アルフォンス・デーケン先生の「死への準備教育」

[日本の人々へ 生と死、自らの価値観持て] 朝日新聞 2003年3月15日
[「死生観」培う教育を] どう伝える命の重さ、少年事件に思う(2)讀売新聞2000年7月26日

→見出しページへ


◆日本の人々へ 生と死、自らの価値観持て
アルフォンス・デーケン 上智大学教授(哲学)
朝日新聞 2003年3月15日

私は、人間の死を三つに区別して考えている。たとえばがんによる死は、日本人の3人に1人にとっては「避けられない死」である。しかし、自殺や交通事故による死は「避けられるかもしれない死」だろう。そして戦争による死は「避けられる死」である。私が来日した1959年当時、日本の医療現場では、死を語ることはタブーに近かった。末期がん患者への告知はあまりに少なく、死までの過ごし方は「病院での延命治療」にほぼ限られていた。

私は「死への準備教育」を提唱し、ホスピス運動に取り組んできた。告知の広がりに伴い、治療者と末期がん患者とのコミュニケーションはより豊かになった。患者には、ホスピス施設での死や在宅ホスピスでの死といった選択肢も用意されるようになった。こうした変化は、死をタブー視せず、自らの問題として積極的に「生と死」を考えようとする日本の人々との共同作業によって実現された、と私は思う。

小学校高学年のころ、私は北ドイツで第2次世界大戦を経験した。連合軍による空爆で、多くの同級生が死んだ。真っ黒になった友人たちの死体を見たとき、心に浮かんだのは「理不尽だ」との思いだった。戦争を用意し実行するのは大人である。子供はその決定に関与できないまま、犠牲にさせられていた。私は校長から、ナチスのエリート養成校への進学を勧められた。「これは自分で選択をしなければならない」と私は感じた。新約聖書を読み直し、ナチスが戦争をすることで多くの人が殺されているのは聖書の教えに反する、と結論した。推薦を断ったことで校長や同級生からは非難されたが、良心に従って選択したことを悔いたことはない。

戦後、ドイツにも「連合軍が戦争をしたおかげでドイツは全体主義や独裁から解放された」と考える人々がいた。しかし私は、ただ戦争を肯定するような考え方には賛同できなかった。フランスに留学した時も、二度と戦争が起きないよう欧州共同体をつくらなければならないと、下手なフランス語で力説したものだ。

01年9月、ニューヨークのホスピスを訪れていた私は、世界貿易センタービル一へ旅客機が突入する光景を目撃した。以後、なぜテロリストが生まれたのか、なぜ命をかけてまで実行したのかについて考える姿勢が必要だと思ってきた。しかしこの間、テロを生み出すような境遇に生きる人々との間でどれだけの相互交流、相互理解の試みがなされただろう。ヒロシマ・ナガサキの体験を持つ日本は国際的な平和運動のリーダーシップをとるべき存在だが、日本の青年はアジア諸国との交流にどれだけ取り組んでいるだろう。

大学で青年を見ていると、もう少し社会的責任を感じてほしいと感じる。他者や世界への関心がもっとあっていい。関心を喚起する契機の一つとして私は、「生きがいについて考える教育」の効用を指摘したい。実際、「余命が半年しかないと宣告されたらどう過ごしたいか」という演習では、日本の学生たちも熱心に考え、議論するのだ。

私は近く、40年余りを過ごした日本を離れ、しばらくドイツでの研究生活に入る。その後の予定は、まだ決まっていない。生と死や戦争について重大な選択を迫られる機会は、今後も日本の人々の前に訪れ続けるだろう。私が深い感謝とともに、一応のラストメッセージとして日本の人々に伝えたいことは、死をタブー視することなく自らの価値観を確立しましょう、ということだ。

→見出しページへ


「死生観」培う教育を
上智大学文学部教授 アルフォンス・デーケンさん(67)
どう伝える命の重さ、少年事件に思う(2)讀売新聞2000年7月26日

新入生たちに講義する「死の哲学」で、授業の最初に話すのは、死を考えることは生を考えることだということです。死を考えれば考えるほど、限られた時間をどう生きるか、考えることになる。

ドイツ生まれの神父。1959年に来日以来、一貫して「死への準備教育」を説き続ける。

日本の高校でも「死」について教えたいと考える先生はいる。でも、「受験の役に立たないからやめろ」と反対されるそうです。一連の少年事件で感じたのは、学校の成績のような数字に表れるものしか認めず、生命の尊重といった目に見えないものを無視する日本の教育の在り方でした。社会全体も同じ偏った価値観で動いている。

ドイツでは、若いうちから人間の偉大さを教わる。それは三つあります。考えること、選択できること、そして愛すること。考えたうえで善悪を判断し、周囲に思いやりと愛を示す。日本の教育は、こういうことを十分に教えていない。自分の人格も尊重されず、相手の人格も尊重しない、そんな精神的雰囲気が極端な若者を作り出しているのではと心配しています。

小学生のころ、四歳の妹の死に直面した。生と死を考えるきっかけになったという。

身近な人間の死は、学校では学べない貴重な経験です。妹があと何日生きられるのか、家族で話し合い、心を痛める中で、時間の貴さを知った。天国での再会を約束し、希望を持って死んだ妹の姿に、死は決して怖いものではないことを教わりました。ある高校で話をしたら、とても熱心に聞いてくれました。その学校では、一年の間に先生と生徒が自殺し、保護者も含め九人が亡くなっていたと、後で知りました。

身近な死を経験すると、人間は本当の悲しみ、苦しみを知る。だから、せめて年に一度、「生と死を考える日」を設けてほしい。もし自殺した生徒がいたら、その生徒の苦しみ、遺族の悲しみについて話し合ってほしいのです。上智の授業で遺族の話を聞く機会がありました。涙を流して話す父親の話に、自殺を考えていた学生が「思い直した」と私に打ち明けました。遺族の話は、話す方も聞く方もつらいものですが、生命尊重の最高の教育になる。

大学外でも積極的に発言されていますね。

有名人の死や飛行機事故のニュースを見ると、子供は必ず「みんな死ぬのか」と聞きます。その時、逃げてはだめです。「お母さんもお父さんもいつかは死にます。だから今一緒の時間を大切にしよう」と話せば、限られた時間を無駄にできないことも親孝行も教えられる。

しかし、多くのお母さんたちは、宿題の話を持ち出したりしてはぐらかします。すると子供は、この問題はタブーだと感じて二度と質問しません。子供が死について考える機会を奪っているのです。考えていないから向き合えないのです。まずはお母さんたち自身が死について学ぶことから始めなくてはなりません。

欧米では、死の教育が具体的成果を上げ始めていると聞きますが。

ドイツでは、いま爆発的に在宅ケアや在宅ホスピスが広がっています。圧倒的に多くの人が最期を自宅で過ごしたいと願っているという調査結果が出たのが要因ですが、若者が学校で生や死について学び、父や母と人生の最期の迎え方を話すようになった成果とも言われています。最期を孤独の中で迎えさせず、家族でみとる意識が上がったということかもしれません。

日本でも、在宅ケアが進み始めています。この機会に、若者たち自身が自分なりの死生観を持つことが大事です。死は身近にあります。タブー視せずに見つめるところから教育は始まるのです。(聞き手 山崎 正)

→見出しページへ