――深い夢の中。
誰かが、自分の名を、呼んだ。・・・ふとそんな気がして、ほたるは目を覚ました。
部屋の中は暗く、そして静かだった。いつの間にか降り出した激しい秋雨が軒を叩く音が遠く聞こえ、それが余計に静けさを引き立たせる。
置き時計を見ると、すでに深更をかなり回っていた。どちらかといえば明け方に近い時間だが、雨のせいもあってか、外はまだ暗いようだ。
ほたるはベッドの上に半身を起こして、サイドテーブルに置いてあるランプの明かりを点した。
すりガラスでできたシェードを通してやわらかい黄白色の光がほたるの手に零(こぼ)れる。
暖かく、それ自身が一つの命を持つようなほのかな輝き――。
闇の中の薄暮のごときその淡い輝きを、ほたるは何よりも愛した。
真昼の太陽の眩しさは、時としてほたるには強すぎた。陽光に当てられると目眩をおこしてしまうことがあるというのもあったが、
ほたるには、自分という存在がどうしても明るい日の光にはそぐわぬ、ふさわしくないものであるような気がしてならなかったのだ。ほたるは自分の手をランプの明かりにかざした。
血が通っている事すら疑わしいほどに白い手のひら、そして冷え切った指先。
それはほたるの中の、重く苦しく冷たい思い出につながっていく。
ほたるが、すべてを失った日の思い出へと。4年前、父創一の研究所で起こった原因不明の大爆発。それはほたるから母螢子を奪い、そしてほたる自身も全身に大火傷を負う重傷を負った。
本来なら、死んでいるはずの重傷を。
今でもその時のことははっきりと覚えている、いや、忘れようとしてもそれは夜毎の悪夢となってほたるを苛(さいな)み続けるのだ。
*
闇夜に燃え盛る炎。それは幼いほたるを囲い込み、追いつめ、自らの中に取り込もうと、その無形の手をまるで意志あるもののように
こちらへひらひらと誘うように伸ばしてくる。
何度も父に連れてこられ、出入りを許されたところはほとんど歩き慣れていたはずの研究所は、その時焼け落ちる建物と炎とが織り成す、
見も知らぬ巨大な迷路と化していた。
熱風が吹きすさぶ辺りの空気は、吸い込んだだけで肺の中が焼けただれそうなほどに熱い。
汗がにじんで目に入り、喉は渇きの為に既にひりつくようだ。
『パパぁ、ママぁ・・・』
気の狂わんばかりの熱さの中、ほたるは一人、逃げ場を求めてさまよった。何歩か走って立ち止まる。どちらに行けば良いかと左右を見回し、
やがて見当を付けて走り出すが、数歩も行かないうちに行く手はあえなく焼け落ちた梁によってふさがれた。慌てて今来たばかりの道を戻る。
あたりには真っ黒な煙もたち込め始めた。覚えずほたるはせき込む。
気ばかりが焦る。早く早く早くとそれだけが頭の中をぐるぐると巡る。気の狂わんばかりの熱さ。
早くここから逃げ出したい。涼しくてきれいな空気を吸いたい。父や母の腕の中で休みたい。
その願いだけが、ほたるの中を虚しく巡った。『──ほたるっ!?どこなの、ほたる!』
炎のはぜる音に混じり、遠く、声がした。
『ママっ!!』
熱でゆらめく空気の向こうに、ほたるは求めていた姿を見出した。
霞む目に映った母の姿は、いつもの母とは似ても似つかなかった。
いつもきちんと整えられた長い黒髪も衣服も乱れに乱れ、煤(すす)に黒く汚れた顔はいつもの笑顔とは似ても似つかぬ
修羅の如き必死の形相を浮かべていた。
『ああ、良かったほたる・・・さぁ、すぐにママが助けてあげますからね・・・そこで待ってて──』
こちらに差し伸べられる手。しかしその手は永遠にほたるに届くことはなかった。
走り寄る母の横合いから、燃えて崩れ落ちた壁が襲いかかる。炎を含んでくすぶる壁は轟音を立てて母の上に覆い被さり──
・・・後に残されたのは瓦礫の山のみだった。
『──ママ・・・?いやぁぁぁぁーーーーっ!!』
渇ききった頬を涙が伝う。
ほたるの悲鳴を嘲笑うかのように、供儀(くぎ)を得た炎はますますその勢いを強める。
そこから先の記憶は、ない。
次に気がついたのは、冷たい手術台の上。背中には硬い金属製の台の感触が、火傷の激しい痛みの向こうに感じられる。
焦点の定まらぬ視界の中でかろうじて見つけたのは、白衣を着た父の姿。
『パ、パ・・・?』
そう呼びかけたつもりだったが、うまく口が動かなかったかもしれない。
父は黙ってほたるの口に吸入マスクを当て、麻酔によってほたるの意識は再び闇へ落ちていった。
──だから、ほたるは気付かなかった。
メスを持つ父の眼には、すでに狂気が宿っていたということに。
*
父に施された半機械化手術によって、ほたるはその一命を取りとめた。
猛火に灼かれたほたるの腕や脚は、見分けがつかないまでにきれいに再生された。父によって移植された合成細胞が
ほたるの体の失われた部分を補い、そして元からの体と機械でつくられた部分とを連結させる役割をも果たしているのだ。
それは、父の研究の成果の一つだった。
父は自らの娘を使って、その成果を試したのだった。ほたるは見つめていた掌をぎゅっときつく握りしめた。
自分のものではない手足、自分のものではない体、自分ではない自分――。
父が何度調整を繰り返しても決して治まることなく繰り返し起こる発作は、残されたほたる自身の身体の部分が異物に対して起こす
拒否反応なのかもしれない。
そして・・・その必死の抵抗も、もはや限界に近いであろう事も、ほたるには判っていた。
移植された細胞が余りにも強すぎ、機械部分による負荷と相まって、これ以上はほたるの身体自体が保たないのだ。
だが、その移植部分がなければほたるの命も保てないことも、また事実だった。
そのことが、ほたるにはたまらなく悔しかった。いつしか、声にならない嗚咽(おえつ)が懸命に食いしばったほたるの口元から漏れていた。
この忌まわしい移植細胞──自分の体に潜む、得体の知れない、もの。
それはいつの日か、ほたるに対して反逆の牙をむき、その残された身体と生命をすべて吸い取り、喰らい尽くす──。
空想というには、その予感はあまりにも強すぎるものだった。
──それならば、いっそ。
この身も心も、すべてをこの闇の中に溶け込ませ、沈めてしまおうか。
そうすれば、もう何も思い煩う必要もなく、永遠に安らぐことができる・・・。
ほたるの思いは昏(くら)くたゆたう。だが父はそれを許さない。毎日の検査に次ぐ検査。実験に次ぐ実験。
父はこの命を長らえさせてくれた。だがそのことに、一体どれほどの意味があるのだろうか?ほたるには分からなかった。
不安に怯えながら、ただ生きるだけの日々。
この暗く広い家の中で、そして世界の中で、ほたるは独りきりだった。
止むことのない雨は、未だ眠りの内に沈む街に激しく、そして冷たく降りそそぐ。
夜明けは、まだ来ない。
(終)'98.10.27 byかとりーぬ