[肝臓癌1]

[手術不能の肝癌で治療を受けているが、セカンド・オピニオンは?]
[B型肝炎に発癌し手術を受けたが再発した、セカンドオピニオンは?]
[B型肝炎からの肝癌へのリザーバー治療ができなくなったが家族の接し方は?]

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[手術不能の肝癌で治療を受けているが、セカンド・オピニオンは?]

(相談)小諸市1999.4.17
数野様 初めまして。ホームページを拝見してメールを差し上げました。ご相談というのは、今年で69になる母についてです。私は娘で、1年前までは神奈川県鎌倉市で一緒に暮らしていましたが、長野県小諸市に両親の希望で隠居する事になり、現在は東京都に1人で住んでいます。先月25日に、近ごろ食欲がなく、気分がすぐれず、倦怠感があると言っていたらしい母が、近所の胃腸科の開業医に行ったところ、触診で、これは胃ではなく肝臓ではないかということで、その先生の門弟がいる佐久総合病院を紹介され、外来で診察を受けた結果、翌日から入院して検査するということになりました。検査の詳しい項目は分からないのですが、エコーやCTスキャンなども受けていたようです。その中間報告として父母に31日に説明がありました。

病状説明記録                   患者 ○○ ○                         同席者 御主人概略図(ここでは省略します)
1.肝腫瘍に伴う肝腫大
2.腹水
◎多発性肝腫瘍であり腹水も伴っていることから手術加療は困難
◎肝臓以外の臓器からの転移の可能性もあり腹水(4/1)や大腸(4/5)の検査も行う、この結果をみて内科治療を行う予定です、4/6 16:00頃面接をして治療予定を決める(4/2-4/4外泊) 以上説明しました。
11年3月31日     佐久総合病院 胃腸科 説明医師 ○○ ○○

その後腹水(少量抜き取り)と大腸(バリウム+レントゲン)の検査があり、1.肝腫瘍に伴う肝腫大、2.腫瘍に伴う腹膜炎→腹水
抗腫瘍薬を(腹水を抜いた後)腹膜内に注入する(4時間)4〜5日間(図)、副作用:吐気、骨髄抑制↑カテーテルを入れる(左右どちらかのわき[わきの下ではなく肋骨の下あたりのように図は見える]にチューブが入っている図)、2の後1に対して治療をする、4月7日腹水排液を行う 11年4月6日 という説明書と共に診療方針の説明がありました。この回の説明には私も同席しましたので、少し補足します。前述の大腸についての検査でも、2〜3ポリープはあるものの今回の腫瘍とは関係のないもので、結局全体の検査を通して、肝臓と腹膜以外に腫瘍は見つからなかったとのことでした。
・上記の副作用については出る人の方が少ないが、可能性としてあるので教える、という程度のもので、出ないか少ないのがおおかたの人の症状であること。
・前回の「2.腹水」の部分が「腫瘍に伴う腹膜炎→腹水」になったことで、これは前回の腹水の検査から腹膜にも腫瘍がある可能性が高い。
・2を先に処置するのは、腹水を溜めたままだと腸閉塞などを起す可能性があるということ、また肝臓の治療をする際にも腹水が出ることがあり、混ざると腹水の原因が分かりにくくなり、対処が困難になると説明されました。
・今日腹水を(おそらく2リットルくらいとみてるそうです)全部抜いて、もう一度くわしく調べてみないと正確な薬液の量や日数は出ないが、今の時点では4〜5日間上記の処置をすれば、腹水の原因になっている腫瘍はほぼ抑えられるだろう(←予測)。
・その後の経過を見て肝臓の処置に移る
・今週末は家に帰れない
・腹水の経過を見るのに処置後少し時間をおく
・腹水を抜いて腫瘍がおさまれば多少は楽になるが、肝臓が腫れていることに変わりはないので食後の倦怠感のはまだ続くだろう
・腹水の処置の間は動けないが介護が必要なほどではない(カテーテルは入れっぱなしになるが、夜はきちんととめておくので動き回れはするらしい)
・カテーテルの挿入自体は、苦痛を伴うものではなく、むしろ動いてはいけないということのほうが患者にとっては負担と思われるというのが、事前に行われた説明の内容です。この通りの予定で、4/7に1.7l、4/8に0.3lの腹水を抜き、8日から2日間薬液を1リットル入れては抜くという治療を2回に渡ってしました。4/8の薬液注入の時に見舞に行った際は、普段と変わりない状態で、ただ動くとカテーテルの部分が少し痛むと言っていた程度だったのですが、4/10(1日おきに見舞いに行っています)に行くと、非常に消耗した顔をしていて、何があったのか聞くと、10日の深夜から腹部に痛みがあり、2時間我慢したが痛みが増すので看護婦を呼び、座薬の鎮痛剤を2つ入れたが収まらず、微量のモルヒネ入り注射をしてもらってようやくおさまったということでした。その後、結局その薬剤注入の治療は痛みが出る前に行った2回で一旦中断し、現在まで様子をみているらしいのですが、10日の深夜からずっと痛みがありモルヒネの投与を受けています。その他の症状としては
・毎日夕方に37.6程度の発熱があり、朝にはひく
・慢性的な吐き気と便秘
・痛み止めを投与されていても、食事をすると痛むので、毎食全体の2割程度しか(恐くて)食べることができない
・ここ4日間の間にふくらはぎから下がむくんできて、今はパンパンに腫れている
・痛み止めのせいか入院中の記憶に多少混乱が見られるという具合です。

