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窪 宏太郎


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サックスプロジェクト⇒サックス革命への仕掛け人はこの人だ! 



【EF小編成公演】 6月19日(火)めぐろパーシモンホール小ホール EnsembleFactory Quartet公演 天道ー是か、非かー キリスト(聖者)、個性ひと(変人)の交錯を観測するオブザーバーの視点体験を共に感じる1夜。 小松、森田、吉尾、菅山のカルテットで! ロクリアン正岡デュオ作品初演! ぜひ!! pic.twitter.com/lW8qi0IVrN(作曲者による注・個性ひと⇒個性びと)

Twitter saxophoneyuki 吉尾悠希 Yuki YOSHIO

返信 リツイート5 4/29(日) 21:00

youtube.com/watch?v=njU5QD… ロクリアン正岡:サックス・カルテット(仮題)「サックス・ビックバン」 この短期間でsolo、duo、trio、quartetと4曲も新作を書いたロクリアン氏…恐るべきパワー。そして1曲1曲の独立性、表現の幅広さ、素晴らしいとしか言いようがありません。これも秋初演させて頂きます!

Twitter saxophoneyuki 吉尾悠希 Yuki YOSHIO

返信 リツイート 4/27(金) 0:48

youtube.com/watch?v=IxiZDW… ロクリアン正岡:サックストリオ(仮題)「クセナキスXASへの共感と批判」 アルト、テナー、バリトンのためのトリオで、単一楽章の10分の規模を持つ作品。 5連符の動きがとても特徴的。これは秋に演奏させて頂きます!

Twitter saxophoneyuki 吉尾悠希 Yuki YOSHIO

返信 リツイート 4/27(金) 0:45

youtube.com/watch?v=EuWGgr… ロクリアン正岡:汎 フルートのために書かれたこの作品ですが、テナーサクソフォンでも演奏出来ます。(というかそういうバージョンを作ってくださいました。。)激難しいですが、近いうち演奏したいと思っています!

Twitter saxophoneyuki 吉尾悠希 Yuki YOSHIO

返信 リツイート 4/27(金) 0:43


上の男、吉尾悠希(ヨシオユウキ)に注目してほしい。この男と出会ってからまだ半年もたっていないが、彼とサックスをセットにする仕方でサックスに注目することで、私のサックス評価は世間一般に言われているサックス評価を遥かに上回るに至っている。彼からクセナキスのXAS(ザス)やデザンクロやフローランシュミットのサックス用オリジナル作品を知らされたが、「なるほど、このような作品が、却ってサックスという楽器の評価を下げているのだな」とつくづく思った。

 私は彼にサックスプロジェクトの立ち上げと協力を求めたが、そこはまだ学生のことであり、下のような情報の公開も作曲者(私LM)への不安と引き換えの様相を呈している。

だからこそ、私はなお一層明言したい。まさに、私が今起こそうとしていることはサックス音楽革命なのである。

音楽は人間を超えた意識自体からの滝であり人間はそれを受けては遡らずにおれない本能を有している、と私は信じる。その滝起こしにサックスはまさにおあつらえ向きな楽器である。その分野での名曲らしい名曲のない現状が、私に個性的な楽曲目指しての自由な発想と、聖なる高みを目指しての絶えざる推敲を強いてやまない。

と、折も折(2018年5月)、
学生アメフト試合における傷害事件が起き、昨日、行為に及んだ日大学生の謝罪記者会見、更に、本日はそれを指示したと見られている監督やコーチの記者会見があったばかりである。私は、すぐさま謝罪会見の方の様子の音楽による素描を試みたが、サックスにとっても、また現在おかれている私自身の状況にとっても、これはどうしても遣らねばならない必然的行為であったのだ。〔目下、TOP表示と重複します〕

 音楽って、そんな大それた物なのか、と訝しく思われる向きも有ろうが、人間というものの意識の可能性とその意識を開発、進化させる音楽の可能性を強く信じる人はほかにもいる。その一人は、西洋最高の知性とまで言われているジャック・アタリであるが、その方面の言説の方は彼に任せたい。今、私は、はなはだ遅ればせながらであるが、作曲工房に入り浸りにならざるを得ない心境に追い込まれているのである。
 


