歌に込めた想い−1

熊谷めぐみ(ヘルスカウンセリング学会員)

長いトンネルの向こうにぽ〜っとかすかな光が・・・病癒えて知った深い絆

 昨今「うつ病」を取り上げた新聞記事や本、雑誌、テレビ番組が如何に多いことか。厚生労働科学特別研究事業によると、成人の14人〜15人に一人が生涯に一度はうつ病になっている、(5月22日、日経新聞)という。
 私自身、49歳の時にこの病気に陥った。朝起きて夫や娘を送り出すこともできない、家の外に出ていく気力もない、人とまともに話もできないどころか、声さえもかすれ、震えてしまうような有様となり、それまで続けてきた英語を教える仕事も突如中断せざるを得ない状況になってしまった。それは今から5年前のことだったが、当時私の教室に通って来てくれていた生徒には、はっきりと病名を告げることもできず、単に体調不調の為、当分レッスンを休ませて下さいとお願いし休養した。1、2ヶ月の休養で治るものと信じていた私の期待は裏切られ、それから約2年間、眠る為には導眠剤を飲み、何を食べてもおいしいと思う感覚もなく、やっと飲み込んでも胸につかえ感がでてしまうという身体症状を抱えつつ、精神的には出口の見えないトンネルの中で、いつになったらこの病気は治るのだろう、いや、もしかしたら治らないかもしれないという不安と、どうして私がこんな病気になってしまったのという怒り、そして早く元の自分にもどしてよ!という焦りにさいなまれていた。顔も洗わず(しかしなぜか歯磨きだけは1日に何度もやっていたが)日中もソファーの上で時計が時を刻む音だけを聞きながら、また何もできずに1日が過ぎていくと嘆いていた。今になってみれば、あの時の私はいったい何だったのか、思い出したくもない様な毎日が延々と2年間も続いた。
 家事ができなくなった私を、近くに住んでいる母が助けてくれた。食事を作り運んでくれ、洗濯を済ませて帰っていった。夜は仕事から戻った夫が愚痴一つこぼさず、黙々と後片付けをやってくれた。娘は残業の多い会社にいたことや、母親の変わり果てた惨めな姿を見るに忍びなかったこともあってか、自分の食事の心配はいらないからと、ほとんど食事は外で済ませるようになってしまった。
 51歳の誕生日を迎える頃に、私はまるでトンネルの出口から差し込んで来るかの様なかすかな光を感じ、必死でその光をたどって行った時、「あっ、あれが出口だ」と確信し、その後は背中を押される様な勢いで、暗闇から光の世界へ一気に駆け抜けることができたのだった。
 病気になった当初は、体調が戻ったらまた仕事を始めるつもりでいたが、実際問題として、2年間も英語教室を休んでしまって、病気が治ったから再度始めますといっても、生徒達が戻ってくるわけではない。私が休業した時点で彼らは他の先生を探し、その先生のもとで勉強を始めているのは当然のことである。仕事を再開する事は、きっぱり諦め、これからは今までやりたくてもやれなかった事をやってみよう、そして、本当は自分が何をやりたかったのかを考えた。
 私は歌うことが好きだった。仕事を持っていた時も趣味として、声楽の先生に1ヶ月に一度、或いは2、3ヶ月に一度という時もあれば、半年ぶりのレッスンになったりすることもあったが、細々と歌うことは続けていた。それが病気になり、話す声もまともに出なくなったわけだから、歌う声など出るはずもなかった。元気になって最初に思ったこと、それは「もう一度歌ってみたい」という強い願いだった。
 いつまた、妙な病気になり声が出なくなってしまうかも知れない。それならば、声が出るようになった今、多少なりとも歌えるようになった今、娘に残しておきたい歌があるという思いで、昨年の夏に「きずな」という詩を書いた。その詩に曲をつけてもらい、自分で歌ったものが「きずな」というCDとなって出来上がった。歌は、うまくなくても、歌を通して、どうしても娘に知って欲しかったことがある。それは人生って、いつもいい時ばかりではないけれど、どんな時でも、くじけず生きていってね、という祈るような思いだった。
 5年前に病気になって、母親失格、妻失格のママだったけれど、英行さん(現在の夫であり、娘の育ての親)に支えられてママは今、こんなに元気になれたのよ、というメッセージを伝えたかったことが一つであり、もう一つは、22年前、6歳だったあなたには重過ぎる両親の離婚というものを体験させてしまったけれど、よく乗り越えてくれたわね、という想いも込められている。パパとの絆が切れてしまったという事は、娘にとって耐え難いものだったに違いない。しかし、その辛い体験を通して、人はまた、信じあうことを学び、そんな中に新しい絆が生まれてくるのかも知れないと、私は思っている。

2004年5月24日

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