主治医の方は、説明時には「がん」という言葉は使わず、腫瘍といっています。がんというのはあくまでいろいろある腫瘍の種類の中の一つに過ぎないのだというのがその論拠のようです。また、腹膜内薬剤投与は、とりあえず2回でも効果はあったらしいということですが、先生は母さえよければ、あと2回はやっておきたいようです。4/6の説明の時に、肝臓に対する治療の概略も少し話がありました。肝臓に繋がる血管に、太股のあたりからカテーテルで直に薬剤(腫瘍を攻撃するものとの説明)を入れる、というのが、この先生の唯一の方法のようです。母が他の患者さんたちから聞く話では、その治療は18時間動けず、その後吐き気や倦怠感などの副作用がひどいらしいこと、4回やってもあまり効果がない患者さんが隣のベッドにいること、これからあまり運動はしてはいけないと言われるらしい、ということです。母はもともとどう見ても60前にしか見えない非常に元気なタイプで、普段は週3回水泳に行き、冬は月2〜3回はスキーに出かけたりしていたので、運動をしてはいけないということに対して非常に落ち込んでいまして、それに加えて今の状態がいつまで続くのか分からないということもあり、だんだん気力がなくなってきています。肝臓の治療も受けないでいいからホスピス探してくれなどと言ったりしています。あと、肝臓の腫瘍は肝炎ウィルスによるものが多いとよく聞きますが、小諸に引っ越すまで、最低1年に1回は20年来のかかりつけのお医者さんに詳しい血液検査をしてもらっており、ウィルスの反応は出ていませんでした。(今回胃腸科に行ったのも、それまでにも何らかの不調のサインはあったものの、今年の2月にスキーへ行ったときに肋骨を折ったのではないかと整形外科にいき、そこでもらった痛み止めのせいで胃がもたれるのではないかとずいぶん長いこと思っていたようです。一緒に暮らしていればお腹が出て来たのにも気が付いたのかもしれないと悔やんでいます)父は元気な母が入院したことでいまだショックから立ち直れませんで、小諸近辺で評判のいいという病院に入り、治療を受けているということで、上記のような症状があっても「しょうがない」と思っているようです。私も、母が苦しそうにしていなければ、もうしばらく様子を見てもいいかと思っていたのですが、2回目の説明に同席した際、腹膜にカテーテルを入れる治療で介護は必要なのかと聞こうとしたら、「母が(それまでに説明した治療計画の内容に)納得しているのなら、家族からの細かい質問に答える必要はない」という趣旨のことをぴしゃりと言われたことと、痛みに対する説明が事前も事後も全くないことがずっとひっかかっているのです。私がしつこく父に言って、今度の週明けに父の知り合いで松本にあるがんセンターの所長さんにアポをとって話を伺いにいく予定なのですが、こういう場合、今までにした検査の資料やカルテなどは、写しをもらったりすることは出来るのでしょうか。また、先生は母をどう見られるのかも、お伺いしたいのですが、、。お忙しい所申し訳ありませんが、何卒宜しくお願い申し上げます。

(答え)1999.4.18
お答えします。大変ご心配のことと思いますが、あなたのメイルから分かる範囲では、残念ながら母上は末期の肝臓癌のように思えます。肝臓は沈黙の臓器と言われていて、症状が出たときにはすでに手遅れのことが多いようです。現在、病院で受けておられる治療が、多分ベストと思います。「肝臓に繋がる血管に、太股のあたりからカテーテルで直に薬剤(腫瘍を攻撃するものとの説明)を入れる」という治療方法を、肝動脈塞栓術(TAE)といって、進行肝細胞癌には最も効果的です。この先生に限らず、現在の医学では唯一の方法と思います。もちろん、その治療は18時間動けず、その後吐き気や倦怠感などの副作用がありますが、本人に闘う意志があれば十分耐えられる程度のものです。しかし、腫瘍が大きいほど効果は少なく、たとえ効果があっても残念ながら治してしまうことは不可能で、定期的に治療を繰り返して延命するということになりますので、「4回やってもあまり効果がない」という患者さんもいると思いますが、それは4回治療ができたという(おそらく2年位の)延命効果があった人です。比較的早い時期に見つかった肝臓癌の人では、うまく治療を繰り返せば5年くらい生きられる人もいます。

