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タルコフスキーを超えて——西周成の天才に期待する

沼野充義(ロシア文学者)

私はこれまで色々な分野で、若くて才能があり、脱帽するしかない、これはすごいと感嘆させられる才能に時折出会う幸運にめぐまれてきたが、西周成もまた、そんな才能の一人である。初めて会ったのがいつだったか、いまではもうよく分からないが、ロシアの映画監督ソクーロフを囲む会の席でソクーロフをつかまえて話している彼の姿を見かけたことは鮮明に覚えている。それは彼がまだロシアに留学する前のことで、ロシア語に少々たどたどしいところはあったが、そばで聞いていると、きちんとした議論になっていることに驚いた。露文科でロシア語を専攻している大学院生でも、なかなかこういう風に話せるものではない。自分の言うべきものを既にしっかり持っている若者だ、という印象が強く残った。なんでも彼はソクーロフの難解で有名な『孤独な声』を七回も見て、緻密に分析をしているとかいう噂も伝わってきて、私は心中密かに彼に対する畏敬の念をさらに深めた。鋭いなまざし、自分に妥協を許さない厳しさ、そして光と音に対する繊細な感性。まさに、ただものではない、という雰囲気を彼は漂わせていた。

その後、西周成はロシアに留学し、高度なロシア語力を身につけ、映画学で学位を取り、ロシア人以上にロシア的な短編映画を製作し、そしてロシアの伝統に根ざした高い映画芸術の水準を我が物にして日本に帰ってきた。しかし、日本ではそのようなユニークな経歴と才能を持った人間をきちんと受け入れるところがない。しかも、彼は正々堂々と映画は芸術であると宣言し、日本の映画文化の低さを正面から攻撃し、国立映画大学を擁するロシアのほうが日本よりも映画文化に関してははるかに高い、と主張する。浮世離れしたこういった主張が誰もがコマーシャリズムに走る時勢にすんなり受け入れられるはずもないが、彼は「西周成の映画世界」というホームページを開設し、そこに健筆をふるって論陣を張っている。そこに掲載された緊張感のある激しくも正統的な映画論を読んでいると、西周成が「視覚の人」であるのと少なくとも同程度には、言葉を武器にできる人であることが分かる。これもまた文学の本場、ロシア仕込みのいまどき稀な美点であろう。

「薔薇の香り」や「The Last Sunset」は、そんなただものではない若い映画作家の才能をよく示す作品である。いや、もちろんこれは、映画作家としてのスタートラインを示す小品に過ぎない。とはいえ、ここにはタルコフスキーやソクーロフを生んだロシア映画の最高水準をすでに濾過した者だけに可能なヴィジョンが仄見えている。このような映画を作れる者は、ひょっとしたら天才ではないのだろうか? しかし、天才というものはなかなか理解されず、受け入れられないのが世の常だ。西周成がその壁をいつ突き破れるか? 質量ともにタルコフスキーやソクーロフに匹敵するような、いや彼らをも超えるような長編芸術映画を作るチャンスを彼がいつつかみとれるのか? 困難な道ではあろうが、彼にはいつかきっとそれができるはずだ、と私は期待している。



『ラスト・サンセット』、或いは死の引力」 

リュドミラ・クリュ−エワ(芸術学博士、VGIK映画学講師。現代映画理論)

西 周成の新作映画『ラスト・サンセット』は、内的ヴィジョンの覚醒についての 映画だと言えよう。この映画は構造的に瞑想状態と同形的であり、そこでは現実世界 との接触が精神的空間への漸進的没入にその場を譲り、表層が深さに取って代わられ、 目に見えぬものが輪郭を帯び始めるのである。好感の持てる若者サーシャの奇妙な 物語−−妻の突然の死に戦慄し、自分の内に去って行き」、次第にある種の理解 しがたい空間に魅せられてゆく、そしてそこでは隠れた内的な生が外的、物理的な生 を呑み尽くしてゆく−−この物語を、作者の自分自身に対する眼差し、イデーやイメージ を生み出す感情の作用に対する考察として読むことができよう。(・・・) 