2018年2月26日/日本現代音楽協会主催「現代の音楽展2018」ショートピ−ス展

のプログラム用文章とそれに続くHP上の文章 

-225日、出品者=作曲家ロクリアン正岡

音楽は演奏とともに現在から将来へと進んでゆくものともとれるし、作曲者や鑑賞者の現在へ向けて順次、未来から飛び込んでくるものともとれる。今回、特に短い曲なので後者に徹することにした。当然、身をもっての活動体たる演奏者は「身体を消す」という独特の課題を背負うことになるが吉尾悠希氏ならば「きっと」と予想している。「身体がない」といえば神だ。そしてイエス・キリストは?私はこのところ映画「奇跡の丘」「最後の誘惑」「パッション」等を見たりカトリック研究の中心地である真生会館で森一弘司教や島薗進名誉教授や柴田実チャプレンと突っ込んだ会話を交わしたりしたが、イエスは同時に人間であり、その同時性が現代作曲家のメシアンに恐るべき集中度の志向エネルギーを発揮させた。映画「ローマ法王になる日まで」の現教皇フランシスコ、彼の猛烈な活動もアッシジのフランチェスコからの影響大で、その大元はもちろんイエス。遠藤周作、松村禎三の「沈黙」もメシアンのオペラの前ではとても影が薄ぐ。この表現の世界においても、イエスの発するエネルギーをバックにするか彼に愛されるになるかの差が諸に作品の質の差となって現れたかのようである。かくいう私はもちろんイエスに直接会ったことはないが、史実から推察する限り“大焦点”という言葉が浮かんでくる。人間誰しも小焦点、動物ですら微焦点ではあるが、イエスの場合、宇宙の過去の側からの力と未来の側からの力とが見事、その現在においてしっかり噛んでいるように見て取れるのである(後、HPにて展開)。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上は2018226日、日本現代音楽協会主催で開かれる「ショートコンサートピース」

プログラム冊子のための文章だが、これでは何を言っているのか分からない方があっても当然だと思う。そこで以下の文章も用意した次第、あわせてお読みいただければ幸いです。

 ゴーギャンという画家がいるが、この画家はもちろん一流であるが、その名を一番有名にしているのは彼の大作のタイトル「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」かもしれない。人々が日々忘れていても誰にとっても痛切な盲点をついた言葉だから。

 人々は一般に、現在のありようを過去から考える。

テレビの科学番組なので「あなたが今あるのはご両親がいて、その御両親を生んだそれぞれのご両親がいて」などといい、また「私たち生命は」といった言い方をする。

すると、人は「いつもは自分がいることは当たり前だと思っていたが、実はそうではなくて、過去からの事象の連鎖がひとつでも実際と違っていたら、自分は影も形もないのだ」と思わされてしまうようだ。意識までもが、過去からの唯一の経緯によって自分に与えられている、と。

 だが、それは絶対に違うと私は思うし、私の楽曲も上記のような考え方からは出てこないものだ。

 「自分がどうして存在しているのか」などという最も大切なことで上記のようにまちがった考え方がばら撒かれているとは由々しきことである。

 

それについては、2012年のアンデパンダン展で「音楽による二つの問いかけ@悪霊かな?A善霊かな?」を発表した折のプログラムにも書いておいたし、ユーチューブでの動画の説明文にも明記している。

意識などという偉大なものが、たまたま生命を持ったものから発生するなんて、実におかしな考え方だ。「わざわざ考えなくても自然な実感だ」と皆さんおっしゃりそうだし、それが科学や科学者にとってもとても都合がよいのだ。が、われわれは蛍、意識蛍(イシキボタル)ではないのだ。われわれは存在に帰属し、その光に預かっているのみ。

「人間誰しも死んだらそれまで」とか、「死んで見なければその後のことは分からない」とか、どちらも私にしてみれば短慮としか言いようがない。

生きているわれわれは、誰しも「生だけでなく意識さえも“自分”のもの、自分あっての物」と思い込み、「自分が無くなれば意識もともに消えるのみ」と考えやすい、とは私も思う。

しかし、そこには「死んだあとも自分がすべての支配者」という前提に乗っかっているだけのこと。というのも「『意識が消滅している』という状態を自分は味わえる」としておられるからだ。

 ところで、いまは件の「ショートコンサートピース展」の直前であり、あまり畏まらず少し語り気味に気楽に書かせていただきたい。

 実は、ついさっき「聖者と個性人(びと)」というサックス二重奏曲の楽譜をLMHPのscore欄に、今回のサックスソロの楽譜とともに掲載したところ、うまく行けば26日の午前中にもユーチューブ動画にアップできるはず。

 このところ、キリスト映画を立て続けに見たり聖書を読んでよい刺激を受けた。

四つの福音書に限ってもイエスの名言や奇跡の行為満載で唸らされることしきりだったが、実際のところどうなのだろう。失言や奇跡起こしの失敗ひとつなかったのだろうか?