がんセンターでセカンドオピニオンを聴くことは大切なことですので、主治医に話して紹介状と資料をお願いするのが良いと思います。残された時間をどのように使うかということを考えておかなければいけません。もちろん本人の意志を尊重してあげなければいけませんので、よく話しを聴いて、本人と家族が納得できる方法を選ぶことです。ではまたいつでもメイルをください。

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[B型肝炎に発癌し手術を受けたが再発した、セカンドオピニオンは?]

(相談)1999.3.4
先生、こんにちは。 私の母(54歳)の事で御相談させてください。私の母は慢性B型肝炎を長い間わずらっておりましたが去年の5月、ついに大きいほうの肝臓に2センチ程の癌が単発で発見されいろいろ悩んだすえ、東京女子医大で肝癌切除手術をしました。手術後、肝臓には特に問題がなかったのですが胸水がたまる合併症に長い間悩まされ去年の11月頃まで入院生活が続きました。ようやく日常生活をとりもどしつつあった2月、また肝臓に影がみつかった、とエコー後に主治医に説明を受けました。今回は2.5センチ程度で、また単発ということでした。あまりにも早い再発に母は相当にショックをうけていますが、手術後に切除した肝臓片を見た私達家族は、悲しいけれども次から次に癌が発生してもしょうがない、という受けとめ方でした。本人は慢性B型肝炎のつもりだったのですが実際は既に肝硬変でした。現在、次の治療方法を家族で模索中の段階です。前回手術の合併症に悩まされた母は、病院にも、また手術という治療方法にも不信をもっています。そこで、肝炎友の会で紹介された千葉西総合病院にセカンドオピニオンを求めました。

その病院で検査した結果、(血液検査、エコー、CT)女子医大で言われた2.5センチの腫瘍以外にも2つばかり小さな腫瘍がみえる、とのことでした。現段階では、片方はエコーにだけ映りもう片方はCTにだけ映る、というあやふやなものらしいです。この病院の医師は、「2ヶ月後にまたCTとエコーをしよう」という姿勢でした。「2.5センチの腫瘍は癌にまちがいはないと思うが、特に悪性は強くないので他の腫瘍の様子を見るためにも少し時間を置こう」ということなのです。「生検してもいいがそれだと細胞が散らばる可能性があるから」ということでした。現在、母は女子医大に検査入院していますが検査結果から女子医大はマイクロ波凝固方法を選択する模様です。それも、出来るだけ早く、とのことなのです。同じ、肝臓の専門家なのに、かたや2,3ヶ月様子をみよう、といいかたやすぐ腫瘍を退治せねば、と言います。母としては、去年から飲み始めましたAHCCの効果も試したい、とのことで2,3ヶ月様子を見るほうに傾いています。千葉西総合病院の判断を信用するには、今までの母のデータが必要と思い女子医大にカルテの貸し出しをおねがいしたところあまりよい返事をいただいておりません。先生はどうお考えになりますか?

(答え)1999.3.4
お答えします。母上の場合、最新の医療ではマイクロ波凝固方法が最適と思われます。最も確実に癌をやっつけることができるからです。「出来るだけ早く」という意味は、この治療方法に適した癌の大きさが3cmまでと言われているからです。

民間療法は、常識的には病院での治療ができない場合や、病院での治療をしながら同時にできるような場合に考えるべきと思います。今の状況で、去年から飲み始めたAHCCが効いていると思えるでしょうか。民間療法だけに頼って癌が治るのなら、誰も苦労しません。ただ、病院での治療ができなくなった段階では、中心的な治療となりますし、心のよりどころとして試みる意味はあります。病院以外の治療で、医師がこれがよいというようなことはできません。それは自分で決めることです。

2.5cmの腫瘍についてはどちらの病院の医師も同じ見解で、他の腫瘍?について千葉西総合病院の医師の判断と、女子医大の医師の判断が異なるというだけで、特にカルテを見る必要も無いように思いますが、カルテを見る目的は何でしょうか?もう一つの病院の医師の勉強のためでしょうか。時間が限られていますので、見つけた癌はその都度、その時点でできる治療をしていくことになります。モグラたたきと同じです。そのようにして延命を考えます。諦めるのは最後で良いのではないでしょうか。ではまたいつでもメイルをください。

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[B型肝炎からの肝癌へのリザーバー治療ができなくなったが家族の接し方は?]

