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セットの第3曲のための詳細な説明:小編成吹奏楽曲「美人ミイラ蘇生物語」:出版楽譜にあるまま

 

 1)“音楽自体においての大きな物語創出”の試み。

説明:新作オペラ他、大河ドラマのテーマ音楽など、すでに存在する大きなドラマを

なぞった劇伴的〔比喩的意味で〕なものとは違ったものです。

 

2)個々の魂は死によって途切れない。だからこそ一生一生を大切にとの表明。

説明:“生命(いのち)への愛”を絶対的に肯定。ただし、個々の魂が有する“生の

テリトリー”、すなわち「この世での生」「あの世での生」の区別は大切だ、という

ことです。

 

3)死者への畏敬の念と、蘇生させようとする熱意との相克の描出。

説明:この世に有る者の生へのこだわりはいかにも根強い。だが死者、あるいはあの

世を侵(おか)しては成らないという畏敬の念もあり、死者の蘇生を巡っての葛藤は

本能から宗教、そして哲学まで撒き込むほどの内面活動であるに違いない。これに関

して音楽はどのような能力を発揮できるか?

 

4)人々(消費者)を煽りまくる不満助長+欲求満足装置=科学技術の傲慢と妄信への

疑問の提起

説明:未来へ向けて、再生医療を中心とする科学技術が、昔からの不老不死願望を煽

りまくろうとしている現代、「魔法使いの弟子」や「フランケンシュタイン」的警告

能力を音楽に持たせること。

この楽曲では美人らしきミイラに対面した若き有能な科学者=再生医療師が当初から

抱いた恋心の加担もあってこの難業を強引に成功させたとしても、本当の人間は魂

あってのものとすれば、科学の力で身体だけ再生、蘇生させる事が出来たとしても、

土台、無理が有るのではないか、ということが練習番号10以降に示される。

 

5)元来、独特の動性と浮遊性を有する減七和音(三個とも)を中軸に据え、この曲

全体の和声原理とする。

説明:調性感を曖昧にする「悪魔の三全音」の権化としてクラシック音楽に於いては

遠慮がち(限定的)にしか使われず(ベートーヴェンは多少、多目)、現代音楽に於

いては、無調的ではあるもののありふれた既製品として省みられなくなっている減七

和音ですが、私はその潜在能力を思い、以下の両義牲に注目しました。

イ)ですから死語のような物としてみれば、減七和音はミイラのような存在だといえ

ましょう。

ロ)ですが、実際はミイラどころかまだ息をしており、使われ方によっては他の和音

が真似のできない機能を発揮できる現役の道具とみれば、むしろミイラを蘇生させよ

うとする再生医療師が腕を振るうための手や道具の方だと言うこともできましょう。

ハ)生を拒みあの世にとどまろうとするミイラとこの世へ引き戻してまでも蘇らせよ

うとする再生医療師〔科学者〕がつばぜり合いを演じるこの音楽劇に於いて、当和音

「減七」は両方の役柄を演じてくれるかもしれない、と期待して作曲をはじめまし

た。

ニ)なお、多くの人にとって耳慣れたこのディミニッシュコードの多用は、演奏、鑑

賞双方における難解さの軽減に寄与するかと存じます。

 

6)音楽民主主義=各パートの自立と相互平等のための、徹底した対位法の使用

説明:折角の室内アンサンブル型吹奏楽です。

対位法はまだまだ民衆が虐げられていた古い時代に端を発したものですが、作者に

とっては、どのパートも掛け替えのない主役であることを示すのに格好の作曲技法で

す。その意味もあり、チューバの活躍は目立つかもしれません。

 

7)音楽に深みを与えるため全体を落ち着いた中間色で統一。

説明:一発勝負には弱いかもしれないけれど、何度聴いても演奏しても飽きないこと

を優先した。そのために、迫力表現部分も耳が疲れないよう、繊細嗜好の許す範囲内

にとどめてある。-人々の心奥深くへと浸透してゆく事を願いつつ。

 

8)外観、内容ともに複雑で高度かもしれないが、演奏、鑑賞双方に於いて各部分も

筋道も掴みやすく理解しやすい。

説明:室内楽にしてはパート数も音量も多め、吹奏楽としてはパート数も楽器数も少なく音量は小さめということで、

「にもかかわらず、如何に@各パートの動きが見えるようにするかA全体として良く鳴るようにするか」に腐心いたしました。

そのためにも6)の対位法を駆使したのですが、5)で強調した減七和音という一人

二役の和音の響きと機能を活かすために、その他の和音や複合和音、偶成和音等も随

時活用しております。

 




以下はコンサート当日に初めて配られる日本現代音楽協会プログラム冊子に載る拙文に近いものです。
 また、そこには対位法に関するアンケートへの私の詳細な応答も掲載される「予定です。合わせてお楽しみください!


