欧州ホスピス視察研修旅行記(1997年9月)
ーその1ー
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申し込みから出発まで

かねてよりデーケン先生のホスピス視察旅行に、是非参加するようにすすめてくれる人がいた。私の大学時代の同級生で、泌尿器科医の朝日俊彦君である。彼は早くから癌の全人的医療に取り組み、高松にホスピスを作りたいとがんばっている。開業5年目の駆け出しのホームドクターにとって、2週間近く留守にすることはできないと思っていた。しかし、幸いなことに当院には開業医歴40年という超ベテランの長先生(岳父)が元気でいてくれる。そして、私をサポートしてくださる周囲の先生方がいてくれる。欧州ホスピス視察研修旅行のパンフレットを手にしながら考えた。絶好のチャンスである。

大学2年生の長女は、夏休み期間中とのことで一緒に連れていくことにした。次女は中学2年生であるが、学校ではできない素晴らしい勉強と経験ができると親が判断して、数日のうちに親子3人名を連ねて申込書に記入しファックスした。旅行会社から色々と問い合わせがあり、やっぱりちょっと無理かとも思ったが、またとないチャンスなのでデーケン先生の許可がおりることを祈っていた。待つことしばし、やっと4月28日になってOKの返事を頂いた。感謝感激である。さすがはデーケン先生、有難うございますというわけで、東京に足を向けて寝ることはデーケンようになった。

長女・幸子と次女・智恵子への「旅行への準備教育」が始まった。ドイツについて、ホスピスについて、そして勿論一番大切なデーケン先生についての教育である。患者様には1か月前から、私の留守で迷惑がかからないようにできるかぎりの手を打った。自分自身の準備はほとんどできず、出発の2日前になって倉庫から褪せた空色の古いスーツケースを取り出し、出発直前にパッキングを終了した。幸子は大学の生協で借りた赤いスーツケースに、智恵子は祖母に借りた黄土色のスーツケースにちゃんと自分の荷物を詰めていた。いよいよ出発である。

9月12日(金)曇り時々雨

診療を岳父にお願いして、昼前に自宅(診療所の2階)にもどり、旅行カバンのチェックと着替えをする。妻の運転で早目に福山駅へ行き、幸子の普通乗車券を学割で買い、構内の喫茶店で軽食を食べる。小生のスーツケースは1976年の最初の渡米時に買ったもので、押すと車輪がキイキイ音を立てるがまだまだ使えそうである。午後2時20分の新幹線「ひかり」で東京まで行き、「成田エクスプレス」に乗り換えて、成田空港第2ビル駅(終点の一つ手前の駅)で降り、リムジンバス(乗り場33)で成田日航ホテルへチェックイン。夕食はホテル2階で中華のテーブルバイキング(一人4500円!)ですませ、早目に寝る。

部屋はトリプルで、ツインの方に幸子と小生、補助ベッドに智恵子が寝た。その結果、旅行中はシュツットガルトの2泊を除き、すべて私が補助ベッドに寝ることになる。今回の旅行を申し込んだ時には、ツイン一部屋とシングル一部屋にしていたが、外国は危険だからという経験者の助言を受けて、トリプルに変更してもらった。追加料金を払ってシングルに泊まった人に聴くと、部屋が狭くて大変窮屈だったようで、トリプルにしたことは正解だった。

旅行中に泊まったホテルに比べると、日本のホテルは設備もきれいで快適であり、一言で云えば「贅沢」ということになる。タオル、石けん、歯ブラシ、ひげ剃り、シャンプーセットは毎日新しいものがそろえてあり、冷蔵庫と湯沸かし、ティッシュペーパー、ホテルによってはさらに化粧品なども置いてある。ドイツのホテルでは、タオルと石けんくらいで、ティッシュペーパーも無く、トイレットペーパーも黒ずんだ再生紙で厚くてゴワゴワしていた。旅行中、タオルが交換されていないとクレームをつけていたメンバーもいたが、部屋のタオル掛の横にはちゃんとはり紙がしてある。私も圓谷先生に指摘されるまで気がつかなかった。それにはドイツ語と英語で次のように書いてあった。

Dear Hotel Guest,

Can you image how many tons of towels are unnecessarily washed every day in all the hotels all over the world and the monstrous amount of washing powder needed which thereby pollutes our water ?

Please decide :

Towels thrown into the bath means : Please exchange.

Towels replaced on the towel-rail means : I'll use it again.