また、いろいろな疾患を治したり、果ては死人を蘇らせたりすら出来たということだが、

知的障害や認知症を治した、という話は福音書には載っていない。

とりわけ、悪人や悪魔を相手にし勝利(?)したことはあっても、個性の強い人(=個性びと)や変わり者を相手にした、とかいう文脈には出会えなかった。

これは大きな問題だと思う。

そこで私はキリストのような聖者が個性直しに乗り出しても歯が立たなかったという音楽劇が頭に浮かんだが、それは温存することにした。

イエス・キリストのような、全体支配者である父なる神の存在実感のもとに諸事象を感覚し思考し行動する人物(神の子)にとって、個性というものほど厄介な相手はいない、というのが私の考え方だ。彼にとっては悪魔や悪人の方がよほど御しやすいはず。というのもそれは彼の有する“全体”の内なる存在だからだ。全体の持つ癒しの力が及ぼうというものである。ところが、個性ときたら、その全体の外に置かれているものなのだ。

 だからこそぶつけてみよう!やらせてみよう!

神々しいイエスの力が個性びとにすら及ぶかどうか?個性びとはまともに抵抗するのかどうか?私は二週間たらず、集中的にシミュレーションを行ってみた。

「作曲とはそういうことが出来るのだ」ということ知っただけでも、この期間は私LMにとっては偉大なひとときであった。

私LMの決意)
何はともあれ、この世に生きる人間にとっても、過去と未来の邂逅点である現在はまことに偉大である。それは両者対立の場か、それとも両者融合の場か、今後もシミュレーションを続けなければならない。

 人類への質問)
バッハと言えば、とにかくトニカ(主和音)主義で、だいたいどの曲を聴いても終始、潜在的に原調の一度の3和音が鳴り続けている。そして最後にでんと構えるピカルディーのT(長三和音)!

これもいつものメシアンのやり方だが、彼の空前のオペラ「アッシジのフランチェスコ」では多様な不協和音が用いられているものの、そこかしこに覘(のぞ)き、最後には壮大な決定力が与えられているが、やはり長三和音である。

西洋の音楽文化が古くから持つ倍音信仰に基づくハッピーエンドの方法!

人間は所詮かつ土台「父なる神の配下にある幸せな存在である」と言わんばかり、と言うよりも実際に言い続けてきている。

言うまでもなく、特に音楽の分野でその傾向は強く、シェーンベルクや現代音楽がそれを否定し続けても、焼け石に水なのだ。「キリスト教が不調の日本でなぜクリスマスが?」と言われるが「イエス・キリストが神なんて信じられない」という人々が世界中で増えつつ中、こうも三和音や調性の蔓延ぶり*を見せられ(聴かせられ)ては、「音楽の神」「音楽的信仰」の根強さに「聴覚は保守的で信心深い器官」との思いを私は強く持たざるを得ない。*「世のロクリアン(音階、旋法)嫌い」とはまさしく表裏一体といえよう。そして、私はそんな聴従的な期間めがけて苦い薬かもしれないけれどますますの難問を発して行くのみ。

 LMの予想)
されど科学技術は進みその利用度は高まるばかりだ。

されど、科学は神を、とりわけ、イエス・キリストなど一神教の神を遠ざけて続けるだろう。

科学により諸現象、諸事象の解明はますます進むが、そのたびに「人間」や「宇宙」からの問いかけは難しさを増して行くに違いない。

 

「最新作」
サックス・デュオ「聖者と個性びと」(アルトとテノールによる)2018年作の楽譜はHPのscore欄に、音源はユーチューブに出して在ります。





 [解説]
 このところ、福音書を読み、バッハの「マタイ受難曲」やメシアンの「アッシジのフランチェスコ」を何度も聴き、またイエス・キリスト主役の映画「最後の誘惑」「パッション」「偉大な芸術家の障害」をはじめ「ローマ法王になる日まで」や「マリア」も観た。

彼の名言、超能力により起こした奇跡等々、とっても凄い。人間から見たらやたら神っぽい。だが、これは私の直感、あるいは思い込みだが、「個性」には無縁な感じが在る。丸め込む以前に、まともに相手に出来るだろうか?というのもイエスはあまりにも全体的で普遍的でありすぎるからだ(とは言っても逆に“存在そのもの”ではない)。

二つの楽器のどっちが聖者でどっちが個性びとかはどなたが聴いても明らかだろう(そうじゃない鑑賞者には、私もお手上げデス)。

ただし、音には直接出て来ないが、オブザーバー(観察者)の存在がある。“彼”の働きなくしてこの類の作曲や楽曲や音楽はありえない。

普遍者、個性者、観察者の三位一体。今回作曲期間は12日と短かったが、この作曲システムは今後大いに力を発揮してくれることだろう。

なにかお気づきになられた点はお知らせください。いろいろ学ばせていただきたいと思っているので・・・・。

                   以上、2018.02.26朝 文責:ロクリアン正岡
 


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20170201日本現代音楽協会主催アンデパンダン展第一夜のチラシ
 