  純正な意味でこれほど対位法的な楽曲が、現代においてどこかにあるのだろうか?

(ロクリアン等、Lと略記)手早くL正岡やL旋法の特性を理解して頂く為に作曲。まず導入としてのL(ト長調の)和声がピアノで登場。これでその後のアリアへも正しい聴覚角度で入って行ける人が増えそう。その後、二重奏の後半から変化音を駆使しての転調、それも旋法変化ぐるみでL旋法には嵌らない状態となる。だがこれこそ本質的な意味でL的といえよう。
というのはL旋法にあっては主音(相対音“シ”)の支配力は大変薄弱である為、一全音階内での他の旋法への転がりや重なりも生じやすい。だからL旋法は超全音階(ナナリアン;LM造語)的だということが出来よう。よって特定七音の中に音楽を安住させて大規模な楽曲を物すことも可能(例:「L交響曲」等公開)。
だが、この楽曲にあってはLの「転がりやすい」特性に乗じ12音をフルに使って転調、転旋調しまくっている。またLは他旋法を拒否しないばかりか多声部を呼び込みやすい。自立性が弱く共立性が豊か?いや、一緒に横たわる事が得意と来ている(cf.我が師、松村禎三)。結果、バッハの原曲以上に動的旋律が絡み合う事となった。人いわく「バッハが聴いたら驚くだろう」。
原曲は寛ぎ感豊かである。しかしバッハ自身の精神はここでも立ったままである。作曲時、いつも熱く一回も休んだ事のないバッハを横たわらせてみたい。涼しい思いを味わってもらいたい。だからこそのL.B.演戯。なお、はぐらかしの不快を避けるためには「原曲」を連想せず聴取に集中する事です。ただし、あの原曲は全く動じる気配すらない。そんな現代音楽はいったいどこに、いつになったら?                        


会場:ルーテル市谷センターホール 新宿区市谷砂土原町1-1
JR総武線 市ヶ谷駅下車
地上徒歩7分
電話:03-3260-8621
全席自由 一般3000円
     ペア5000円
     学生1000円


今年11月30日(金曜日)開演18:30分(ロクリアン作品は7時30分以降)
場所:東京オペラシティリサイタルホール(新宿、初台)

京王新線(都営地下鉄新宿線乗り入れ) 初台駅東口下車 徒歩5分以内
(東京オペラシティビルに直結しています。)京王新線へは、JR新宿駅南口からお乗り換えください。


