはどこにも鉄工がいなかった。ペリシテびとが「ヘブルびとはつるぎも、やりも造ってはならない」と言ったからである。》(『サムエル記上13章19節』)
この頃に剣や槍をもっていたのはサウル王とその息子のヨナタンだけであったとあります。
では、イスラエルのヘブル人達は、いつかは殺し合うことになるかも知れないペリシテ人のいうことをよく聞いて、剣や槍を造らないようにしようと決めて鉄工を置かなかったのでしょうか。いや、そうではなく、サウルが王となったばかりのイスラエルにはまだ、聖なる国は殺人の為の道具を造るべきではないという理想国の考えが息づいていたのです。ヤーウェ神の「汝殺すなかれ」の戒めを堅く守る人々の国は剣、槍といった、戦闘や殺人の為の道具を造るべきではないと。
イスラエルの在り方をよく知っていたペリシテ人はそれを主張しただけであったのです。だから当初、ヘブル人もその考えに従っていたのでしたが、その理想は直ぐに壊れ、ヘブル人は剣を取ってペリシテ人と闘うことになったのでした。
ヘフジバが、ヤーウェ神によって列島行きを要請され、受諾した際、再建する国をどのような国にしたいのかを尋ねられたに違いありません。勿論、ヘフジバは殺人のない平和な国にしたいと願ったことでしょう。そして、進んで平和の祈りを行い、種々の施策を構じたことでしょう。(5.18.)

切れない剣、刺せない槍
ところで列島内の大量の出土品は、どうして、切ることの出来ない剣の「銅剣」、刺すことの出来ない槍の「銅矛」、なのでしょうか。
これは前出「サムエル記上」の「ヘブル人は剣も槍も造ってはならない」の言葉の一つの結果でありましょう。
若く理想に燃えていたヘフジバは、このペリシテの発した言葉に甚く共感して、列島イスラエル再建の暁には、それを実行に移そうと考えたのであります。しかし、現実的にはそれは無理なことであって、予期しない敵に備え、実用の剣や槍は必要な分、造らざるを得ない。それは鉄で造るわけですが、そのままでは現実に流されるだけであり、殺人無き平和へ向けるための運動が出来ない。そこでヘフジバは一計を案じ、青銅で切れない剣を造らせ、祈りの儀式にそれを充てることにしたのです。
建国初年の儀式に備え、三種の宝物の一品として、切れない銅剣が造られたのです。三種の神器の一つ「草薙(くさなぎ)の剣」とは、切れない銅剣なのです。
切れない剣は、既に武器としての剣の役割を果たしていません。刺せない槍もまた同様です。これは何を意味するのでしょうか。
切れない剣とは、この世界で剣が造られるのは止むを得ないが、造られた剣は殺人の道具としての剣とならないことへの願いなのであります。剣や槍が殺人の道具とならないよう、殺人の道具はいずれ無くなって欲しい、ということへの願いと祈りが、この切れない剣、刺せない槍には込められているのです。
列島イスラエル建国初年に合わせて銅剣は鋳造され、その年ヘフジバを祭主として、平和への祈りの儀式が行なわれたことでしょう。「イザヤ書56章」に「祈りの家」と記されたように。
ヘフジバの居所である列島ユダ王宮に始まったこの祈りの儀式は、他の氏族で形成された郡国にも義務付けられ、各々の郡国ではこの切れない銅剣を鋳造して祭具とし、郡王を祭主として祈りの儀式をそれぞれ行なうようになったと見えます。
これが全国で300本に至る、切れない銅剣出土の理由でありましょう。(5.21.)
では、出雲の358本はどう捉えたらよいでしょうか。この切れない剣を用いた祈りの儀式は列島ユダから始まった祭りなので、要は何故、エドムが同様のことを行なうようになったのかという点です。ヘフジバの発案をどうして、エドムが受け入れたのでしょうか。
エドムがこの祈りの儀式を行なうようになったのは、恐らくヘフジバ亡き後のことで、「出雲の国譲り神話」の発端となったユダによるエドム統合が行われた以後、これを行なうようになったと見られます。つまり、エドムはユダに統合されたことにより、列島イスラエルの一員と見なされることになったのです。そのことによって、エドムはこのヘフジバの切れない剣の儀式を行なうことを義務付けられたのです。エドム王国はそのユダ王国の協力要請に従ったというべきでしょうか。この切れない剣の儀式は、カナンのイスラエルでは行なわれていませんでしたから、列島でヘフジバを通して初めて、始められた儀式といえます。
ユダによるエドム統合が紀元前500年頃と推定しますと、その時の統一王は日本神話に従えば「ににぎのみこと」です。そして、その約100年後に北イスラエル十支族が移動して来ることになります。この支族も、列島ユダの支配の下に置かれることにより、この時からユダは大ユダとなります。さらに十支族が列島イスラエルの一員となることにより、切れない剣を用いた祈りの儀式を行なうことを各々支族は義務付けられたのです。後続して入国して来た支族も、また同様であったでしょう。
ヘフジバの時以後も、切れない剣は造られ続け、これが出土数658本に至った理由であります。
これは、この儀式が廃止されるまで継続され、全廃が決定された時には、300プラス358、658本。全国で最低でも658箇所に及んで、この平和の祈りの儀式は行なわれていたと見られます。大倭とは、祈りの家々の国であったのです。これは約1000年続いたのです。
「シドン」は「ツィドン」とも表記出来ますが、これは「ちどん」でもあり、最初の二音節を清音化した音は「ちと」です。この「ちと」から「千歳(ちとせ)」が造語されたのです。
シドン文字を用いた列島イスラエルの時代は、前400年頃から後600年頃までで、約1000年続いたことを言い表しているのです。
列島イスラエルは、千歳の齢を経ていたことを告げているのです。
全廃された時とは、この切れない銅剣が一堂に集められ、土中へ埋められた時です。
それはいつのことでしたでしょうか。それは列島イスラエルを閉じることが決定された時でしょう。大化改新の直前に当たりましょうか。(5.28.)

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