いつもながら、芸術に本格的なものを望まれる方々には打ってつけの内容になっておりますが、その一方、いささか軽いお客様、つまり、魅力とか可愛らしさを好まれる方々にも楽しんでいただける工夫も致しております。力量ある6人の方々の協力を得て、ロクリアンM得意の合わせ技により多面性、多義性迸る音場が現出されることを目指します。 ―会場でお会いできることを楽しみにしつつ     2015.7.7ロクリアン正岡


近く迫った二つの作品発表コンサートの
・一つは2015年10月12日
一言、「女の人に泣かれたら、男はどうしようもないからね!」とはあの元小泉総理大臣が田中真紀子大臣に泣かれての発言であったが、私なら、何も言わずに、真紀子さん向け特製の心の鏡“をお渡しするだろう。
なお、チラシにはありませんが“男の正義”より、「単身、死地に赴く勇士の歌」と「死を前に一層躍動する霊魂」も演奏いたします。女・男の余りの大きな違いに「御冗談でしょ!」と憮然たる面持ちになられる方もご出現では?

・一つは2015年11月18日
(水曜日紆余曲折に満ち多様な行程を念仏僧が辿ります。ただ、驚くべきは、どの瞬間をとっても永遠という身が詰まっているところです。ユーチューブで画像の変化もご覧になれば、このことはお分かりになるかと思われます。
演奏諸氏が、歌詞に加え、PC音源ではゼロの人間生力を発揮されることにより、現代音楽というものの悪評を吹っ飛ばすような音楽を実現される可能性もあります。ご自分の美意識、あるいは真善美判断力に自信をお持ちの方には強くお勧めしたい出し物です。以下ちらし写真!にある通りです。
品の拙作については、PC音源ながらユーチューブ、あるいはニコニコ動画で御視聴いただけます。解説付きです。


「様々な音の風景」
●10月12日(月・祝日)16時半開演
会場:すみだトリフォニー小ホール
(錦糸町駅より徒歩5分)


日本音楽舞踊会議主催のコンサート「様々な音の風景」にて同編成の私の作品とともに初演されます。演奏者はクラリネットが内山厚志、ヴィオラが渡邊田鶴野(たづの)のお二人。作品は組曲「泣きたい女性のための二重奏曲」
PS音源ですが、動画アップしております
(ユーチューブ、ニコニコ動画とも)


「アンデパンダン展」

●11月08日水曜日 18時半開演
会場:オペラシティリサイタルホール
(京王新線初台駅よりすぐ)

日本現代音楽協会主催、アンデパンダン展第一夜にて念仏楽曲「時を貫く“南無阿弥陀仏”」 初演、去年今年 貫く棒の 如きもの (高浜虚子)念仏唱える人の心がそんな棒と一体になったら、どうなっちゃうのだろう???今から楽しみです。
演奏、バス歌手:松井永太郎、クラリネット:内山厚志、ファゴット:塚原里江、チェロ:松井洋之、マリンバ:會田瑞樹、
指揮:齋藤純一郎

・2014年12月29日 動画アップロードしたばかの正岡泰千代時代のカンバス・ミュージックの詳細

 

私(当時の正岡泰千代)が1990年ごろからの数年間作曲しコンサートも開いてきたカンバス・ミュージックC.M)、そしてカンバス・コンサートC.C)にご出演いただいた方々、スタッフの方々、お客様方に感謝しつつ―

2014年末、カンバス・ミュージック、カンバス・コンサート時代の古い作品動画を数多くネットに掲げることにした理由。

現在の私は過去からの自分に支えられつつ発展の過程にある、という思いはあるが、その時々の仕事の特性、作品の個性を考えれば、優れた意味で「作曲の一回性」ということを認めないわけにはゆかない。同じ自分ではあっても、その時々の生々しい生に支えられた志向や執着という奴が効いているのだ。

1990年頃からしばらく、私は絵画との愛に埋没した。

原画をあるいは絵葉書を画家から借りて来ては食い入るように見つめつつ、シーケンサーに音を打ち込んで行った。その対象には、かの
 有名な哲学者、八木雄二
氏も紛れ込んでいたのだが、、、。

