友情は治療のために
〜医者と患者の関係を考える〜
パッチアダムス
Translated by Rieko Ikawa et al.
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私が医学教育のなかで最も衝撃を受けたのは、医者患者関係について教師と議論していたときである。彼らの圧倒的大多数は、プロとしての“距離”の重要性を強調した。それは、患者を扱うときには科学者としての距離を置いた態度をとるべきだと言っているようだった。患者が研究室の実験材料であるかのごとくである。これは病室にまで持ち込まれ、そこでは、患者をぐるりと取り囲んだ医師たちが、サイン、症状、治療法といったたくさんの業界用語を用い彼らを“病気”で表していたのだ。

私は医者のグループが、人間たちのベッドの周りをうろつき、患者をじろじろ見て、さらに、つっついたり衣服を脱がしたりするのに驚いた。生理学研究室にいる犬―おとなしくていい子たち―に接するのと同様である。年寄りであれ若者であれ、ほとんどの医者が、単調な点滴や、看護婦のお喋りを眺めているほうが気楽なように見える。私はいつも、皆が部屋を去ったあと、そんな同僚たちに戸惑いながら、患者に謝っていたのを記憶している。

医学生のときに、私に影響を与えた偉大な先生たちの存在は大きい。というのは、彼らが明らかに一人一人の患者を愛し、気にかけていたからである。彼らは、たびたびベッドサイドで、直接患者に話し掛け、そこに同席していた多くの学生たちを当惑させるくらい、本題から逸れて、その人の人生のディテールまで踏み込むのだった。ある学生などは、このお喋りが我々の治療目標“goal”を曖昧にして、貴重な時間を無駄にすると思ったほどだ。

“距離”は、転移transferenceに対する恐れから、自己目的的に拡大したのであった。転移は、精神医学において、脅威とされているものである。グループディスカッションでは、我々学生は、患者が悩まされている痛みに懸命に対処することで、看護婦やレジデントに自らの弱みを示す。患者に対しての感情を表現したときはいつでも、これは入り込みすぎ!として批判された。そして、患者に触れる衝動に駆られるなんて許されない!コンピューターの問診プログラムを開発しようとしているスタッフの一人が、主観的な要素を排除しようとしてやっきになっていたのを思い出す。

私の実習訓練期間に、これはちっとも良くならなかった。 いや、本当はもっと悪くなったともいえる。 時間という強烈な圧力の下では、人間は非常に複雑な質問には簡単な答えしかできなくなる。その人の業績は“職業”として要約された。 家族に関する質問から、その人が結婚していて、子供がいるかどうか、そして親あるいは祖父母が生きているかどうか、どんな既往症があったかが引き出された。その人の信仰は、その人生に重きをなしていたかどうかもわからないのに書き出された。 趣味、態度、情の深さはたいてい無視された。そう、患者の人たる部分は、本質的なところで完全に無視されたのである。ここまできて、医者と技術者を同一のものとみなすことは、狂気の沙汰であると思わないのか!

私は医者としてガンに取り組み始め、患者と語った。治療行為が患者にどういう影響を与えるのか疑問に思うようになったからである。彼らの口からは、怒り、恐れ、憂鬱が湧き出てきた。まるで、フラストレーションの泉のようである。医者を見て、患者たちの目が輝くことはまずなく、もしあったとしても、それは往々にして、その優越性に対してであった。共感に対してではないのである。

ここに、希望の見えない悲しい例がある。医者も、程度こそ軽いが看護婦までも、気取っているのがわかった。薬剤は、精神的な報い空しく、じゃぶじゃぶ消費されていた。今日にいたるまで20年の間、私はついぞ、幸せな病院環境に出会ったことがない。いまいましい薬剤! 転移パラノイアと“職業上の距離”などくそくらえ!患者の健康、スタッフの健康、そして我々の職業の健全性のために、患者もスタッフも、真の友情に向かって努力しなくてはならない。お決まりの患者の扱い方で何が得られようか!愛、ユーモア、感情移入、優しさ、共感がゆるぎなく投射されてこそ、患者を知ることができる。