 なお、リサイタルホールは地下のほうなのでご注意ください。
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内容説明
 サックスのオリジナル楽曲というと楽器が新しいだけにどうしても数が限られてくるし、その分編曲ものが多いのも気になってはいた。
私の場合、大好きで作曲でも慣れている弦楽四重奏曲の名曲群と比べると、「うーん!こんな素晴らしい楽器なのにどうして」と思わずにいられない。
その証拠といっては変だが、クセナキスのザス(XAS)を聴くて、それまでのサックス曲が吹っ飛ばされるような印象を受けた。
ところが、冷静に聴きなおすと、この曲、自らの欠点を武器とする自爆テロみたいな本質を持っている。
それもそうだろう。メシアンに「君には数学があるじゃないか?」と励まされ(メシアンの心の中にはオダテの要素もあったろうが)数学的構築物を作りまくった彼の作品だ。音楽の本質を無視してただただ外在的に見事な構築物として人々の耳相手に聴かせるのでなく、見せつけようというのだから、衝撃力はピカドン並みで、ぴか一なのも当然だ。
私は一回目の聴取のときになぜかリヒァルト・シュトラウスの「オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」を感じた。原因はそのデタラメさだ。そのヤンチャぶりがたまらない。
だが、“耳相手に見せよう”とは初めから本道を逸しているわけで、目の本道を行くピカソの底力のまえには虚仮物にすぎないのではないか。
否定力の強い楽曲や美術品は名作の中にもあるが、否定力だけではやはり芸術としては持ちが悪いと思う。
しかし、クセナキスのデタラメさに強く共感した自分を否定することは出来ない。
だが、それも、(視覚的展示物としての自立性ではなく)聴覚的感情移入物としての自立性が成り立っていることが前提条件なのだ(そうすれば、聴覚的想像力のなかで抽象的デタラメさもバイク不良少年も美しく浮かび上がってこようというものである)。
新タイトルは「バイク少年三人組ライブ」という生々しいものだが、実際はロックコンサート等々に見られるような露骨な具体性で迫るようなものではない。
これはいかにも純芸術音楽そのものなのである。
ただ、次のような恐るべき問題がある。
音楽は食べ物と似ている。
食べ物は食べる前から安心して口に入れられるもの、という保証がなければとても食べられたものじゃない。
音楽も同様で、これは著名な作曲家(クサナキスもまた然り)の作品だからよい物に決まっている、という先入観なくしてはなかなか聴覚の奥にまで迎え入れにくい性格を持つ。
ただ、食べ物と違って命に別条ないから一応聴くことは出来るのである。また、好奇心というものの積極的加担もある。
現代音楽コンサートのお客さんの数が“ある程度”である所以だろう。
ただし、鑑賞能力に卓越した人は点々といらっしゃるようで、そのような方々は先入観念に拘束される度合いはかなり低い。「バッハの作品にしては・・・」とか、「学生にしては・・・」とか。
 語りたいことは山ほどあるが、最後に一言。
楽器や演奏なくしては鑑賞もなく音楽芸術も存在しない。
サックスとう素晴らしい楽器、そしてこれほどにも発達したサックス演奏技術、さらにそれをもってこの難曲に挑んでくれるお三人に栄光あらんことを心より願うものであります。2018.10.01 LM

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2018年2月26日/日本現代音楽協会主催「現代の音楽展2018」ショートピ−ス展

のプログラム用文章とそれに続くHP上の文章 

-225日、出品者=作曲家ロクリアン正岡

音楽は演奏とともに現在から将来へと進んでゆくものともとれるし、作曲者や鑑賞者の現在へ向けて順次、未来から飛び込んでくるものともとれる。今回、特に短い曲なので後者に徹することにした。当然、身をもっての活動体たる演奏者は「身体を消す」という独特の課題を背負うことになるが吉尾悠希氏ならば「きっと」と予想している。「身体がない」といえば神だ。そしてイエス・キリストは?私はこのところ映画「奇跡の丘」「最後の誘惑」「パッション」等を見たりカトリック研究の中心地である真生会館で森一弘司教や島薗進名誉教授や柴田実チャプレンと突っ込んだ会話を交わしたりしたが、イエスは同時に人間であり、その同時性が現代作曲家のメシアンに恐るべき集中度の志向エネルギーを発揮させた。映画「ローマ法王になる日まで」の現教皇フランシスコ、彼の猛烈な活動もアッシジのフランチェスコからの影響大で、その大元はもちろんイエス。遠藤周作、松村禎三の「沈黙」もメシアンのオペラの前ではとても影が薄ぐ。この表現の世界においても、イエスの発するエネルギーをバックにするか彼に愛されるになるかの差が諸に作品の質の差となって現れたかのようである。かくいう私はもちろんイエスに直接会ったことはないが、史実から推察する限り“大焦点”という言葉が浮かんでくる。人間誰しも小焦点、動物ですら微焦点ではあるが、イエスの場合、宇宙の過去の側からの力と未来の側からの力とが見事、その現在においてしっかり噛んでいるように見て取れるのである(後、HPにて展開)。

 

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以上は2018226日、日本現代音楽協会主催で開かれる「ショートコンサートピース」

プログラム冊子のための文章だが、これでは何を言っているのか分からない方があっても当然だと思う。そこで以下の文章も用意した次第、あわせてお読みいただければ幸いです。

 ゴーギャンという画家がいるが、この画家はもちろん一流であるが、その名を一番有名にしているのは彼の大作のタイトル「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」かもしれない。人々が日々忘れていても誰にとっても痛切な盲点をついた言葉だから。

 人々は一般に、現在のありようを過去から考える。

テレビの科学番組なので「あなたが今あるのはご両親がいて、その御両親を生んだそれぞれのご両親がいて」などといい、また「私たち生命は」といった言い方をする。

すると、人は「いつもは自分がいることは当たり前だと思っていたが、実はそうではなくて、過去からの事象の連鎖がひとつでも実際と違っていたら、自分は影も形もないのだ」と思わされてしまうようだ。意識までもが、過去からの唯一の経緯によって自分に与えられている、と。