--- For the sake of our environment ---

9月13日(土)曇り時々雨

朝5時30分起床。6時に1階レストランで軽く朝食を取り、チェックアウトをすませホテルを7時発のリムジンバスで新東京国際空港の第1ターミナルビル出発ロビー4階にあるルフトハンザ航空のカウンターへ行く。7時30分の集合、両替(5万円を約700ドイツマルクに)、荷物のチェックをすませて、5階の団体待合い室で渡航手続きの説明を受け、各自自己紹介をする。参加者は27名で、デーケン先生と添乗員を加えると29名の大所帯である。今日が幸子の20回目の誕生日であることを追加発言すると、デーケン先生が音頭をとってハッピーバースデイを皆で歌ってくださった。幸子にとって記念すべき誕生日となり、今回の旅行に対する期待感がさらに高まったようだ。

搭乗券と出入国書類を受け取り、再び4階に降りて手荷物を預け、出国手続きをすませて、ルフトハンザ航空の10時発フランクフルト直行便で出発した。ジャンボ機の主翼のすぐ後ろの左窓際から、幸子、智恵子、私の順に席を取り、長時間の空の旅を楽しむこととなった。機は離陸後、北西に進路を取り、本州、日本海を横切り、ウラジオストック付近からシベリアを横断して、ドイツへ向かった。機内では飲み物が頻回に配られ、昼食(日本食で魚の煮付けやそばなど)、軽食(おにぎり)、夕食(洋食を希望すると主食がグラタンであった。日本食はすき焼き風)が出た。

私の席の通路を隔ててすぐ右前がデーケン先生の席だった。デーケン先生はカンパリーソーダを飲み、ダイアナ妃やマザーテレサの記事が出ている雑誌や新聞を読んで皆に見せたり、旅行中の資料に目を通したり、書き物をしたりしながら時々寝ていた。私はテレビモニターで映画を見たり、寝たりしながら時間を過ごし、現地時間で午後2時40分(夏時間)にフランクフルトに着いた。7時間の時差があるので、11時間くらいの飛行時間になる。

フランクフルト国際空港は広く、トンネル状の長い動く歩道があり、色彩が刻々と変化する照明の中を移動していくようになっていた(帰国の時にはトラムを使用した)。入国手続きを済ませ、旅行中の昼食や夕食、ミュージカルの代金として一人につき720DMを集めるとのことで、乗り換えの2時間を利用して、また両替(5万円を約700ドイツマルクに)をした。

5時20分発の国内線のルフトハンザ航空機でデュッセルドルフへ向かい、約1時間で着いた。数名のスーツケースにトラブルがあり、航空会社のカウンターで修理の手続きをして、専用バスでケルンに向かった。デュッセルドルフ空港を出発するときは、まだ明るかったが、旅行書で見慣れたケルンの大聖堂が見えてくるころには少し暗くなりかけていた。ホテルに着いて2階のトリプルの部屋に入ったのは8時頃であった。ホテルは大聖堂から歩いて10分くらいの所にあり、少し古ぼけたこじんまりとした建物で、広いロビーなどはなく、エレベーターはドアを手で開けて乗り込む。ところで、日本で云う2階は、ドイツ(ヨーロッパ)では1階であり、1階はEと表示してある。

午後8時30分に1階の受付に集まり、近くのレストランで食事をした。最初にのぞいたレストランは人気があるのか満員で、予約しないと無理とのことであった(ケルン最後の日にここで食事をした)。道を隔てて少し歩いたところのレストランを教えられて、そこに入った。ビール(2.20DM)、シチュー(6DM)、鶏肉料理(17DM)を注文したところ、食べきれなかった。デーケン先生の提案で、互いの名前を早く覚えるために自己紹介をし、またしても幸子のためにハッピーバースデーを皆で歌った。11時頃ホテルに帰ったが、睡眠不足と疲労でくたくただ。スーツケースからパジャマをだし、シャワーをあびてすぐに寝た。この日はマザーテレサの葬儀の日でもあった。

9月14日(日)ドイツ晴れ

朝5時起床。6時30分頃ホテルを出て大聖堂からライン河畔を散歩。7時頃になって明るくなったが、気温は摂氏11度と少し肌寒く、人影も少なく、よからぬ風体の若者達がたむろしていたりして気味が悪い。随所に地図と宣伝広告が裏表になった照明付きのりっぱな案内板と、大きな円筒形の広告塔が立っていた。