科学的に素晴らしい才能はどうぞ保持してください。それは重要な道具だから。しかしそれは治癒に本来備わっている魔法ではない。だから、そのために、我々は愛と心づかいに目を向けなくてはならない。もしこの科学が人々を永久に生き長らえさせ、かつ健康で、輝いているように保つことができるとしたら、それは主観的治療学の殿堂入りを果たしているだろう。しかし、その試みは空しく、惨めな失敗となろう。精神科の薬物療法が横行したり、死の床が無残であると騒がれたりすることは、科学の結果がその“goal”に、お粗末なまでに達しないということを示す2つばかりの目につく例である。

友情は患者にとって偉大な薬である。友情は癒しの職業におけるあらゆる至らなさを克服する。友情があるところでは、人は誤解されることを恐れることなく、自分らしくありのままでいられる。患者だって同じように感じることができるのだ。タブーである話題とか、隠し保留すべき情報などない。友人として、あなたは“不完全”な患者と一緒の“不完全”な医者になることができ、すべての行動において許しあうことが暗黙の了解になる。 そして、この場合、患者にとって、友人であることを知ることによって、特別に感じる機会であることが慰めになるのである。そのように感じるだけでも良い薬となる。

最近の議論の状況では、保健職業の就業者もまた、患者の部屋に入るときに、彼らが安全だと感じられることを知って非常に心地よい気分になれるのである。医者にとってさらに重要なことは、日ごろ不十分な道具と解決法しかない人々の傍にいる身に対し、この友人としての愛情が慰めとなり。心の平安をもたらしてくれるのである。転移は、避けられないものである。どのような対象物も他に対し、何らかのインパクトを与える。我々は、医者と患者の関係の中で、それを望んでいないのだろうか。ある研究では医者がそばにいるというだけで良いインパクトを与えるという。友情が深ければ、それだけ効果が深くなることは言うまでもない。

私の経験でしばしばあったことだが、親とか恋人とか友人とか、誰か他人の愛情を切望している患者は、それなしでは不完全だと感じているのである。だから私は彼らに愛情を注ぐ。私がそのように彼らを愛すると、彼らもまた私を愛してくれるのである。愛とは、優秀な薬なのである。愛情が存在し、本物であるのなら、患者は「私って一人ぼっち0。vなどと言えないのだから。一人ぼっちかどうかということは、患者にとっても、医者の私にとっても重大なことである。孤独ということが、いかに荒涼たるものか私にはわかる。患者、いや、あらゆる人が、愛情は管理するようなものではなく、自由を与え、自由を受けるべきものであることを知る必要があると思う。セックスに関するすべての悩みや心配事が、距離感を生む役割を果たしていると私は実感する。しかし、そうではなく、我々は、愛情と友情を強めて、それをセックスに投げ与えるのである。これは、アラブの男性が女性に対してすることと同じように思える。なぜなら、男性はセックスに対し、どれほど、のべつまなく渇望しているか知っていて、彼らはそれを表現して解決するよりも、女性を全て覆い隠すことに決めたのである。

患者が医者に恋をする。また逆もある。これらの経験は友情の関係(最もオープンなコミュニケーションの場)でずっと容易に困難を切り抜けることができる。一方、他の経験では、このような疎外され中毒になった社会で、患者の依存心を懸念することが示される。 一人の人間が、多くの人と友人になったからといって、だれが驚くだろうか。好きだと思う気持ちをつぼみのうちに摘み取る技術を発達させてきたという経験があっても、近しい友情がなければ、私は、どうやって、患者にマッサージや往診に行って快適に感じることができるか?

友情は医者にとって、素晴しい道具である。しかし、その遊び場に不用意に入ってはいけない。人との親密な関係に誘われ、あなたがあらゆることに対処するのに必要なスキルを学ぶ覚悟があるなら進みなさい。また、もし医療専門家、病院のヒエラルキー的体質の排除に力を尽くし、その代わりに、チーム全体と友達になることを選ぶのであるなら、非常にポジティブな医学的効果が同じ患者とスタッフの間にできる。一員であることの実感こそが、チームに力を与えるのだ。真の集団努力というものは、グループがお互いにプロとしてと同時に、気晴らしとして存在することにより学ばれるのである。お互い同士がとても好きで、単に一緒に働いたり、仕事仲間に挨拶しにホールに下りていったりするようなスタッフを得るのが望ましい。スタッフ間の陽気さは劇的な治療効果を起こし得、だから、例え愛すべき親しげなスタッフは影響を受けないにしても患者は確実に影響を受ける。私はこのような病院での活気が、訪問者に影響を与えると信じている。もともと不安で、意気消沈していて、そして抑制された彼らには、次々とすばらしい効果をもたらすのだ。 私は病院に行くのが億劫だという、しばしば起こる繰り返しの気持ちを打ち消し、病院で素晴らしい気晴らしの時間をもてたという気持ちに置き換えられるようにする。