 だが、それは絶対に違うと私は思うし、私の楽曲も上記のような考え方からは出てこないものだ。

 「自分がどうして存在しているのか」などという最も大切なことで上記のようにまちがった考え方がばら撒かれているとは由々しきことである。

 

それについては、2012年のアンデパンダン展で「音楽による二つの問いかけ@悪霊かな?A善霊かな?」を発表した折のプログラムにも書いておいたし、ユーチューブでの動画の説明文にも明記している。

意識などという偉大なものが、たまたま生命を持ったものから発生するなんて、実におかしな考え方だ。「わざわざ考えなくても自然な実感だ」と皆さんおっしゃりそうだし、それが科学や科学者にとってもとても都合がよいのだ。が、われわれは蛍、意識蛍(イシキボタル)ではないのだ。われわれは存在に帰属し、その光に預かっているのみ。

「人間誰しも死んだらそれまで」とか、「死んで見なければその後のことは分からない」とか、どちらも私にしてみれば短慮としか言いようがない。

生きているわれわれは、誰しも「生だけでなく意識さえも“自分”のもの、自分あっての物」と思い込み、「自分が無くなれば意識もともに消えるのみ」と考えやすい、とは私も思う。

しかし、そこには「死んだあとも自分がすべての支配者」という前提に乗っかっているだけのこと。というのも「『意識が消滅している』という状態を自分は味わえる」としておられるからだ。

 ところで、いまは件の「ショートコンサートピース展」の直前であり、あまり畏まらず少し語り気味に気楽に書かせていただきたい。

 実は、ついさっき「聖者と個性人(びと)」というサックス二重奏曲の楽譜をLMHPのscore欄に、今回のサックスソロの楽譜とともに掲載したところ、うまく行けば26日の午前中にもユーチューブ動画にアップできるはず。

 このところ、キリスト映画を立て続けに見たり聖書を読んでよい刺激を受けた。

四つの福音書に限ってもイエスの名言や奇跡の行為満載で唸らされることしきりだったが、実際のところどうなのだろう。失言や奇跡起こしの失敗ひとつなかったのだろうか?

また、いろいろな疾患を治したり、果ては死人を蘇らせたりすら出来たということだが、

知的障害や認知症を治した、という話は福音書には載っていない。

とりわけ、悪人や悪魔を相手にし勝利(?)したことはあっても、個性の強い人(=個性びと)や変わり者を相手にした、とかいう文脈には出会えなかった。

これは大きな問題だと思う。

そこで私はキリストのような聖者が個性直しに乗り出しても歯が立たなかったという音楽劇が頭に浮かんだが、それは温存することにした。

イエス・キリストのような、全体支配者である父なる神の存在実感のもとに諸事象を感覚し思考し行動する人物(神の子)にとって、個性というものほど厄介な相手はいない、というのが私の考え方だ。彼にとっては悪魔や悪人の方がよほど御しやすいはず。というのもそれは彼の有する“全体”の内なる存在だからだ。全体の持つ癒しの力が及ぼうというものである。ところが、個性ときたら、その全体の外に置かれているものなのだ。

 だからこそぶつけてみよう!やらせてみよう!

神々しいイエスの力が個性びとにすら及ぶかどうか?個性びとはまともに抵抗するのかどうか?私は二週間たらず、集中的にシミュレーションを行ってみた。

「作曲とはそういうことが出来るのだ」ということ知っただけでも、この期間は私LMにとっては偉大なひとときであった。

私LMの決意)
何はともあれ、この世に生きる人間にとっても、過去と未来の邂逅点である現在はまことに偉大である。それは両者対立の場か、それとも両者融合の場か、今後もシミュレーションを続けなければならない。

 人類への質問)
バッハと言えば、とにかくトニカ(主和音)主義で、だいたいどの曲を聴いても終始、潜在的に原調の一度の3和音が鳴り続けている。そして最後にでんと構えるピカルディーのT(長三和音)!

これもいつものメシアンのやり方だが、彼の空前のオペラ「アッシジのフランチェスコ」では多様な不協和音が用いられているものの、そこかしこに覘(のぞ)き、最後には壮大な決定力が与えられているが、やはり長三和音である。

西洋の音楽文化が古くから持つ倍音信仰に基づくハッピーエンドの方法!

