Rainy Rose


  

 夕方から降り始めた秋雨は、夜半に近くなるにつれ、次第に大振りになってきていた。
  この雨では随分と木の葉も散らされてしまうことだろうと、せつなは軒先を激しく叩く雨音に耳を傾けながら考えた。

 せつな以外に人影のなく、またテレビもオーディオもつけていない階下の居間は、その次第に強まる雨脚以外は、静寂に包まれている。
   そしてせつなが一時(いっとき)止めていた文庫本のページを繰る手を再び動かすと、やがてはそれすらも、耳から遠ざかっていった。

 ほたるはとうにベッドに就いていたし、みちるもまた、明日はとある大企業主催のコンサート関係者との初顔合わせのため、朝早くに出かけなければならなかったのだった。
  「音楽家っていう人種を理解してないわね、朝の九時半から打ち合わせだなんて」
 普段は夜型生活のみちるもその夜は早々に風呂を済ませ、そう冗談めかして笑った。
   「会社勤めの人は、大抵そんなものでしょ」せつなも応じる。
   「けどその分明日は早く帰ってこれそうだから、逆に良かったのかもね。
   ・・・じゃあ、私はそろそろ寝るわね。せつなもいいのよ、どうせはるか帰ってくるの遅いんだし」
   そうみちるには言われたのであったが、せつなは結局起きていることを選んだのだった。


  無論、二階の自室に戻っていても良かったのではあるが。
   居間のこの広々とした空間と座り心地の好いソファ(以前みちるがイタリアへ演奏旅行に行った際に、自ら選んできたものだ)は、一人でいても十分に居心地のいい場所ではあったが、特にこの季節には秋の夜の静けさを、余計に引き立たせもした。
   けれどせつなは、この居間でひとり本を読むのが好きだった。

 せつなが読んでいるのは、ある著名なSF作家の、かなり古い短編集である。
   SFとしては珍しい部類に入るであろうその抒情的な作風は、せつなの好むもののひとつであった。
   かなり昔に購入し、もう幾度となく読んで本のカバーも所々擦り切れてはいたが、毎年この時期になると何故だか無性に読み返したくなり、その都度本棚から引っ張り出してくるのだった。
   そこにあるのは宇宙の彼方への、または過ぎ去った時間やいまだ来たらぬ時代への憧れであり、同時に郷愁だった。今日のような深く静かな夜に読むのに丁度よく、また読むうちに身の内に入り込んでるようなその限りない静謐(せいひつ)さを、せつなは愛していた。
   それは、かつて時の守人≠ェ居た永遠たる茫漠の空間を、どこか思い起こさせた。

 秋の夜を愛するせつなだからこそ、同時にまた秋の夜のさみしさが身にしみた。
   だからこそ、せつなはこの居間で待っていたのかもしれない。
   未だ帰らぬ、はるかの帰りを。

 ふと、絶え間ない雨音の向こうから、唸りをあげるエンジン音、そして時折水溜りを弾きながら路を急ぐタイヤの音が耳に飛び込んできた。
   車にさほど詳しいわけではないせつなにも、だんだん近づいてくるそれらが聞き慣れたはるかの愛車のものであることがわかった。

 やがて、あまり大きな音を立てないよう気をつけながらはるかのAZURRO HYPERION≠ェゆっくりとガレージに入っていくのが聞こえた。少し後にはエンジンも止まり、外にはまた雨音だけが響いた。
   せつなははるかを出迎えるべく、本を置いてソファから立ち上がった。


  「あ・・・せつな、起きてたんだ」
   玄関に飛び込むようにして入ってきたはるかは、ちょっと驚いたふうにせつなを見上げた。
   「お帰りなさい、遅かったのね」
   せつなが持ってきたタオルを手渡す。ガレージから玄関まで大した距離ではないとはいえ、傘も差さずに走ってきたらしいはるかはすぐさま受け取り、濡れそぼった髪や肩先をタオルでがしがしとぬぐった。
   「ああもう、ひどい雨だった。
   せつなの云ったとおり、2000GTで行かなくて正解だった。アイツの幌じゃ、今頃骨までびしょ濡れになってたよ」
   だけどよく雨になるってわかったね、と感心するはるかに、単に用心深いだけよ、とせつなは応えた。予報では、天気は今日いっぱいは持ちこたえる筈だったのだ。帰宅時に急な雨に振られ難儀した人は、さぞかし多かったことであろう。
   「みちるは・・・あ、なんか明日朝イチから企業のお偉方と顔合わせだとか云ってたんだっけ」
   腕を拭く手を止め、はるかはわざとらしく顔をしかめてみせた。
   「災難だなぁ。どうせまた握手だのサインだのと、パーティやら食事の約束の嵐で終わるんだろうに」
   一度ならず同じような目に遭っているので、はるかもその辺りの事情はわかっていた。
   「でも、それもお仕事の一つでしょ?」
   せつなが言うと、はるかも確かに、と苦笑しつつ頷いた。

 あらかた体を拭き終わり、せつなの差し出した手へサンキュ、といってタオルを返し、はるかは玄関から上がった。
   廊下を歩き、せつなと共に居間に入りかけ、しかしはるかはそこでふと足を止めた。
   そうして、不意にニヤリと笑った。
   まるでとびきりの悪戯(いたずら)を考えついた子供のような、何とも得意げなその笑み。

 「ねぇ、せつな」
   「なぁに?」
   「僕さ、車の中にまだ荷物があるから、ちょっと取ってくるよ」
   あらそうなの?と振り返りざま。
 はるかはガシ、とせつなの両肩を掴んだ。
   「せつな悪いんだけどさ、ここで動かずに待っててくれる?」
 「え?」
 一瞬何を意図しているのかわからず、思わず聞き返す。
 「すぐ戻ってくるからさ、ちょーっとこのままでいて」
 居間の入り口で、部屋の中の方を向いて、つまりはドアに背を向けた状態で立って待っていてほしいというのだ。
 「なんで?」
 「いいからいいから」
 せつなにとっては別に良くなどないのだが、とりあえずタオルだけはテーブルの上に置かせてもらい、はるかの指示する位置についた。
 「いい?ぜったい動いちゃだめだからね!」
 言い残してはるかは居間を出て、ドアもパタンと閉めてしまった。
 はるかが今来たばかりの廊下を走って戻る足音が遠ざかり、今度は傘をさしていこうと傘立てを漁って玄関のドアを開けて出て行くのを、せつなは居間の入り口に立ったまま扉越しに聞いていた。
 雨風の音が一瞬大きくなり、そしてまた遠のいた。



    ★    NEXT→


↑小説の部屋へ

↑↑トップページへ