医者患者関係で、この親密さは確かに、医療過誤問題に影響を与えることができる。 諸研究では、告訴件数が最も少ないのは、患者と最も親しい医者たちであることを示した。友情とはなんと素晴らしい贈り物なのであろう。それは、“守りの医療”の不安材料を乗り越えることができるのだから。友人になら、人は一番正直になれるのだ。私は、患者としての友人たちと共同体を組むことに、ずっと深い意味での「保険」という隠れた力があると信じる。 私は生きていくという意味での「保険」について話しているのだ。あなたが、医者として健全経営をしてきているとしよう。必要があれば、患者のところへ駆けつけることだってできるだろう。あなたの健康も必要性も、本質的にはあなたにも患者にも恩恵をもたらすのだから。こういった感動的な挿話を、あらゆる町医者の自叙伝が物語っているのである。

この重要な関係を、最後は、我々の社会の需要と結び付けよう。もし我々が種として生き残るなら、我々は我々の社会を治さなくてはならない。 退屈、孤独と恐れが、我々の社会を蹄にかけている。これは、あらゆる種類の見境ない犯罪によって実証されているではないか。 大いに愛され、尊敬されている医者が、これら全壊の騎手3人組を殲滅する力を持っている。 我々は、力と富を崇拝する観念を愛と共存に価値をおくもので置き換えなくてはならない。 さあ、我々の

患者を愛して、彼らを抱きしめ、そしてそれがどれぐらい尊いか体感しよう。

我々の指導的な試みと建設中の病院の全体デザインは、深まっている友情を拡げる願望を反映する。共に働き、遊ぶべき多くの友人たちと共同生活を営むことによって、助け合って子供たちを育てることが、お互いの親交の深いところを探りあい、そして訪問する人たちのためのモデルとなるという我々の仕方である。病院で我々の家族と一緒に住んで、プライベートな生活をやめ、そして、患者が友情という環境で、安全に感じることができるくらいに、なんびとにも究極的に寛容でありたい。料金を請求しないことと、医療過誤を伴うことを拒否することで、我々と友情の力で生きてゆく協定を結ぶ。 我々は経営後見のスタッフを雇いさえしないであろう。むしろ、我々のお互いの生きる糧を、スタッフと一緒に働いている患者のお互いの努力に頼るであろう。

芸術と工芸、農業、レクリエーション、自然、社会福祉その他と医学を統合すれば、人々が仕事、学習、遊びを通じて一緒になれる可能性を無限に広げられるだろう。個人レベルでの話だが、患者と私の最初の面談は、健康上の必要事項を埋めるためでなく、本人についてすべてを探究するために行うので、3、4時間に及ぶ。このやり取りは、共に会話、プレー、散歩、メッセージなどを通して、日々深くなる。 私は彼らに家族を連れて来るよう奨励する。それで我々の家族はお互いを知ることができることができる。ゴールは生涯の友情を得ようと努力すること。我々は互いに関心をもつことを約束し、お互いのいいときを祝って、悲しみを分かちあう。 我々は単なる挨拶としてだけでなく、互いに元気をもらうために抱き合う。私は、彼らにいつでも、電話をしたり、手紙を書いたり、戻って来たりするよう奨めている。実際、私は、そうすることに、長続きさせるという意味があるのだと考えている。すべての患者がこのような親密さを欲するわけではない、中には、それを恐れたり、懐疑的になったりする人もいる。これは切り抜けなければならないところだ。もし私がその患者のために適切な人物ではないなら、他の職員の1人がそうなることが望ましい。人が本当に提供できるのは、心のこもった対応なのだ。

医業では、途方もない友情を持つためにこの極点に行く必要がないことを強調しておく。私は、夢を見て、かつ夢見たとおりに行動をするために皆を刺激したり、後押ししたりする姿勢を言いたいだけである。 あなたの姿勢が何であるとしても、医療専門家として、友情のために心の場所を空けていてほしい、それを大きい場所にしてほしい。

『ゴールデンエイジ』より増刷

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