人間は所詮かつ土台「父なる神の配下にある幸せな存在である」と言わんばかり、と言うよりも実際に言い続けてきている。

言うまでもなく、特に音楽の分野でその傾向は強く、シェーンベルクや現代音楽がそれを否定し続けても、焼け石に水なのだ。「キリスト教が不調の日本でなぜクリスマスが?」と言われるが「イエス・キリストが神なんて信じられない」という人々が世界中で増えつつ中、こうも三和音や調性の蔓延ぶり*を見せられ(聴かせられ)ては、「音楽の神」「音楽的信仰」の根強さに「聴覚は保守的で信心深い器官」との思いを私は強く持たざるを得ない。*「世のロクリアン(音階、旋法)嫌い」とはまさしく表裏一体といえよう。そして、私はそんな聴従的な期間めがけて苦い薬かもしれないけれどますますの難問を発して行くのみ。

 LMの予想)
されど科学技術は進みその利用度は高まるばかりだ。

されど、科学は神を、とりわけ、イエス・キリストなど一神教の神を遠ざけて続けるだろう。

科学により諸現象、諸事象の解明はますます進むが、そのたびに「人間」や「宇宙」からの問いかけは難しさを増して行くに違いない。

 

「最新作」
サックス・デュオ「聖者と個性びと」(アルトとテノールによる)2018年作の楽譜はHPのscore欄に、音源はユーチューブに出して在ります。



 [解説]
 このところ、福音書を読み、バッハの「マタイ受難曲」やメシアンの「アッシジのフランチェスコ」を何度も聴き、またイエス・キリスト主役の映画「最後の誘惑」「パッション」「偉大な芸術家の障害」をはじめ「ローマ法王になる日まで」や「マリア」も観た。

彼の名言、超能力により起こした奇跡等々、とっても凄い。人間から見たらやたら神っぽい。だが、これは私の直感、あるいは思い込みだが、「個性」には無縁な感じが在る。丸め込む以前に、まともに相手に出来るだろうか?というのもイエスはあまりにも全体的で普遍的でありすぎるからだ(とは言っても逆に“存在そのもの”ではない)。

二つの楽器のどっちが聖者でどっちが個性びとかはどなたが聴いても明らかだろう(そうじゃない鑑賞者には、私もお手上げデス)。

ただし、音には直接出て来ないが、オブザーバー(観察者)の存在がある。“彼”の働きなくしてこの類の作曲や楽曲や音楽はありえない。

普遍者、個性者、観察者の三位一体。今回作曲期間は12日と短かったが、この作曲システムは今後大いに力を発揮してくれることだろう。

なにかお気づきになられた点はお知らせください。いろいろ学ばせていただきたいと思っているので・・・・。

                   以上、2018.02.26朝 文責:ロクリアン正岡
 


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20170201日本現代音楽協会主催アンデパンダン展第一夜のチラシ
 

いつもながら、芸術に本格的なものを望まれる方々には打ってつけの内容になっておりますが、その一方、いささか軽いお客様、つまり、魅力とか可愛らしさを好まれる方々にも楽しんでいただける工夫も致しております。力量ある6人の方々の協力を得て、ロクリアンM得意の合わせ技により多面性、多義性迸る音場が現出されることを目指します。 ―会場でお会いできることを楽しみにしつつ     2015.7.7ロクリアン正岡


近く迫った二つの作品発表コンサートの
・一つは2015年10月12日
一言、「女の人に泣かれたら、男はどうしようもないからね!」とはあの元小泉総理大臣が田中真紀子大臣に泣かれての発言であったが、私なら、何も言わずに、真紀子さん向け特製の心の鏡“をお渡しするだろう。
なお、チラシにはありませんが“男の正義”より、「単身、死地に赴く勇士の歌」と「死を前に一層躍動する霊魂」も演奏いたします。女・男の余りの大きな違いに「御冗談でしょ!」と憮然たる面持ちになられる方もご出現では?