サーシャが三度出会う、特別な人物について述べなければならない。それは盲人である。彼が特別な立場にいるのは、肉眼では見ていないのに精神の目で見ており、まるで外的な空間から内的な空間への道案内人のように現れ、特別なやり方でサーシャとリーザを結びつけるからである。最初の出会いはビルのアーチの下で起きる。盲人とサーシャは反対方向に動いており、両者はある瞬間にまるで特別な霊気を受けたかのように立ち止まる。カメラはその瞬間を強調して急激に180度向きを変える。二度目の出会い。サーシャは、リーザの白い猫と一緒にベンチに座る盲人の傍を通って、アンドレイ・ウラディーミロヴィチの家に近づいていく。再び、停止と、間がある。カメラは盲人に近づき、サーシャを画面の外に押しやる。盲人はサーシャをリーザと同一視して不意に言う、「リーザ、あんた帰ったのかい?」。サーシャの反応は驚愕である。彼は文字通り突然その場を離れ、アンドレイ・ウラディーミロヴィチの家の入り口に駆け込む。三度目の出会い。盲人はベンチで深い物思いに沈んでおり、近づくサーシャへの反応はしない。

物語叙述性と言説性との混交の、別の例を挙げよう。サーシャの部屋におけるエピソードだ。ありきたりの出来事:タオルを持ったサーシャのミドル・ショット。彼は服を着て、書類鞄を手に取り、部屋から、ショットから出ていく。空虚になったショットの中には、小テーブルとそこに残ったカップ。美しい音楽が始まり(フランスの作曲家アンリ・デュモン)、それが我々を、次に来る高速度撮影された都市のパノラマのショットへと導く・・・人間界はほとんど非現実的であり、空から降る光によって流れ込んで合唱の声に流れている天使の世界が、ほとんど現実的に感知される。

映画の意味論的中心、そのエネルギーの中心は、リーザの描いたカンヴァスである。 のみならずその風景は、置換の場、登場人物達の世界から作者のディスクールへの 移行の場なのだ。この絵画への没入には、全体として、動機付けを欠いた活発なカメラの 動きが伴う−−それは例えば、前進や後退、カンヴァスの空間に沿ったパン、ディテール の強調などである。カメラが我々の知覚を前もって規定し、それを作者の意志に同調 させるのだ。しばしば、カンヴァスの風景に沿った動きはテーマ音楽に伴われており、後者は自らの諸手段によって同じ機能を果たしている・・・・。事実上、別の女性との出会ったことでサーシャを祝福したリーザの父のところから帰ると、彼は再び、リーザの絵に向き合い、それらに「引き寄せられる」。(・・・)最初は黄葉した木々、次に雲の青への接近、それから藤色の風景、そして再び青い絵の熟視。中央に光る斑点がある。それは、絵の空間に文字通り“引き寄せる”ように、視線を引き付ける。カメラはカンヴァスの中心にいる人物に接近する:人間が輝く膜の中にいる。それは、人間の肉体を包み精神の目にしか見えない、カスタネダの言う繭だ。(・・・・) 

終盤のシーンはショット=エピソードの様態で撮影されている。古色を帯び、無垢 に見える農村の風景。カメラは静的である。ショットの深みから人影が近づいてくる につれ、我々はそれがシンプルなスポーツ・ウェアを着たサーシャであることに 気づく。(・・・)サ−シャのクロース・アップ−−認識の喜び。空間の二重認識。 我々はサーシャと共に、その空間とリーザのカンヴァスに我々が見たものとの 同一性を認める。ディスクールの音楽的主題が、我々の認識を裏付ける。そうだ、 我々はここにいる−−現実的なものから非現実的なものが創造され、それから現実 以上にリアルになる、その空間内の一点、生と死の境界が消え去るその一点上に。 そこではまだ生きているサーシャが死んだリーザに会い、テクストの展開につれて句読点を打つように現れていた作者のディスクールが、運動する物語を、登場人物達のアクションを「迎えに行き」、その世界を占領し、作者による統一空間に吸収 してゆくのである。