深夜残業見舞い
Novel by Miyuri Akihara






 一礼して開けた襖の向こうに、文机に突っ伏している主の姿を見た瞬間、小十郎は顔色を変えるよりも先に腰を上げ、その傍へと駆け寄っていた。
「政宗様! いかがなされました!」
「Ah……っんでも、ね……」
 政宗はのろのろと文机から顔を上げた。
「ちょいと……眼が疲れた」
 言いながら、掌で左目を押さえている。小十郎の背筋に悪寒が走った。
 独眼竜の名が示すとおり、政宗は隻眼である。右の眼は幼少時の病のために失われ、眠るとき以外は常に眼帯で覆われている。左の眼すらも手で隠してしまっては、政宗の視界は完全に閉ざされることになる。
 小十郎は労るように政宗の肩を抱きながら、自らの動揺を必死に抑え込んで政宗に呼び掛ける。
「医師を呼びましょうか」
「いらん、大げさだな。今夜はちぃとばかり根を詰めちまっただけだ」
 口調とは裏腹に、やや力なく、鼻に掛かった涙声で政宗が言う。左目の様子を窺うことは出来なかったが、どうやら涙腺が刺激されているらしい。
「擦ってしまってはいけません。傷がつきます」
 小十郎は政宗の手首を取ると、有無を言わさず左目の上から引き剥がした。
 露わになった政宗の瞳は、少しばかり充血し、涙を溜めていた。文机を照らしている蝋燭の明るさすら眩しいらしく、辛そうに目が眇められる。
 その痛々しい様子に、小十郎の眉間には深く皺が寄った。
 左の眼のみに頼る政宗は、神経を集中しなければならない細かい作業を長時間続けていると、どうしても過度の負担が掛かってしまうようだった。もちろん、家中に仕える典医には定期的に診せている。
 今日一日、政宗は執務室での事務仕事に費やしていた。
 時刻は既に深夜と呼ぶべき夜更けにさしかかっている。人払いをしていたせいで、今この場には政宗と小十郎の二人しかいない。政宗は、熟考を要する決裁や親書を認める際に他人の気配が近くにあることを嫌う。せめて小姓の一人でも張り付かせておけば、と小十郎は臍を噛む。
「目薬はどうなさいました」
「さあ、どっかその辺にあるんじゃね……?」
 涙目を見られたことが悔しいのか、政宗は目を伏せてぶっきらぼうに答えた。
 小十郎は政宗から離れると、床の間の並びに据え置かれている飾り棚に向かった。棚の下段にある小引き出しを開けて、小さな硝子瓶を取り出す。自分がしまった場所にそのまま保管されていたそれを持ち上げ、明かりに透かすようにして中身を確認するが、量が減っている形跡はない。政宗の口ぶりからしても、これが使われていないことは明らかだ。
 小十郎は溜め息を吐いて、政宗を振り返った。
「処方したとおりに点眼するよう、医師が申し上げていたでしょう」
「キライなんだよ、それ」
「目薬など、苦くも痛くもないでしょうに」
 小十郎がたしなめる口調で言い返すと、政宗は、ふいっとそっぽを向いた。
「……うまく差せねえから嫌だ」
「何を子供のようなことを」
 途端に政宗の機嫌が降下した。
「ガキ扱いすんじゃねえ! ……つっ」
 かっとなって眼を見開いた途端、また痛みが走ったようで、政宗は顔を顰めながら俯いた。何度も瞬きを繰り返す瞳と睫毛の間から、涙の粒がこぼれ落ちる。
 小十郎は顔を青ざめさせて政宗の許に戻ると、政宗に目薬を持たせようと手を取った。
「とにかく、まずはこちらをお使いください」
「……」
 しかし政宗は首を縦に振らず、目薬を受け取ろうとしない。この年若い主は、とにかく薬と名の付くものを毛嫌いしているのだ。幼い頃、右目を失うことになった原因である重篤な病に臥せった折のことを思い出してしまうのかもしれない。
 それを思うと小十郎の胸が痛んだが、だからと言って政宗の我が侭を通すわけにはいかない。
 彼のことを思えばこそ、早く回復するよう手を尽くしたいのだし、政宗自身にも己の身体を労るという意識を持ってもらいたいのだった。
「政宗様」
 小十郎が強い語調で名を呼びかけると、政宗はしぶしぶと言った様子で小十郎に向き直った。
 億劫そうに目を眇めながら小十郎を見返した政宗の表情に、ふと、何事かを急に思いついたような閃きが走る。
 その直後、政宗は突然に身体を小十郎に向かって投げ出した。
「ま、政宗様……っ!?」
「おー、かてぇ枕だな、こいつは」
 場違いなほど暢気に発された言葉通り、政宗は小十郎の膝を抱え込むと、枕代わりに自らの後頭部を預けた。
 仰向けに寝転がり、膝の上から小十郎を見上げると、政宗は高らかに宣言した。
「どうしてもって言うなら、お前がやれ」
 まさかと小十郎は呆気にとられた。膝枕で目薬を差してもらうなど、それこそ、一体幾つの幼な子のつもりか。
「どうした、早くしろよ」
 一方の政宗は、先程まで弱々しい駄々をこねていたのが嘘のような豪気さで、催促までしてくる始末だった。
 おそらく痛みはまだ続いているはずなのに、まるでどこ吹く風といった表情で、唇にはうっすらと笑みが浮かんでいる。政宗がこの程度で音を上げる人間ではないと解ってはいても、そのふてぶてしさには返す言葉が見当たらない。