かねてより、文明国(先進国?)でゴミを道端に山積みにするのは日本だけと聴いていたが、ドイツのゴミ箱と分別収集は見事であった。小さな車輪付きで腰の高さくらいの頑丈なゴミ箱が、分別収集のために5、6個から7、8個整然と並べてあり、これらとは別にガラス用の一段と大きく上部に鉄の輪が付いた鉄のゴミ箱が3個並べてある。ガラスの色によって、白、緑、茶と分けてある。収集作業がまたダイナミックである。ガラスの収集は、クレーン付きのゴミ収集車が来て、ゴミ箱をクレーンで吊り上げて、荷台の上で箱の底を開く仕掛けになっている。普通のゴミ箱は、また別の収集車が来て、ほとんど自動的に箱を1個ずつすくいあげて、ひっくり返す。ベンツの清掃車に乗った人達が、あちこちで作業をしていた。ライン河畔の道では、自転車で通勤する人の姿が散見された。

ホテルを出て表の道を北へ進むと、すぐに大きなロータリーがあり、昨夜入れなかったレストランの前の信号を道の北側に渡ってそのまま少し歩くと電車の駅がある。渡らずに行くと道は東にカーブしてライン河に出る。電車の駅のすぐ東側に線路の下をくぐる地下道があるが、気味が悪いので地下道の東側の踏切を渡る。電車道の北側に大きな工事現場があり、柵がしてあった。もと駐車場だったところが掘り返されていて、ローマ時代の遺跡が露出していた。千年前にはすでに上下水道完備のりっぱな都市が作られていたのだ。

工事現場の横の道を北に進むと左右に4、5階建ての石作りの家が整然と並ぶ石畳の広場を通る。広場の中央には噴水のある泉があり、昔はここで馬を休めて水を飲ませたということである。建物の1階は店になっていて、ビアホールが多く、昼間になると店の前の石畳に机と椅子を沢山並べて、ビールを楽しむ風景があちこちで見られる。ビアホールの軒先の看板や店先の立て看板は、きれいで愉快なものが多い。通りの東側の中央付近に、赤っぽい4階建ての建物があり、特徴ある字体の「A」の看板と見慣れたバイエル薬品のマークの看板がかかっている。APOTHEKE 薬局である。

広場を過ぎるといよいよ大聖堂や博物館が立ち並ぶ一角にでる。少し西に向かって歩き、本屋の角を右に折れて、道から10段くらいの石段を上がると大聖堂の南側の広場に出る。正面に大聖堂の雄大な姿を見上げる。広場の右側には地下にローマ時代のモザイクをそのまま保存してある歴史博物館の横長の建物がある。壁に大きくTOD AM RHEINと書いてあり、我々の視察旅行に合わせたような特別展示が行われていた。広場の左側にはりっぱなホテルがある(その名もDom Hotel)。デーケン先生の話しによると、我々の宿は最初このホテルにとってあったが、費用が高くつくので旅行会社の藤井社長が皆のふところ具合に気を使って、キャンセルしたとのことである。

大聖堂に近づき、左に回り込むと正面入り口と広場に出る。すぐ隣の一段低いところにはケルン中央駅の幅広い建物があり、すぐ東にある鉄橋を渡ってきた線路がそのまま駅に入る。鉄橋の向こうから朝日がのぼる。正面広場には大聖堂の塔の先端部分が置いてあり、そのとなりにローマ時代の門の一部が保存されている。7時にミサがありパイプオルガンの演奏が聴けるとのことで、急いで大聖堂の中に入ったが、人影はほとんど無く、建物の左奥の扉の向こうの部屋でミサが行われているようで、オルガンの姿は見えたが音は聞こえなかった。教会の化け物とでもいうべき、巨大な高さの空間と見事なステンドグラスである。

歩いてきた道筋を石畳の広場まで引き返し、工事現場の北の道を東に進んで、これも石畳の、何となく昨夜のビールの臭いがするような路地を通ってライン河に出た。間近に見るライン河は、思ったより川幅が狭く、濁った水がかなりの速さで右から左へと流れていた。再び来た道を引き返して、ホテルに帰った。

8時に1階受付の奥、道路に面した食堂で、バイキング形式の朝食をとった。スライスしたパンやまるいパンなど4、5種類のパンをまずテーブルに持ってきてくれるが、薄くてかたい焦げ茶色のライムギのパン以外は、大変おいしくて毎日ほとんど全部平げていた。働き者のウエイトレスのおばさん?が、コーヒーか紅茶かと聴くので、3人とも紅茶を頼むと、蓋の上にティーバッグを入れる皿がかぶせてある陶器製のポットに入った、3人分の紅茶を持ってくる。ダンケというとビッテシェーンという。