まず、作品を提供しコンサートにもご参加された画家の名前を列記させていただく。

幸いなことに皆さんご健在で活躍されている由。

桐弘史郎、、多田夏雄、寺久保文宣、木俣創志、寺井浩一、田口安男、園部雄作

以下、最後の私自身の文章にしても、今の私からすれば若書きの観は否めないが、それでもカンバス・ミュージック(C.M)の魂がそのまま露出しているからこそ、そのまま掲げることにした。

次の文章は第4回目のカンバス・コンサートにみえられた、文学者、宇佐美英氏のものである。(「音楽現代」誌より)

(前略)その催し「絵画と音楽の結婚・・・・・・二つのカンバスの合体を求めて」というもので、正岡氏がかねてそれぞれの絵に即してシンセサイザーで作曲した六点の絵が会場に持ち込まれ、曲ごとに対象となったその絵が奥の壁に掛けられる。室内を埋めた聴衆は照明を当てられたその絵を凝視しながら、シンセサイザーによる氏の曲と指定に従ったフルート、13弦、ピアノなどの即興演奏を聴くというわけである。フルートは野口龍氏、箏は田中美香さん、ピアノは作曲家自身が弾いた。(中略)CM、カンバスミュージックを唱道する正岡氏は人間にあって視覚と聴覚がばらばらに働くとはいえ、両者がどこか深部で邂逅し、そこから内臓が発生し、各々内なる光によって不動の音画が形成されることを願っている。彼は音楽の視覚化を目指すが、その発想はミニマル・ミュージックとは異なり、音、あるいは音響そのものの精神化、進化と聖性化を目途(もくと)としているように思われる。私は今回のようなイヴェントに加わって、それが現代における新たな観音法会、目覚めた衆生による観心修業を思させることをふと思った。

以下は「音楽の世界」誌に掲載されたもので

「カンバス・コンサートNo.14 音楽・絵画・舞踊・対話劇―新たなる芸術・神話の模索」

の紹介文章である。

当日の講演者:武藤三千夫氏 (美学 東京芸術大学)

それは音楽ではない、また絵画でも舞踏でもない、ましてや哲学ではない何かである。

あえて言えば、それは「引用」であろう。次にこの「私が」、この引用についての引用を試みる。「私の仕事に現われる引用は、武装して不意に飛び出し、のらくら歩いている者からその確信をふんだくる追剥みたいなものである。」:「比類なき髑髏の言葉。まったき無表情を―その眼窩の漆黒を―、かれはこの上なく荒々しい表情と調和させる―剥出しの歯並びと。」:「注釈や翻訳は、様式やミーメーシス(模倣)が自然に対するのと同じように、テキストに対して振舞う。すなわちそれらは、様々に異なる観察の仕方の下での同一現象である。聖なるテキストの樹では、両者は永遠にざわめく木の葉であり、世俗のテキストの樹の場合には、時宜に語って落ちる果実である。(W・ベンヤミン『一方通路1928』より)かくしてムーサイもアポロンもその目を疑うであろう。

主宰者:正岡泰千代のもの

(前略)よく、「すべての芸術は音楽に憧れる」とか「音楽は芸術の核である」とかいわれるが、

それは声楽曲を除く西洋近代以降の芸術音楽が音の外観、内容ともに実体感が希薄で、純粋と言ってもよいほどに抽象的な在り方をしていることから来るのであろう。しかし又、その音楽の末裔たる現代音楽が周知のとおり内的に疲弊し外的に衰退したのは、自らの抽象性、純粋性の中に安住したからではなかろうか。実際のところ、この現代音楽に本気で憧れる画家や作家がどこにいるか。それなのに一流の作曲家は大方、今だに抽象的構造物作りに勤しみ、残るは過去的な音や俗っぽい響きを立てたり、はたまた自然音を駆使するというように、妄りに感情的ないし感覚的な音作りに手を汚している始末である。

 そのような当世にあり、音楽が再び全芸術の確たる位置を取り戻し、皆が憧れざるを得ぬようにする為にはどうしたらよいか。私に妙案がある。音楽が他を愛するという事、即ち、他を受容し抽象する能力を発揮するという事、これに尽きよう。ストラヴィンスキーの言葉「音楽は音楽。音楽は何物の意味しない」というのが大間違いなのである(なんという精神の貧困、そして衰退ぶり化。彼の責任は重いと言わねばならぬ)。

 音楽のナルシシズムは思い上がった「悪女」を育てるだけだ(例「小保方晴子」後のロクリアン正岡による)。「女性」の特性は子を産むにあり!それと同様、音楽の最大の特性はその表象能力にあり!本来、音楽は何かについてのものであるべきなのである。そのためには音楽はまず「子」を孕まねばならない。そして、その「子」にあたるものこそ、今、我が家に借り