(相談)1998.9.22
こんにちは、今日初めてこのページを拝見させていただきました。早速ですが、私の母(今年、60歳になります)が、4月1日から入院しました。その日のうちに付き添いであった長女の私(26歳)が、病名等の説明を受けました。病名は・・・末期肝臓ガンでした。(+肝硬変)そのガンも、15cmという先生もびっくりするくらいの大きさでした。この病状では、「本人への告知はしない方がよい」とのことと「私もその方がいい」ということで、本人には「B型肝炎ウイルスによる炎症」ということで入院がスタートしました。この時、いつどうなるかわからない、とも言われていました。母の兄弟は、みなB型ウイルスを持ち、母の上の兄と姉は、10年ちかく前に肝臓ガンで亡くなっています。私の家族は、父と90歳になる祖母と兄2人とおりますが、母は、父の事業の失敗からここ10年ちかくかなり苦労してきております。それが飛び火して、上の兄もいま無職の状態で、その辺のことで母は悩んでいました。もう一人の兄と私は、きちんと就職していますが、兄弟のバランスがとれてないことでケンカばかりをして心配させていました。母との30年の同居も心労の原因の一つとなっていました。父は、仕事の失敗のあと、脳梗塞で脳梗塞で倒れ、今は自宅でゆっくりと過ごしています。(杖をついて歩くことはできます)こんな状態なので、母がここ2年ほど工場でのパートをしていました。とても疲れて帰ってきていたのを今、思い出します。今、これらの結果として、母のこのような病気になってしまった、と気がつきとても後悔しています。

それで、母ですが入院した時には、腹水がたまりぱんぱんになって、足もむくみ、すっかり痩せていました。入院前日、風呂上がりの母の背中がとてもがりがりでびっくりしたものでした。先生の治療は、まずは腹水を取ること。ということで、利尿剤を使用して腹水をとりました。予想外に早く順調にとれたということで、黄疸のでていない今なら、リザーバーという治療ができるということをいわれました。ここで、親戚一同の反対を受け、家族と親戚との間でとてもつらかったです。というのも、叔父やおばが抗がん剤の苦しみでなくなっていったのを見てきているからです。私も幼い記憶の中で、おばがのたうちまわっていたのを覚えています。体中、黄色くなり、かきむしって・・リザーバーとは、制癌剤を体内に埋めた管から、注入するものですよね。母は、すっかり自分の病気は、「B型肝炎によるもの」と信じているので、先生が「リザーバーというのをしたら、効果的」というのにすがって、ヤル気があり、私たちはとめることが出来なかったのです。そうこうして、20回/1サイクルのリザーバーを4月末〜5月末まで行い、一段落したということで、退院しました。この結果は、先生もびっくりするくらいだったようです。(血液の数値でみても)本人もヤル気があって、頑張っていました。リザーバーと平行して、「玄米酵素」という食品を一生懸命食べていました。これもよかったようです。(これは、母の姉がガンに効果的ということで、玄米酵素を必死に食べているので大量にもらいました)

6月、7月は自宅で療養させていましたが、会社勤めの私が十分に家事等できず、外来通院を繰り返すうちに血液のデータが思わしくなく、8月にまた入院し、2サイクル目のリザーバーをしました。この8月に私は、花嫁姿くらい母に見せたいという思いと、ここ数年、めでたい出来事がなかった我が家に、祝いごとをもたらしたく、ごくごく身内で挙式のみの結婚式をしました。このため、母も1回目のリザーバーは、積極的だったようにも思います。(無事に、挙式は終えました。母は、式の週だけ退院という形でした。)

長くなりましたが、式のあとに、母の「胸のあたりが変・・」という言葉で、胃カメラを飲んでみると、食道静脈瘤が5つほどみつかり、そのまま除去するということになりました。また、リザーバーを予定より早めに打ち切ってから、(血しょう板が30000を下回った為)食欲も、ぐっとなくなり、元気もないのです。こころなしか、皮膚も黄色っぽくなってるようで、とても不安です。こわいです。母の付き添いは私だけなので、私の様子が変だと、母も心配なので、元気な姿をみせようとするのですが、昨日から母をみると、涙がでそうになるし、おばの苦しんでいた姿を思い出します。(痛みはない、と言っています。肝臓のあたりが重い、と言っています。)入院から半年、「よく生きている」と先生は思っているかもしれません。でも、一日でも長く生きていてほしい。でも、苦しい思いはして欲しくない。と私も私もフラフラです。数野 博さま、母はもうながくないでしょうね。どのように、接してあげたらいいのでしょうか?何をしてあげたらいいのでしょうか?長くなりましたが、読んでくださってありがとうございます。今から、病院へ向かいます。