薄くスライスしてあるチーズとハムをパンにのせて食べる。ガラスの蓋の付いた皿に、ケーキ(のようなもの)があるので少し切り取って食べてみると、何とこれが強烈な味と臭いのチーズである。なるほどこれが彼らの体臭のもとかと思いたくなるような代物で、以後はなるべく敬遠した。ヨーグルト、コーンフレーク、ジャム、プルーン、バターなどが並び、アップルジュース、グレープフルーツジュース、オレンジジュースなどの飲み物がある。牛乳は、なぜかほとんど無味無臭で、期待外れだった。果物の皿の横の、机の端に陶器製の鶏の形をした入れ物があり、半熟(ではない日もあったが)のゆで玉子が入れてあるのを、おばさんが親切に蓋をとって教えてくれた。日によって変わる品目もあり、今日は魚のピクルスのようなものが置いてあった。

今回の旅行中、視察のない日は日曜日の2日と移動日の1日の3日だけで、今日はそのうちの貴重な一日である。朝10時にホテルを出発して、バスでケルン市内観光の予定だったが、バスが来ないため徒歩での観光となった。もっとも考えてみれば、主な観光箇所は十分歩いて回れる範囲にあり、バスを使うほうが無理というものだ。

このように予定していた「にもかかわらず」、そのときになって予定を変更しなければならないことが旅行中何度かあった。最初は少し腹が立ったが、デーケン先生流の「比較文化学」からすれば当然のことのように思えてきた。つまり、神を信じる文化と人間を信じる文化の違いであろう。典型的な例はイスラム教である。彼らは何があっても「インシャアッラー」といえばすむのである。人間主義の日本人だけがイライラしても仕方がない。もっとも最近は日本でも、神様主義の人が増えているようで、私も旅行が終わるころには、すっかりヨーロッパの歴史と文化に魅了されて、日本に帰ったら洗礼を受けようかなどということを考えていた。

結局二人のガイドとデーケン先生の3人が率いる、3つの班に分かれて、大聖堂を中心とした建物を歩いてまわった。ドイツ晴れとでも云いたいような晴天で、人出も多く、スリに注意とガイドに注意され、松本先生はスリの手口を実演してみせてくださり、グループの一同はもう一度、自分の財布を確認した。日常生活ではあまり歩いていない人が多いのか、結構疲れて繁山さんなどは足に痙攣をおこした。大聖堂から、博物館、美術館とまわり、美術館のカフェテリアで昼食をとった。智恵子はジュースとケーキを少しだけ。私は、スープ、パン、サラダ、コーラで17DMとられた。昼食後、ケルン中央駅などで買い物をして、午後3時にはホテルに帰った。

シャワーを使って着替えをし、再び全員で食事とオペラ観賞に出かけた。大聖堂の近くにある14世紀創業というレストラン「シオン」に行き、ドイツ料理を食べて、ビールとワインを飲んだ。なんと50cm以上あろうかというソーセージと鶏の丸焼きに挑戦した。我々のテーブルは、優秀にもほとんで平らげたが、もったいなくも大部分を残したテーブルもあった。この時のソーセージが、今回の旅行中に食べたソーセージの中で一番美味しかった。

ほろ酔い心地で歩いてオペラハウスまで行き、7時30分からヴェルディーの「アイーダ」を観た。なんと驚いたことに超現代的なアイーダで、いきなり舞台の袖から自動(電動?)椅子に乗った役者が出てきて、舞台でコンピューターのキーボードを操作するところから劇が始まった。目をつむれば聞き慣れた音楽と当然ローマ時代の衣装や建物のイメージがわいてくるが、目の前の舞台では、怪しげな戦闘服に身を包んだ男達と、ちょっとローマ時代風の簡単服をまとった女性達によって、夢のない殺風景なマスゲームが展開される。旅の疲れとアルコールのせいで居眠りをしてしまい、隣の席の智恵子に起こされた。休憩をはさんで4幕3時間のオペラが終了し、外に出ると美しい満月であった。ビールとオペラと満月の余韻にひたりながら、デーケン先生を先頭にホテルまで歩いて帰るとすでに11時だった。ちなみにアイーダの中の凱旋の曲は、私が高校生時代に最初に聴いたときから、大変好きな曲である。音楽は素晴らしかった。疲れた。明日から、いよいよホスピス視察が始まる。(続く)

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