「……仕方ありませんな」
 小十郎は盛大に肩を竦めたが、主君を膝から追い出すことなどできるはずもない。身動きもままならないこの状況では選択肢は他に無かった。とにかく、今は政宗に目薬を与えることが先決である。
 小十郎は硝子瓶の蓋を開けると、政宗の顔を覗き込んだ。
 なにしろ主君に対して処置を施すのだから、失敗は許されない。小十郎は真剣な面持ちで政宗の左目を見つめた。
 すると、政宗が急に戸惑ったように視線を彷徨わせたかと思うと、顔を横に向けた。これでは、目薬を点眼することができない。小十郎は眉を寄せた。
「政宗様、動かないでください」
 小十郎は空いていた手を政宗の横顔と己の膝との間に滑り込ませると、梃子のように動かして彼を正面へと向き直らせた。
「てめェ、何すんだっ」
「じっとしていてくださらないと、目薬が差せません」
「…………」
 なぜか政宗は黙り込んでしまった。こころなしか、ほんのりと頬が薄紅色に上気しているような気がする。目元も先程より潤んでいるように見えて、症状が辛いのだろうかと小十郎は考えた。それならば一刻も早く楽にして差し上げねばと気が急いてしまう。
「お辛いでしょうが、少し、瞬きを我慢してください」
「お……OK……」
 かろうじて了解の意は唱えたが、尚も政宗は落ち着かなさげに視線を左右に揺らそうとする。緊張しているのだろうか、と小十郎は思ったが、たかがこれしきの事で政宗が身構える理由が解らなかった。
「眼を逸らさずに、小十郎をまっすぐ見て」
 小十郎は背を屈めるようにして政宗へと更に近付き、その左目を捉えようとしっかり見据えた。すると、政宗は観念したのか、ようやくおずおずと小十郎と眼を合わせた。
 その隙に、小十郎は素早く瓶を逆さにして、薬液を垂らした。
「はい、終わりましたよ」
 確実に政宗の目に点眼されたことを確認すると、小十郎は政宗に添えていた手で労るように彼の頬を撫でた。
 一仕事を終えた安堵感を胸に忍ばせつつ、小十郎はふと、眼下の政宗の様子を見つめ直した。
 常では有り得ない体勢による距離感は、膝にかかる温もりや重みと共に、政宗の存在を随分と近くに感じさせる。
 政宗は目を閉じてじっとしていた。指示されたとおりに薬が浸透するのを待っているあたり、医師の進言を無視しているわけでもなく、だったら初めから素直に言うことを聞いて欲しいと願ってしまう。
 他人への警戒心が強く、加えて奥州筆頭としての高い自尊心を持つ彼が、このように無防備な格好でいるのは、平素であれば考えられない。
 信頼されている、と僭越ながらも思っても良いのだろうか。
 政宗がまだ幼かった頃、しがみついてくる小さな身体を抱き締め返すことは、小十郎にとって親愛の証だった。
 しかし、目の前で小十郎に身を預けている政宗は、もう立派な青年だ。子供のような我が侭を言う癖は直らなくても、決して子供ではない。それを解っているのに、お互いに手放せないのは、もはや親愛などと美しい言葉で呼べるものではないだろう。
 それにしても、と、小十郎は思わず独りごちる。
 この距離、この光景は、少々、目の毒というやつかもしれない。
 まるで、秘められた戯れ合いを思い起こさせるようで―――
 小十郎は、即座に内心でそれらの思考を振り払った。疲労している主君を前にして、このような雑念など不埒に過ぎる。
 小十郎は取り繕うように真面目な声を出した。
「ご政務はここまでにして、今宵はもうお休みいただいた方がよろしいでしょう」
「……いいや」
 政宗は小十郎に膝枕をさせたまま、拒否を口にした。
「お前に持って来させた報告書があるだろ。アレは今夜のうちに読んでおく」
「それは、明日になさいませ」
 小十郎が執務室を訪れたのは、とある案件の報告書を持って来るようにと政宗に命じられたからだった。
 その書類は部屋の襖の前に放置されている。政宗の不調を察知した瞬間に、その場に放り出したまま、すっかり忘れ去られていた。
「明日の朝議までに、あらかた考えをまとめとかなきゃなんねえ。それにはソイツに目を通す必要がある」
「ですが……」
 報告書は十数枚にわたる書状から構成され、冊子のように紐で綴じられている。この量の書類を今から読むなど、目の疲れた政宗には相当の負担になるだろう。
「無理はなりません」
「これくらい平気だっての。そのうち薬も効いてくるだろ。俺が仕事するって言ってんだから、止めるんじゃねえよ」
「ご政務に対する熱意は大変感心ですが、今はそれよりもお身体を休めていただくことの方が大事です」
 小十郎が態度を崩さずにいると、膝の上で政宗がいきなり弾んだ声を上げた。
「Hey、小十郎」
 それは、明らかに何事かを企んだときの声音だった。








後半につづく



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