(答え)1998.9.23
ホームページを見て頂き、またメイルを頂きありがとうございました。母上(60歳)が、末期肝臓癌(肝硬変、B型肝炎)とのこと、大変ご心配のことと思います。腹水は利尿剤によく反応し、4月末〜5月末までと8月にリザーバーからの化学療法(抗癌剤治療)を行い、1サイクル目はよく効いたが、2サイクル目は副作用のため早めに打ち切られ、食欲もなくなり、元気もなく、黄疸が出てきたという状態のようですね。食道静脈瘤の方は、内視鏡的硬化療法を受けられたと思います。

母上も色々と大変な苦労をされ、ご兄弟も肝臓癌で亡くなっておられるようですので、様々な思いと不安がおありだと思います。親を思いやるあなたの気持と努力には頭が下がります。すでに十分尽くしていらっしゃいますし、花嫁姿も見せてあげて素晴らしい想い出を作ってあげています。苦しみと痛みに対する不安と死に対する恐怖心は、このような場合には誰にでもある心の働きです。痛みや苦しみは医師が治療で取ってくれますので、大丈夫です。そばにいて、話を聴いてあげるだけでも安心されると思います。手を握ってあげたり、さすってあげたりすることで楽になることもあります。無理に何かをしようとせず、小さなことでも母上の希望をかなえてあげればきっと喜ばれると思います。残された時間は少ないと思いますが、急変さえなければお正月が迎えられるかもしれません。一日一日を大切に、常に希望を失わないように生きてもらってください。できれば皆で支えてあげてください。それでも心の準備だけは、しておかないといけません。ではまたいつでもメイルをください。

(返礼)1998.9.24
こんにちは、先生!先生、早速のお返事とあたたかいメッセージをありがとうございます。このようにわたしのメールに答えてくださって、本当にうれしく思います。会社にいても、電話が鳴るたびに「病院からかもしれない・・」とびくびくしていましたが、先生のメールを読んで、母の残された時間に、私がしなければならないことを確信し、くよくよしてはいられないと思い直しました。母は、自分が入院して、実家のことをしきりに気にしていました。「帰ったら、あれもしなくちゃいけない、あの料理を作ろう・・」と。その辺の気を使う心配をさせないように、実家のことを時々見に行って、安心できるように報告してあげたり、(・・・を私がしなくちゃ、と思う気持ちが今、母自身を持ちこたえさせているのかな、とも思っているのですが。)実家にいて、母の容態を案じている、足の悪い父(65歳)の健康も心配なのですが、精神的な部分は、しっかりしているので、母の容態を正直に話して、今後の心の準備をしてもらうようにしようとおもいます。兄、祖母にも・・家族みんなでしっかりまとまって、先生がおっしゃる通り、皆で支えてあげなければ行けないと思いました。毎日、病院から出るに、母としっかり握手をして帰っています。手のひらの赤い、細い手ですが、しっかりと握り返してくれます。一日でもたくさん、握手ができるように、母に希望を持っていられるように、私も一緒にがんばります。また、ご連絡したいと思いますが、本当にありがとうございました。

(相談)1998.9.28
おはようございます。先日、先生からのお返事をいただき、HPを改めて拝見いたしました。多くの方が、家族のガンや病気に前向きに、そして真剣に向かい合っていらっしゃることに感銘を受けています。闘病に際して、本人への告知(はっきりと告げるという意味ではなくて)が治療の前提にあるように思いました。うちの場合、先生からも「告知をしない方が本人の為にはよいだろう」と、そして、家族の私も「その方がいいだろう」と思い、「肝硬変+肝ガン」とは言わず、「B型肝炎による炎症の悪化」ということで治療をすすめてまいりました。前々回のメールでも書きましたが、4〜5月で20回/1サイクルのリザーバーを行い、AFP?(ガンが作り出す蛋白質)の値が減り、治療が効果的であっただろうということでしたが、一度退院し、2ヶ月間の外来通院をしていると、またAFP値はぐんとUPしていました(100,000くらいだったように記憶してます)。8月の私の結婚式の前後に2回目の同じ治療に入りましたが、血しょう板が30,000を下回った為に、18回で治療を打ち切りました。そして、昨日、最近の病状と、これからの治療について先生から話がありました。