・一つは2015年11月18日
(水曜日紆余曲折に満ち多様な行程を念仏僧が辿ります。ただ、驚くべきは、どの瞬間をとっても永遠という身が詰まっているところです。ユーチューブで画像の変化もご覧になれば、このことはお分かりになるかと思われます。
演奏諸氏が、歌詞に加え、PC音源ではゼロの人間生力を発揮されることにより、現代音楽というものの悪評を吹っ飛ばすような音楽を実現される可能性もあります。ご自分の美意識、あるいは真善美判断力に自信をお持ちの方には強くお勧めしたい出し物です。以下ちらし写真!にある通りです。
品の拙作については、PC音源ながらユーチューブ、あるいはニコニコ動画で御視聴いただけます。解説付きです。


「様々な音の風景」
●10月12日(月・祝日)16時半開演
会場:すみだトリフォニー小ホール
(錦糸町駅より徒歩5分)


日本音楽舞踊会議主催のコンサート「様々な音の風景」にて同編成の私の作品とともに初演されます。演奏者はクラリネットが内山厚志、ヴィオラが渡邊田鶴野(たづの)のお二人。作品は組曲「泣きたい女性のための二重奏曲」
PS音源ですが、動画アップしております
(ユーチューブ、ニコニコ動画とも)


「アンデパンダン展」

●11月08日水曜日 18時半開演
会場:オペラシティリサイタルホール
(京王新線初台駅よりすぐ)

日本現代音楽協会主催、アンデパンダン展第一夜にて念仏楽曲「時を貫く“南無阿弥陀仏”」 初演、去年今年 貫く棒の 如きもの (高浜虚子)念仏唱える人の心がそんな棒と一体になったら、どうなっちゃうのだろう???今から楽しみです。
演奏、バス歌手:松井永太郎、クラリネット:内山厚志、ファゴット:塚原里江、チェロ:松井洋之、マリンバ:會田瑞樹、
指揮:齋藤純一郎

・2014年12月29日 動画アップロードしたばかの正岡泰千代時代のカンバス・ミュージックの詳細

 

私(当時の正岡泰千代)が1990年ごろからの数年間作曲しコンサートも開いてきたカンバス・ミュージックC.M)、そしてカンバス・コンサートC.C)にご出演いただいた方々、スタッフの方々、お客様方に感謝しつつ―

2014年末、カンバス・ミュージック、カンバス・コンサート時代の古い作品動画を数多くネットに掲げることにした理由。

現在の私は過去からの自分に支えられつつ発展の過程にある、という思いはあるが、その時々の仕事の特性、作品の個性を考えれば、優れた意味で「作曲の一回性」ということを認めないわけにはゆかない。同じ自分ではあっても、その時々の生々しい生に支えられた志向や執着という奴が効いているのだ。

1990年頃からしばらく、私は絵画との愛に埋没した。

原画をあるいは絵葉書を画家から借りて来ては食い入るように見つめつつ、シーケンサーに音を打ち込んで行った。その対象には、かの
 有名な哲学者、八木雄二
氏も紛れ込んでいたのだが、、、。

まず、作品を提供しコンサートにもご参加された画家の名前を列記させていただく。

幸いなことに皆さんご健在で活躍されている由。

桐弘史郎、、多田夏雄、寺久保文宣、木俣創志、寺井浩一、田口安男、園部雄作

以下、最後の私自身の文章にしても、今の私からすれば若書きの観は否めないが、それでもカンバス・ミュージック(C.M)の魂がそのまま露出しているからこそ、そのまま掲げることにした。

次の文章は第4回目のカンバス・コンサートにみえられた、文学者、宇佐美英氏のものである。(「音楽現代」誌より)

(前略)その催し「絵画と音楽の結婚・・・・・・二つのカンバスの合体を求めて」というもので、正岡氏がかねてそれぞれの絵に即してシンセサイザーで作曲した六点の絵が会場に持ち込まれ、曲ごとに対象となったその絵が奥の壁に掛けられる。室内を埋めた聴衆は照明を当てられたその絵を凝視しながら、シンセサイザーによる氏の曲と指定に従ったフルート、13弦、ピアノなどの即興演奏を聴くというわけである。フルートは野口龍氏、箏は田中美香さん、ピアノは作曲家自身が弾いた。(中略)CM、カンバスミュージックを唱道する正岡氏は人間にあって視覚と聴覚がばらばらに働くとはいえ、両者がどこか深部で邂逅し、そこから内臓が発生し、各々内なる光によって不動の音画が形成されることを願っている。彼は音楽の視覚化を目指すが、その発想はミニマル・ミュージックとは異なり、音、あるいは音響そのものの精神化、進化と聖性化を目途(もくと)としているように思われる。私は今回のようなイヴェントに加わって、それが現代における新たな観音法会、目覚めた衆生による観心修業を思させることをふと思った。

以下は「音楽の世界」誌に掲載されたもので

「カンバス・コンサートNo.14 音楽・絵画・舞踊・対話劇―新たなる芸術・神話の模索」

の紹介文章である。

当日の講