まず、2回目のリザーバー後のAFP値は、減っていないので効果的ではなかった(AFP値の増加を、今の値で食止めている、と解釈すれば、効果的だったということになるが・・といわれましたが)。3回目を行うなら、中に注入する薬の種類を変える。今までは、250mlの量の液体とシスプラチン10mgを1日で4時間半くらいかけて入れていましたが、ファルモルビシン20mgとリピオドール2〜3mlを、2週間に1回入れることになる。これを入れると、ホルモンの作用で、副作用として髪が抜けたりすることになるかもしれないということでした。時間的には、一回10分程度とのこと。話を聞いただけで、今度入れようとしている薬が劇薬ということとわかりました。腹水がまた溜まったり(また利尿剤でとれたようです)体力的にも落ちてきているし、これにより強力な薬を入れて、ガンを活性化させて、命を縮めてしまうのではないかと思っています。先生は、この治療をとくに進めるのではないのですが、なにかするとしたら、この治療でしょうという感じでした。もしくは、何もしないか。前と同じ薬を入れるか・・私の今の気持ちは、何もしないでいたいのです。今は、少々の食欲低下、体力低下はありますが、動けるので、温泉に連れていったり、楽しいことをしてあげたいのです。楽しいことをしたり、考えたり、笑ったりすることで、「病気の人」ではあっても「病人」として生活してほしくないし、病気に負けないような力(免疫力とでも言うのでしょうか)を少しでも高めて欲しいのです。でも、ここで問題なのが、母にはっきりとした病名を言っていない為、何も治療をしない・・ということは、母にとって、"健康体"に戻ってないのに、どうして何の治療もしないのだろうか?、という不安な気持ちを逆に持たせてしまうように思います。でも、今、告知をすると、時期を逃していることもあって、「そうとうひどくて、もう死ぬしかない」という、絶望感だけを持たせてしまいそうだと思っています。「残された時間は少ないと思いますが、急変さえなければお正月が迎えられるかもしれません」という、先生のお返事が気になります。3回目の治療のことは、先生が本人へ少し話しているようで、またやる気を見せてはいます。これをしたらよくなる、と信じて。しかし、これをきっかけに急変したら・・と思うと・・。今週中に、病院へ返事をしなくてはなりせん。本人の意志、返事ではなく、私(家族)の返事で治療が決まろうとしているのもなんだか疑問がありますし(告知をしていない為ですが)、母の命を私が握っているようで、とても複雑です。もちろん、母には説明をしていますが、少々、色をつけて話しています。

また長くなってしまいましたが治療に使われようとしている薬のこと、この3回目の治療への先生のご意見をお願いします。とても悩んでいます。

(答え)1998.9.29
お答えします。結果論になりますが、やはり闘病に際して本人への告知がきちんとできていないことが、あなたを悩ませている最大の原因だと思います。次に病気の治療法は、患者さんの状態と病気の程度によって、色々な方法が考えられます。しかし、ほとんどの場合は治療する医師と病院の能力(腕前)と設備などによって決まってしまいます。母上の場合には、リザーバー植え込みによる化学療法を選択されたわけですが、おそらく他の方法についての説明もあったと思います。一般的には、進行肝臓癌に対する最も効果的な治療方法は、TAE(経皮的肝動脈塞栓術)だと思います。この方法だと、選択的に(必要な部分だけに)肝臓癌を栄養している動脈(癌に行っている血管)にまで管を入れて、癌の部分だけに抗癌剤と血流を遮断する物質(リピオドール)を注入して、癌への血流を止める(しばらくすると又開通するようにうまく注入する)と同時に抗癌剤が癌の中にだけ入って効果を発揮させる治療方法です。副作用も最小限にできます。これを経過を診ながら(AFP値や癌の大きさを参考にして)、数カ月から半年毎に繰り返します。この方法のデメリットは、治療のたびに入院して血管に管を通さなければいけないことと、血管が完全に詰まってしまうと治療ができなくなることです。

私の想像ですが、母上の場合には主治医は末期癌と判断して、治療効果はあまり期待せずに、最初に一回だけ痛いことを我慢してリザーバーを植え込めば、あとは苦痛無しに治療を繰り返すことができる方法を選択したと思います。おそらく余命半年から1年以内と考えたのではないでしょうか。リザーバーからの治療は、挿入されているカテーテルの先がどこまで入っているかによりますが、普通は肝臓全体に薬が入るような位置にありますので、副作用も強く出ます。ファルモルビシンが効果的だろうとは思いますが、副作用として髪が抜けることになりますし、それでも効果は一時的です。奇跡が起きないかぎり、母上の癌が治ることはありません。何を目的に治療するか、残された時間をどのように使うかということを考えて決めてあげてください。

私たち日本人の多くは、心のよりどころとなるもの(宗教など)を持ちませんので、「治るという希望」を失うと心の支えを失ってしまいます。家族と周囲の人で支えてあげなければなりませんが、特に末期になってからの告知は困難です。ショックから立ち直って、次の段階の「治るということ以外の希望」をもてるようになるまでには、かなりの時間がかかります。早い時期ほど告知はしやすいわけですし、ほとんどの人は耐えることができます。告知は最初に診た医師の義務であり、技術です。癌という病気との闘病と治療は、そこから始まります。個人の権利と宗教観に対する考え方、生と死にたいする考え方の問題だと思います。私たちは、「生と死を考える会」の活動を通して、皆様に日頃から、また子供の頃からこのようなことを考えて頂くことをおすすめしています。死というものは誰にも避けることのできないものです。いかに死ぬかということは、いかに生きるかということです。次は、あなた自身の問題となるかも知れません。ではまたいつでもメイルをください。

(経過)1998.10.20
先生、ご無沙汰しております。2度目のリザーバー治療の効果が見られなかった為、抗癌剤の種類を変更するか否かで悩んでしましたが、結局、強い抗癌剤を投与することはしませんでした。入院していた病院の分院へ10日ほど前に転院させてもらい、そこでゆっくり静養するようになりました。先生からは、「一度、自宅へもどってもいいんですよ」といわれましたが、本人の希望もあり、転院ということになったのです。「このまま自宅に一度ももどらないまま・・ということもあります。できるだけ(体力的に無理がない程度に)、外泊という形をとり、自宅などに連れていってあげたりした方がいいかもしれません」と、先生は、はっきりおっしゃいました。転院さきの病院はとても古いのですが、風通しのよいところにあり、静かで2人部屋で(今までは4人部屋)、同室の方も同じくらいの年齢で、環境がよいので本人も気に入っていました。特に治療はなく、点滴をしてもらっているくらいです。玄米酵素という食品をできるだけ食べて、体力をつけるようにしています。しばらくはびっくりするほど元気でしたが、おとといから少し元気がなくなっているようです。「こんなに長く入院するつもりじゃなかったのに・・この先、どうなるだろうか」と、つぶやいたのを聞いて、たまらなくなりました。毎日、病院へ行ってますが、おとといは行けませんでした。さみしい思いをさせるとよくないようですね。私が8月末に結婚して、父と母はまだ新居へ来たことがありません。今週末は主人がいませんので、その間に久しぶりに父と母と私と過ごそうと思っています。次は、母と私で温泉旅行を計画しています。実現できることを願い、とにかく、しっかり母を支えてあげようと思います。また、ご報告します。

(返信)1998.10.20
メイルありがとうございました。希望と目標を持って、一日一日を大切に過ごしてあげてください。楽しい想い出を沢山作ってあげてください。「今を生きる」という言葉がありますが、生きているという実感が持てるように、援助してあげてください。ではまたいつでもメイルください。

(経過)1998.11.9
こんにちは、先生。御返事のメールをお書きしようとしていたのですが、10/23から11/6までお休みすることになり、書く事ができませんでした。実は、とうとう母が亡くなりました。10/30の夕方息を引き取りました。先生からお返事を頂いた次の日くらいにも、いつものように病院へ行って、母の顔を見ると・・・目がいつもより黄色く感じました。そして、咳も出てきて「風邪かなあ・・」と言ってました。次の日は、何だか恐くなり会社に行く前に病院へ行くと、やはり、昨日よりもまた黄色くなっているんです。今日は、「今までに感じたことのない背中の痛みを3回感じた」と不安げに私に言いました。その日、母の姉も病院へ来てくれたので、いっしょに先生の話を聞きました。(私が病院へいく時間には、なかなか先生と会えない時間なので、久しぶりの説明でした)「レントゲンからみると、肺に水が溜まってきている。肺に癌が転移している可能性が非常に高い。背中の痛みは、胸膜への刺激でしょう。覚悟の時が近づいている。その時は、麻薬(モルヒネ)の点滴を使用した方が本人にはきっと楽でしょう」ということでした。この日から私は、しばらく会社を休ませてもらうことにしました。

明日は、前から計画していた私の新居へのお出かけの日です。この状態で行くことができるだろうか・・・・と思ったのですが、先生いわく、「今ならまだ思い出作りができます」と、勧められたし、母もその気だったので、明日、予定通りに行くことにしました。次の日、病院迎えに行くと、まだベットの中でした。ゆっくりお化粧して、ゆっくり着替えて、ゆっくり外へでて・・以前よりずっと体力が落ちているなあという感じです。とにかくベットから起き上がるのもやっとと言う感じでした。「こんなに頭とおしりが重いなんてねえ」としみじみ言っていたのが印象的でした。無事、新居へ連れてきて、足の悪い父を実家から連れ出して、とくに何をする、ごちそうを食べるわけでもなかったのですが、久しぶり3人そろい楽しく過ごしました。ただ、食欲がすっかり無くなって、ただただゆっくり眠りたい・・という母でした。トイレも自分で行けましたが、起き上がるのもやっとなので、間に合わない!と苛立っていたので、夜中も2時間おきくらいに様子を見ては、連れて行くと言う状況でした。しかも、トイレにいっても出ない。これは、かなり悪化してきているということですよね。1泊2日の予定でしたが、「もう一日居たい」ということだったので、聞き入れました。きっと帰るのもしんどかったのでしょう。

結局、2泊3日となり、10/26の夕方、病院へもどりました。それからです、10/27は、いよいよ病院の顔つきでぐったりしんどそうで、やっぱり久々の外出で疲れたようでした。10/28のお昼過ぎに、先生から携帯電話へ電話がはいりました。「お母さんが痛みを訴えており、飲み薬と座薬と注射の痛み止めでは押さえ切れない。モルヒネを使用してもよいですか?それから、病室もナースセンターの近くに移します。」内容はこうでした。私は、「お願いします」としか言えなくて、そのまま病院へかけつけました。その時の母の悲しそうな不安げな顔。私の名前を呼んで、「今来てもらおうとおもいよった」と、か細い声てつぶやいたのが、脳裏からはなれません。転室して14:30から深夜の2:30までで1つの点滴が終わるペースで始まりました。すやすやと眠りに入り、「お母さん!」と呼ぶと、うっすらと目をあけるような感じの状態です。遠くにいる兄へ連絡して帰ってきてもらうことにしました。今ならまだ、兄のことも認識できるだろうと。その日の夜中に父と長兄と集まり、深夜に次兄が集まりました。次の日も昏睡状態で、呼べば宙を見る。でも、私の顔もしっかりは見ていないようで、もう私の名前を呼んではくれませんでした。意識が混濁していき、「もういらない」などとつぶやいていました。そして、次の日10/30に、親族が交替でやってきては、お葬式準備をしなくてはいかんぞ、と口にして、その準備でちょっとそばを離れた時に・・・・息を引き取ったそうです。次兄といとこの3人がついていたので、淋しくなかったとは思いますが、最期を看取ってあげれなかったこと、とても悔やまれてなりません。

兄弟3人でやっと母をおくりだし、初七日をすませ、こうして会社へやってきました。転院先の先生は、母の残された時間を大切にしてあげることが、今一番大切であると言ってくださった先生でした。母も頼りにしていました。会社の上司も「仕事の替わりはできるけれど、お母さんのそばにいる人は、君じゃないといけない」と言ってくださり、そういう上司を持ったことを母へいうと、とても喜び、「大切にしなさい、感謝しなさい、有難い有難い。」と言っていました。母は病気についてはっきりとしらないまま逝ってしまいましたが、周りの多くの人に感謝しながら、最期はゆっくりわがままを言ってくれました。すっかり気を落としている父を母の分までしっかり支えたいと思います。今までお話を聞いてくださってありがとうございました。また、何かありましたら、メールさせてください。それでは、失礼いたします。

(返信)1998.11.9.
メイルを頂き有難うございました。まず母上のご冥福をお祈り申し上げます。周囲の皆さんの理解と協力のお陰で、最期の日々を母上と一緒に過ごすことができて、大変お幸せだったと思います。また、母上も家族の方々に見守られて、安心して旅立たれたことと思います。あなたは母上のお陰で、人生の最大の危機である「死」というものについて、沢山の経験をされ多くのことを学ばれました。これからの貴方自身の人生において、大変役立つことはもちろんですが、この経験を多くの人々のために役立ててあげてください。近くに「生と死を考える会」があれば、是非参加してみてください。あらためて母上のご冥福をお祈り申し上げます。ではまたいつでもメイルください。お元気で。

(返礼)1998.11.10
こんにちは。お返事ありがとうございました。先生のおっしゃるように、母の闘病生活・死を通して、この若さでたくさんのことを学ばせて頂きました。「生と死」をこんなに深く考える時は、今までにはありませんでした。(友人たちが次々と出産しているんです )親を亡くした私は、一足はやく親のありがたさをわかることができたんだ、と解釈することにしました。機会があれば、「生と死を考える会」に参加してみようと思います。先生もご自愛くださいませ。失礼します。

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